竹取物語の原稿と写真 2010年5月28日 18:32 1回目講座@.pdf へのリンク Microsoft PowerPoint - 1回目〜3回目までの講座 1 時の帝は、かぐや姫に宮仕えを断られ「竹取りの翁の家は、山本の近くにあるので狩りに行くような姿で姫を見よう」といわれた。その山本とは、『続日本紀』巻第五の和銅四年(711)条に 四年春正月丁未 始置都亭驛 山背國相楽郡岡田驛 綴喜郡山本驛 河内國交野郡樟葉驛(以下略) とあり平城京に通じる主要官道の都亭驛として綴喜郡に「山本驛」を新設されたことを伝える所である。ここに古代駅制の「山本駅」と言う駅家が存在していたことから京田辺が有力であると考えた。地元に保存されている『山城国綴喜郡筒城郷朱智庄佐賀庄両惣図』と『筒城郷佐賀荘全図』には、近鉄三山木駅の南に「大筒城佐賀冠者殿旧館地」と記されている場所があり近年の発掘により山本駅があった所と考古学上からも実証された。 「大筒城(おおつつき)」は、継体天皇の「筒城宮」であり山城国のことで、京都府綴喜郡の「綴喜(つづき)」である。「冠者殿」とは、元服して冠をつけた男子で宮仕えした人である。この大筒城佐賀冠者殿旧館地が竹取翁の家のあった付近ではないかと思われる。 日本全国に沢山存在する「山本」 と言うのは、「山の麓(ふもと)」 という意味であるが、『竹取物語』の出来た頃の本来の「山本」は御神体山の麓を指す。古くから信仰の対象となった京田辺市の甘南備山は、富士山に似た山で神仙思想溢れていて天女伝説を兼ね備えた地域である。甘南備山は、平安京の朱雀大路を決定する際に南の基準点とされていたことからも京田辺が有力であると考えている。 2 現存する『竹取物語』の最古本(天理図書館所蔵)では、竹取翁の名前を「さかき」とある。その他の本では、仮名の「さるき」を写字の際に意味を成さないため「さぬき」にしたということで「讃岐神社」とされているが、「さかき」説の方が古本に記されていることから採用した。 翁の名前が「名をば、さかきのみやつこ(造)となむいひける」とあるところから 「さかき」(榊)つまり「神に仕え」「朝廷に仕える人物」を題材にしたと考えている。つまり半官半民の両方を受け持った人物であり「竹の呪力」をも兼ね備えた翁である。 京田辺市三山木の『延喜式内佐牙神社本源紀』には、酒造用水を守護する男女二神の佐牙弥豆男と佐牙弥豆女の酒殿神がみられ、唐国から酒を造る曽保利と曽々保利という二人が渡来したと記されている。「佐牙(さが)」は「サケ」「酒」である。また興戸の延喜式内酒屋神社は酒を製造した場所とされ、三山木の山崎神社や飯岡の咋岡神社も酒に関係があり、「さか」は「酒」に通じていることから「さかき」であろうと思われる。 3 隼人は、六世紀頃に薩摩半島南部から畿内の各地に移住して大和朝廷のさまざまな儀式に奉仕した。大隅隼人と阿多隼人が京田辺市の大住に移住したのは、正倉院文書から確認することが出来る。これら隼人は、都(奈良・京都)を防衛したり朝廷や貴人の警護、諸儀式などに使う竹細工をし、さらに呪術として隼人舞を舞うなどしていた。物語の中で「かぐや姫」が羽衣を着て昇天する場面では、「隼人」が帝から遣わされた兵士として姫の屋敷を守る役目で登場している。 隼人が移住した大住の延喜式内月読神社では、毎年秋の祭りで隼人舞が奉納されている。月読神社の祭神は、かつて神体山の甘南備山から月読神を降臨させ祭りを行っていたことから天孫降臨神話の伝承が見られる。竹の呪力と竹製品を作る技術の両方を兼ね備えた隼人は、月信仰の神仙世界を彷彿とさせ京田辺が竹取物語の里と言えよう。 4 我が国の最も古い歴史書とされる『古事記』上巻に、第九代開化天皇のひ孫「迦具夜比売命」の名を見つける事ができ、『竹取物語』の作者は、『古事記』に実在している人物の「迦具夜比売命」をモデルとしたと考えられる。この迦具夜比売は垂仁天皇の妃となり、その子の袁邪弁王なる御子の名も歴史の中に記載されている。迦具夜比売命の曾祖母の名を竹野比売(たけのひめ)、その父の名を「大筒木垂根王」とされていて「大筒木」の「筒」は竹、「垂根王」は「竹の根」で月を連想した王と言える。また曾祖母の名「竹野比売」も竹に通じている。 一方、迦具夜比売命の父であった大筒木垂根王の「筒木」は、山代の継体天皇「筒城宮」に通じ、京田辺市に縁の深い人物であったと考えられる。『旧記 普賢寺之遺跡』によると、大筒木垂根王の古墳は、普賢寺御所内の山頂にある大居谷古墳だと記されている。 以上の点から翁は山本駅長か、佐牙神社の太夫、大住隼人の関係者のどれかをモデルにしたと考えられる。 |