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かぐや姫の名前は『竹取物語』より以前に編纂された『古事記』に「迦具夜比売命(かぐやひめのみこと)」として登場、さらにその父は「大筒木垂根王(おおつつきたりねのみこ)」と記されています。地名から、かぐや姫の父は「筒木」に住んでいたと考えられ、京田辺市多々羅地区にある継体天皇の「筒城宮(つつきのみや)」があった近くではないかといわれています。現在の綴喜(つづき)郡のもとになっているところです。このあたりは同志社大学京田辺キャンパスになっており、正門を入った西北に「筒城宮址」の碑が建てられています。 |
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また、『竹取物語』に竹取の翁の家は「山もと」の近くにあると書かれてあり、この頃の山本は『続日本紀』に和銅4年(711年)に設定されたとある古代の「山本驛(えき)」ではないかとされています。驛とは公用の旅行や通信が円滑にいくように人馬や宿などが提供された施設です。この地域は、奈良時代、山陽道と山陰道が通っていた交通の要衝で、現在、壽寶寺(じゅほうじ)の横に「山本驛旧跡」の碑が残されています。 |
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さらに、地元の古文書に、大筒木垂根王(おおつつきたりねのみこ)の古墳が西方山麓の王居谷古墳(おおいだにこふん)であると記されており、今もそこに王子谷という地名があります。 |
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このような人名や地名の一致から、竹取の翁とかぐや姫は京田辺に住んでいたと考えられています。 |
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興味が湧くのは、物語の内容との関連もあります。先程の多々羅地区は渡来人がやってきて絹織物の養蚕技術を伝えたといわれる「日本最初外国養蚕飼育旧跡」の碑があるところです。ここは、『古事記』によれば、仁徳天皇の浮気に嫉妬した皇后磐之媛が、天皇の待つ難波には帰らず、筒木の韓人(百済からの渡来人)の奴理能美(ぬりのみ)の家に滞在したところとあります。仁徳天皇は奴理能美が飼っている虫(蚕)は三度変化する奇しき虫なので見に行くという口実をつくって磐之媛を迎えに来ますが、磐之媛は帰りませんでした。 |
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『竹取物語』の帝が狩りに行くような振りをしてかぐや姫を見に行こうという話と似ており、作者は磐之媛の話をモデルにしたのではと思われます。 |
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京田辺市の北方の大住にある月讀神社も月を連想させます。ここは7世紀頃、九州の大隅半島から来た隼人が住んでいたところで、彼等は都の警護にあたり、芸能や竹細工の技術などを伝えました。月讀神社では毎年10月14日に地元の中学生によって勇壮な隼人舞(市の無形文化財)が奉納されています。 |
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南西方の甘南備山は神の降臨するところとされ、以前は月讀神社で祭礼を行う際には甘南備山から神をお迎えしていました。 |
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隼人のような帝の護衛をよそに、帝へ不死の薬を残して天に昇っていくかぐや姫、不死の山は甘南備山でしょうか。 |
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「かぐや姫の里」を唱える地域は奈良県広陵町をはじめ各地にありますが、竹林が多く、竹や月などのゆかりも多く、古文書などでも一致する京田辺市。竹取物語の舞台になったまちと考えると楽しいですね。 |
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※今回の取材は、京田辺市郷土史会理事の小泉芳孝さんにご協力いただきました |