海人と竹籠

あるホームページから参考文をコピーしたものです。

1.无間勝間
塩土老翁(しおつちのおきな・塩椎神)が、山幸(火遠理命)を海神宮(龍宮)に送ったという、「无間勝間(まなしかつま・無目籠・無目堅間・大目麁籠)」という「籠舟」があります。
「日本書紀」の一書では、、山幸(火遠理命)が、兄の海幸(火照命)の釣針を無くして困っていると、塩土老翁神が現れて、袋から櫛を出し地面に投げると竹林となって、その竹で籠舟を作ったとあります。別の一書では、浜辺で罠にかかった川雁を解き放ってやると、塩土老翁神が現れて、籠舟で海神宮へ送ってくれたとあるのです。
籠の船なんて浮きそうにもないですけれど、古代の海人は、竹で堅く籠を編んで、天然のタールなどを塗料として塗り、「舟」として用いたそうです。この「カタマ」とか「カタ」とかいうのは、台湾から南の島々で、「舟」とか「筏」とか「籠」をさし、同様の舟が、台湾・ベトナムを始め、ビルマ・南洋群島・中国奥地の河川でも見られるといいます(上野喜一郎著「船の歴史」より)。つまり、筏(いかだ)の「カタ」です。
ところで、「籠」という字は、何故「竹」冠に「龍」なのでしょうか? 「籠」という字は「こもる」とも読みます。「海人籠り」という海人の祭があって、詳しくは知らないのですが、「籠もる」という字からして、「御籠り」、つまり、神社に籠って神に祈願することの元になった儀式と考えられます。とにかく、「海人」と「竹籠」は、大変関係深いのです。
尾張氏系の海部氏が奉斎する籠神社の社伝に、社名の由来ともなった、天火明命が常世に行き来した「籠」というのも「无間勝間」だと思われます。籠神社は元浦島でもありますから、龍宮へ行き来した浦島の「亀」もこれだったのではないでしょうか。篭目の中心部が亀甲というのにも繋がって来そうですネ。それに、阿曇磯良宇豆毘古(椎根津彦)が、亀に乗って現れたのにも関係ありそうです。「安倍島」にかかる枕詞「玉勝間」が、无間勝間の別名だというのも気になるところです。
ここで材料の「竹」のことですが、中国では古来「歳寒の三友」と言って、寒に耐える節操高い植物として「松竹梅」が珍重されています。我が国でも歳神を迎える依代として、最初は「松竹」の組み合わせでもっはら門松として用いられました。門松の起源は一説に6・7世紀とありますから、邪悪なものを防ぐ為に別れ道や村里の入り口に立てられる陽石、塞の神、猿田毘古神と同様の役割を果たす「玉矛」がルーツと思われますが、いつから「松竹」になったのかはよく分かりません。しかし、その生命力から竹は古来より神聖な植物とされ、竹を扱う竹取の翁のような人々までもが神聖視されていたといいます。
当時、竹といっても、今のような孟宗竹が輸入されるのはずっと後で、篠竹や笹竹のような、細い竹が主流だったようです。竹はそもそも、日本に存在していた植物種ではなく、南方(福建あたりか)から、海人をはじめとする人々によって上代にもたらされた植物であるといいますから、このことからも、「竹と籠」は非常に海人と関係が深いことがお分かりでしょう。
宮中に「節折(よおり)」という祓(はらえ)の儀式があって、毎年6月・12月の晦日に行われ、中臣の女(むすめ)が荒節(あらよ)・和節(にごよ)の小竹の枝で、天皇・皇后・皇太子の身長を測り、測り終ると小竹を折って祓を行うというもので、別名、御贖祭(みあがのまつり)ともいいます。これも「竹」を神聖な呪具としいた例です。
また、古い七夕祭は「乞巧奠(きっこうでん)」と言って宮中で行われていましたが、下に敷いた薦(こも)の四隅に枝付きの小竹を立て、小縄を四方に巡らせて、天皇の側だけ五色の絹糸をかけた飾りを使います。瓜や塩鮑、水をいっぱいに張った角盥などをお供えにするのも、海人系の匂いがしますし、神奈川県大磯の七夕祭では、五色の短冊などで飾った笹竹を夕方、神社や井戸に持ち寄り、龍の形に綱で束ねて竹御輿を作り、みんなで担いで海に流すといいます。明らかに、水神→龍神→海神の信仰が反映されています。
私見ですが、七夕の飾りの中に、「網」があるのは、どうも海人に関係しているように思えてならないのです。宮沢賢治が描くところの、菩薩の住む兜率天の院の尖塔に掛かった、鈴や玉で飾った網だとも言えるかもしれません。我が国では、観音菩薩信仰は水神信仰と深く結びついており、これも海人に無関係ではないのです。また、「七夕」はもともと「棚機」ですが、海人系の巫女的な女性には、木花之開耶媛命や、倭比売命など、「織姫」が多いのも、海人系の祭りであることの一つの証拠ではないでしょうか?
かの「延喜式」の「隼人式」にも様々な竹製品が記載されていますが、「延喜式」の頃(10世紀)、竹製品はは宮中などの特別な所でしか用いられなかったようです。「延喜式」の竹に関する他の記述にも、「神祇式」に大嘗祭に用いられる簀であるとか、「内匠式」に御輿の材料とか、「大膳式」に祭の食器とか箸とかに使われるとか、賀茂祭の食事に筍が出るとか、神聖な場でしか使われてません。大嘗祭(天皇が即位後初めて行う新嘗祭)に関係があるというのも、海人系の証拠といえましょう。
「隼人」という言葉がでましたが、隼人とは海幸彦を祖とする久米氏などの海人族のことです。「隼人司」という、律令制で宮門警衛にあたる隼人を管理した官司がありますが、そこではなんと、隼人舞などの教習の他に、「竹器の製作」もつかさどっていたのです。今でも、別府あたりの特産品は「竹細工」だったりしますネ。
我が国が誇る、世界最古の作り物語「竹取物語」の竹取の翁は、隼人だという説もあるようです。
さて、その「竹取物語」には、能の「海士」などで海人との関係を指摘される藤原不比等が、車持皇子として登場します。そして、かぐや姫に一番悪し様に扱われているのも、車持皇子です。阿倍御主人も登場しますが、結構同情されたりしてはいるものの、やはり悪し様にされていることに変わりありません。
登場人物の中で一番気になるのが、姫の名付け親「三室戸の斎部の秋田」です。三室は大物主の三室山でしょう。斎部氏は出雲、紀伊を中心に分布する、天太玉命を祖とする氏族です。忍熊王が創建した剣神社(福井県丹生郡織田町)の剣をもともと奉斎していた氏族で、麻績王にも関係あります。私は、東漢氏系の織部で、海人にも関係あると思っています。そして、「竹取物語」の作者は、その斎部氏で、「古語拾遺」の作者、斎部広成だと思うのです。中臣氏に対抗していたというのが決め手ですが、どうでしょうか?
他にも、海人と竹の関係を物語るエピソードがたくさんあります。
由来は分からないのですが、昔、わざわざ対馬の若宮神社(祭神:五十猛命)から、宇佐神宮(大分県宇佐市南宇佐。祭神:応神天皇)へ「竹」が奉納されていて、今でも宇佐下宮にその竹があるといいます。また、神戸の生田神社(祭神:稚日女尊)にも、「神功皇后釣竿の竹」といって、皇后が三韓に遠征する時に、占いのためにアユを釣った釣竿を、地面に突き刺しておいたものが根付いた竹林があるそうです。また、息長氏和邇氏の本拠の一つの滋賀県には、神功皇后の軍旗を祭神として創建され、戦国時代には境内にある「竹」を切って旗竿にすると戦いに勝つと言われた、豊満神社(滋賀県愛知川町)があります。

弟の彦火火出見尊(火遠理命・山幸彦)に釣り針を貸したばっかりに、散々な目に合うのは周知の通りだ。日本書紀には「隼人等が始祖なり」、「吾田君小椅等の本祖なり」とあり、古事記では「隼人阿多君の祖」、新撰姓氏録では「阿多隼人、豊乃須佐利乃命(とよのすさりのみこと・火闌降命)の後也」また、「大角(大隅)隼人、出自火闌降命後也」とある。つまり隼人の祖で、日本伝統芸能の祖でもある。
「海幸・山幸」の神話を、阿曇氏系とするか隼人系と見るかは、学者の間でも論議を呼んでいるが、以上のように、阿曇氏と久米氏は同族ともいえる海人族なので、「海人系」と一括りにすれば、問題は解決してしまう。
火闌降命(海幸)と彦火火出見尊(山幸)は、兄弟ではなく、もし実在したならば同一人物だったかもしれない。木花之開耶姫が三つ子を産むのは不自然だし、海幸でなく山幸に、海の神である綿津見豊玉彦命が味方するのも、不自然ではないか。阿曇氏の祖神、阿曇磯良鵜葺草葺不合命と同一人物の可能性があり、初代神武天皇彦火火出見尊(山幸)と同一人物説があるので、私は神代の神話は全て海人族が元来持っていた神話であり、いわゆる日向三代の天孫は一絡げにしてしまってもいいと考えている。
「海幸・山幸」のモチーフは、ミクロネシアのパラオ島、インドネシアのケイ島、セレベス島、中国の江南地方などに類似の神話があるようだ。つまりは、この神話は南方系の海人族である隼人が元々持っていた神話だということだ。隼人の後から朝鮮半島経由で渡来して来た天孫族は、3代に渡って隼人と婚姻を結び、初代神武天皇に至っては、その体内に流れる血の実に8分の7までが隼人の血だった。神武が東征出来たのも、海人である隼人と手を組んだからである。

月読神社(京都府京田辺市大住池平)
祭神 月読神
「延喜式神名帳」に名神大社に列した古社である。別項で詳しく述べるが、月読命は御饌津神である豊宇気毘売神とも関係が深く、「書紀」の一書では「青海原の潮の八百重を治める神」とされている。月読神社は、私見では壱岐を発祥としており、鹿児島県にも多く、京都嵐山の松尾大社の摂社は、壱岐から勧請された。こう考えると、月読命は隼人系の神なのかもしれない。
毎年10月14日、25年程前に隼人舞の復活を試みて始められたという、「大住隼人舞」が奉納される。月読神社一帯は古くから大住と呼ばれていて、「大隅」の名残と考えられ、大隅隼人の移住地だった可能性が指摘されている。
隼人舞
海幸彦とは火照命のことで、隼人の先祖といわれています。あまりにも有名な神話は割愛しますが、海幸は山幸に負けた後、犢鼻褌(ふんどし)をして、顔や手を赤く塗り、山幸に俳優(わざおぎ)として仕えたとあります。山幸は彦火火出見尊神武天皇の祖父ですから、天皇家の先祖の一人です。
フンドシは海人の伝統的衣装ですし、神事に相撲が多いのもこれに関係があるように思われますが、ここで問題にしたいのは「舞」のことです。隼人舞は海幸が海水に溺れ苦しむ様を模したと言われていますが、現在は正確な姿が伝えられておらず、鹿児島県姶良郡隼人町の鹿児島神宮の「追儺式」に付随する隼人舞で古の姿を想像するに留まっています。
「追儺」とは、正月の鬼会(おにえ)、節分の鬼追いに関連する儀礼ですから、まず、上手と下手に分かれて並んだ神官は、上手の神官の「おーっ」という掛け声のあと、いっせいに豆を撒きます。その後、神官達は簓(ささら)という竹製の楽器を鳴らしながら、「隼人職」と呼ばれる鹿児島神宮直属の神職の周りを回るんだそうです。そして、白い鳥兜を被った隼人職が、老人面を左手で顔に当て、右手の扇で顔を隠しながら、ゆるやかに舞うというものです。
鳥兜というのは、舞楽の楽人が常装束に用いる冠で、鳳凰の頭にかたどったものですが、この鳥兜を冠った姿は、高千穂夜神楽などの古いタイプの神楽の冒頭に登場する「彦舞」の猿田毘古神の装束や、面の特徴だそうです。ということは、隼人舞は神楽の猿田毘古神と関係があるということでしょうか?
高千穂夜神楽で登場する猿田毘古神は、赤い天狗面を被って常緑樹や鉾などの「幣杖」を突きながら先祓いをし、神楽行列の先頭をします。猿田毘古神の天狗面は、伎楽の治道(先導)面とも、雅楽の「王舞」に使用する火王面だとも言われますが、渡来系の匂いがプンプンしますし、神楽の先導をすることから、追儺式の方相氏の面とも考えられます。天狗面が赤いってのがどうも海幸クサイですネ。因みにこの赤い色は、古代のまじないだと思われます。(「丹土」参照。)
しかしながら、この舞が、七世紀の大和朝廷に奉納されたという「隼人舞」なのかどうかは分かりません。私見ですが、もっと勇壮なものであったような気がするのです。
京都府京田辺市の月読神社で復活された「大住隼人舞」は、弓や松明、隼人特有の赤・白・黒の渦巻き紋様が描かれた楯を手にした舞人(まいと)の少年たちが、笛や太鼓の音に合わせて舞う、テンポが速く動きが激しい舞だそうですが、私的にはこちらの方が相応しいように思います。実際、当の鹿児島神宮でも、近年、8月15日の例祭で舞われるようになったという隼人舞は、狩衣姿で右手に扇、左手に鉾を持ち、笛と太鼓と神歌に合わせて、二人で舞うというものだそうで、扇はそのままですが、老人面の替わりに「鉾」を持つというので、やはり一般的に隼人舞は勇壮な舞だったと考えられているようです。
月読神社(京都府京田辺市大住池平)
祭神 月読神
「延喜式神名帳」に名神大社に列した古社である。別項で詳しく述べるが、月読命は御饌津神である豊宇気毘売神とも関係が深く、「書紀」の一書では「青海原の潮の八百重を治める神」とされている。月読神社は、私見では壱岐を発祥としており、鹿児島県にも多く、京都嵐山の松尾大社の摂社は、壱岐から勧請された。こう考えると、月読命は隼人系の神なのかもしれない。
毎年10月14日、25年程前に隼人舞の復活を試みて始められたという、「大住隼人舞」が奉納される。月読神社一帯は古くから大住と呼ばれていて、「大隅」の名残と考えられ、大隅隼人の移住地だった可能性が指摘されている。
児島神宮(鹿児島県姶良郡隼人町)
主祭神 彦火火出見尊豊玉毘売命
相殿  仲哀天皇応神天皇神功皇后
大隅隼人の本拠地である。神武天皇が祖父の彦火火出見尊を偲んで、ここに社殿を建てたのに始まるという。隼人の祖は海幸(火闌降命)であり、その本拠地に祖の天敵である山幸(彦火火出見尊)を祀るのは、なにか不自然である。
この神社は、宇佐より古い正統の八幡宮、大隅正八幡宮を称する。社地は日向山にあり、全面に鹿児島湾が開けて、伝彦火火出見尊の高屋山上陵がある。例祭は8月15日で、隼人舞が舞われる。「日向」というからには、猿田毘古神が天孫降臨の際、邇邇芸命を案内した日向はここかもしれない。近くに天降川(あもりがわ)も流れている。
八幡宮なのに、宇佐とは主祭神を異にするのが興味深い。「続日本紀」によれば、「和銅6(713)年四月、日向国から肝坏(きもつき)・贈於(そお)・大隅(おおすみ)・姶羅(あいら)を割いて、初めて大隅国を設けた。また、和銅7(714)年3月15日、隼人(大隅・隼人の住人)は、道理に暗く荒々しく、法令に従わないので、豊前の民二百戸を移住させて、統治に服するとう勧め導かせるようにした。」とある。

天之日矛(あめのひぼこ・天日槍命・海檜槍)

丹後半島の付け根、現在の京都府与謝郡「加悦(かや)」町の地名は、天之日矛が若狭から但馬に入ったとすればルート上にあり、それを裏付けているのではないか。

都怒我阿羅斯等は、「頭に角を負いし人」と表現されていて、牛冠を冠っていたのではないかと思われる。天之日矛だといわれる兵主蚩尤((しゆう)を奉斎する、中国南部の少数民族「苗族」も牛冠を冠っていた。また、子神の五十猛命と一緒に、曾尸茂梨(そしもり・牛頭の意味という。韓国慶尚道の牛頭山、江原道春川の牛頭山などの説がある。)経由で出雲の鳥上の峯に天降った、素戔嗚尊(すさのおのみこと)の別名は牛頭天王(もとインドの祇園精舎の守護神とも、薬師如来の垂迹ともいわれる。除疫神として、京都祇園社(八坂神社)などに祀る。頭上に牛の頭を持つ忿怒相に表される。)であり、蚩尤(四肢に武器を持ち鎧で武装した、牛頭を持つ人の姿で画かれる)とソックリだ。天之日矛は素戔嗚尊であるともいえるのではないか? 苗族のように南に逃げず、朝鮮半島経由で日本に来た人達が、天之日矛の一族としたら? 天之日矛は別名、八前大神という。八坂でも御馴染みだが、「八」は素戔嗚尊の数字だというのも興味深い。

日矛の足跡として登場する近江の吾名村と比定される阿那郷は、息長氏の本拠地で、後に息長村と呼ばれた。天之日矛の足跡は、鉱山があるとか、全て鍛冶金工と関係した土地だ。これが、天之日矛を天目一箇神と同神だという理由である。また、天之日矛を、古代、刀剣その他の鍛造に従った鍛冶部の中で、4世紀後半〜5世紀に朝鮮の進んだ技術をとりいれて編成した韓鍛冶(からかぬち)の首長的存在の総称ではないかとする学者もいる。

天の磐戸に天照大神が隠れた時、神々はその前で祭祀を行っているが、書紀の一書に、紀伊の日前神(ひのくまのかみ)が、天香山の金と鹿の皮を丸剥ぎにした鞴を用いて、鍛冶の石凝姥命(いしこりどめ)に「日矛」を作らせたとある。この「日矛」は、日前国懸(ひのくまくにかがす)神宮(和歌山市秋月)に祀られているのだが、矛ではなく「神鏡」なのだというのだ。そういえば、天之日矛は「鏡神社」の祭神であった。この日矛(神鏡)の後に鋳造されたのが「伊勢の八咫鏡」で、製作者の石凝姥命は鏡作の祖として、鏡作坐天照御魂神社(奈良県磯城郡田原本町八尾)に祭られている。配祀されているのが、尾張氏・津守氏の祖、天照国照彦天火明命であるのも興味深い。


丹後半島の付け根、現在の京都府与謝郡「加悦(かや)」町の地名は、天之日矛が若狭から但馬に入ったとすればルート上にあり、それを裏付けているのではないか。

都怒我阿羅斯等は、「頭に角を負いし人」と表現されていて、牛冠を冠っていたのではないかと思われる。天之日矛だといわれる兵主蚩尤((しゆう)を奉斎する、中国南部の少数民族「苗族」も牛冠を冠っていた。


赤米神事に近いものが、東南アジアや中国南部で確認されています。よく日本人のルーツに比定される、中国南部貴州省の少数民族、苗(ミャオ)族では、「吃新節」というそうです。
お正月(苗族では収穫が終った次の月が正月。同じ種族でも標高差などから、村によって収穫期が違い、お正月も違う)、正月爺さん(歳神)の化身であるお餅をついて食るんだそうです。これは、塩で味付けした小豆を混ぜた、豆餅だそうですが…。おこわを粽(ちまき)にしたり、楓香樹で作った柱を家の中に飾り、それに酒や供物を供えて先祖を祀ったり、ホントに日本人のルーツを感じてしまいます。
貴州省のすぐ隣りの雲南省の少数民族に、「泰(タイ)族」がいますが、泰族の村では、日本の納豆菌と遺伝的に同種の納豆がありますし、米もジャポニカ米で、非常に近い種類のものだそうです。焙じ茶や、赤米のおこわを炊いたお赤飯もあるとか。
ところで、苗族は古代、長江中流域に暮らしていた勇猛な民族でしたが、蚩尤(しゆう・中国の古伝説上の人物。神農氏の時、乱を起し黄帝と戦う。濃霧を起し、敵を苦しめたが、黄帝は指南車を作って方位を示し、ついにこれを捕え殺したという。)に味方して黄帝(中国古代伝説上の帝王。三皇五帝の一。姓は姫、号は軒轅氏。炎帝を破り、蚩尤を倒して天下を統一、養蚕・舟車・文字・音律・医学・算数などを制定したという。陝西省の黄陵に祭られ、炎帝とともに漢民族の始祖として尊ばれる。)に敗れ、漢民族に追われて今の中国南部に移動して来たそうです。鞴の風の神である蚩尤が、首枷をされたまま首を切られ、血に染まった枷から生えたという「楓」を聖木としていて、「楓香樹」と呼んで、必ず各村を見下ろす山の頂上に植えられています。だから楓は、蚩尤の血で秋に赤く染まるのだそうです。神籬(ひもろぎ)のルーツかもしれません。
また、雅楽の笙のルーツと云われる「芦笙」が伝統楽器で、毎年正月に行われる「芦笙祭」では、未婚の少女達が、田んぼで芦笙舞を舞いますが、なんだか、五節の舞を彷彿とさせます。五節の舞は豊明節会(とよのあかりのせちえ・奈良時代以降、新嘗祭・大嘗祭の翌日、宮中で行われた宴会。天皇が豊楽殿(のち紫宸殿)に出て新穀を食し、諸臣にも賜る。賜宴の後に五節の舞があり、賜禄・叙位などの儀があった。)に舞われるのですから、まさにルーツはこれかもしれません。また、この舞は単なるステップのみで、宮古島狩俣の「トゥクルフム(所踏む)神事」や、ネイティヴ・アメリカンの踊りにソックリなのです。
そして、その民族衣装は銀の牛冠を戴いています。それも、牛の角の間に日章入りです。我らがツイン・ピークス、二上山の日の入りや、猿田毘古神を祀る、二見興玉神社の夫婦岩の間からの日の出を彷彿とさせるではありませんか? 苗族の聖獣は、勿論「牛」。民族の英雄神「蚩尤」も、四肢に武器を持ち鎧で武装した「牛」の姿で画かれる。奈良斑鳩の藤ノ木古墳で発掘された鞍金具に、この蚩尤が描かれていました。それにしても何故、王権の象徴たる鞍金具や冠には、「海」「磯」「州浜」があるんでしょうか? 古代の彫金職人は海人だったのでしょうか? 彫金が本職の海棠は、なんだか「縁」を感じてしまいます。
ところで、蚩尤は別名「兵主(ひょうず)」といいます。兵主(つわものぬし)神社は延喜式内社中、最多の数を誇り、全国に分布してます。私はまだ決定打に欠けると思うのですが、兵主は天之日矛であるっていうのが定説になっています。あの神功皇后の先祖、天之日矛は、角のある人といわれる都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)であることは、伝説の酷似から明らかですが、この「角」、牛冠を被っていたからだと考えられないでしょうか?
賀茂大神の阿遅?高日子根神(あじしきたかひこねのかみ)は、雷神で農耕神ですが、名前に農耕具である「?」の字が入る。その弟の事代主命の娘は媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)で、名前に「蹈鞴(足で踏む大きなふいご)」が入ります。水田を開墾するには、画期的な農耕具が必要だったはずで、農耕具を作る技術は稲作文化と一緒に伝来していたと思われますが、天之日矛といわれる蚩尤も鞴(ふいご)の風の神、つまり息長氏が奉斎する天目一箇神のような、金工鍛冶の神なのは大変興味深いです。
長江の河口から船を出せば、対馬海流に乗って、自然と日本に漂着するそうです。長江から黄帝に追われて中国南部に逃げた人達の他に、海流に乗って日本に来た人達がいたとは考えられないでしょうか?
ルーツを探る
赤米神事に近いものが、東南アジアや中国南部で確認されています。よく日本人のルーツに比定される、中国南部貴州省の少数民族、苗(ミャオ)族では、「吃新節」というそうです。
お正月(苗族では収穫が終った次の月が正月。同じ種族でも標高差などから、村によって収穫期が違い、お正月も違う)、正月爺さん(歳神)の化身であるお餅をついて食るんだそうです。これは、塩で味付けした小豆を混ぜた、豆餅だそうですが…。おこわを粽(ちまき)にしたり、楓香樹で作った柱を家の中に飾り、それに酒や供物を供えて先祖を祀ったり、ホントに日本人のルーツを感じてしまいます。
貴州省のすぐ隣りの雲南省の少数民族に、「泰(タイ)族」がいますが、泰族の村では、日本の納豆菌と遺伝的に同種の納豆がありますし、米もジャポニカ米で、非常に近い種類のものだそうです。焙じ茶や、赤米のおこわを炊いたお赤飯もあるとか。
ところで、苗族は古代、長江中流域に暮らしていた勇猛な民族でしたが、蚩尤(しゆう・中国の古伝説上の人物。神農氏の時、乱を起し黄帝と戦う。濃霧を起し、敵を苦しめたが、黄帝は指南車を作って方位を示し、ついにこれを捕え殺したという。)に味方して黄帝(中国古代伝説上の帝王。三皇五帝の一。姓は姫、号は軒轅氏。炎帝を破り、蚩尤を倒して天下を統一、養蚕・舟車・文字・音律・医学・算数などを制定したという。陝西省の黄陵に祭られ、炎帝とともに漢民族の始祖として尊ばれる。)に敗れ、漢民族に追われて今の中国南部に移動して来たそうです。鞴の風の神である蚩尤が、首枷をされたまま首を切られ、血に染まった枷から生えたという「楓」を聖木としていて、「楓香樹」と呼んで、必ず各村を見下ろす山の頂上に植えられています。だから楓は、蚩尤の血で秋に赤く染まるのだそうです。神籬(ひもろぎ)のルーツかもしれません。
また、雅楽の笙のルーツと云われる「芦笙」が伝統楽器で、毎年正月に行われる「芦笙祭」では、未婚の少女達が、田んぼで芦笙舞を舞いますが、なんだか、五節の舞を彷彿とさせます。五節の舞は豊明節会(とよのあかりのせちえ・奈良時代以降、新嘗祭・大嘗祭の翌日、宮中で行われた宴会。天皇が豊楽殿(のち紫宸殿)に出て新穀を食し、諸臣にも賜る。賜宴の後に五節の舞があり、賜禄・叙位などの儀があった。)に舞われるのですから、まさにルーツはこれかもしれません。また、この舞は単なるステップのみで、宮古島狩俣の「トゥクルフム(所踏む)神事」や、ネイティヴ・アメリカンの踊りにソックリなのです。
そして、その民族衣装は銀の牛冠を戴いています。それも、牛の角の間に日章入りです。我らがツイン・ピークス、二上山の日の入りや、猿田毘古神を祀る、二見興玉神社の夫婦岩の間からの日の出を彷彿とさせるではありませんか? 苗族の聖獣は、勿論「牛」。民族の英雄神「蚩尤」も、四肢に武器を持ち鎧で武装した「牛」の姿で画かれる。奈良斑鳩の藤ノ木古墳で発掘された鞍金具に、この蚩尤が描かれていました。それにしても何故、王権の象徴たる鞍金具や冠には、「海」「磯」「州浜」があるんでしょうか? 古代の彫金職人は海人だったのでしょうか? 彫金が本職の海棠は、なんだか「縁」を感じてしまいます。
ところで、蚩尤は別名「兵主(ひょうず)」といいます。兵主(つわものぬし)神社は延喜式内社中、最多の数を誇り、全国に分布してます。私はまだ決定打に欠けると思うのですが、兵主は天之日矛であるっていうのが定説になっています。あの神功皇后の先祖、天之日矛は、角のある人といわれる都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)であることは、伝説の酷似から明らかですが、この「角」、牛冠を被っていたからだと考えられないでしょうか?
賀茂大神の阿遅?高日子根神(あじしきたかひこねのかみ)は、雷神で農耕神ですが、名前に農耕具である「?」の字が入る。その弟の事代主命の娘は媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)で、名前に「蹈鞴(足で踏む大きなふいご)」が入ります。水田を開墾するには、画期的な農耕具が必要だったはずで、農耕具を作る技術は稲作文化と一緒に伝来していたと思われますが、天之日矛といわれる蚩尤も鞴(ふいご)の風の神、つまり息長氏が奉斎する天目一箇神のような、金工鍛冶の神なのは大変興味深いです。
長江の河口から船を出せば、対馬海流に乗って、自然と日本に漂着するそうです。長江から黄帝に追われて中国南部に逃げた人達の他に、海流に乗って日本に来た人達がいたとは考えられないでしょうか?
<補 足・1>
「稲作伝来の三つの波」

長江周辺地図NHKスペシャル「日本人はるかな旅〜イネ、知られざる一万年の旅〜」によると、世界で初めて稲作が行われた地域は、四川盆地ではなく、長江中流域の湖南省玉蟾岩(ぎょくせんがん)遺跡付近で、今から一万二千年も前(B.C.10,000年)のことだといいます。このお米は、現在私達が食べている温帯ジャポニカ米ではなく、赤黒い色をした古代米(熱帯ジャポニカ米)でした。
上記で、雲南省が稲作の源郷と述べましたが、雲南省出土の炭化米で最古のものは4千年前(B.C.2,000年)のものであり、日本の朝寝鼻貝塚(岡山市)から出土した日本最古の炭化米は6千年前(B.C.4,000年)のもので、日本のお米の方が遥かに古いことが分かりました。しかも、通説の様に弥生時代(紀元前4世紀頃〜後3世紀頃)ではなく、稲作伝来は、縄文時代(紀元前1万年前後から前4世紀頃)だったのです。
B.C.10,000年頃に長江中流域で発生した稲作は、5,000年程かけて長江河口の浙江省・河姆渡(かぼと)遺跡付近にに達し、さらに1,000年程で、海人によって日本に伝来したことになりますが、長江を遡る方向の貴州省や雲南省には、ゆっくり時間をかけて伝わって行ったのではないでしょうか。実際、苗族の故郷は、稲作発祥の地である長江中流域という伝説があり、ルーツを同一として間違いないと思います。
7千年前(B.C.5,000年)の炭化米が発掘された浙江省の河姆渡遺跡は、古代は海岸であり、米と一緒に動物の骨で出来た銛(もり)や釣針等、漁撈の為の道具が発掘されたといいます。河姆渡遺跡の住民は、半農半漁の海人だったのです。浙江省沿岸の漁民達は、今でも竹で編んだ筏(いかだ)で漁をしており、台風などの時は、九州あたりまで流されてしまうことがよくあるそうです。
日本の縄文遺跡から発掘される炭化米は、古代米と呼ばれる熱帯ジャポニカ米で、これこそが、赤米神事の「赤米」です。その赤米神事の行われる対馬で人類の痕跡が見つかるのは、稲作伝来の6千年前(B.C.4,000年)以降で、その人骨には潜水漁をする海人特有の、外耳道骨腫という水圧などの刺激で外耳の軟骨が隆起した突起がみられることから、対馬に最初に住み着いた人たちは海人であったとこがわかります。潜水漁は、東シナ海一帯で数千年前から行われていた漁撈の技術で、最近の民俗学の研究では、その発祥はなんと河姆渡遺跡のある浙江省沿岸だといわれているのです。今でも、対馬の素潜りの漁師さん達は、漁撈の傍ら海辺の水田で米作りをし、半農半漁の生活を送っているそうです。
現在、赤米神事に使われる古代米(熱帯ジャポニカ米)も水田で栽培されていますが、日本列島で稲作の始まった6千年前(B.C.4,000年)は、焼畑による陸田栽培だったことが分かっています。現在、私達が食べている温帯ジャポニカ米というお米は、水田で管理栽培されて進化したお米で、6千年前頃(B.C.4,000年)、ちょうど陸田による稲作が日本に伝わった頃、長江下流域の南京付近に発祥したとされています。そして水田栽培の技術と温帯ジャポニカ米は、徐々に中国全土に広がって行き、3千年前(B.C.1,000年)には朝鮮半島の南端に達したと考えられています。なんとその水田栽培の技術と温帯ジャポニカ米を、3千年前(B.C.1,000年)、海を越えて朝鮮半島南端に住み着いていた縄文人たちが、再び海を越え持ち帰ったのだというのです。朝鮮半島の南端、韓国慶尚南道の三千村(サンチョンチョン)の沖合にある勒島遺跡群から、朝鮮の土器とは明らかに文化圏を異にする縄文土器や、縄文の道具類が見つかっており、釜山広域市影島(ヨンド)区にある東三(トンサム)洞貝塚からも、7千(B.C.5000)〜3千(B.C.1,000)年前(縄文並行期)頃の、縄文人が日本列島から持ってきた縄文土器や、交易品であった九州産の黒曜石などが数多く見つかっているそうです。つまり、水田による稲作は、今までの通説のように弥生時代に渡来人がもたらしたのではなく、縄文人が朝鮮半島から持ち帰ったものだったのです。尚、佐賀県唐津市にある菜畑遺跡で見つかった日本最古の水田は、2千600年前(B.C.600年)のものだということで、縄文時代の後期に当ります。
さらに水田の技術と温帯ジャポニカ米は、300年(B.C.300年・弥生時代初頭)という短い間に、本州最北の地、津軽平野にまで広まりました。青森県田舎館村にある高樋(たかひ)遺跡で発掘された水田跡は2千年以上前のもので、北緯41°というのは当時の世界最北の栽培地であり、中国や朝鮮半島では北緯39°を越える所は無かったといいますから、いかに縄文人の栽培技術が進んでいたかが分かります。現在の稲作最北端地、北海道天塩郡遠別町(北緯44度43分)へ稲作が達したのが1901年、ほんの100年程前のことといいますから、これまた驚異的な技術発展と言わざるを得ません。また、なんと当時の縄文人は、温帯ジャポニカ米と熱帯ジャポニカ米を混植し、雑種を作ることによって、成長が一ヶ月も早い早稲の品種を生み出すという、画期的な技術を身に付けていました。2千年以上前から、縄文人は生物多様性(種だけでなく遺伝子・生態系の多様性も包括する概念)の原理を知っていたのです。
古代米(熱帯ジャポニカ米)の炭化米が発掘された地域は、九州北部(阿曇氏宗像氏・宇佐氏)、宮崎(久米氏)、愛媛(越智氏)、出雲(賀茂氏)、岡山(吉備氏)、若狭(息長氏阿部氏吉備氏)、滋賀(和珥氏息長氏)、静岡(賀茂氏)、千葉(斎部氏)、富山(息長氏)、津軽(阿部氏)と、当に海人の本拠地であり、稲作が驚異的な速さで日本列島を北上したのも、海人の船を使った迅速な輸送技術があればこそと思えば、容易に納得できるのではないでしょうか? つまり縄文人たちこそ、半農半漁の「海人族」だったのだと思えてくるのです。
津軽平野に水田稲作が根付いたちょうどその頃(B.C.300年・弥生時代初頭)、中国北部は春秋戦国時代(B.C.770〜B.C.221年)の真っ只中で、小さな国が次々と滅ぼされ7つの強国に統合されました。そして、多くの人々が故郷を捨て、楽土を求めて日本に渡って来たのです。現在の日本人のヒト白血球抗原(HLA)のタイプで一番多いものはB52−DR2型と呼ばれるもので、中国北部、朝鮮半島の人々と同じタイプだそうです。つまり、このタイプの人こそが弥生時代初頭の渡来人(弥生人)の子孫であるわけで、現在、北九州、中国地方、近畿地方に多く分布しているそうです。
春秋戦国の乱世を生き抜いた弥生人は戦闘を好み、平和な日本列島に戦いを持ち込みました。進んだ水田稲作による安定した生活の中で、急速に人口を増やした弥生人たちは、縄文人の集落を滅ぼして、瞬く間に濃尾平野にまで達したのです。しかし、濃尾平野以東は、山脈と深い森林に覆われ、水田を開墾するのに困難な為か、ここで弥生人の拡大は止まります。そして、西に弥生人、東に縄文人という均衡状態が200年ほど続きました。私はここにも、海人が何故「山に登ったか」の理由の一つを垣間見たような気がしました。
今から2千年程前から両者の関係に新しい変化が生じました。弥生人の集落から、縄文式土器が発見されるようになった、つまり、縄文人と弥生人が共存するようになったのです。安倍氏の本拠地の一つである津軽の縄文土器は、福岡・宮崎の高千穂近辺・愛媛の今治近辺・高知から、中臣(卜部)氏斎部氏の関東平野の縄文土器は宮崎の高千穂近辺から、阿曇氏の長野の縄文土器は、近畿・岡山・出雲から出土しています。
NHKでは、縄文人達が弥生人の進んだ水田稲作技術を学ぶ為に、西の早くから水田稲作を始めた先進的な集落に視察(留学)に訪れたと説明していますが、その留学地を見て下さい、殆んどが神話の故郷じゃぁ、あぁりませんかッ! 縄文人(海人)達の故郷でもあるわけです。福岡は阿曇氏宗像氏、宮崎は久米氏、愛知は越智氏、岡山は吉備氏、出雲は賀茂氏の本拠地です。好戦的な弥生人に歩み寄ったのは、やはり平和を愛する縄文人だったと思います。日本列島では、どちらかを徹底的に滅ぼすという凄惨な戦いは起こりませんでした。それは、平和を好む縄文人の気質が根底にあったからではないでしょうか。
あぁこれで、天孫降臨や国譲りの神話が読み解けたような気がしてしまいましたッ! 天孫族は弥生人な訳で、何派にも分かれて渡来して来た弥生人達は、縄文人と或いは戦い、或いは混血を繰り返して、日本列島に浸透して行ったのです。北東アジアから海を渡って来た弥生人も、東南アジア系の海人である縄文人たちとは、海人であることには変わりが無かったワケで、自然、融合するのも早かったと思います。
奈良県天理市の纏向遺跡は、大きな地域を束ねる最初の古代国家の跡だと言われますが、ここからは、瀬戸内・山陰・東海・北陸・河内等、東は関東から西は九州までの広い範囲から持ち込まれた土器が見つかっています。纏向といえば、「天(海人)語歌」に登場する「纏向の日代の宮」、つまり12代景行天皇の宮殿があった地です。景行天皇は隼人を平定した天皇ですし、倭建命の父親ですネ。やはり闕史八代をすっとばし、初代神武天皇と10代崇神天皇は同一人物で、三代目の景行天皇のあたりで統一を果たしたのかもしれません。15代応神天皇は、数グループ目かの弥生人ではないでしょうか? 天之日矛の移転地と秦氏の本拠地が完全に一致するという研究者がおりますが、そうするとその天之日矛を先祖に持つ応神天皇は秦氏ということになり、息長氏は今来の伎才の秦氏と同族ということになります。実に面白いです。
神話は決して完全なフィクションではないです。いつか点と線を繋いで、ちゃんとした歴史が判明する日が来ることを、切に願って止みません。

<補 足・2>
「もう一つの海人族〜南から来た黒潮の民」

スンダランド やはりNHKの「日本人はるかな旅〜巨大噴火に消えた黒潮の民」によると、日本列島にやって来た新人(現代型ホモ・サピエンス)には、北東アジアからマンモスを追って、当時地続きだった間宮海峡や宗谷海峡を渡る陸路でやって来たグループの他に、2万年前の最終氷河期、インドネシア付近にあったスンダランドという大陸から、黒潮に乗ってやって来た海洋民族のグループがいたということです。
アジアやオセアニアで暮らす人々の歯には、大きく分けて、北東アジア系(北方系・弥生系)と、東南アジア系(南方系・縄文系)の二つのタイプがあります。現代日本人では、北東アジア系が七割、東南アジア系が三割いるそうですが、興味深いことに、縄文遺跡から発掘される人骨の歯を調べると、全てが東南アジア系だということです。前歯の裏側を舌で触れてみて、窪みが強ければ北東アジア系、平坦なら東南アジア系だそうですよ。貴方はどちらでしょうか? 因みに海棠めは北東アジア系らしい・・・。残念?だ。
1970年、沖縄本島の南端に位置する具志頭村で発見された「港川人」は、1万8千年から1万6千年前の旧石器時代の化石人骨で、インドネシアのジャワ島で見つかった「ワジャク人」と極めて類似している点が多いということです。つまり、東南アジアの太平洋岸から、日本にやって来た人々がいた証拠です。また、ボルネオ島のマレーシア領にあるニアー洞窟遺跡で発見された旧石器時代の剥片石器は、鹿児島県奄美大島の土浜遺跡でも見つかっています。
当時のスンダランドは氷河期といっても決して氷に覆われていた訳ではなく、現在の東南アジアより5〜7℃ほど気温が低く乾燥して草原が広がっており、象や鹿や水牛や猪などの獲物となる動物が多い、食料に恵まれた楽園でありました。しかし、その恵まれた環境を求めてアジア各地から詰め掛ける人々による人口の増加と、急激な地球温暖化による大地の水没で、人々は大海に漕ぎ出す決断を迫られます。
インドネシアのスラウェシ島は現在も東南アジアの海上交通の要衝で、その種類の多さから「船の博物館」といわれる場所ですが、同時にここは竹の一大産地であり、嵯峨野を彷彿とさせる竹林が広がっています。現在も、奥地で切り出された竹は筏に組まれ、川で使って海沿いの集積地運ばれています。スンダランドでは、氷河期においても竹が繁殖していたと考えられており、簡単な石器で加工できる竹で筏(いかだ)を作って、人々は海へ乗り出したと考えられているのです。竹の筏、おぉこれこそ海人の无間勝間ではあぁりませんか。なんと、スラウェシ島の子供たちは、高床式住居の前で、「かごめかごめ」で遊んでいるのですッ!! これはもう、ビンゴッ!と叫ばざるを得ないでしょうッ! 海人の源郷がここにあったのです。
1997年、桜島を望む鹿児島県国分市で、鬼界カルデラの火山灰の地層の下からみつかった上野原遺跡は、日本最古の定住集落で、しかも9千5百年前(B.C.7500年)の縄文時代のものでした。それより以前、1万2千年前(B.C.10,000年)の鹿児島県加世田市の栫ノ原(かこいのはら)遺跡や、鹿児島市の掃除山遺跡からは、越夏用・越冬用と思われる、季節ごとの定住集落の跡が見つかり、縄文人が定住生活をおくり始めるのは更に古い時代だったと思われます。定説のように、定住生活を始めたのは弥生人ではなかったのです。そして、これら鹿児島や宮崎など南の縄文遺跡は、今まで縄文文化の中心地とされてきた東日本の縄文遺跡よりも早い時代のものであり、発掘される遺物も東日本のものとは少し違った特徴をそなえていました。
まず一つ目は、栫ノ原遺跡で見つかった、世界最古の舟作りの道具といわれる、「丸ノミ形石斧」です。これは南九州を中心とする地域に見つかる丸木舟を作る為の道具で、南九州に古くから海人の縄文人がいた証拠となっています。この斧には、舟の微妙なバランスを保つ為に、非常に精密な細工ができるように工夫されています。1963年、沖縄本島の北端、国頭村のカヤウチバンタ貝塚から、同様の丸ノミ形石斧が発見され、その後次々と、徳之島や奄美大島、さらに南九州沖の黒島など各地から発見されたことから、この辺りの九州と琉球列島を結ぶ一帯に、丸ノミ石斧文化圏と呼べる海上の交流があったことが分かって来ました。フィリピンのルソン島に住むドゥマガット族は、タガログ語で「海から来た民」という意味ですが、彼らは現在も丸木舟を作っており、丸ノミ形石斧と同じ機能をもつ斧を使っています。因みに「フィリピン民族誌」によれば、ルソン島では戦前までほとんど赤米つまり熱帯ジャポニカ米を栽培していたそうですから、縄文文化との繋がりがあることは確かです。今のところ、丸ノミ形石斧は南九州で発掘されたものが世界最古のものですが、その後の時代のものでは、この石斧に似た円筒石斧が、フィリピンやグァムなどの黒潮圏の島々でも出土しています。このことから、加工技術の原型や発想が、東南アジアあるいは南中国などの南方に由来するとする研究者もいるということです。
もう一つは、上野原遺跡で一〇四基も発見された「石蒸し焼き炉」と思われる集石遺構で、ポリネシアなど南太平洋の島々で見られる調理施設とそっくりであり、南九州の縄文文化が南太平洋の文化と繋がっている可能性を示唆するものです。
もう一つは、「燻製加工施設」とみられる煙突付き土坑で、栫ノ原遺跡で見つかったものは1万2千年も前のもので、燻製の技術は、寒い地方で家の中で火を焚き、天井に獲物をぶら下げていたのが始まりと言われて来ましたが、温暖さゆえ、また長い航海の故の食物の保存方法として、南で発明された可能性が出て来ました。実際、スラウェシ島の漂海民・バジャウの人々は、今でも魚やタロ芋などを航海用の保存食として燻製にしているそうです。
最後の一つは、ハイガイやサルボウガイなどの貝殻で文様を付けた「貝文土器」で、上野原遺跡をはじめ南九州の遺跡から出土するこの土器は、縄の文様の縄文土器とは違う、貝殻文様の独特のものでした。この貝殻文様は1万2千年前から存在しており、南九州では3千年以上続いた伝統文様であることが分かっています。何故に彼らは海の香りのする貝殻文様を愛したのでしょうか? それは、彼らの先祖が海から来たからに他ならないのです。
こうして花開いた南九州の特種な縄文文化は、6千3百年前(B.C.4300年)の、ピナツボ火山の十〜十五倍、雲仙普賢岳の百倍以上という鬼界カルデラの大噴火と共に九州から姿を消します。南九州の縄文人たちは全滅してしまったのでしょうか? 答えはNoです。あの丸ノミ形石斧と系統を同じくする磨製石斧が、黒潮の流れに沿うように、高知(木屋ヶ内遺跡)、和歌山(不動寺谷遺跡)、八丈島(供養橋遺跡)などで出土しているからです。また、丸ノミ形から進化したと思われる同系統の磨製石斧が、2000年、東京の多摩ニュータウンにある4千5百年前(B.C.2500年)の縄文遺跡から250本近くも発見されました。燻製加工施設・連穴土坑も、三重(鴻野木遺跡)、愛知(浜井場遺跡)、静岡(匂坂中遺跡)、関東の各遺跡などから発見されています。つまり、南九州の縄文人達は、火山噴火の前後に海人の精神と文化を携え、更に黒潮に乗って東へ東へと拡散して行ったのです。彼らは列島各地の人々と混じり合い、舞台を東に移して見事なまでに成熟発展した新たな縄文文化誕生の火つけ役となったと考えられています。

<補 足・まとめ>
上記二つの補足を踏まえると、東南アジア系の縄文海人たちは、スンダランドから黒潮に乗って直接または台湾や琉球諸島を経由して渡来した南回りのグループと、台湾と地続きだった中国本土に上陸し、長江の河口付近まで北上して、長江の中流域から下って来た稲作鵜飼の文化を持った人々と合流&混血して渡来した北回りのグループの、二つの波があるように思います。
河姆渡遺跡のある中国浙江省の漁民達が今でも竹の筏で漁をしていることや、蜑(あま・海人)の語源となった蛋族の居住地が、中国南方の海岸線にあったことなどからも、河姆渡の海人たちのルーツが東南アジアにあることが分かります。実際には何派にも分かれて、もっと複雑な渡来の仕方をしているんでしょうが、東南アジアという源郷は同じだと思うのです。
台湾の南端、かつて紅頭嶼と呼ばれた蘭嶼島(らんしょとう)には、鹿野忠雄博士の研究などにより、日本人の生活に繋がるものが極めて多いと呼ばれるヤミ族が暮らしていますが、彼らはルソンから移住して来た人々だといわれています。当にスンダランドからやって来た人々なのですが、彼らは稲作を行ないません。しかし、男はフンドシ、女は腰巻姿で、高床式の穀物倉庫もあり、何より、タタラと呼ばれる伝統的な小舟には、海幸彦を祖先とする隼人と同じ「渦巻き文様」が施されているのです。つまり、稲作を持たない南回りのグループと、中国南部経由で稲作鵜飼の技術を身に付けた北回りのグループは、日本の九州で出会ったのです。
「日本の海洋民(宮本常一・川添 登 編)」によれば、日本の海人には、ヤミ族と同じように、海に潜って、ヤス(漁具の一種。長い柄の先端に数本に分れてとがった鉄製の物を取り付け、水中の魚介を刺して捕える具)で魚を突き、網で魚を獲る南方系の海人と、やはり潜るけれども、魚でなく、鮑や栄螺を取る北方系の海人の二種類があるそうです。日本では、南方系の漁法が琉球列島・薩南諸島・九州西海岸にみられ、瀬戸内海では両方の漁法が混じりあっているとか。
なんだか、この二つの縄文文化が出会ったのが、天孫降臨かも?と思えて来ました。稲作を伝えたのは縄文人の一派なのですから、天孫が「稲穂」の名前を頂いていても不思議はないわけです。また、朝鮮半島から水田稲作を持ち帰った縄文人の首長こそが素戔嗚尊ではないでしょうか? 神武天皇が東征を思い立つのは、霧島などの火山の噴火が背景にあったのではないかと、梅原猛氏は指摘していますが、これがもしかして、あの鬼界カルデラの噴火だとしたら? 後に渡来して、縄文系の海人たちを次々に従属させて行った神功皇后応神天皇親子が弥生人とすれば、すっかり辻褄が合うんですよねぇ。どうでしょうか?
また、何故、黥利目阿曇目のように、南九州の久米氏(隼人)と北九州の阿曇氏宗像氏が同族ともいえる同じ特徴を持っているのか、これでやっと理解出来たような気がしました。有名な「魏志〜倭人伝〜」の記述に、「倭の水人、好んで沈没して魚蛤を捕え、文身(入墨)し亦以って大魚・水禽を厭う。」とありますが、この風俗が、「夏(殷の前にあった中国最古の王朝。紀元前21〜16世紀頃)の少康の子が会稽(かいけい)に封ぜられ、断髪文身して蛟竜(水中の竜)の害を避けたが、それと似ている。」と、解説してあるのです。会稽は当に河姆渡遺跡のある浙江省にあることは、言うまでもありません。
また、同じ「倭人伝」の中に、「中国に来る倭の使者は、皆大夫と称した。」とありますが、「魏略〜翰苑による逸文〜」にも、「倭の風俗は入れ墨をして、自ら太伯の後裔を称した。」とあります。「太伯」というのは周の文王の伯父で、春秋時代の列国、呉の建国者のことであり、長江河口地方、つまり浙江省付近を領土としていました。呉が越に滅ぼされたのは紀元前473年で、日本列島に弥生人が渡来する時期とちょうど重なりますが、もっと以前から渡来していたことは、充分に考えられます。とにかく「倭人」は、江南の地を一つの源郷とみなしていたことが分かるのです。
「倭人伝」の「大夫」というのは、この場合は周(殷の後の中国古代王朝。前1100頃〜前256年)の職名で、士の上、卿(けい)の下に位するもののことでしょうが、どうも「太伯」と混同しているように思えるのです。どちらが正しいかは、分かりません。でも、北九州の「博多」が「伯太」とも書くことを知った時、倭人は呉の国の人ではないかと思ってしまったのです。東南アジアから北回りで陸伝いにやってきた縄文人達の、大陸での最後の足掛り、出航の地は、江南で間違いないと思います。余談ですが、越智氏の大山祇神社のある大三島のとなりには、伯方(はかた)島がありますね。
それに、この「大夫」というのが、芸能の大夫(太夫)を思わせてしょうがないのです。何故、芸能集団の長や最上位の遊女が、「大夫」という位の高い名で呼ばれるのでしょう。それは、漂泊の芸能集団「傀儡子」が関係しているからだと思います。彼らは芸能集団であり、巫女的な遊女であったからです。阿曇磯良白太夫と呼ばれていましたネ。そうそう、和珥氏には謎の人、小野猿丸大夫もおりました。(笑)


息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと・神功皇后)

息長宿禰王の娘。14仲哀天皇の皇后で、品夜和気命(ほむやわけのみこと)15応神天皇(品陀和気命・ほむだわけのみこと)を産んだ。

息長の名前は、父方と母方、両方から受け継いだのだといえる。しかし、仲哀天皇の皇后だというのだが、吉備氏系の忍熊王の母で彦人大兄の娘の大中津比売命の方が、出自から言っても皇后に相応しいように思うのだが・・・。

三韓遠征の間、「石を裳裾に挟んでお産を遅らせた」などという苦しい言い訳をしているが、どう見ても妊娠期間が長過ぎるし、応神は仲哀の実子ではないのではないか? 本来なら仲哀天皇との長男である品夜和気命を皇太子に立てるべきを、そうしていないのも怪しい。神功&応神母子は三韓に遠征したのではなく、朝鮮半島からやって来たのかもしれない。鹿児島神宮に残る伝説からも、彼女が渡来系であることが窺える。

神功&応神親子は、海人系のエピソードには殆んどと言って良いほど登場するが、特筆すべきは、応神天皇が八幡神であることを説明した、所謂「本地物」と呼ばれる室町時代の書物に、阿曇磯良と供に沢山登場することである。要約すると、「神功の三韓出兵の時、住吉神(津守氏系)が、「志賀島というところに、あとへのいそらという者が住んでいるので、これを竜宮への使いに立て、潮盈珠と潮乾珠を借りなさい。さすれば速やかに遠征は成功するでしょう」と託宣。神功皇后らは、海中に舞台を構え、磯良が好む細男舞を奏すと、磯良は長いこと海中にいた為に顔に牡蠣や鮑が付いて見苦しいので、白い布で顔を覆って現れる。かくして磯良は神功皇后に服従した。」というお話だが、この説話は、磯良神を奉祀する阿曇氏が、神功&応神親子に従属したことを象徴的に物語っている。「宗像大菩薩御縁起」にも、神功の三韓出征の時、亀に乗った男が現われて加勢したとあり、この志賀島の海人が、磯良に象徴される阿曇氏の首長だったものと思われる。

この神功&応神親子に従属したものとして、もう一つ「隼人」が挙げられるが、隼人(久米氏)の祖は「海幸山幸」の海幸彦(火照命)であり、阿曇氏久米氏で詳しく述べたが、阿曇氏と久米氏は同族と言ってもよい間柄である。そう考えると、初代神武天皇15応神天皇の姿が、ダブって見えてくる。

他にも、「日本書紀」の神功皇后朝鮮出兵の段に、「阿倍氏の吾瓮海人烏摩呂(あへのあまおまろ)を使って、西の海へ出て国があるかどうか探らせたが何も発見出来なかった。しかし、磯鹿(志賀島)の海人(阿曇氏)を遣わしてみると、西北方向に国を発見して戻って来た。」という話が載っている。

また、神功皇后の腹心には、住吉神社や海神社の神主家である津守氏の祖、田裳見宿禰(たもみのすくね)や、中臣(藤原)氏の祖、「白鳥天女」の主人公、烏賊津使主(いかつおみ)もいる。

「神功皇后紀」に、忍熊王を攻めようとして小竹の宮(小竹八幡神社・しのはちまん・和歌山県御坊市薗六四二番地、祭神:誉田別命、息長足姫命、小竹大神)へ来た時、真っ暗となった。その理由は、小竹の祝(はふり・神に仕えるのを職とする者。普通には禰宜の次位で祭祀などに従った人。)と天野の祝(丹生都比売神社の神官)の仲が親密なので、小竹の祝が病死したところ、天野の祝が自殺し、合葬したからだという。そこで、別々に埋め直したところ、日夜の別に戻った、という伝承がある。

書紀ではこれを「阿豆那比(あずなひ)の罪」と言っているが、日蝕のことだろうと思われる。「何日も常夜(とこやみ)行く」となっているのは、皆既日蝕の時間が何日にも感じられたということだろうか? 「阿豆那比」の意味は不明であるが、男性同士の合葬なので、陰陽でなく、陽と陽で打ち消しあってしまったという考え方もあるようだ。しかし、私にはどうも、八幡神と丹生都比売神のカップリングの方が気に掛かるのである。

応神天皇(八幡神)の孫の意富々杼王を祖とする息長丹生真人氏は、丹生都比売神を祀る丹生神社を奉斎している。また、和歌山県日高郡川辺町江川の丹生神社は、「紀伊続風土記」に「正八幡宮、江川村中にあり伝えいふ」という江川の八幡神社と、和佐の丹生神社を、明治41年に合祀したものであるが、正八幡といえば鹿児島神宮であり、八幡神と丹生都比売神がセットのような気がするのだ。

垂仁天皇は布多遅能伊理毘売命の叔母にあたる苅羽田刀弁(かりはたとべ)とも結婚しているが、布多遅比売の祖先という水穂之真若王の父である日子坐王も、苅幡戸弁(かりはたとべ・山代之荏名津比売)を妃としているからである。日子坐王の妃、苅幡戸弁の別名は山代之荏名津比売であり、垂仁天皇の妃となった苅羽田刀弁&弟苅羽田刀弁の姉妹の父、山代大国之淵という名前と「山代」の地名で合致するし、同じ日子坐王の子であり、いくつかの文献で水穂之真若王と混同が見られる山代之大筒木真若王が、神功皇后の曾祖父であることを見ても、二つの系譜が重なりあっていることは間違いないであろう。

件の垂仁天皇は、崇神天皇と阿部氏系の大彦命の娘である御間城姫命の子である。阿倍氏と和邇氏の関係を考えると、記紀のこの辺りの伝承は海人王国の系譜を物語っているのではないか?

白鳥天女伝説
「近江国風土記逸文」に、烏賊津使主(いかつおみ・伊香刀美・雷大臣命・伊賀津臣命)の、余呉湖(琵琶湖の東北端)を舞台とした、白鳥天女の伝説が載っています。いわゆる「天の羽衣伝説」ですが、この烏賊津使主さん、神功皇后の審神者(さにわ・神託の意味を解く人)なのです。卜部氏や中臣氏のご先祖ですが、「烏賊」なんて変な名前ですよね? 弟に鯛身命(たいみのみこと)なんて名前の方もいて、どうも海人系の匂いがしますし、お母さんは津守氏の度美媛命です。
この近江国伊香小江(いかごのおえ)の羽衣伝説の他にも、駿河国三保松原(有度浜)などの全国各地に類似の伝説が多く伝わっていますが、「丹後国風土記逸文〜奈具の社〜」に、天女の人数まで全く同様の話が載っています。こちらは丹後国丹波の郡の比治の里の比治山の頂上にあるという真名井という井戸(当時既に沼になっていたそうです)が舞台で、天女は豊宇賀能売命(とようかのめ)で、奈具の社(京都府竹野郡弥栄町舟木。旧社地は不明)に祀られたと伝えられます。
比治は、「播磨国風土記〜穴禾(しさは)の郡〜」に、「孝徳天皇(第36代天皇。在位645〜654年)の御世に、揖保の郡を分割して穴禾の郡を作った時、山部比治(やまべのひじ・久米氏系)が任命されて里長となったので、この人の名前により、比治の里という。」という記事があります。播磨は丹波に隣接しており、比治の里というのは、かなり広範囲な土地だったのではないでしょうか。
真名井というのは、天照大神と素戔嗚尊が誓約(うけい)を行って、五男・三女(宗像三女神)を産んだ、天真名井から来ている名だと思われます。この真名井に比定さてる真名井神社は、海部氏が奉斎する籠神社の奥宮にあたり、御祭神は豊宇気毘売(とようけひめ)神です。
この天女は、羽衣を取られて地上に留まり、和奈佐(わなさ)翁・媼というゴウツク夫婦に、「酒造り」してコキ使われたあげく捨てられてしまいますが、ただコキ使ったのではなく、この和奈佐というのは、豊宇気毘売神を奉祀した神人だろうといわれています。
出雲国風土記に、阿波枳閉和奈佐比古(あわきへわなさひこ)命って人がいますが、この「あわきへ」は阿波から来たという意味だそうで、阿波の奈佐の浦の人だといわれています。阿波はもちろん海人色の濃いぃ土地ですし、粟(阿波)国の別名は、なんと「大宣都比売(おおげつひめ)」という、御饌津神(みけつかみ・食物神)なのです。豊宇気毘売神は、別名が豊宇賀能売命(とようかのめのみこと)といい、倉稲魂命と同神とされているのです。倉稲魂命といえば、お稲荷さんですね。羽衣天女が穀霊神ということは、天女も「鳥」だといえるのではないでしょうか?
不思議なことに、日本だけでなく、白鳥などの動物が若い女性の形であらわれ、人間の男性がその衣を奪って強制的に妻とするが、女性は衣を取り返し、動物に復帰して飛び去るという同様の「白鳥処女説話」が世界的に分布しています。ルーツはやはり、鳥が穀霊だとする信仰の発祥地、メソポタミアと考えていいと思います。

(この)神社( or こもり)(京都府宮津市字大垣)  ※丹後国一の宮

祭神 彦火明命(籠守大明神)、豊受大神、天照大神、海神、天水分神

祖神 彦火明命

社家 海部氏

社伝によれば、倭比売による天照大神の伊勢御鎮座の途次、丹後国与謝郡の現地に四年間とどまられ、その折に丹後国の豊受大神が幽契によって御饌物を共進された跡であるという。また、主祭神(火明命)籠に乗って雪中を現われたので、社号としたとする伝承もある。この神社の新嘗祭には、今でも全国から古代種の赤米が奉納される。当に、対馬・種子島・吉備の赤米神事だ。「コメ」は「クメ」「クマ」であり、「コ」「コモ」「カゴ」なのかもしれない。

籠神社は、現在摂社になっている奥の宮の真名井神社が前身という。元来、丹波国比治の真名井原に豊受大神が鎮座していたのだが、そこへ天照大神が巡行して来られ、丹波を去って伊勢に鎮座された後、21雄略天皇の二二年、天照大神は天皇の夢に神託をされ、伊勢外宮(豊受大神宮)に豊受大神を御饌津神として遷祀させたという。両大神が伊勢へ遷座した後、大化改新を経て籠宮(このみや)と改称し、養老3(719)年に現在の地に本殿を移し、宮司家始祖の彦火明命を主祭神に祀ったのが、現在の籠神社の起源という。天照&豊受両大神を相殿神とし、後に海神、天水分神を併祀した。社宝、海部氏系図は国宝に指定されれている。

「籠」の名の由来については、籠神社宮司の海部光彦氏によれは、「御祭神が別名を彦火火出見尊(山幸彦)とも申し、塩土老翁神の作った籠船に乗って、海神の宮へ遊幸した故事に因んだというのが俗伝である。しかし「コ」の音の原義は五十音のカキクケコに通転し、「コ」の神は「ケ」の神に究極的に一致し、ケの神の最高に位置するのが豊受大神に他ならない。」という。つまり、「籠」は祖神彦火明命の乗って来たとされる「籠船」からではなく、御饌津神(みけつがみ)である豊受大神の「コ」であるというのである。いずれにせよ、「籠」も海人とは非常に関係が深く(海人と竹籠」参照)、豊受大神も漁撈具としての「籠」を象徴としていた可能性はある。

私見だが、「こもり」と読んだ場合、「海人籠もり(海人の祭。お籠り。)」、「隠国(こもりく)の泊瀬」の「こもり」であり、子守(こもり)神社にも関係があるように思う。

子守神社に関して特筆するならば、「籠守神」とも字を当てるからだ。祭神は幼児の成育を守護する神で、籠神社も配祀している水分神を祭神とする例も多いのだ。それは吉野水分神社(奈良県吉野郡吉野町吉野山)の祭神・天水分神の「みくまり」が「みこもり」と転化し、早くから「子守明神」と称されていたせいである。吉野は丹生の産地でもあり、「丹波」と関係があるように思うのである。この吉野水分神社系の神社には、子守神社(岐阜県可児郡可児町)、籠守勝手神社(愛知県葉栗郡木曽川町黒田)、子守勝手神社(京都府長岡京市栗生)などがある。

また、子守神社には、水分神系の他に熊野本宮大社(和歌山県東牟婁郡本宮町)の末社・子守宮系のものがある。熊野といえば熊野高倉下であり、熊野の若王子がこの神だとすると大変面白いことになる。この社の系統には、藤白神社(和歌山県海南市藤白町)の末社・楠神社(通称子守社)がある。

そう考えていくと、薦(こも)神社(大分県中津市大幡区大貞、祭神:八幡三神、宗像三女神)や、子眉嶺(こまゆがみね)神社(福島県相馬郡新地村駒ヶ嶺、祭神:豊受毘売神)も関連があるのではないか? 特に子眉嶺神社は籠神社と同じ豊受毘売神(豊受大神)を祭神としており、その可能性は高い。この神社は駒形神社(岩手県水沢市中上野町)と関係が深く、駒形神社も祭神の変動はあったものの、豊受大神と同じ御饌津神である宇迦御魂大神や大宜津比売神を祭神としている。胡宮(このみや)神社(滋賀県犬上郡多賀町敏満寺、祭神:伊弉諾尊、伊弉冉尊)や、高麗(こま)神社(埼玉県入間郡日高町、祭神:高麗王若光、猿田毘古神、武内宿禰)もそうかもしれない。

また、豊受大神が遷座した伊勢外宮禰宜家は度会(わたらい)氏であるが、その支族「磯部氏」は伊勢別宮の伊雑宮(志摩郡磯部町)付近を本貫の地としている。磯部は「石部」とも書くので、伊勢は「磯」であり、物部氏の石上も「磯上」「磯神」の可能性があるのではないか。

例祭は4月24日で、「葵祭」と称し、山城国の上下賀茂神社祭礼と呼称も起源も同一であるという。ここにも賀茂氏との関係が伺えるが、神輿に供奉する者が冠に挿すのは、葵ではなく藤の花である。真名井神社のある真名井原の丘は、古来「天香語山」とか「藤岡山」と呼ばれていたそうで、水気根元の大神である豊受大神を象徴するのが、「天の真名井の水」と「藤の花」であるという。前出の海部光彦氏によれば、葵祭の前身こそ、豊受大神を祭る籠神社の「藤祭」だというのである。こんなところから、賀茂別雷神と彦火明命が同神とする説が出て来たものと思われるが、豊受大神に婿入りして来て伊勢に連れて行ったのが彦火明命(天照大神)で、生まれたのが賀茂別雷神とすれば、彦火明命は賀茂別雷神ではなく、賀茂の玉依毘売命の婿殿、日吉&松尾の大山咋神と同神ではないのか。とすれば、賀茂氏に婿入りして来た秦氏(後に息長氏と結合<危険過ぎ?)天之日矛の一族という図式も成り立つのではないだろうか。(^^;)

祭礼では「太刀振」という神事が奉納されるが、これは丹後型の太刀振の中心をなすもので、起源説には、貞観年間(清和・陽成天皇朝の年号・859.4.15877.4.16)に籠明神が鉾立山大乗寺に天降り、籠神社に向かって鉾を振り悪霊を祓ったという故事からという説と、天橋立の文殊堂の池から龍神が現われて悪疫神を祓ったので豊作を得た故事から、文殊堂で行われる豊年祭が起源であるとの二説ある。この、鉾を振るというのが、日招神事を彷彿とさせるし、天之日矛と関係するように思われてならないのだ。それに、天照大神巡行は天之日矛の巡行に似ていると以前かから思っていた。倭比売命は祖先の足取りを辿ったのかもしれない。

日吉神社の社家は賀茂氏の支族・祝部(はふりべ)氏であり、松尾の社家は秦氏である。松尾には壱岐から阿閉臣言代が遷座させた月読宮もある。「日吉」すなわち日の神であり、御饌津神としての月神を勧請したのではないか。日吉の神使いは伊勢と同じく「猿」で、猿田毘古神との関係も深い。そういえば、猿田毘古神のお嫁さんの天宇受売命も、豊受大神のような御饌津神的な神であったし、字も似ている。

特筆すべきは、この真名井神社が「天の羽衣伝説」の伝承地であることだ。同じ羽衣伝説を持つ、余呉湖の烏賊津使主は、籠神社社家・海部氏と同族の津守氏の姫、土美媛命の息子である。烏賊津使主は中臣氏つまり藤原氏の遠祖にあたるので、籠神社の例祭の「葵祭」に藤の花を挿すのは烏賊津使主となにか関係があるように思われてならない。松尾大社に壱岐から勧請された月読宮の社家は伊吉(いき)氏で、卜部氏・中臣氏の支族なのである。つまり烏賊津使主の子孫なのだ。烏賊津使主は「雷大臣命」とも書く。賀茂別雷(かもわけいかづち)神=雷大臣命なのか??? これは賀茂氏と秦氏の婚姻ではなく、津守氏と中臣氏の婚姻なのであろうか? そして、「天女」とのではなく「海女」との婚姻であり、「天女」=「海女」だったのではないか? 真名井というのは、素戔嗚尊と天照大神が誓約を行って宗像三女神らを産んだ天真名井からの命名であろうから、真名井神社は彦天火明命と豊受大神の神婚の場所であったことは間違いない。ここに、縄文人系の海人族と弥生系の渡来人の婚姻を見るのは私だけであろうか?

「藤」はマメ科フジ属の蔓性落葉木本の総称で、「蔓草」である。賀茂氏や尾張氏の本拠地、葛城の「葛」も蔓草であった。「藤」という字は本来漢字にはなく、「葛」という字を当てていた。その証拠に、大阪の藤井寺の「葛井寺」は、今でも「葛」の字を使っている。藤原氏は、淡海公不比等を始めとして、海人に関係の深い氏族である。藤原姓の謎は、こんなところにもあるのかもしれない。「天稚彦草紙」や「天人女房」などで、「ジャックの豆の木」のように蔓科の植物を伝い登って天に達する民話がある。蔓を持つ植物は、竹と共に天まで伸びると考えられ、天と地を繋ぐものとされていた。藤は豊受大神の象徴であるというが、豊受大神と天を繋ぐのは、「羽衣」ではなく「蔓」だったのかもしれない。

真名井神社は、古くは吉佐宮(よさのみや)といった。「吉佐」とは天吉葛(あめのよさづら)つまり瓢箪(ひょうたん)のことであり、祭神の孫にあたる天村雲命(あめのむらくものみこと)が、天上の御神水を魚井(まない)の石井(いわい)に移し、瓢箪に盛って天照・豊受の両大神に御神饌として奉ったのがその語源といわれている。「光」「天」の枕詞である「ひさかたの」は、「瓢(ひさご)形の」の転訛であるという説があり、瓢箪や瓜も天と地を繋ぐ霊力があるとされる蔓草の代表格である。神功皇后も三韓遠征に先だって、天照大神と津守氏の奉じる住吉三神を船上に召喚し、真木の灰を瓢箪に入れて航海安全を祈る一種の呪術を行っている。

真名井は「魚井」とも書く。つまり、「食べ物の井戸」なのだ。それほど海産物に富んだ土地であり、御饌津神が降臨するに相応しい場所といえる。

また、真名井神社の神紋は篭目紋(六芒星)であったという。篭目紋がユダヤ系の紋(ダビデの星)と同じである為、昔から物議を醸し出しているが、海人族と竹籠は非常に関係深く、単なる「籠の目」、つまり海人系の神紋で、彦火明命が乗って来たとされる「籠(无間勝間)」の象徴とすれば、なんの不思議もない。また、海部光彦氏がいわれるように、「コ」を「ケ」とすれば、神饌・御贄を奉るのを生業とする海人部達の象徴、御饌津神の最高神である豊受大神の神紋が篭目紋ということであり、豊受大神が遷座された伊勢神宮の燈篭に篭目紋があるのもその故であろう。近年、真名井神社の石碑の篭目紋が削り取られたそうだが、悲しむべきことと言わざるを得ない。<日出倭さまッ!

確かに、真名井の「マナ」は「真魚(つまり真の肴)」で、旧約聖書でいうところの「Manna」つまり「御贄」と同義語であり、恐ろしいほどの符合をみせている。出エジプトのモーゼは、「顔の肌が光を放っている」という旧約聖書の記述を誤訳され、頭に角を持った奇妙な男性として絵画に描かれていることがあるという。これって、天之日矛の別名、敦賀()の語源となった都怒我阿羅斯等ではないかのだろうか。賀茂大神・賀茂建角身命神であるともいえるかもしれない。モーゼは、都怒我阿羅斯等が日本に来るきっかけとなった「黄牛」つまり「黄金の牛」にも、「青銅の蛇」にも関係深い人であった。モーゼは天之日矛で、日本はカナンの地だったッ!とまでは言わないけれど、そういう伝承をもった集団が日本に渡来した可能性はあるのではないかと思う。その代表格として、秦氏をあげることが出来るのではないだろうか。


私は、学者さんたちのように、神功皇后を架空の女性だとは思わない。少なくとも、モデルはいたはずだ。全く何もないところから、これだけの伝承を引っ張って来るのは、人間の想像力を越えていると思うからである。時代をおいて、何派かに別れて渡来したかもしれないとは思うが、同じような信仰を持つ、元をたどれば同族といえる集団がいたのではないだろうか。私は元々、記紀の伝承の殆んどが、海人の伝承だと思っているので、古代、太陽神を奉斎する巫女的な女王の一族が海を越えてやって来て、その巫女王が産んだ王子が、海人族共通の太祖になった、という史実があったのではないかと考えている。


継体天皇(けいたいてんのう・意富杼王)

応神天皇の6世孫(応神を一世と見て)。意富々杼王の曾孫。第26代天皇。

和邇氏系25代武烈天皇の血統が途絶えた為、越前の三国(福井県三国町)から、大伴金村(松浦の小夜姫の恋人、狭手彦の父)・物部麁鹿火(もののべのあらかい・北九州で起きた磐井の乱を平定)等に召喚され、武烈の姉、手白髪皇女(たしらかのひめみこ)を皇后に立てて即位した。

三国は母方の本拠地で、父の彦主人王(ひこうしのおおきみ)が早くに亡くなったので、母方で養育されていたという。書紀に父方の本拠地は近江国高島郡の三尾(滋賀県高島郡高島町)とあるし、息長真手王の娘、麻績娘子(おみのいらつめ)を娶っている(「麻績王」参照。)ので、息長氏と考えていいと思う。また、三尾君の祖は、11代垂仁天皇の子の石衝別王(おはつくわけのみこ・布多遅能伊理毘売命の兄)であり、継体の母の振媛(ふるひめ)も垂仁の七世孫とあり、父母の系譜ともに和珥氏&息長氏系統と見て間違いないであろう。

尚、継体の妃には、安閑・宣化の母となった、尾張氏の目子娘女(めこのいらつめ)や、阿倍氏の延比売(はえひめ)、和邇氏の?媛(はえひめ)もいて、海人族がこぞって継体を擁立し、娘を嫁がせたことが分かる。

継体は即位したものの、20年も大和入りを果たせなかった。系図上、武烈天皇の血統とは明らかに断絶がある為に、この時代に新たな王朝が開いて政権交代があり、継体を現在の天皇家の初代とみる学者も多い。しかしながら、武烈天皇は息長氏と非常に血統的に近い和邇氏系の天皇であり、海人色の強い、河内国交野郡葛葉の宮(大阪府枚方市樟葉)などを遍歴しているし、海人系の豪族がこぞって擁立しているところを見ても、継体は海人族がその血統を護るの為に、遠戚から苦肉の策で擁立した天皇ではなかったか?

「日本書紀」が、「百済本記」の「辛亥(西暦531)年、日本の天皇及び太子・皇子、倶に崩薨りましぬ」という記事を引いて継体天皇の崩御の年とし、この頃朝廷内にクーデター的な重大事件が起こったと見る研究者は多い。安閑天皇・宣化天皇は即位せず、武烈天皇の姉の手白髪皇女との皇子である欽明天皇が後を継いだというのである。しかしながら、手白髪皇女も息長氏の同族和珥氏系の皇女であり、殊更に継体天皇の血統を忌む必要はない。何かあったとすれば、血統が絶えてしまった武烈天皇の代ではなかったか。

 

広姫(ひろひめ)

息長真手王の娘。

30代敏達天皇の皇后となり、押坂彦人大兄皇子、菟道磯津貝皇女らを産んだ。

押坂彦人大兄皇子は、異母妹の糠手姫皇女(母は伊勢大鹿首小熊の娘、菟名子夫人)を娶って、34代舒明天皇の父となったが、舒明天皇の和風謚号が「息長足日広額天皇」であるのは、祖母である広姫からであろう。とすると、舒明の皇子である天智・天武両天皇も息長氏系と言えようか? そういえば、天智天皇(淡海帝)は、近江に大津京を造った時、崇福寺という寺を都の鎮護の為に建立したが、そこには現在、滋賀県大津市穴太の盛安寺に祀られている息長山普賢寺長谷寺と同じ十一面観音があったと伝わる。大津に遷都する自体が息長系らしいではないか。

「日本書紀」は同じ敏達紀に、広姫亡き後の新皇后、豊御食炊屋姫尊(推古天皇)が産んだ第一子の菟道貝蛸皇女のまたの名を「菟道磯津貝皇女」としている。「菟道」というのは、菟道稚郎子皇子に代表される通り和珥氏系の名前であり、「磯津貝」とか「貝蛸」とかモロに海人系の名前なので、広姫の子とした方がスッキリする。尚、菟道貝蛸皇女は聖徳太子の妻となっている。

泊瀬の枕詞は「隠国(こもりく)の」である。「こもりく」とは、「神の籠る国」のことで、古代、葬送の地と定められた、禁忌の聖地であった。上代の斎宮も泊瀬に籠って禊をなさった。大泊瀬(与喜山)の麓、初瀬川の急流に面した与喜浦に、泊瀬の斎宮跡(磯城の厳樫本)がある。倭比売命はここに八年籠った後、伊勢に向かわれた。泊瀬が伊勢へ通じる古い街道沿いにあるせいもあるが、ここは息長氏の聖地だったのではないか? その証拠に、長谷寺にも朱智神社の神宮寺である息長山普賢寺と同じく、十一面観音が祀られているのだ。

朱智(すち)神社(京都府京田辺市天王高ヶ峰)

祭神&祖神 迦邇米雷王

配神     建速須佐之男命、天照國照彦火明命

社家    息長(朱智・三国)

迦邇米雷王の父、山代之大筒木真若王の代から山城国綴喜郡に移住したものと思われる息長水依比売系の王ではないのに、何故に息長氏の祖となったのか? やはり、水穂之真若王との混同が見られると思う。

「延喜式神名帳」の朱智神(すちのかみ)に比定される。主祭神の迦邇米雷王神功皇后の祖父で、2代垂仁天皇朝にこの地を治めていた。その子孫が朱智姓を名乗ったという。付近の大御堂古墳や下司古墳群は息長氏の墳墓である。朱智神社は、息長氏の菩提寺で、土地では大御堂(おおみどう)と呼ばれ、通称では山城の観音寺で通っているその名も「息長山普賢寺」の鎮守神である。

朱智の「朱」の字が「丹」を思わせるし、丹生神社とも関係あるだろう。息長山普賢寺の本尊は十一面観音で、普賢寺川が木津川と合流する辺り、つまり水の浄域にあり、水運の要衝でもあったことを考えると、義淵に始まる龍神信仰の流れを組んでいることは間違いない。その証拠にこの寺は、白鳳2年に天武天皇勅願で義淵僧正開基の筒城寺(親山寺)が前身であり、天平16(744)年、義淵の弟子である東大寺初代別当良弁が伽藍を拡大増築して、普賢教寺と称したのに始まる。後の宝亀9(778)年には東大寺修二会(お水取り)の創始者実忠も五重塔を建立している。

朱智神社の周辺には「水取」という地名があり、朝廷の御水(みもい)と灌漑を司る水取連(もいとりのむらじ)が住んでいたことにも関連があると思う。水取連は、「新撰姓氏録〜左京神別上〜」に「速日命の六世孫、伊香我色乎命の後なり。」とある。饒速日尊の子孫ということは物部氏系であるが、水取臣(もいとりのおみ)の祖は、和珥氏の米餅搗大使主命の曾孫の五十足であるから、和珥氏の春日臣市河を祖とする物部首と混同されたのかもしれない。

また、この付近には「天王」という集落があり、竹の産地として有名で、「お水取り」の松明の竹は、この天王の竹藪から切り出される為、「竹送り」という神事が行われているのである。そしてこの場所こそが、かの「竹取物語」の舞台だという説があり、海人と竹の関係を考えると大変興味深い。

綴喜(つづき)とは、継体天皇の都、筒城の宮があったところである。20年も大和に入ることが出来なかった継体天皇は、河内の樟葉の宮からここに移って来た。つまり、大和の目と鼻の先まで歩を進めた訳である。付近には多々羅(たたら)という集落があり鍛冶金工を思わせるが、継体天皇の第4皇子29代欽明天皇の時に来朝した百済系の渡来人が、金多々利(こがねのたたり)・金平居(こがねのおけ)を献上して、多々良公の姓を賜ったことに由来すると伝わっている。

多々利とは金製の糸巻、平居は績んだ麻を入れておく麻笥(おけ)のことで、この辺りには養蚕を生業とする百済からの帰化人奴理能美が住んでいた。16仁徳天皇の皇后磐之姫命を和邇臣口子が迎えに行った所であるから、仁徳朝にはすでに帰化人の土地だったのだと思われる。金属製の糸巻があるのも初耳だったが、糸巻を「タタリ」または「タタラ」というのも初めて知った。では、神武皇后の比売多多良伊須気余理比売の「タタラ」も「蹈鞴」ではなく糸巻の可能性が出てくる。また、麻績王息長氏説を裏付けてくれるようで、大変興味深い。

また、天照國照彦火明命が合祀されるのは、この土地が尾張氏に関係のある土地なので、その祖神の天火明命を合祀したのではないだろうか。私見では、磐之姫命は尾張氏系の姫であるから、関連の土地に別居したのものだろう。ということは、ここ綴喜に住んでいた百済系の帰化人を掌握していたのは尾張氏であり、尾張氏と息長氏には何らかの関係があったということか。

社記に「大宝元年(701)に山城・河内・大和の国境の山に白髪の老翁の姿をした神が出現、素盞嗚尊を名乗ったと言う。時の郡司、息長兼理が山の頂に社殿を建てて「大宝天王」と称した。延暦十二年(793)大宝天王と朱智天王を同殿に祀った。」とある。

「天王」という地名があるのはこの為だろうが、白髪の老翁というのが白鬚明神を思わせて、大変興味深い。朱智神社には、珍しい馬頭観音を思わせる三面の牛頭天王像(藤原時代)が祀られており、須佐之男命が合祀されているが、須佐之男命である大宝天王より、朱智天王である迦邇米雷王の鎮座の方が古いのは言うまでもない。

貞観11(869)年、朱智神社の祭神として祀っていた牛頭天王を、祗園の八坂神社の前身である八坂郷感神院に勧請したことから、「元八坂」と呼ばれていて、昔は祇園祭の時に天王地区の榊を移すことが恒例となっていたそうだ。この牛頭天王は須佐之男命なのか、それとも迦邇米雷王なのだろうか?

一つ気になることは、普賢寺の観音堂の左側に小さな地主神社が建っており、祭神は継体天皇だというのである。かつては寺の東北の山中にあり、御霊神社と呼ばれていた。「御霊」つまり「怨霊」である。

「日本書紀」が、「百済本記」の「辛亥(西暦531)年、日本の天皇及び太子・皇子、倶に崩薨りましぬ」という記事を引いて継体天皇の崩御の年としているが、このクーデター的出来事は、私見では武烈天皇朝のことだと思っていた。しかし、そうでなければ、継体天皇を「御霊」とは呼ばないだろう。

「天神」のように「天王」も怨霊なのだろうか? とすれば、朱智天王は継体天皇なのか?

 

日子坐王(ひこいますのみこ)

9代開化天皇と意祁都比売命の子。

春日建国勝戸売(かすがのたけくにかつとめ)の娘、沙本之大闇見戸売(さほのおおくらみとめ)を娶って、11垂仁天皇皇后の沙本毘売命沙本毘古王など、息長水依比売を娶って丹波道主命水穂之真若王など、叔母にあたる袁祁都比売命を娶って、山代之大筒木真若王などの父となった。

和邇氏を始め、日下部氏息長氏の遠祖ということになる。また、「古事記」では詳しく語られる日子坐王の系譜は、「日本書紀」には語られていない。編纂者の都合によるものか?

山代之大筒木真若王(やましろのおおつつきまわかのみこ)

日子坐王袁祁都比売命の長男。同母弟の伊理泥王の娘、丹波之阿治佐波毘売(たにはのあじさはびめ)を娶って、迦邇米雷王(かにめいかづちのみこ)が生まれている。

この方の時に、山城国綴喜郡に移住したと思われる。

 

迦邇米雷王(かにめいかづちのみこ)

山代之大筒木真若王の子。丹波の遠津臣の娘、高材比売(たかきひめ)を娶って息長帯比売(神功皇后)の父、息長宿禰王が生まれている。

息長氏の奉斎する朱智神社の祖神である。息長水依比売系の子孫ではないのに、何故に息長氏の祖となったのか? やはり、山代之大筒木真若王水穂之真若王は同一人物なのだろうか?

 

迦邇米雷王(かにめいかづちのみこ)

山代之大筒木真若王の子。丹波の遠津臣の娘、高材比売(たかきひめ)を娶って息長帯比売(神功皇后)の父、息長宿禰王が生まれている。

息長氏の奉斎する朱智神社の祖神である。息長水依比売系の子孫ではないのに、何故に息長氏の祖となったのか? やはり、山代之大筒木真若王水穂之真若王は同一人物なのだろうか?

 

息長(おきなが)というのは、「息が長い」即ち、潜水を専門とする海人の名だという説がある。私見では、「ナガ」は「ナーガ」、つまり蛇のような気がするし、「沖縄」と音が似ているのも気になるところだ。古代は、漢字の持つ意味ではなく「音」が大切だからである。

近江水系を支配した息長氏の祖は、15代応神天皇の5世孫にあたる息長真手王だといわれるが、「古事記」には、その祖父で応神天皇の孫、意富々杼王(おほほどのみこ)が、息長(滋賀県坂田郡米原町)の坂君、酒人君(さかひとのきみ・大阪市天王寺区玉造)、三国君(みくにのきみ・福井県三国町)らの祖となったと伝える。この三国君から、26代継体天皇が出ている。三国は坂井郡といったそうだが、「坂田」「坂井」「酒人」と、どうも、「坂」は「酒」らしい。(「鳥と酒」参照)。「古事記」には、波多君(はたのきみ)も同族だとある。とすると、武内宿禰の係累、葛城、波多、平群と同族ということか? 共通するのは、継体天皇を擁立し、壬申の乱でも天武(大海人皇子)に協力した功臣ということである。

しかし既にその随分以前に、応神天皇の母、息長帯比売(神功皇后)の先祖で、和邇氏系の日子坐王(ひこいますのみこ)の妃に、息長水依比売(おきながみずよりひめ)という方が出ていらっしゃる。この方は、琵琶湖の水神の姫だというのだから息長氏に違いない。しかし、この方の御子ではなく、日子坐王と和邇氏の袁祁都比売命(おけつひめ)の子、山代之大筒木真若王(やましろのおおつつきまわかのみこ)の子孫から、息長宿禰王→息長帯比売(神功皇后)が出ているのはどういうことだろうか? つまりは、息長氏と和邇氏は同族といってもいい間柄だったのではないか。それとも、日子坐王と息長水依比売の子、水穂之真若王と山代之大筒木真若王が混同されているのだろうか? いずれにせよ、山代之大筒木真若王は、姪の丹波之阿治佐波毘売(たにはのあじさはびめ)を娶って迦邇米雷王(かにめいかづちのみこ)を産み、その迦邇米雷王も丹波の遠津臣の娘、高材比売(たかきひめ)を娶って息長帯比売の父、息長宿禰王を産んでいるので、丹波というからには丹波道主命系の姫であろうし、かなり血は濃いことが分かる。

また、息長水依比売を出した御上神社社家の三上氏は、水上だとも言われているし、京都府舞鶴市の息長の転訛といわれる「行永(ゆきなが)」には、同じ天之御影命を祀る「彌加宜(みかげ)神社」があることからも、三上氏とその同族の凡河内氏・山背氏を併記した。また、三上氏の奉斎する天目一箇神天之日矛との類似と、息長帯比売(神功皇后)の母方の祖先が天之日矛であることから、かなり危険だとは思ったが(^^;)、三宅氏・糸井氏も加えてみた。

海人族にも関わらず、奉斎するのは作金者(かなだくみ)の神、天目一箇神(あめのまひとつのかみ)と兄弟または同神とされる、天之御影命(あめのみかげのみこと)。「古語拾遺」によれば、筑紫・伊勢の忌(斎)部氏の祖も、この神とされている。しかし、金工鍛冶の神がなぜ海人の神になったのか? 水は火を支配するからなのか、釣り針や銛(モリ)を作る技術からなのか? それにしても、海人で作金者。彫金師の海棠とは、因縁浅からぬ氏族である。

 

 

 

日子坐王(ひこいますのみこ)

9代開化天皇と意祁都比売命の子。

春日建国勝戸売(かすがのたけくにかつとめ)の娘、沙本之大闇見戸売(さほのおおくらみとめ)を娶って、11垂仁天皇皇后の沙本毘売命沙本毘古王など、息長水依比売を娶って丹波道主命水穂之真若王など、叔母にあたる袁祁都比売命を娶って、山代之大筒木真若王などの父となった。

和邇氏を始め、日下部氏息長氏の遠祖ということになる。また、「古事記」では詳しく語られる日子坐王の系譜は、「日本書紀」には語られていない。編纂者の都合によるものか?

「古事記」では、10代崇神天皇朝に丹波に遣わされた四道将軍は、この日子坐王になっている。「日本書紀」では、日子坐王の子、丹波道主命。つまり日子坐王の代から、丹波に勢力を張る有力な豪族であったという証拠だろう。

皇子を「命(みこと)」とせずに「王」としたのは、記紀ともに日子坐王の条が初めて。この条以降、「古事記」では、天皇の御子を「王」とし、「日本書紀」では、一世の御子を「皇子」とし、二世以下を「王」と書いて区別している。9代開化天皇は非常に丹波に係わりを持つ天皇であり、日子坐王とは開化の息子ではなく、この天皇の政権を樹立した時の一大協力者で、丹波一帯の首長ではなかったか。

 

袁祁都比売命(おけつひめのみこと)

意祁都比売命の妹。甥の日子坐王の妻となり、山代之大筒木真若王、比古意須王(ひこおすのみこ)、伊理泥王(いりねのみこ)を産んだ。

「意()」は「大」、「袁()」は「小」を表すと言う。「祁()」は「盛ん」「大きい」の意味であるから、「沖の姫」ではないのか? 親族の息長氏の「息(おき)」とも関係するように思うのだが。

 

山代之大筒木真若王(やましろのおおつつきまわかのみこ)

日子坐王袁祁都比売命の長男。同母弟の伊理泥王の娘、丹波之阿治佐波毘売(たにはのあじさはびめ)を娶って、迦邇米雷王(かにめいかづちのみこ)が生まれている。

この方の時に、山城国綴喜郡に移住したと思われる。

 

迦邇米雷王(かにめいかづちのみこ)

山代之大筒木真若王の子。丹波の遠津臣の娘、高材比売(たかきひめ)を娶って息長帯比売(神功皇后)の父、息長宿禰王が生まれている。

息長氏の奉斎する朱智神社の祖神である。息長水依比売系の子孫ではないのに、何故に息長氏の祖となったのか? やはり、山代之大筒木真若王水穂之真若王は同一人物なのだろうか?

 

丹生神社(滋賀県伊香郡余呉町上・下丹生)

 (滋賀県坂田郡米原町上丹生)

祭神 彌都波能賣命(みづはのめのみこと・罔象女神)丹生都比賣命

社家 息長丹生真人氏

余呉町の上・下丹生にある丹生神社は、「延喜式〜神名帳〜」にもその名が記載される古社で、天武天皇の時代に丹生真人が丹保野山に神籬を設け、山土と丹生川の清水を供えて天津神を祭り、天平宝字(757765)年間に社殿を現在地に創建したと伝わる。余呉町・米原町ともに、『新撰姓氏録』に応神天皇の皇子稚渟毛二俣王の後裔とある、息長丹生真人(おきながのにゅうまひと)氏の居住地である。余呉は藤原氏の祖で、神功皇后の審神者・伊香津臣命白鳥天女の舞台でもあり、興味深い。

米原は辰砂を含む土を採集したという記録があり、余呉町の両丹生神社の例祭は、丹保野(丹生)山の赤土と丹生川の清水を神前に供えた後、それらを混ぜて神主・氏子の額に神印を押し、息災安穏を祈願するというもので、共に丹土(辰砂)の産地である。

この神印がどんなものか確認していないのだが、新生児の額に赤字で犬と書く隼人の風習を伝える潮嶽神社の神事を思い出すし、赤土で化粧をした和邇氏の宮主矢河枝比売を思わせる。息長氏の遠祖は和邇氏の日子坐王であり、同じ系統の神事が伝わったものだろう。

丹生は「入谷」とも記され、米原町のすぐ近くに位置する彦根市善谷や犬上郡多賀町霊仙には、入谷の地名がある。米原町丹生の上流には、どんな干天でも涸れることがない米原町の上水道の水源地、「うるしが滝」があり、さらにその上流、霊山の山頂部に稲作農耕の聖地である「お虎ガ池」が存在することから、河川の源流、水神の祀られる浄域としての丹生でもあるのである。

日本人で唯一「三蔵」の称号を授けられた高僧、霊仙三蔵は、米原町醒ヶ井が生誕地とされ、息長丹生真人氏の出身といわれている。米原町の醒井小学校からは、息長丹生真人氏の氏寺だった三大寺廃寺のものと考えられる、多量の古代瓦が出土している。

この醒ヶ井の「サメ」は、鰐鮫の「サメ」ではなかろうか。やはり、和珥氏と息長氏は同族である。

 

天目一神社(兵庫県多可郡野村)

祭神 天目一箇神

 

広峰神社(兵庫県姫路市広嶺)

祭神 素戔嗚尊、五十猛命 他

祖神 天津彦根命天之御影命

社家 凡河内氏

吉備真備が天平5(733)年に帰朝した際、この地に異神(素戔嗚尊)を見て奏上し、翌年、神社を造営したのが創始という。古来、広峰天王、広峰牛頭天王、白国明神などと称された。

 

広田神社(兵庫県西宮市大社町)

祭神 撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(天照大御神荒魂)

   住吉大神、八幡大神、諏訪建御名方神、高皇産霊命

祖神 天津彦根命、天之御影命

社家 山背氏

神功皇后が三韓遠征から凱旋した際、務古の水門(西宮沖)で天照大神より、「我が荒魂は皇居に近づくべからず」と託宣があり、山背根子の娘、葉山媛命をして斎き祀らしめたのが最初という。

埋め立て進む前は、沿岸の漁師町だった。立派な赤エイの絵馬で有名だが、地元では「アカエ」と呼ばれ、難病悪疫の守り神として信仰されている。美味なアカエを断食することによって、難病が治るというのだが、漢方薬にもなった赤エイは朝廷への重要な献上品で、この乱獲を防ぐ為の方便に考え出された御利益との考え方もあるようだ。かつて広田神社の宝物に、「禁裏御所 御厨子所御肴物 御用」と書かれた魚箱があったそうで、海人らしく「御贄」を献上していた事が分かる。

 

長田神社(神戸市長田区長田町)

祭神 事代主命

祖神 天津彦根命天之御影命

社家 山背氏

神功皇后が三韓遠征から凱旋した際、事代主命より、「我が御心、長田国に祀るべし」と託宣があり、山背根子の娘、葉山媛命の妹、長媛をして斎き祀らしめたのが最初という。事代主命は賀茂氏系の神なのに不思議だが、海人系であることには変わりない。

摂社に楠宮稲荷社があり、ここにも赤エイの伝説が残る。社の裏の巨大な楠が御神木で、瀬戸内に生息する赤エイが、刈藻川(かるもがわ)を遡り、化身したと伝えられている。ここでも、広田神社のように、常食であった美味な赤エイを断って願をかけると、願いがかなうと信じられている。明石市にも、その名も江井島(えいがしま)という、僧行基に纏わるエイの伝説が残る島がある。どうやら、大阪湾から播磨灘にかけての沿岸各地には、エイに関わる伝承や信仰が数多く残っているようだ。この範囲が、山背氏の勢力圏内といっていいだろう。