民俗学関係等の催し物スケジュール |
京都民俗学会第201回談話会のご案内
あけましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
下記の通り、京都民俗学会第201回談話会を開催いたします。多数のご参加をお待ち申し上げております。なお会員以外の方の参加も歓迎いたします。
◎日 時:2007年1月29日(月)18:30〜
◎会 場:ウィングス京都:セミナー室A
〒604-8147 中京区東洞院六角下ル御射山町
(地下鉄四条駅・阪急烏丸駅下車 徒歩約5分 075-212-7490)
◎報告者:中野洋平氏(総研大 文化科学研究科国際日本研究専攻)
◎題 目:「〈民間宗教者〉概念の創出と展開」
【報告要旨】
民俗学などにみられる「民間宗教者」とは、いったい何者であろうか。そのような疑問を抱いた時、我々は明確な回答を用意できるであろうか。ヒジリやミコ、山伏など「民間宗教者」とみなされるものたちについては個別の回答が可能だろう。だが、「民間宗教者」そのものについて概念の定義や対象、用法などを明確に指摘できないのではなかろうか。本発表は、民俗学および周辺諸科学において往々にして漠然としたイメージで論文や議論の場において使用され続けている「民間宗教者」という概念と用語に関して、その創出と展開について考察するものである。
【京都民俗学会事務局】
〒603−8301
京都市北区紫野北花ノ坊町96 佛教大学文学部 八木研究室
(075)-491-0240(内線7067)
yagi-to@bukkyo-u.ac.jp
京都民俗学会第25回年次研究大会
★日 時:2006年12月3日(日)
午前10時より
★会 場:京都市学校歴史博物館(京都市下京区御幸町通仏光寺下ル橘町)
【大会プログラム】
* 10:00〜 開会あいさつ
☆ 10:10〜10:50 本多健一氏(立命館大学大学院)
「信州遠山郷における霜月祭りの維持運営システム
−現代の祭礼をめぐる比較考察の試み−」
☆ 10:50〜11:30 福持昌之氏(愛荘町教育委員会)
「近江の巫女神楽−太々神楽と湯立神楽−」
☆ 11:30〜12:10 川崎 正氏(教育課程研究所)
「金比羅信仰U−香川と京都」
* 12:10〜13:10
昼休み・展示見学
△ 13:10〜13:40
会員総会
☆ 13:40〜14:20 橘 尚彦氏(京都民俗学会会員)
「<京都忠霊塔>の計画と展開」
☆ 14:20〜15:00 川村清志氏(札幌大学文化学部)
「<わざ>と<言語>再考−明石大蔵谷獅子舞の事例から−」
* 15:00〜15:15
休 憩
◆ 15:15〜 特別企画:テーマ報告「今、博物館で何が起きているのか」
☆ 15:15〜16:00 奥野義雄氏(佛教大学講師)
「指定管理者制度導入以前の公立博物館、学芸員、そして」
☆ 16:00〜16:45 印南敏秀氏(愛知大学経済学部)
「市民博物館の可能性」
▽
17:30〜 懇親会 「WITH・YOU」(中京区寺町錦上ル 075-241-0600)
★ 大会参加費…1500円(含、資料代・展示見学費) 懇親会費…5000円
★ 参加費並びに懇親会費は当日受付でお支払い下さい。
★ 一般参加歓迎。どなたでも自由にご参加下さい。懇親会への参加も歓迎します。
★ 一般研究発表は発表30分、質疑応答10分です。
【京都民俗学会 第25回年会事務局】
〒603−8301
京都市北区紫野北花ノ坊町96
佛教大学文学部 八木透研究室 075−491−2141(代表)
京都民俗学会 第194回談話会のご案内
新年おめでとうございます。本年もなにとぞよろしくお願い申し上げます。
日 時:2月2日(木)18:30〜
会 場:キャンパスプラザ京都 第3会議室
JR京都駅西へ徒歩約五分
会場の部屋が変更となる場合がありますので
1階の案内を確認してください
発表者:佐藤亜聖氏
((財)元興寺文化財研究所 考古学研究室
主任研究員)
山形隆司氏
((財)元興寺文化財研究所人文科学研究室 専門研究員)
蘇理剛志氏 (佛教大学
非常勤講師)
題 目:「近世志摩の葬送墓制の一考察
−三重県志摩市浄土近世墓地遺跡の調査成果から」
★当日会費として300円を徴収いたします。
★会員以外の来聴を歓迎いたします。
京都民俗学会 第24回年次研究大会
★日 時:2005年12月4日(日)
午前10時より
★会 場:京都市学校歴史博物館(京都市下京区御幸町通仏光寺下ル橘町437)
【大会プログラム】
* 10:00〜 開会あいさつ
☆ 10:10〜10:50 山中健太氏(佛教大学大学院)
「戦後の山村生活における生活改善の地域的展開
−台所の改善から見た生活変化を中心に−」
☆ 10:50〜11:30 崔 杉昌氏(佛教大学大学院)
「韓国東海岸の地域祭祀の変貌−盈徳郡の事例を中心に−」
☆ 11:30〜12:10 城下奈美氏(関西大学大学院)
「女性の紋継承−“女紋”の発生について−」
* 12:10〜13:10
昼休み・展示見学
△ 13:10〜13:40
会員総会
☆ 13:40〜14:20 前野雅彦氏(南山城村教育委員会村史編さん室)
「南山城村の寒施行」
☆ 14:20〜15:00 魯 成煥氏(韓国蔚山大学校人文大学)
「切腹は韓国人にとって何か?」
☆ 15:00〜15:40 市川秀之氏(大阪狭山市教育委員会)
「肥後和男宮座論の再検討」
* 15:40〜16:00
休 憩
◆ 16:00〜17:00 特別研究発表 黒田一充氏(関西大学文学部)
「祭祀に造られる施設−お仮屋を中心に−」
▽
17:40〜 懇親会 「WITHYOU」(中京区寺町錦上ル 075-241-0600)
★ 大会参加費…1500円(含、資料代・展示見学費) 懇親会費…5000円
★ 参加費並びに懇親会費は当日受付でお支払い下さい。
★ 一般参加歓迎。どなたでも自由にご参加下さい。懇親会への参加も歓迎します。
★ 一般研究発表は発表30分、質疑応答10分です。
【京都民俗学会 第24回年会事務局】
〒603−8301
京都市北区紫野北花ノ坊町96
佛教大学文学部 八木透研究室 075−491−2141(代表)
まいど東大阪!まちかどミュージアム・歴史と文化・芸術の散歩道
幻の映画撮影所とミュージアム巡り
2005年11月23日(水・祝)・午前10時30分〜午後4時頃
T部 10時30分 豆玩舎(おまけや)ZUNZO(ズンゾ) 見学会
※帝国キネマ撮影所資料展 同時開催
11時15分 記念講演「帝国キネマと東大阪」
講師:宇田 正先生
12時15分〜13時00分 昼食(各自)
U部 13時00分 幻の撮影所とまちかどミュージアム巡り(約3.8KM)
豆玩舎ZUNZO→山澤家の長屋門→司馬遼太郎記念館→馬立(うまんたて)の丘・弥栄神社→舟板塀・理容床寅・中小阪地蔵堂→喫茶美術館(ティ-タイム)→樟徳館(長瀬撮影所跡)→俊徳道→延命寺→小阪駅解散(16時頃)
※各ミュージアムの紹介等は下記に記載
参 加 費 一人2000円(記念講演参加費、3館入館料、資料代含む)
交通費、お弁当・お茶等はご持参ください。
※近隣の食堂・レストランについてもご案内いたします。
募集人数 20名(申込み先着順)
※1部・2部どちらかひとつだけの参加希望の場合の費用につきましては、ご相談ください。
申込み方法 はがき又はFAXにて住所、氏名、電話番号、年齢「幻の映画撮影所とミュージアム
巡り」1部・2部参加と記して下記あてに郵送ください。11月15日(火)締め切り
申込み先 郵便番号577-0803 東大阪市下小阪5−1−21・山三エイトビル3階
豆玩舎ZUNZO宛 TEL・FAX06−6725−2545
第1部紹介
帝国キネマ撮影所
大正5年、現在の近鉄河内小阪駅近くに帝国キネマ小阪撮影所が開設。同9年には帝国キネマ演芸株式会社が創立され、年間100本以上の映画を撮影しました。昭和3年(1928)、小阪から長瀬へ移転し敷地約30,000
uに、3,000uのステージ2棟を含む近代的な撮影所を開設、東洋のハリウッドと称せられました。
昭和5年日本映画ベストテン第1位になった「何が彼女をそうさせたか」など最新の設備でトーキー(有声)映画の開発がなされ、当時のスターやスタッフが付近に住んでいました。しかし、この東洋一の撮影所も昭和
5年9月30日火災により全焼し、撮影所は京都太秦撮影所を借りることなり、長瀬に再建されませんでした。
宮本順三記念ミュージアム「豆玩舎ZUNZO(おまけやズンゾ)」
「ZUNZO」は、幼少の頃より こよなくおもちゃを愛し、絵画芸術を志した宮本順三のペンネームです。
「豆玩舎ZUNZO」は、宮本順三(1915−2004)がこどもの頃から蒐集した日本各地のふるさとの玩具、グリコのおもちゃ係として戦前・戦後を通じて小さな玩具を考案していた頃の作品と世界中を旅して集めた人
形と玩具、画家として世界の遺跡・祭などを取材し描いた作品と諸民族の歴史と文化を伝える資料を展示。
小さなおもちゃ箱と小さな博物館にこめた宮本順三の夢と宇宙がひろがる空間です。
宮本順三は1927年(昭和2年)に大阪市内から東大阪市に家族と共に移住し、少年期には自宅前の延命寺で行われていた帝国キネマの映画の撮影風景を見て育ち、町の歴史とともに生涯を過ごしました。
第2部紹介
司馬遼太郎記念館
司馬遼太郎記念館は、自宅と隣接地で構成されている建物で、庭は雑木林をイメージしています。
記念館は、いろんなことを感じ、自由に考える場です。一歩中に入ると静のイメージにぴったりの空間です。
展示室では、著書と資料がずらりと来館者を出迎え、11メートルある天井までの書庫に驚くばかりです。
展示室の奥の天井には坂本竜馬の姿のような影が浮き上がっていて、本当に偶然なのかと感じることでしょう。
理容床寅と中小阪地蔵堂
理容床寅は、1884年に村営の床屋さんとして創業、現在の営業中。江戸時代に川底から見つかった石仏、中小阪地蔵と仲良く隣り合っています。
喫茶美術館
洋画家・須田剋太氏のエネルギーあふれる抽象画・書などの作品と、陶芸家・島岡達三氏(人間国宝)の作品を展示。島岡達三氏の作品でコーヒーなどを飲みながらゆったりと美に親しめます。「あらゆる文化は
庶民の手によってこそ豊かになる。」“美と味”を大切にする和寧文化社と作家達との出会いによって生まれた小さなミュージアム群です。
樟蔭学園樟徳館(長瀬撮影所跡)
昭和14年(1939)、長瀬撮影所跡に樟蔭学園初代理事長・森平蔵の邸宅として樟徳館を建設。材木商だったためにふんだんに良材が使用されている点が魅力です。
長瀬川沿いと延命寺
大きな延命地蔵が見守る川のほとりは、町の憩いの場所。延命地蔵堂と川沿いの松林が時代劇の格好の場で、当時の人気俳優・市川百々介や尾上紋十郎の撮影風景が見られました。
「まいど東大阪まちかどミュージアムマップ」より抜粋
子どもの健全な発育にテレビはどう貢献すべきか・・
シンポジウム「テレビ・ネット文化と子どもの育ち」
〜長崎・同級生殺害事件を契機にして〜
日時:2004年9月10日(金)
午後6時30分〜9時
場所:京都市上京区烏丸上長者町角・
KBS京都内「KBSホール」
最寄りの交通機関・・
京都市営地下鉄 丸太町駅または今出川駅から徒歩8分
(京都御所 蛤御門の向かい側)
参加は自由・入場無料
パネラー:京都市内の主婦
宇治市内の小学校教諭
岩崎貞明 メディア総合研究所事務局長
春日井敏之 立命館大学文学部教授
主催:民放労連京都放送労働組合
市民のためのKBSをめざす実行委員会
お問い合わせ先…民放労連京都放送労働組合Tel&Fax
075-451-4468
事件の背景にテレビやネットの影響も
長崎・佐世保の小6事件などここ数年、子どもによる殺傷事件が相次いでいます。
事件の背景は、一様ではありませんが、テレビやネットによる影響が大きいのでは
ないかと指摘する声が多く聞かれます。
そこで、「テレビ・ネット文化と子どもの育ち」〜長崎・同級生殺害事件を契機
にして〜と題したシンポジウムを開催することになりました。
パネラーの皆さんには、家庭や学校それにテレビ局から子どもとテレビの現状を
それぞれ出し合い、合わせて会場の市民の方からも意見や質問を出してもらい、
テレビが子どもの発育にどう貢献出来るのかを考えて見ます。
日本教育再考
日本においても教育論議が色々されていますが、それでも状況が全く変わらないのは一体なぜなのでしょうか?
残念ながら、よく言われておりますように、評論家の多い事が一因でありましょう。
我々がみんなで教育を議論する割に、実生活にそれを取り入れたり、実行したりする事が意外と少ないものです。また、偉いと思われておる方々が難しい言葉をこねくりまわした机上の空論、天下国家論にのみ傾倒し、実際の生活のなかで我々が何をやればいいのかについて、多くを語ってはくれない、という事もありますね。
「おじいちゃん、おばあちゃん」方というのは本来、智恵の宝庫であるわけです。
最近の日本の風潮として、困難な時代を生き抜いたそうした偉大な先人たちを軽視する傾向があるように思われます。大坪さん 2001/1024
隼人サミット「古代隼人文化を語る」
鹿児島放送でTV放映!
隼人サミット「古代隼人文化を語る」
隼人サミットの模様がTV放映!
2004年8月21日(土)、10時15分から鹿児島放送で、隼人サミットの模様がTV放送されます。
また、地元紙で8月4日の鹿児島の新聞、「南日本新聞」にも大きくとりあげられました、
鹿児島では南日本新聞にとりあげられれば、今回の催しが認められたというということになるようです。
サミットの評価について、隼人町でも評判がよく、出席された方も有意義な一日だったと話されていました。
開 催 日 :
平成16年8月1日(日)
開催時間 : 午前9時45分〜午後4時15分
開催場所 : 隼人町農村環境改善センター(隼人町役場近く)
鹿児島県姶良郡隼人町内山田1丁目14番10号
入場無料 定員600名 要申込み
問合せ先 隼人町立隼人塚史跡館0995(43)7110
サミット出演者
特別講演 10時15分〜
森 浩一 考古学者・同志社大学名誉教授
シンポジウム13時30分〜
進 行 役 原口 泉 鹿児島大学法文学部教授
指導助言 井上満郎 京都産業大学教授
パネラー 下野敏見 民俗学者 元鹿児島大学教授
小泉芳孝 京田辺市郷土史会理事
角田博文 奈良県五條市阿田郷土史探求会幹事長
藤浪三千尋 隼人町教育委員会
http://www.eonet.ne.jp/~koizumi/
隼人サミット「古代隼人文化を語る」
鹿児島県隼人町
目的
隼人町一帯は古代日向国の大隅、阿多の中央に位置し、曽の国と呼ばれていました。
この地域は一宮正八幡宮である鹿児島神宮を持ち、海幸・山幸伝説など神武東征に係る伝説が数多く
存在します。鹿児島神宮には、山幸が龍宮から持ち帰ったとされる、潮満玉と潮引き玉が保管されてい
ると言われています。また、天皇の即位の礼に舞われるとされる隼人舞も千年もの時代を経た現在でも
受け継がれていると言われます。
この隼人舞が庶民化し、祭事などで舞われ、せばる隼人舞・京田辺市の隼人舞、さらに猿楽・能楽へと
進化したものと言われています。これらの事が物語る古代隼人の文化とは、古代日本の形成に大きく影
響した事が伺えます。
今回の隼人サミットでは、隼人に関する講演やシンポジウムのほか京田辺市の隼人舞や鹿児島神宮の
隼人舞の競演を予定しています。シンポジウムでは、考古学者や隼人研究者それに民俗学者らとともに、
隼人の竹と文化、機内隼人の歴史、海幸・山幸の神話それに隼人と竹取物語との関係などの隼人の文化を
掘り起こすことになっています。
開 催 日 : 平成16年8月1日(日)
開催時間 :
午前9時45分〜午後4時15分
開催場所 :
隼人町農村環境改善センター(隼人町役場近く)
鹿児島県姶良郡隼人町内山田1丁目14番10号
入場無料 定員600名 要申込み
問合せ先 隼人町立隼人塚史跡館 0995(43)7110
サミット出演者
特別講演 10時15分〜
森 浩一 考古学者・同志社大学名誉教授
シンポジウム
進
行 役
原口 泉 鹿児島大学法文学部教授
指導助言 井上満郎 京都産業大学教授
パネラー 下野敏見 民俗学者 元鹿児島大学教授
小泉芳孝 京田辺市郷土史会理事
角田博文 奈良県五條市阿田郷土史探求会幹事長
藤浪三千尋 隼人町教育委員会
《開催スケジュール》
ビデオ観賞「南の疾風・隼人」ダイジェスト
特別講演 森 浩一「隼人と日本文化」
隼人舞T 鹿児島せばる 休息 隼人舞U京田辺市
シンポジウム 13時30分〜15時50分
テーマT「日本神話の中の隼人」海幸・山幸などの神話、隼人と竹
テーマU「機内に移住した隼人」京田辺・阿田への移住、竹取物語
隼人舞V 鹿児島神宮 15時50分〜
《参加者略歴》
☆ 森 浩一 同志社大学名誉教授
1928年大阪市生れ 同志社大学文学部卒業。
専攻:日本考古学 日本文化史学
著書:『交錯の日本史』(朝日新聞)『日本神話の考古学』他多数
☆ 原口 泉 鹿児島大学法文学部教授
著書:『鹿児島歴史散歩』他
☆ 井上 満郎 京都産業大学教授
京都大学卒業 大隅隼人の移住先に在住
専攻:日本史 考古学(日本古代史研究)
著書:『古代・中世の政治文化』『平安京』他多数
☆ 下野 敏見 元鹿児島大学教授
鹿児島県知覧町出身 鹿児島大学文理学部卒
62年、第一回柳田国男賞。90年「東シナ海文化圏の民族」で南日本出版文化賞。
著書:『隼人の国の民族史T・U』『南九州の伝統文化T・U』他多数
☆ 小泉 芳孝 京田辺市郷土史会理事
1947年京都府生れ 近畿大学法学部卒業・佛教大学文学部卒業
職歴:京都放送勤務
専攻:日本民俗学・郷土史・京都民俗学談話会会員 京都地名研究会常任理事
著書:『稲作民族の源流 日本・インドネシア』
投稿:『竹取物語』かぐや姫の里京田辺市
☆ 角田 博文 奈良県五條市阿田郷土史探求会幹事長
☆ 藤浪 三千尋 鹿児島県隼人町教育委員会
mansonge's japanese folklore
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mansonge
の「ニッポン民俗学」から 2001-02-18 NO.054
[バックナンバーはこちら]→ http://www.kcn.ne.jp/~tkia/mjf/
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■■ニッポンとは「梅干し」か、それとも「ラッキョウ」か■■
更新2010年10月28日
(一)
奇妙な題をつけたが、ニッポンと日本というものを問いたいのである。まず、この小論での用字に
ついてお断りしておく。「日本」の語は、現在の日本国・日本人・日本語に連なるものを言うときに
用いる。厳密に言えば、「日本」の成立は平安前期のことである。あえてその「中心」を取り出せば、
それは「天皇」である。天皇こそが「日本」であると言ってもよい。次に「ニッポン」の語であるが、
その「日本」を含んだ、より広義な概念として用いたい。
例えば、「日本」成立以前の「ニッポン」列島とかとだ。
「ニッポン=日本」ではない。森首相の「日本は昔から(日本の)天皇を中心とした(日本の)
神の国である」との発言はトートロジー(同語反復)のように見えるが、現代日本人がよく起こす
自己言及的な論理エラーの一つである(注)。
この論理エラーを誰が普及させたのかというと、明治政府である。明治政府は王政(=天皇制)を
復古させたが、それを武家政権以前の平安王政に止めずに、さらに遡らせて王政の始まりを初代
神武天皇とし、その始原を紀記神話に接続したのであった。
(注)自己言及的な論理エラーとは、例えば、嘘つきが「私は嘘つきではない」と言ったとき、この
言葉は真実であろうかそれとも嘘であろうか、というような判定不可能なパラドックスのことである。
森首相の発言はそのまま受け取れば無意味である。「日本は日本だ」と言っているにすぎない
からだ。しかしその含意は「嘘つき」に似て、「日本」は「ニッポン」とも取れ、その場合は「ニッポンは
昔から日本だ」と言っていることになり、ニッポンと日本がすり替えられている。なお、「(日本の)
天皇を中心とした(日本の)神の国」については後述する。
戦後日本人はそういう神話に接合された歴史を否定し去ってきたはずであったが、「ニッポン=
日本」とするのはひとり森首相ばかりではない。果たして幾人の日本人が、縄文(や弥生)「時代」
を日本の歴史ではなく、ニッポンの歴史の中の出来事だと判別できているであろうか。「縄文時代=
日本の古代」とするのは、むしろ現代日本人の常識ではないだろうか。これは、戦前の「神話時代」が
「縄文時代」と入れ替わっただけで、実は「ニッポン=日本」の等式自体は、何ら変わらずにそっくり
そのまま生き残っているものだと言ってよい。
確かに縄文文化は天皇制とははっきり異質であり、どちらかと言えば、弥生文化の中から生まれ
出たように思われる。しかし日本人の深層には縄文文化があると言われている限り、それも日本の
文化でなければならない。つまり、ニッポンの縄文文化は日本の縄文文化となり、「ニッポン=日本」
の論理エラーの呪縛が繰り返されるのである。この「ニッポン=日本」の等式が成り立っている限り、
永久に日本人は「日本」を超え出ることはできない。これは論理的な帰結である。
この論理についてもう少し説明しよう。日本人が、日本とは何か、日本人とは何か、日本語とは何か、
というような問いを立てる。そのような問いは、当然、日本以前のニッポンに及ばざるを得ない。しかし
結局そこに見出されるものとは何か。「ニッポンの中の日本」である。あとは道筋はともあれ、その日
本がニッポンを覆っていく過程にすぎない。そしてその日本の中心は天皇である。かくして、天皇の
歴史こそが日本国・日本人・日本語の歴史となる。天皇こそ日本人そのものなのである。
(二)
日本を、確定的な平安前期からもっと遡らせてみよう。「日本」と「天皇」を宣言し、紀記編纂を命じた
天武天皇まではひとまず可能である。それ以前は「倭(ヤマト)」と「大王」の時代となる。それでも
推古天皇・聖徳太子の時代を経て、何とか応神・仁徳それに雄略天皇の古墳時代中期(「倭の五王」
の時代)まで、日本の始まりを仮に引き上げたとしよう。しかしここから先は、そすなわち、四世紀を
もって日本つまり大王(天皇)の確たる足跡は途絶えるのである。では何故に「ニッポンは昔から日本」
であるのか。私たちの「失われた輪」(ミッシング・リング)に残された鍵は二つある。紀記と魏志倭人伝
である。実はこれらの鍵を使った日本の始原探究は江戸時代に始まったばかりなのである(もう十分に
長いとも言えるが)。倭人伝の邪馬台国を、わが北九州あるいは畿内にありとしたのは新井白石である
(卑弥呼を神功皇后とした)。
さらに本居宣長である。そして彼こそが「ニッポン=日本」の等式の定立者である。宣長は半生を
かけた『古事記伝』で、『古事記』こそが「上の代の正実」を語るものであることを執拗に説く。ここに
日本・日本人・日本語の始原があると強く述べたのである。なぜ古事記なのか。最古の書物であり、
その序に太安万侶が稗田阿礼の口誦を書き記したものだとあったからだ。これこそが当時の和語
(日本語)を最良に書き写し取ったものだと宣長は確信したのである。
宣長が「和魂漢才」の意味を最終確定した。『うひ山ふみ』にこうある。「道を学ばんと心ざすともがらは、
第一に漢意、儒意を、清く濯(すす)ぎ去て、やまと魂をかたくする事を、要とすべし」と。すなわち、
外来の漢意(からごころ)を拭い去れば、日本人古来の「やまとごころ」が現れると。ここには、ニッポン
には始めから日本人というものがいて、その後に中国の文明文化を吸収したのだということが立言
されている。
つまり、ニッポン人はそのまま日本人であったと。和語(やまとことば)も始めからあって、その文字の
ない口語を、漢字を用いて文語に写し取ったにすぎないと言うわけである。そして宣長に従えば、
古事記に記されたことが真実の歴史なのだから、ニッポンには始めから日本の神々とその子孫である
天皇がいたということになる。こうして「ニッポン=日本」の等式は完成する。
宣長の等式の普及者は、前述のとおり明治政府である。明治政府は紀記編纂期の白鳳政権に
似ている。ともに大変な対外緊張期の政権であった。もちろん単純な同一視はできないが、そこで
求められたのは、外圧に耐え得る「日本という主体」であった。この列島が古来、日本国と日本人に
属するという強い主張が求められていた。つまり「ニッポン=日本」の等式が求められていたので
ある。つなげないものをつなぐ冒険が明治に再び行なわれ、私たちは未だにその呪縛から抜け出
せずにいる。
(三)
ニッポンと日本を試みに分離・分解してみよう。まず、日本国だ。概括的な支配は、壬申の乱と
いう統一戦争を勝ち抜いた天武政権のときに成ったと言ってもよいが、東北地方の過半を含めた
列島の実効支配はせいぜい奈良時代以降であろう(注)。それまで東日本その他の遠地は、
畿内ヤマト王権の植民地もしくはその傘下の分封国、つまり日本は実質的には連合国状態だった
と言えよう。さらに時代を遡れば、ヤマト王権とは畿内の連合政権であり、一方では朝鮮半島南部
との連合政権でもあっただろうし、その頃の関東・東北地方などは外国と言って差し支えないだろう。
すなわち、ニッポン列島は始めから日本国では決してない。ニッポンは「日本列島」という枠組みを
一度壊さなければ決して見えては来ない。
(注)中には一時的な国もあるが、薩摩(現鹿児島県西部)国は701年、出羽(でわ:現山形・秋田
両県)国は712年、丹後(現京都府北部)・美作(みまさか:現岡山県北部)・大隅(おおすみ:
現鹿児島県東部)国は713年、能登(現石川島県北部)・安房(あわ:現千葉県南部)・石城(いわき:
現福島県西部)・岩代(いわしろ:現福島県東部)国は718年、諏訪(現長野県南部)国は721年の、
それぞれ設置なのである。
これらは広域地を分国して出来た国々であるが、その地の統治がこのとき実質的に有効なものと
なりつつあったこと、それまではそうではなかったことを示しているだろう。
そして陸奥国は征服途中で、724年の段階では現仙台市近くの多賀城に至っているところであった。
なお、東北蝦夷の征服は鎌倉幕府創建の源頼朝によってようやく達成されたと見てよい。これが
本来の「征夷大将軍」の意味だ。
次に日本語の問題である。日本語は未だに解明されない言語である。これは何を意味しているの
だろうか。起源を失うほどの諸言語の混淆に他ならない。
つまり、それを担っていたニッポン人も出自はバラバラなものだったのであり、漢語(中国語)の助け
を借りて、ようやく八世紀近くに統一言語としての日本語を形成するに至ったということだ(完成は
さらに遅れる)。『古事記』や『万葉集』にはその苦闘の跡が残されている(『日本書紀』は漢文=
中国語である)。
先入観を正しておきたいが、少なくとも平安前期までは漢文(中国語)が日本の「真名」(公用語;
「仮名」に対する語)であった。宣長が誤解、いや創作したのは、漢語に対応する「口語としての
日本語」(訓読みとしての「やまとことば」)が始めからあり、それが仮名交じり文を可能にしたという
ことだ。様々なニッポン語はあっただろうが、それらは未だ日本語ではなかった。
日本語は中国語の漢字を用いるが、中国語と日本語は違う。しかし漢字仮名交じり文で古代
中国語が理解できることから、中国語と日本語に対する誤解が日本人には深く染み込んでいる。
これは、古代日本人(荻生徂徠によれば、それは吉備真備だ)があまりに上手く漢字書き下しの
方法(漢文訓読法)を発明したせいだ。言うまでもなく、書き下し文とはどこまで行っても英文解釈
同様の日本語翻訳にすぎない。音読みと訓読み(どちらも日本語)の違いで済む問題ではない
のである。
一方、両者の親和性はどこに由来するものかにも思いを致さねばならない。
事実は転倒されている。日本語があったのではなく、漢語と漢文法に接することで、日本語は
形成されたのである。実際、片仮名とは漢字の略字であり、平仮名とはその別字である。
中国語とは異なる語順も、中国語と接することで整備されたと考えるべきだろう。無論、数多くの
口語のニッポン語の語群とその文法は吐き捨てるほどあっただろう。しかしそれらの日本語への
統合は、反応(リ・アクション)として生まれた。第一主体は中国にあったと言わざるを得ない。
そして日本人についてである。民族は言語の担い手でもあるので、日本語の成立過程が日本人、
いやニッポン人の姿を示しているのだろう。太古から考えれば、少なくとも三系統の流れを筆者は
想定する。北(樺太・北海道および日本海経由)からのアルタイ・ツングース諸族、南(フィリピン・
台湾・琉球経由)からのオーストロネシア諸族、西(中国江南・山東半島・朝鮮半島経由)からの
倭族(広義の中国人)である。最後の西方ルートには、いわゆる漢民族そのものを含めてもよい。
ニッポンの中核となったのは倭族である。文明度と人口数からもそうなる必然があった。それが
「弥生文化」であると推測する。これは別に古代ニッポンに限ったことではないのだが、日本人も
渡来人相互の混血の中から生まれたのだ。紀記に記される「渡来人」とは、到着が後か先かの
違いにすぎない。事実、天孫ニニギ命や神武天皇も「渡来=天(海)下り」したと書かれているで
はないか。大きな渡来と混血は奈良時代まで続いた。つまり、この頃まで日本人というアイデン
ティティーは揺れて定まらなかったのである。
(四)
ここで改めて、森首相の例の発言に戻ろう。「ニッポンは昔から(日本の)天皇を中心とした
(日本の)神の国である」。果たしてそうだろうか。まず第一に、日本は成立以来、一貫して
神仏習合の信仰を保持してきた国である。寺には社があり、宮には堂があった。そしてその
「仏教」とはすべて、中国語に翻案された仏教原典に基づくものである。この「日中習合」は、
日本というものの解明にとって実に暗示的である(ただし「中国」とは何か、という課題を
克服せねばならないが)。
古事記に依拠して「ニッポンは日本の神の国」という純神道を編み出したのは本居宣長で
あり、それを幕末の尊皇運動にまでつながるものとして咀嚼したのは平田篤胤である。
しかし彼らの原典『古事記』(ふることぶみ)の神々とは、日本人にとって果たして何なのだろうか。
その上巻は、古代豪族(すべて渡来人)が奉斎した神々の神名総覧物語である。誰が
天照大神を知っていたであろうか。「天照大神」という漢字で書かれた神名とともに、その神は
現れたのである。紀記とは日本の天皇と豪族たちのための神話(すべての神話は創作
物語であり、かつ古い物語とは限らない)であったことを忘れてはならない。
また、ニッポンには日本の神ではない神もいた。例えば、八世紀初頭の大隅国設置を
めぐってヤマト王権が隼人族と戦っていたが、そこには隼人族の神がいた。それが石体宮
(しゃくたいぐう)である。その神の地を奪って建てられたのが大隅正八幡宮(大隅国一の宮
であり、明治の神仏分離で「鹿児島神宮」と改称)であった。ニッポンの神と日本の神の習合、
つまり「神々習合」もあったということだ(八幡神は厳密には日本の神でもないのだが、ここでは
割愛する)。
さらに古事記そのものにまで、日本の神ではない外来の神が実は入っている。スサノヲ命の
子神に大年神という神がいて、その神の子神(スサノヲ命の孫神に当たる)として二十柱の
神名が書き記されているが、少なくともそのうち九神は朝鮮から来た神々である。韓(から)神、
曽富理(そおり)神、白日(しらひ=新羅)神、聖(ひじり)神、奥津日子(おくつひこ)・比売(ひ
め)神(二神はかまど神)、阿須波(あすは)神・波比岐(はひき)神・庭高津日(にわたかつ)
神(三神は神楽の庭火神)。これらは朝鮮渡来の秦氏がもたらし、その童女たちが直接奉斎した
神々である。
(五)
「民族」というアイデンティティーは、言語(langue:ラング)によるものである。だから、その
分裂は民族意識の分裂となる。ニッポンも日本語を形成・共有することによって日本人が
形成されたのだ。端的に言っておくと、アイヌ語が日本語でないのならアイヌ人は日本人では
ないし、古代の蝦夷や隼人とは日本語を共有することを拒んでいた「異」民族だったということだ。
(日本語成立論と付録としての中国人論は、またの機会のお楽しみとして取っておこう。)
日本語つまりは日本人成立の画期を成すものの一つとして『古今和歌集』があることは断言
できる。かの紀貫之によって叙されたその序には「真名序」(漢文)と「仮名序」(和文)が仲良く
並んでいる。その勅撰を命じたのは醍醐天皇である。天皇とは日本語の王に他ならない。
日本語を「やまとことば」だと信ずることが、和歌を日本人と天皇に固有のものとし、また宣長が
言ったように和歌を詠むことがニッポン人を日本人にする。宮中歌会が終焉を迎えるときに、
日本はニッポンへと連れ戻されることになるのだろう。
現代において最も日本らしいものとされている文化のほとんどは、室町時代に中国(当時は
明朝)文化に対抗(反応)して出来たものである。日本庭園、華道、茶道、日本料理、日本舞踊、
日本画、能と狂言などだ。現代日本語とのつながりという観点からも、現代日本人の精神は
この頃が始原である。平安以前の古代とは、古語と現代語との意味の相違の隔たりからも、
いまの日本人とは隔絶した精神世界だと想像できるだろう。ましてや、日本と天皇の揺籃期と
見なされがちな弥生時代とは…。
そこで「邪馬台国」である。それを北九州にあったと主張する説は、皇国神話史観に対して
歴史実証主義の「科学的」史観に属するように見えるが、予期に反してそれは国学派の思想
なのである。どういうことか。中国皇帝の冊封王となった卑弥呼は、日本と天皇の系列とは異なる
と言いたいことがその趣意なのである。では、日本と天皇はどこにあったのか。ヤマトは大陸とは
離れた畿内にあったというわけだ。この主張は本居宣長のものであり、日露戦争後、明治の
白鳥庫吉が復活させた日本独立主体派の思想なのである。
日本とは、ニッポンとニッポン列島を東アジア世界から「日本」という形に裁断してくり抜き、
「ニッポン=日本」という枠組みを固定してしまう言葉なのである。そこから固有性や主体性、
さらには特殊性や超絶主義(ウルトラ・ナショナリズム)が絶えず再生産されている。しかし、
その日本を象徴する「天皇」という漢字そのものが、「昔から」中国とその皇帝に対抗しようとし
て生み出されてきた「日本」の東アジア性をかえって暴露している。
明治政府が明治天皇とともに、社会契約説に基づく近代立憲君主国家を築き損なったのは、
近代東アジア世界で欧米諸国に伍する「一国近代国家」を形成・維持しなければならなかった
せいだ。過去を虚心坦懐に見つめ直そうという努力はなされたが、これを全うできるだけの余裕
はなく、いま現在の既成事実だけに基づいて社会進化論的、事大主義的な歴史観を、すなわち
日本と天皇のための新たな紀記を再生産せなばならなかった。近代日本人(そして戦後歴
史学も!)は、日本をニッポンという普遍性へと解放・開放することを選ばなかったのだ。
古代ニッポンの実態は、汎東アジアへと解放・開放されている。縄文時代も弥生時代も決
して孤立した日本列島だけの歴史なのではない。それらは実に、中国大陸、朝鮮半島、日本
海北岸、北海道・樺太、また琉球や台湾などともつながった東アジアの中のニッポン列島の
歴史なのである。そういう意味で、邪馬台国は日本にはなかった、と言える。国家や民族とは
人間が絶えず生み出し続ける幻想である。それは言語によって生じる。日本という共同幻想を
私たちは生きている。
(あとがき)
本稿は、筆者による一連の日本探究の一つの結論かと思われる。日本語がその鍵を握って
いる。その日本語については稿を改めて述べてみたい。それから、一連の拙論の読者の方
ならご了解頂けると思うが、本稿は日本人を決して貶めるものではない。また天皇を蔑ろに
せんとするものでも無論ない。私たちの明治国家自身が闡明しようと一度は試みたが、状況が
これを許さず成し得なかったことをちらりと代弁してみたにすぎない。それにしても指弾すべきは、
いまも「ニッポン=日本」史観をのうのうと継承し、恥じることなく再生産し垂れ流し続ける日本
歴史学である。
[主な典拠文献]
石川九楊「本居宣長から疑え」(『中央公論』2001年2月号)
子安宣邦『宣長問題とは何か』ちくま学芸文庫
小路田泰直『「邪馬台国」と日本人』平凡社新書
大和岩雄「秦氏は『古事記』に関与している」(『秦氏の研究』所収)大和書房
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mansonge の「ニッポン民俗学」●
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│ 発行所:TKIA人間学研究所 │
│ 発行者:萬遜樹(まんそんじゅ) │
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「日本」とは何か。「日本人」とは何か。いま揺れ動く、日本と日本人の〈原点〉と〈深層〉に
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全日開館として全て予約制(電話)により開館へ (2014年10月24日〜)
竹取翁博物館は、2013年2月1日に開館して2年半となり当初目的を達成しました。
今後は開館日を全日として全て予約制(電話)にします。但し、本館入口左にあるインターホン両方を押して頂き館長が館内にいる時は、見学可能です。なお、お盆と年末年始は休館させて頂きます。
他に、訪問される小学生迄の方はご両親または先生と一緒にお越し下さい。出来ない時は両親か親権者等の「承認書」を持って来て下さい。また、博物館の記録用として写真を撮らせて戴きますのでご協力お願いいたします。
棚田支援市民ネットワーク http://www.avis.ne.jp/~ogit22/tanada.htm
発行者:小泉芳孝(日本民俗学・郷土史家) kyoto
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