遣唐使(けんとうし)遣渤海使(けんぼっかいし)    
 
遣唐使(けんとうし)
遣唐使(けんとうし)とは、『旧唐書』や『新唐書』にも記されているとおり、倭国が唐に派遣した朝貢使のことをいう。中国では619年に隋が滅び唐が建ったので、それまで派遣していた遣隋使に替えてこの名称となった。寛平6年(894年)に菅原道真の建議により停止された。

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遣隋使(けんずいし)とは、推古朝の倭国(?國)が隋に派遣した朝貢使のことをいう。600年(推古8年)〜618年(推古26年)の18年間に5回以上派遣されている。

なお日本という名称は遣唐使のときから使用された。

大阪の住吉大社近くの住吉津から出発し、住吉の細江(現・細江川)から大阪湾に出、難波津を経て瀬戸内海を九州へ向かい、そこから玄界灘に出る。

倭の五王による南朝への奉献以来約1世紀を経て再開された遣隋使の目的は、東アジアの中心国・先進国である隋の文化の摂取が主であるが、朝鮮半島での影響力維持の意図もあった。この外交方針は次の遣唐使の派遣にも引き継がれた。

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遣唐使(けんとうし)とは、『旧唐書』や『新唐書』にも記されているとおり、倭国が唐に派遣した朝貢使のことをいう。中国では619年に隋が滅び唐が建ったので、それまで派遣していた遣隋使に替えてこの名称となった。寛平6年(894年)に菅原道真の建議により停止された。

海外情勢や中国の先進的な技術や仏教の経典等の収集が目的とされた。旧唐書には、日本の使節が、中国の皇帝から下賜された数々の宝物を市井で全て売って金に替え、代わりに膨大な書物を買い込んで帰国していったと言う話が残されている。

第一次遣唐使は、630年(舒明2)の犬上御田鍬(いぬかみのみたすき)の派遣によって始まった。以下の『唐書』の記述が示すように、遠国である倭国の朝貢は毎年でなくてよいとする措置がとられた。

貞観5年、使いを遣わして方物を献ず。太宗、その道の遠きを矜(あわれ)み、所司に勅して、歳貢せしむることなからしむ。(『旧唐書』倭国日本伝)
太宗の貞観5年、使いを遣わして入貢す。帝、その遠きを矜(あわれ)み、有司に詔して、歳貢にかかわることなからしむ。(『新唐書』日本伝)
その後、唐僧維躅(ゆいけん)の書に見える「二十年一来」(20年に1度)の朝貢が8世紀ごろまでに規定化され、およそ十数年から二十数年の間隔で遣唐使の派遣が行われた。

遣唐使は200年以上にわたり、当時の先進国であった唐の文化や制度、そして仏教の日本への伝播に大いに貢献した。
630年〜665年の航路…北路
北九州(対馬を経由する場合もある)より朝鮮半島西海岸沿いを経て、遼東半島南海岸から山東半島の登州へ至るルート。半島情勢の変化により使用できなくなる。
702年〜752年の航路…南島路
薩摩の坊津(鹿児島県南さつま市)より出帆し、南西諸島経由して東シナ海を横断するルート。東シナ海において黒潮で北に流される分を考慮し、一度南進している。その存在が証明できないとの研究もある。

773年〜838年の航路…南路
五島列島から東シナ海を横断するルート。日本近海で対馬海流を横断して西進する。

白村江の戦いで倭国は朝鮮半島での足場が無くなり、676年に新羅が半島から唐軍を追い出して統一を成し得たため、倭国は北路での遣唐使派遣が出来なくなり、新たな航路の開拓が必要になった。そのため、南島路や南路が開発された。なお、665年の遣唐使は、白村江の戦いの後に唐から倭国に来た使節が、唐に帰る際の送唐客使である。

839年の帰路は、山東半島南海岸から黄海を横断して朝鮮半島南海岸を経て北九州に至るルートがとられたようである。

遣唐使船は竜骨を用いない平底のジャンク船に似た箱型構造で、簡単な帆を用いていた。横波に弱く無事に往来出来る可能性は低いものであった。4隻編成で航行され、1隻に100人程度が乗船した。

後期の遣唐使船の多くが風雨に見舞われ、遭難する船も少なくはない命懸けの航海であった。この原因を航海技術が未熟であったためとする見方が主流であるが、佐伯有清は遣唐使船の大型化、東野治之は遣唐使の外交的条件を挙げている。東野によれば、遣唐使船はそれなりに高度な航海技術をもっていたという。しかし、遣唐使は朝貢の使いであるという性格上、気象条件の悪い6月から7月ごろに日本を出航(元日朝賀に出席するには12月までに唐の都へ入京する必要がある)し、気象条件のよくない季節に帰国せざるを得なかった。そのため、渡海中の水没、遭難が頻発したと推定している。

派遣者一覧 [編集]
遣唐使一行(『延喜式』大蔵省式による) 大使・副使・判官・録事・知乗船事・訳語生・請益生・主神・医師・陰陽師・絵師・史生・射手・船師・音声長 新羅、奄美訳語生・卜部・留学生・学問僧・{従・雑使・音声生・玉生・鍛生・鋳生・細工生・船匠・?師・{人 挟杪・水手長・水手など

遣唐使の停止 [編集]
唐では874年頃から黄巣の乱が起きた。黄巣は、洛陽・長安を陥落させ、斉(880年 - 884年)を成立させた。斉は短期間で倒れたが、唐は弱体化して首都・長安周辺のみを治める地方政権へと凋落した。

このため遣唐使は、894年(寛平6)の派遣が菅原道真の建議により中止された。907年(延喜7)には唐が滅亡し、遣唐使は再開されないままその歴史に幕を下ろした。

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遣渤海使(けんぼっかいし)


遣渤海使とは、日本が渤海に派遣した使節であり、728年から811年までの間に14回(うち1回は渤海経由の遣唐使。このほか操舵手等の派遣が1回。)の使節が記録に残っている。

787年 延暦6年 大興50年   桓武天皇 文王 渤海使李元泰に船1艘、操舵手、船頭、水手を給す 続日本紀
11 796年 延暦15年 正暦2年 御長真人広岳 桓武天皇 康王 送渤海客使 日本後紀
12 798年 延暦17年 正暦4年 内蔵宿禰賀茂麻呂 桓武天皇 康王 遣渤海使 日本後紀
13 799年 延暦18年 正暦5年 滋野宿禰船白 桓武天皇 康王 押送 日本後紀
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五台山(ごだいさん)

五台山(ごだいさん)は、中国山西省東北部の五台県にある古来からの霊山である。標高3,058m。仏教では、文殊菩薩の聖地として、古くから信仰を集めている。旧字表記では、五臺山。別名は、清涼山。2009年にUNESCOの世界遺産に登録された。

観音菩薩の霊場である普陀山と、普賢菩薩の霊場である峨眉山、地蔵菩薩の霊場である九華山と並んで、中国仏教の聖地とされる(中国三大霊山、中国四大仏教名山)。現在でも、台内に39ヶ寺(南山寺、顕通寺、塔院寺、碧山寺、普化寺、観音洞、龍泉寺、金閣寺など)、台外に8ヶ寺(延慶寺、南禅寺、秘密寺、尊勝寺など)で、合計47ヵ寺の寺院が存在する。

日本の平安時代から鎌倉時代の入唐僧や入宋僧の多くも、天台山と共に率先してこの山を訪れた。また、チベット仏教の教徒の尊崇も集めており、菩薩頂と呼ばれる寺院のある五台山は、中国内地では、漢伝仏教とチベット仏教との唯一の共通の聖地となっている。
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普陀山(ふださん、?音: P?tuo Sh?n )は中華人民共和国浙江省・舟山群島にある島。中国四大仏教名山(仏教の聖地。五台山、九華山、峨眉山、普陀山)の一つで、観音菩薩が祀られている。年間360万人を超える観光客が訪れる。
当地が観音霊場となった由来は、後述の「普済禅寺」の項にも記述される通り、916年、中国への渡来僧である慧萼が、中国留学を終えて日本に帰国しようとした際、日本に将来しようとした観音菩薩が当地で日本に渡ること拒んだ(=不肯去)、という故事にちなんでいる。よって、その観音菩薩は「不肯去観音」と称されており、そのお堂は「不肯去観音院」と呼ばれる。以後、この舟山群島中の普陀山は、観音菩薩の浄土である補陀落に擬せられ、人々の信仰を集める中国有数の霊場となった。「普陀山」という名称の由来も、「補陀落」である。
普陀山は杭州湾の出口から東シナ海海上を東に約100海里にあり、全島面積早く12.5平方キロメートル。細長い形をした島で、最高地点は仏頂山で海抜約300メートル。

行政的には浙江省舟山市普陀区。中国四大仏教名山のうち唯一の海上聖地であり、「海天佛国」と呼ばれる。

「磐陀石」「二亀聴法石」「説法台石」などの奇岩が多い。
主な寺院・施設 [編集]
普済禅寺:不肯去観音院として916年に日本の僧侶である慧萼が開祖。俗に「前寺」と呼ばれる。
慧済禅寺(仏頂山寺)
法雨禅寺:俗に「後寺」と呼ばれる。
南海観音像:1997年建立。
高速フェリー:寧波大謝埠頭から70分で到着。舟山島沈家門埠頭からは10分で到着。
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峨眉山(がびさん)、ピンイン:Emei Sh?n)は中国・四川省にある山。

峨眉山は道教や中国の仏教で言うところの聖地で、中国三大霊山(五台山、天台山、峨眉山)や中国四大仏教名山(五台山、九華山、普陀山、峨眉山)の一つである。26の寺院を有し、普賢菩薩の霊場とされる。一帯は聖地となっていたために自然が護られ、約3000種の植物と、絶滅危惧種を含む約2000種の動物の宝庫でもある。1996年12月6日には文化面、環境面両方が考慮され、楽山大仏と共に「峨眉山と楽山大仏」としてユネスコの世界遺産(複合遺産)に登録された。

一番高い峰が万仏頂(標高3098m)で、頂まで32の名刹が続いている。後漢時代から仏教施設の建設が始まり、南宋時代に最盛期を迎えた。

現代最大の寺院は、登山口にあたる報国寺で、明代万暦43年(1615年)に明光道人が創建したとされている。
峨眉山と楽山大仏(がびさんとらくさんだいぶつ)は、中国・四川省にある、ユネスコの世界遺産(複合遺産)に登録された物件。

概要 [編集]
峨眉山は五台山、天台山と並ぶ中国国内の仏教聖地の一つで、中国三大霊山の一つ。後漢時代から仏教寺院が建設され、南宋時代には最盛期を迎えた。同じく四川省にある、713年に始まった楽山大仏も有名であり、場所は離れるが、合わせて登録されることとなった。

またこの地域一帯が聖地とされたことから、大規模な開発がなされず、地域の自然が非常によい状態で保たれた。現在では数種の絶滅危惧種を有し、植物層も豊かであることから、峨眉山の自然的側面も評価され、文化遺産ではなく複合遺産として登録されるに至った。


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九華山(きゅうかさん、簡体字:九?山、ピンイン:J?uhua Sh?n)は、中国・安徽省池州市青陽県にある山。

九華山は、中国の仏教で言うところの聖地で、中国四大仏教名山(五台山、九華山、普陀山、峨眉山)の一つである。地蔵菩薩の霊場とされる。

歴史 [編集]
漢代には陵陽山と呼ばれ、南北朝時代の南朝梁と陳の時代には九子山と呼ばれた。唐代の詩人李白が天宝8年(749年)頃に訪れ、「妙有分二気、霊山開九華」と詠んだと伝わる。新羅の金喬覚和尚(金和尚、金地蔵、僧名を地蔵、696年 - 794年)がこの地の化城寺で修行中、齢99で入滅した際、3年経って棺を開いて塔に奉安しようとしたところ、その顔貌が生前と全く変わることがなかったことなどから、地蔵菩薩とこの僧を同一視する信仰が生まれ、地蔵王菩薩(仏教の地蔵菩薩が、仏教道教混淆の十王思想と結びつき、閻魔王と一体として死者を裁くとされる)の聖地となった。明代や清代には興隆を誇り、360山以上の寺院に4,000 - 5,000名の僧侶がいた。
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天台山
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天台山(てんだいさん)は、中国浙江省中部の天台県の北方2kmにある霊山である。最高峰は華頂峰で標高1,138m。

概要 [編集]
洞栢峰・仏隴峰・赤城峰・瀑布峰などの峰々が存在する。中国三大霊山の一つ。仏教との関係では、呉の赤烏中(238年 - 251年)に仏教寺院が建立された、という伝承がある。支遁や曇光、竺曇猷らの僧が、この山中に住した。また、後漢のころから道教の聖地ともされていた。

法華経を根本経典とした中国天台宗の開祖智ゆかりの地として、古くから信仰を集めている。仏隴峰の南山麓に天台大師(智)の国清寺がある。旧字表記による天臺山は、誤表記であり、五臺山とは異なり、天台山は、古来より天台山と表記されている。ただし、天台山の名は日本では日本天台宗山門派の総本山の比叡山(滋賀県大津市)の別名として使われることもある。
天台宗(てんだいしゅう)は大乗仏教の宗派のひとつである。妙法蓮華経(法華経)を根本経典とする天台教学に基づく。天台教学は中国に発祥し、入唐した最澄(伝教大師)によって平安時代初期に日本に伝えられた。
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中国の天台宗

中国の天台宗は、隋の天台智者大師、智(ちぎ)(538年-597年)を実質的な開祖とする大乗仏教の宗派である。

初祖は北斉の慧文、第二祖は南岳慧思(515年-577年)であり、慧思の弟子が智である(龍樹を初祖とし慧文を第二、慧思を第三、智を第四祖とする場合もある)。

慧文は、龍樹による大智度論と中論に依って「一心三観」の仏理を無師独悟したとされる。それが、慧思を介して智に継承された。

智は、鳩摩羅什訳の法華経・摩訶般若波羅蜜経・大智度論、そして涅槃経に基づいて教義を組み立て、法華経を最高位に置いた五時八教という教相判釈(経典成立論)を説き、止観によって仏となることを説いた学僧である。

しかしながら、鳩摩羅什の訳した法華経は、現存するサンスクリット本とかなり相違があり、特に天台宗の重んじる方便品第二は羅什自身の教義で改変されている」という説がある。羅什が法華経・摩訶般若波羅蜜経・大智度論を重要視していたことを考えると、天台教学設立の契機は羅什にあるといえなくもない。

天台山に宗派の礎ができた後、涅槃宗を吸収し天台宗が確立した。主に智の法華玄義、法華文句、摩訶止観の三大部を天台宗の要諦としている。これらの智の著作を記録し編集したのが、第四祖章安灌頂(561年-632年)である。灌頂の弟子に智威(?-680年)があり、その弟子に慧威(634年-713年)が出て、その後に左渓玄朗(672年-753年)が出る。灌頂以後の天台宗の宗勢は振るわなかったため、玄朗が第五祖に擬せられている。

玄朗の弟子に、天台宗の中興の祖とされる第六祖、荊渓湛然(711年-782年)が現れ、三大部をはじめとした多数の天台典籍に関する論書を著した。その門下に道邃と行満が出て、彼等が最澄に天台教学を伝えた。

智の著作である天台小止観、訶止観、次第禅門などは禅であるが、中国の五家七宗(臨済宗、黄龍派、楊岐派、?仰宗、雲門宗、曹洞宗、法眼宗)の南方禅とは異なる系譜である。しかし、天台宗の禅が日本の禅宗に与えた影響は少なくない。

日本の天台宗 [編集]
正式名称は天台法華円宗。法華円宗、天台法華宗、あるいは、単に法華宗などとも称する。但し、最後の呼び名は日蓮教学の法華宗と混乱を招く場合があるために用いないことが多い。

初め、律宗と天台宗兼学の僧鑑真和上が来日して天台宗関連の典籍が日本に入った。次いで、伝教大師最澄(さいちょう、767年-822年)が延暦24年(805年)唐に渡り天台山にのぼり、天台教学を受けて翌年(806年)帰国し伝えたのが日本における天台宗のはじまりである。

この時代、すでに日本には法相宗や華厳宗など南都六宗が伝えられていたが、これらは中国では天台宗より新しく成立した宗派であった。最澄は日本へ帰国後、比叡山延暦寺に戻り、後年円仁(慈覚大師)・円珍(智証大師)等多くの僧侶を輩出した。最澄はすべての衆生は成仏できるという法華一乗の立場を説き、奈良仏教と論争が起こる。特に法相宗の徳一との三一権実諍論は有名である。また、鑑真和上が将来した小乗戒を授ける戒壇院を独占する奈良仏教に対して、大乗戒壇を設立し、大乗戒を受戒した者を天台宗の僧侶と認め、菩薩僧として12年間比叡山に籠山して学問・修行を修めるという革新的な最澄の構想は、既得権益となっていた奈良仏教と対立を深めた。当時大乗戒は俗人の戒とされ、僧侶の戒律とは考えられておらず(現在でもスリランカ上座部など南方仏教では大乗戒は戒律として認められていない)、南都の学僧が反論したことは当時の常識に照らして妥当なものと言えよう。論争の末、最澄の没後に大乗戒壇の勅許が下り、名実ともに天台宗が独立した宗派として確立した。清和天皇の貞観8年(866)7月、最澄に「伝教」、円仁に「慈覚」の大師号が贈られた。

天台密教(台密) [編集]
真言宗の密教を東密と呼ぶのに対し、天台宗の密教は台密と呼ばれる。

当初、中国の天台宗の祖といわれる智(天台大師)が、法華経の教義によって仏教全体を体系化した五時八教の教相判釈(略して教判という)を唱えるも、その時代はまだ密教は伝来しておらず、その教判の中には含まれていなかった。したがって中国天台宗は、密教を導入も包含もしていなかった。

しかし日本天台宗の宗祖・最澄(伝教大師)が唐に渡った時代になると、当時最新の仏教である中期密教が中国に伝えられていた。最澄は、まだ雑密しかなかった当時の日本では密教が不備であることを憂い、密教を含めた仏教のすべてを体系化しようと考え、順暁(じゅんぎょう)から密教の灌頂を受け持ち帰った。しかし最澄が帰国して一年後に空海(弘法大師)が唐から帰国すると、自身が唐で順暁から学んだ密教は傍系のものだと気づき、空海に礼を尽くして弟子となり密教を学ぼうとするも、次第に両者の仏教観の違いが顕れ決別した。これにより日本の天台教学における完全な密教の編入はいったんストップした。

とはいえ、最澄自身が法華経を基盤とした戒律や禅、念仏、そして密教の融合による総合仏教としての教義確立を目指していたのは紛れもない事実で、円仁(慈覚大師)・円珍(智証大師)などの弟子たちは最澄自身の意志を引き継ぎ密教を学び直して、最澄の悲願である天台教学を中心にした総合仏教の確立に貢献した。したがって天台密教の系譜は、円仁・円珍に始まるのではなく、最澄が源流である。また円珍は、空海の「十住心論」を五つの欠点があると指摘し「天台と真言には優劣はない」と反論もしている。

なお真言密教(東密)と天台密教(台密)の違いは、東密は大日如来を本尊とする教義を展開しているのに対し、台密はあくまで法華一乗の立場を取り、法華経の本尊である久遠実成の釈迦如来としていることである。

日蓮を末法の本仏とする宗派などは、現在の日本の天台宗は密教を大幅に取り入れているためむしろ真言宗に近く、最澄亡き後、その意向を無視した円仁・円珍などが真言密教を取り入れ比叡山を謗法化(正しい法を信じずそしること)したものだと批判する向きもある。しかし歴史を検証すれば、完全に否定される。

四宗兼学 [編集]
また上記の事項から、同じ天台宗といっても、智が確立した法華経に依る中国の天台宗とは違い、最澄が開いた日本の天台宗は、智の説を受け継ぎ法華経を中心としつつも、禅や戒、念仏、密教の要素も含み、それらの融合を試みた独特なもので、性格が異なるもの、また智の天台教学を継承しつつそれをさらに発展しようと試みたものであると指摘されている。したがって延暦寺は四宗兼学の道場とも呼ばれている。

止観行 [編集]
天台宗の修行は法華経を中心とする法華禅とも言うべき「止観」を重んじる。また、現在の日本の天台宗の修行は朝題目・夕念仏という言葉に集約される。午前中は題目、つまり法華経の読誦を中心とした行法(法華懺法という)を行い、午後は阿弥陀仏を本尊とする行法(例時作法という)を行う。これは後に発展し、「念仏」という新たな仏教の展開の萌芽となった。天台密教(台密)などの加持も行い、総合仏教となることによって基盤を固めた(しかし、法華経の教義が正しいのならば、なぜ念仏や加持を行わねばならないのか、という疑問・批判もある)。さらに後世には全ての存在に仏性が宿るという天台本覚思想を確立することになる。長く日本の仏教教育の中心であったため、平安末期から鎌倉時代にかけて融通念仏宗・浄土宗・浄土真宗・臨済宗・曹洞宗・日蓮宗などの新しい宗旨を唱える学僧を多く輩出することとなる。
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天台山國清寺

国清寺

所在 浙江省台州市天台縣
清 2001年
天台山國清寺是一所佛教寺院,位於中國浙江台州天台縣城北天台山麓,建成於隋代,已有一千四百多年?史,乃中國佛教天台宗和日本佛教台密的祖庭。

創建
該寺始建於隋文帝開皇十八年(598年),?代皆有修葺。

建築
現存殿宇十八座,包括彌勒殿、大雄寶殿、藏經樓、妙法堂等。

[??] 天台宗祖庭
隋代高僧智在此創立天台宗。影響遠及國?外。鑑真東渡時曾朝拜國清寺。日本留學僧最澄至天台山取經,從道邃學法,回國後在日本比叡山興建沿?寺,創立日本天台宗,後尊國清寺為祖庭。

該寺曾駐錫不少有名高僧,包括唐一行法師、寒山、拾得、濟公和尚、日本東密開宗祖師空海大師、日本台密開宗祖師最澄大師等。由此,寺中有不計其數的勝跡和典故,包括乾隆御碑、寺前「一行到此水西流」碑、空海法師紀念碑、中韓天台宗祖師紀念堂、隋梅,以及新塑供奉的五百羅漢像、前中國佛協會長趙樸初先生墨寶、濟公像等。

圖片
山上景貌,遠方為隋代塔,下方為梅亭
寺前大書「隋代古?」
「最澄大師天台得法靈迹碑」,旁邊?有二碑
寺?建築一景

「羅漢殿」之五百羅漢

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大興善寺
建立は西晋の時代(256〜289年あたり)で西安で最も古い仏教寺院の一つで、中国密教発祥の地としても有名な寺院である。
山門
天王殿
大雄宝殿
地蔵菩薩
放生池
康有為の題字
昔のままの寺の額

中国仏教協会の主席趙朴初の題字
舎利塔
疲れているお坊さん
入り口の石刻

大興善

大興善寺は西安城の南、長安路の西側にあります。この寺は西晋時代の武帝の泰始年間から泰康年間(265−289年)までに建立されたもので、約1600年の歴史を持っています。
仏教は長安では隋、唐の時代に盛んになり、そのころはインドから頻繁に僧侶が長安にやって来ました。隋文帝の開皇二年(582年)にインドの僧侶那蓮提黎那舎、闇那崛多、達磨笈多の三人を中心とした僧達がこの寺に入り、インドから持参したサンスクリット経典計五十九部二百七十八巻を翻訳するととに、密教を伝授しました。唐の玄宗皇帝の開元四年から八年(716−710年)には開元三大士と称せられるインド僧の善無畏、金剛智、不空もこの寺で密教を伝授したことがあります。その聴衆者は一万人を超え、中国に多くの仏弟子を養成しました。不空はこの寺で経典約500部をサンスクリットから唐語に翻訳したため、この寺は中国仏教における密教の発祥地となりました。また、長安での三大経典漢訳院のひとつとして知られていました。この寺は中国とインドの古代文化交流、特に仏教文化交流の上で記念すべき寺です。
ところが、唐の武宗会昌五年(845年)に中国全土で廃仏毀釈及び反対宗派の圧迫によって、全国の約4600の寺とともに破壊されてしまいました。しかし、明代に一度改修再建され、1955年に大規模な改修工事が行われました。
寺は前院、中院、後院の3つに分かれ、前院には鐘楼と鼓楼が左右対称になっています。少し進むと、金剛殿があり、この中には宋代の木彫りの弥勒仏像と東西両側の龕の上に四大金剛が祀られています。中院には発掘された唐代転輪蔵経殿の遺跡があり、また1986年に日本の空海同志会から贈られた平和地蔵菩薩の銅像が立っています。その奥は千手千眼観音殿で、中に観音菩薩像や宋、明代の曼荼羅があります。東禅堂には二十一度母像、西禅堂には開元三大士の伝記が壁に掛けられています。
大興禅寺は現在の仏教協会の所在地です。


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まあ、人の多さと慢性的な交通渋滞、それをせきたてるようなクラクションの音。これがすごいんじゃ。とにかくうるさい。インドでは、クラクションは鳴らすためにあるものらしい。よくもまぁ、けんかにならんもんじゃわい・・・。そこから、田舎へ向かって1時間、車を走らせると日本の戦前の風景に一変する。なんか、なつかしい原風景という感じじゃ。そして、そこからさらに1時間、そこには、教科書で見るような明治時代の風景が現れる。牛や山羊が放牧され、わらを積んだ荷車を牛が引く。

 コンビニなどではなく、裸電球の雑貨屋である。そこで何人かが集まってたむろしている。その周りで裸足の子供たちが遊んでいる。そこからまた1時間。車はクラクションを盛大に鳴らしながら吹っ飛ばして爆走する。そこには、まさにお釈迦様がおられた時代が広がっている。家畜小屋とまがうばかりの土壁の藁葺きの小屋。そこに腰布1枚の人が住んでいる。電気もない。周りには、牛がたむろしている。その横には穀物を貯蔵するような倉がある。屋根には、わらが山のように干してある。家の壁は、きれいな幾何学模様になっている。牛の糞を貼り付けている。よく見ると手形になっている。乾燥させて燃料として使うという。日の出とともに起きて日の入りとともに眠る、そして自分たちのために収穫した物を食べる。およそお釈迦様の時代とほとんど代わりない生活じゃ。2.500年、いやもっと前からかもしれぬ、とうとうと途切れることない時の流れがまちがいなくここにはあった。
ふとクーラーのついている鴨居を見上げるとそこには、列をしてねずみが騒いでおったんじゃ。耳にしたのは、チュウチュウというねずみの鳴き声じゃったんじゃ!。これには、さすがに肝をつぶしましたぞい。果物は、大丈夫かいななんて、よく見るとこれが、厳重にラップしてあるんじゃ。いったい何重にラップすれば、こんなになるのかというぐらいに。後でみんなに、いゃあーねずみがすごかったですねぇ!?というとみんなの部屋には出てないという。何度もインドに来ている考古学の先生曰く、「それは、すばらしい!ねずみは、ガネーシャ神(ヒンドゥー教の象の顔をした神様)の乗り物でインドでは、皆にあがめられているのだから。神様が歓迎してくれたんだね。」とうれしそうに話された。小生、複雑な心境じゃったのう。

インド

 インドでは、ごく普通に日常生活の場に「生き物」が満ちあふれている
【第九十話】 インドへの道。法寿院 水崎圭二
 インドへの2回目の旅。それは、2年前に初めて行った衝撃的な印象とは、違う一面を見せた。ぼちぼちと話してゆくがのう、これがなかなか興味深い貴重な経験じゃて。
今回の旅は、関西空港よりバンコク経由でコルカタ(カルカッタ)に入るというコース。現在のインドは、カルカッタをコルカタというように元来の呼び方にもどしている。イギリスの植民地としての英語読みの名前を従来の名称で呼ぶのじゃ。ボンベイはムンバイ、マドラスはチェンナイというように。

 現在のインドは、IT(コンピューター)関係の世界中の大企業が巨大な工場を建てている。日本のパナソニックやNEC、ソニー、東芝、シャープをはじめIBM、サムスンといった世界の有名企業が数多く進出しているんじゃ。これは、インドの文化、国民性に大きく関わりある。今ちまたで脚光を浴びているインド式数学が、象徴しているようにインド人は、計算や数式、化学や医学といった理数科系が得意じゃ。特に0(ゼロ)を発見したことは有名じゃ。世界中の医者の3割がインド人というのも、うなづける話じゃのう。それともうひとつの大きな要因に、カースト制度という身分制度がある。カーストというのは、「血統」という意味で、今から3500年ほど前、イランからアーリア人が入ってきて、インド人を支配する。バラモン教にまつわる身分制度のことで、アーリア人を頂点とした支配制度といってもいい。このバラモン教というのが、現在のヒンドゥー教のことじゃ。このバラモン(司祭)を頂点において、4つの階級に分かれている。また、職業カーストというのもあって、これは2000以上も細かく区別されているという。これらは、インド社会の枠組みの中で、家計、血統、親族組織、職能集団、商売、同業者の同族集団、宗派組織、派閥等さまざまな形で取り込まれており、親から子へと受け継がれ、結婚も同じ階級のなかで行われるのじゃ。

 カーストが成立した時期に存在しなかった職業などはカーストの影響を受けないといわれている。IT関連の産業が急速に成長しているのは、そういう理由もあるんじゃな。といっても高等教育を受けることができない下層カーストの者には、まだまだカーストの壁は厚く優秀な者であってもなかなか重要なポストに就けないのが現状の
ようじゃ。

 お釈迦様は、そういう社会の中で修行をした。そして、お悟りを開かれ仏教を起こされた。なぜ、仏教だったのか?その第一番目に、人は皆、生まれながらにして平等であるということじゃ。お釈迦様は、カーストの上下に関係なく弟子たちに接した。この分け隔てのない平等の精神こそ宗教の土台となるものと考えられたのじゃ。ちなみにキリストもユダヤ人でなければ信者にもなれず、神の国へも行けないというユダヤ教の選民思想に反対してキリスト教を起てた。人に貴賤はない。人は、みな平等なのじゃ。