「かぐや姫の里を考える会」ホームページ 開始:平成15年7月開設
『竹取物語』”かぐや姫の里”京田辺
『竹取物語』発祥の地は "京田辺” その二
『竹取物語』研究所竹取の翁 小泉芳孝
この原稿は、京田辺市郷土史会の機関紙第74輯『筒城』2002年3月30日発行に掲載したものです。
一、「竹取の翁」の家は、「山もと」の近く
『竹取物語』の話は、今まで架空のものであり、きわめて伝説的・浪漫的に構成された虚構の物語であるとされてきた。
しかし 私は、竹取の翁がいたのは、京田辺市ではないかと考え平成三年度発行の『筒城』第三十六輯に「山城国綴喜郡山本駅と古代駅制について」の中で少し書いた。その後も研究を重ねるうち、『古事記』垂仁記に「大筒木垂根王之女、迦具夜比売命」が記されていて「かぐや姫」は実在の人物であったことがわかり、その「大筒木垂根王」の墳と伝えられる古文書も地元で見つかった。そこで、この田辺が『竹取物語』発祥の地であり「かぐや姫」伝説地という結論に達した。
京田辺市普賢寺の「大筒木垂根王」か山本駅の駅長それに延喜式内佐牙神社の太夫が、『竹取物語』に登場する翁であり山本駅一帯が“竹取物語の里”と考えている。
『竹取物語』 物語の原文では。
みかどおほせたまはく「みやつこまろがいへは、山もとちかくなり。みかりのみゆきししたまはむやうにて、みてむや。」とのたまはす。・・・
と記され。現代語に訳すと
帝が迎せ下さるには「造麻呂の家は、山もとの近くに
ある。
御狩の行幸に行くような振りをして見てしまおうか。」とおっしゃる。
とある。
帝がいうのには、竹取の翁(造麻呂)の家は、「山もと」の近くにあるとしていて、狩の行幸に
行くような振りをして「かぐや姫」を見に行こうか、と記されている。
私は、『竹取物語』の出来た頃の「山もと」と言う地名は、和銅四年(七一一)に古代駅制の「山本駅」と言う駅家が存在していたことから有力であると考えた。日本全国に沢山存在している「山もと」というのは、今まで「山の麓」という意味であるとされてきました。
しかし、京田辺市三山木の山本集落は、固有名詞として『竹取物語』が出来た以前からあり、現在も存在している歴史上重要な地名であることからも重要視せねばならない。この「山本」という集落あたりに翁の家が存在していた場所と考えている。
大阪府と奈良県とに境を接する京都府京田辺市は、東に木津川が流れ、西に生駒山系が連なるなだらかな丘陵地となっている。
ここは京都市と奈良市の中間にあたり、古代から交通の要衝として数々の歴史を物語る多くの文化遺産が点在している。
奈良時代以前には、京田辺市を大和から丹波に至る古山陰道が南北に通じていた。また和銅四年には、現在の近鉄三山木駅周辺に平城京と太宰府を結ぶ古山陰・山陽道の宿所として山本駅が設置された。
平城京に都が置かれた翌年の和銅四年正月、『続日本紀』巻五には、
四年春正月丁未 始置都亭驛 山背國相楽郡岡田驛 綴喜郡山本驛
河内國交野郡樟葉驛(以下略)
と記され、平城京に通じる主要官道の都亭驛として綴喜郡山本驛を新設されたことを明言している。
(詳細については、『筒城』第三十六輯 「山背国綴喜郡山本駅と古代駅制について」を参照)
京田辺市の山本区周辺には、『竹取物語』にちなむ地名として前記の「山本」の他「山崎」「筒城」「筒城宮」「多々羅」「甘南備山」「月読神社」が存在し、神仙思想が溢れていて天女伝説を兼ね備えた地域である。
京都に平安京が遷都するはるか以前、京田辺市内には、かつて筒城宮といわれる都があった。この筒城宮は、河内の国「楠葉」で即位した継体天皇が五年後(五一一)に多々羅の「都谷」に遷都された所である。
京田辺市近くの甘南備山も「かぐや姫」の名付け親としての伝承地であると考えられる。
物語の中でこの子、いとおほきになりぬれば、名を、みむろどいむべのあきたをよびてつけさす。なよ竹のかぐやひめとつけつ。とある。
現代語訳では、
かぐや姫が大きくなったので三室戸の神に仕える秋田という人を呼んで名を「なよ竹のかぐや姫」とつけた、とある。
京田辺市郷土史会の水山春男氏によると、三室とは「神の宿るところ」という意味で、神社のある処を言ったものであり「ミムロ」「ミモロ」といわれるところは甘南備山ではないだろうか。
この山は周辺の生駒山脈の山が低いためそびえ立って見え、富士山に似た山容と相まって、神の山と信仰され、大和竜田の三室山、飛鳥の三諸山とともに神(甘)南備山とよばれてきた。
山頂には式内社に比定される神南備がある。この神に仕える人ではなかったか。としている。
また、「みむろど」を固有名詞とすれば京田辺市近くの宇治市三室戸も「なよ竹のかぐや姫」の名付け親としての伝承地であると考えられる。この三室戸は、宇治川東部一帯で古くから竹の産地として知られていて、三室は神在ますところとされている。この地は、京田辺市に近いところである。
二、 「竹取の翁」の名は、「さかき」で「さか」は酒
『竹取物語』の最初は、
いまはむかし、たけとりのおきなというものありけり。野山にまじりて、たけをとりつつ、よろづのことにつかひけり。名をば、さかきのみやつことなむいひける。そのたけのなかに、もとひかるたけなむ一すぢありける。あやしがりて、よりてみるに、今は昔のことになるが、竹取の翁というものがいたものだ。野や山に分け入って、竹を取っては、色々な事に使ったものだ。名前をば、さかきの造となむいったものだ。その竹の中に根元の光る竹が、一本あったものだ。不思議に思って、近寄ってみると、となる。
竹取の翁の本名「みやつこ」とは、朝廷に仕える人をさし、「まろ」とは男子の名前をあらわしていて、半官半民の両方を受け持った翁であり、古代駅制における駅長のような人でなかったかと思われる。駅長とは、駅制における「駅家」の長として駅務を主宰し、その地方の豪族が任命されていて都の情報をはじめ海外などの色々な情報を知ることができる人物であった。
昔話の民話に登場する翁は「貧民致富」説話を伴っているといえるが、『竹取物語』に登場する翁は「朝廷に仕える人物」だったといえよう。また「竹取翁」説話は、農耕が生産活動の基盤であった時代に、竹細工に関してもすぐれた技能を持っている人達が住んでいたのであり、「竹の呪力」はそれを細工する人々に対する畏敬の念を抱かせたと考えている。
柳田國男は、『定本柳田國男集』第六巻『昔話と文芸』所収の「竹取翁」と「竹伐翁」で、『竹取物語』は日本の民間伝承説話をもとにして生まれたもので、文献上の竹取説話に炉辺で語りつがれてきた口詞文芸を重ねて民俗学的な照明をあてたとしている。
柳田の論究は、竹取り翁の生活について『海道記』の中で、「翁が家の竹林云々」と改めて富裕の翁にしたてているが、本来は野山にまじって居たのであって、布や穀類と換えて貰わねばならぬ者で貧困のどん底にいた者と見ている。その貧翁が一朝にして宝を見つけ稀有の長者になった点に、説話の根本の趣向があったとしている。また、かぐや姫は空へ帰る天界の存在で、鴬姫系の鳥類に身をかえる話型を指摘したうえで、竹取物語が、羽衣説話の何らかの段階を足場にしていると論述していて、それは白鳥処女型の裏付けとなっている、と記している。
さらに、柳田國男の『竹取翁』によると「老翁になるまで、竹を伐りまたは柴を苅っていなければならぬ人、すなわちいたって貧しい者…」と書かれている。
しかし、私は、ここに登場する竹取の翁の名前が「名をば、さかきのみやつこ(造)となむいひける」 とあるところから、 「さかき」(榊)つまり「神に仕え」「朝廷に仕える人物」を題材にしたと考えている。つまり半官半民の両方を受け持った人物であり「竹の呪力」をも兼ね備えた翁と考えた。
その人物は、前記の山本駅の駅長か、当時の山本郷の長老である太夫を登場人物として想定したのではないかと考えている。
また「さか」 は、延喜式内佐牙神社や延喜式内酒屋神社それに延喜式内咋岡神社、山崎神社などに関係した古代酒造りの「さか」 (酒)に関係があって、このように名前をつけたのではないだろうか。
日本に新しい酒造技術をもたらした記録は、『古事記』の応神天皇の条に
(前略) 又秦造の租・漢直租、及酒を醸むことを知れる人、名は仁番亦の名は須須許理参渡り來つ (以下略)
とあり、渡来人(百済人)須須許理が麹で醗酵させて酒を造る技術を伝えている。
これについては、延喜式内佐牙神社の変遷を知ることの出来る文治元年(一一八五)の古文書『延喜式内佐牙神社本源紀』に
(前略) 則朝廷酒司ノ舘舎ニ祭ル所酒殿神ニシテ御名ヲ称シテ佐牙弥豆男神 佐牙弥豆女神ノ二座ニシテ、就造酒司ノ官人等貴ヒ敬所ノ御神也、(中略)唐国ヨリ来朝スル所ノ人在リ、其の名ヲ曽保利弟ト云 曽々保利ト云弐人在リ (以下略)
とあり、佐牙神社には、酒造用水を守護する男女二神の佐牙弥豆男と佐牙弥豆女の酒殿神がみられ、唐国から酒を造る曽保利と曽々保利という二人が渡来したと記されている。「佐牙」は「サケ」「酒」である。
また、京田辺市飯岡の延喜式内咋岡神社は、酒殿の神を祀り、興戸の延喜式内酒屋神社は、酒を製造した場所とされ、三山木の山崎神社には、延徳二年(一四九〇)の「曾保利弟 曾々保利 蹟 (以下略)」の古文書がある。
このように山本駅一帯は、古代から酒造りの「さか」 (酒)にちなむ神社が沢山ある。
ところで最近出版されている本は、「さかき」をべつに「さるき」「さぬき(讃岐)」として大和国広瀬郡散吉郷(現在の奈良県北葛城郡広陵町)に住んだ讃岐氏の一族かとしている。しかし、私は、物語全体から考えた場合、最初の呼び名を「さかきのみやつこ」の方が正統と考えている。
それは、若林淳之氏が富士市教育委員会編の『富士市の竹取物語調査研究報告書』
(一九八七)の「竹取物語の世界 二つの仮説」で
「さぬき」 群書類従本
「さるき」 古本、前田本、戸本、正保本
「さかき」 武膝本、田中本、島原本、蓬左本、大覚寺本、武田本、久曽神本
「さぬぎ」 田中大秀『竹取翁物語解』
と諸説にわかれ、「さぬき」というのは小数派である故、「さぬき」説に疑問であると述べて
いることもあり、その説に賛同するからである。
三、『竹取物語』の作者は誰か
作者は不詳であるが「竹取物語」の文体・語彙・語法・構成・難題の品などから、和歌に秀で、中国などの仏典、漢籍に深く通じ、大陸文化に造詣の深い教養人で、古来の伝承をもとにして文学的にまとめ上げるこのとできる人物と考えられている。今までに紀貫之、紀長谷雄、源融、僧正遍昭、源隆国、鳥羽僧正、その他諸説あるが、文体に漢文訓読語があり、女流日記などにない用語を使っている所から男性と考えられる。
『土佐日記』の作者である紀貫之は、万葉歌人として有名で「月」に関する歌が数点あるところから有力視されているし、同じ紀氏で漢文の『紀家怪異説話集』を書き漢学者で大学頭になった文章博士の紀長谷雄がいる。この長谷雄は、『貧女吟』で男女の愛を描き特に女性の運命に関心をもっていたようです。また、三十六歌仙の一人である源融、六歌仙の一人である僧正遍昭などの説もある。
この他『今昔物語集』の編者とされている源隆国、鳥羽僧正などの説もある。
『今昔物語集』は、僧侶が民間説話をまとめたのを天竺(インド)震旦(中国)朝(日本)の三つに分け「今は昔」の書き出しで始まっている。本文の「今は・・・」と「名をば・・・」など 『竹取物語』とよく似た文章がある。
私は、作者について前記人物の中から、地元に残っている古文書類などを調査していて、「紀 長谷雄」と考えていたが弘法大師・空海と言うことが判ってきた。
紀長谷雄は、承和十二年から延喜十二年(八四五〜九一二)に平安初期の漢学者として活躍、寛平二年(八九〇)早くも文章生となり図書頭を経て文章博士・大学頭として「延喜格式」の編纂にあたっている。長谷雄は、別名を紀中納言といわれ、唐の白居易を学び、当時の優れた漢文作家として詔勅や外交文書の起草を担当した。
大学寮とは、紀伝道(中国史と中国の文章を学ぶ科)、明経道(経書を学ぶ科)、明法(法律学科)、算道(算術学科)、の4道があり、その頭が大学頭である。大学頭は、文章道志望の学生才器のあるものを監督して、「史記」「漢書」に通じた者を擬文章生にし、そして文章博士と成績を調査して、及第した者を文章生にした。
私は、漢学者として中国史を学び「延喜格式」の編纂や、『貧女吟』という女性の運命に関心を持っていた紀長谷雄が、『竹取物語』の作者ではないかと考えていたが、その後、弘法大師・空海という事が判ってきた。詳細については、竹取翁博物館へお越し下さい。
四、竹の筒には、霊力、呪力ひそむ
『古事記』に、仁徳天皇が難波の堀江から山背川(現在の木津川)を上って「三度変化する奇しき虫を見に行こう」と磐之媛がいる「奴理能美」の家へやってきた場所は、この山本の近くである。この奇しき虫というのは、絹織物の蚕のことで、皇后である磐之媛に会いに来るための口実とした場所である。この『古事記』仁徳記の部分は、『竹取物語』の後半で帝が御狩りをする口実で行幸し、かぐや姫の姿を見に行くという想定と同じである。私は、作者が仁徳記の一文を知っていて引用したのではないかと考えている。
一方、この物語の中で興味をそそるのは、
つつのなかひかりたり。それをみれば、三寸ばかりなる人、いとうつくしうてゐたり。おきないふやう、「われ朝ごと夕ごとにみるたけのなかにおはするにてしりぬ。・・・」
(中略)
このちご、やしなふほどに、すくすくおほきになりまさる。三月ばかりになるほどに、よきほどなる人になりぬれば、かみあげなどさうして、かみあげさせ、もきす。
という部分である。
現代語訳では、竹筒の中が光っている。それを見ると、身の丈三寸位の人が、とてもかわいらしい様子で座っている。翁がいうには、「わしが毎朝毎晩見る竹の中においでじゃに よってわかった。・・・」 (中略)
この稚児、養っていくうちに、すくすくと大きく成長する。三ヶ月位になるうちに、立派に一人前の大人になったので、髪上式など手配して、髪を結い上げさせ、裳を着せる。
という文章である。
かぐや姫が「竹筒の中で光っている」と言う作者の発想は、竹筒の中に霊力や呪力が潜んでいる思想が当時からあったと考えられ、物語全体においてもかぐや姫の光り輝く部分の描写を多く取り入れている。また、かぐや姫が「三ヶ月で大人になった」と言う表現は、作者が竹の特性を「三ヶ月位で成長が完成する」と言うことを知っていたからこそ発想出来たといえよう。当時として珍しい竹の神秘的な特性を、かぐや姫の成長に結び付けた作者の表現力はすばらしい。
また、竹の葉はいつも青々としていて、筒の空洞には「神が篭る」場所であると古来から言われている。それが色々な形となって現在でも祭祀に竹が多く取り入れられている。例えば、地鎮祭に土地の四隅に青竹を立てて注連縄を張り厄払いするのも同様の意味があろう。竹の空間は、その中で「篭る」ことによって心身が浄化され霊的な力が具わる神秘的なものとみられる。古式を伝えている宮座には、神主によって神社に数日の間「篭る」行事が現在も存在し同様の意味と考えられる。
五、五人の求婚者への難題物
江戸時代の国学者・加納諸平は、『竹取物語考』の中で五人の求婚者は実在人物であると記している。この『竹取物語』の作者は、貧しい翁をモデルとして登場させ、富と権力の横暴者である五人の貴公子や帝たちにあわれな者として批判するために実在の人物を登場させている。
物語の中では、この五人の求婚者に対して「かぐや姫」が望んだ品物は、実現不可能な難題を求めている。
かぐや姫が出した求婚者への難題物
仏の御石の鉢(ほとけのみいしのはち)
『竹取物語』の中では、「石作皇子には、仏の御石の鉢といふものあります。それを手に入れて下さい。」と出てくる。釈迦が終身重用した托鉢用の鉢のことで、釈迦の成道の時、四天王が鉢を奉ると、釈迦はそれを重ねて押し、一つの鉢として終身これを用いた故事を伝えている。また唐僧玄奘がインドなどを旅行した見聞録の『大唐西域記』では、波刺斯国の王宮にこれが伝えられているとある。
蓬莱の玉の枝(ほうらいのたまのえだ)
蓬莱山にある不老不死の薬となる玉の枝のことで、『竹取物語』の中では、「車持皇子には、東の海に蓬莱という山があると申します。そこに、白銀を根とし、黄金を茎とし、真珠を実として立っている木があります。それを一枝折っていただきましょう。」とあり、「竹取の翁走り込んできて言うには、この皇子に申し上げなさった蓬莱の玉の枝を、一つの箇所も間違わずに持ってきておいでじゃ。」と出てくる。
これは、『列子』の玉樹によると、渤海の東方海上に五つの山があり、その中の最も有名な蓬莱山に群生する金銀珠玉で出来たぬ玉の枝のことで、不死薬と結びついた。蓬莱山訪問譚は、中国からの伝承に加え、亀に背負われた蓬莱山に松鶴を配した神仙的な構図をもとに、物語では海に直接浮かび金銀の水の流れる峰高い幻の島を創作したものと考えられている。
火鼠の皮衣 (ひねずみのかわごろも)
『竹取物語』の中では、「阿部御主人には、支那にある火鼠の裘を下さい。」と出てくる。
中国古代の伝説上の動物「火鼠」と、物語成立当時流行していた貂裘に想を得て、実際に九世紀後半には高位の者だけに使用が制限されていた、渤海渡りの黒貂の裘に、火色と呼ばれた深紅色を加え神秘化させ、貴重な火鼠の裘とした秘品。
龍の頸の玉 (りゅうのくびのたま)
『竹取物語』の中では、「大伴大納言には、龍の頸に、五色に
光る玉あります。それを手に入れて下さい。」と出てくる。
五色とは、赤・青・黄・黒・白のことで、「正倉院宝物」の「種々薬帳」に石薬が「五色龍歯」と称されるインドの石薬が伝えられていて、化石象の臼歯で鎮静剤として使用されていた。中国伝来の伝承をもとに、この臼歯の形状から「五色龍歯」と名付けられた奈良時代の石薬が、物語に登場している。
燕の子安貝 (つばくらめのこやすがい)
『竹取物語』の中では、「石上中納言には、燕が持っている子安貝を一つ取ってください。」とあり、「燕が、卵を産もうとする時は、尾を上にあげて、七度回って産みおとすようです。
さて、七度回ろうとする時引き上げて、子安貝をお取りなさい」と出てくる。
本来、燕は、生殖の神秘力を備える安産の象徴の鳥とされていた。また、子安貝は宝貝の一種で光沢があって綺麗な貝です。この貝の形状が女性器に似ていることから、古代人には生殖の神秘力があるものと信じられ、妊婦が出産の際に握りしめていると安産になり賢い子が生まれるという信仰があった。さらに、財産と子孫の繁栄をもたらす海の彼方からの霊鳥として、燕が登場している。
ところで、これら五人の求婚者は、「壬申の乱」を起こした大海人皇子の出身であり、この乱で敵方の大友皇子(弘文帝)が縊死した場所が「山前」とされている。
『日本書紀』巻第二十八の天武朝には
是に、大友皇子、走げて入らむ無し。 乃ち還りて山前に隠れて、自ら縊れぬ。
とあり、山前に隠れていて自ら縊死したと書かれている。
この「山前」の地名は、一般に大津市長等山(三井寺の地)や京都府乙訓郡大山崎と言われているが、私は山本村のすぐ西にある「京田辺市三山木山崎」だと以前から考えていた。その理由は、この山崎にある山崎神社の祭神に「大友皇子」と記されているからである。ここでは明治年間に古墳を開覆の時、金環一個(田辺町指定文化財)と多数の土器が出土している。また古老の話によると、明治の始め頃に付近から多数の勾玉が出土したと伝えられている。
明治の『山崎神社由緒取調書』によると
山城國筒城郷佐賀酒屋荘山佐奇の神社は八皇子神社と称せしも、今は山崎神社と改む。本社に二神有す。神体に石棒を祭る。
とあり。
(伝説)本社の石棺の上に柏の老樹あり、其の大きさは壱丈八尺余り、今は朽ちて跡を絶つ。近江朝弘文帝(天智天皇の皇子、大友皇子)の御崩御の地たる事を言牌に伝う。然れども何れなるか知られざりしも、明治二十年(一八八七)二月本社霧覆(むふく)修繕の際、したの土台を発覆したる際、その下に石棺有る事を始めて発見す、依って歴史を見るに山崎に帝(弘文帝)崩じ賜う事見る、依って霧覆そのままにして、再三京都府御陵局へ出願致したるも功を見ず
と記されている。 (「山崎神社の祭神について」中川武司から)きました。
つまりこの山崎の地は、壬申の乱で亡ぼされた一族らが住んでいた所と考えられる。物語の中で「壬申の乱」の功労者を、あざ笑うかのように面白可笑しく登場させたのは「富と権力だけが全てではない」ということを作者が伝えたかったのであろう。この様な考え方の発想が出来るのは、中央政権の中ではなく一歩離れた所にいた人物といえよう。
六、「大住隼人」の呪術と竹細工
京田辺市の北方にある大住には、祭神が月読尊・伊邪那岐尊・伊邪那美尊である延喜式内月読神社がある。この大住には九州の大隅半島から来た「大住隼人」が住んでいたところで都を防衛する朝廷の警護や貴人の警護それに諸儀式に奉仕していた。隼人の呪術は、狗の吠える真似をして奉仕していたようで、天皇が行幸する時に先頭を歩いて犬の遠吠えに似た発声をして邪心・悪鬼を払い清めていた。
『竹の民俗誌 ー日本文化の深層を探るー』 沖浦和光著によると、かつて九州南部の薩摩半島と大隅半島には、海洋の呪術や竹の技術をもつ海洋民族の隼人がいたとされている。彼らの源流は、南洋諸島の竹を細工する技術を身に付けた古マレー系の海洋民族で、日本の九州南部にたどり着き土着民となった。彼ら隼人は、畿内政権に抵抗したが破れて畿内に移住し大嘗祭などの儀式や都の防衛それに竹器を作ったりしていて天孫降臨神話を持っていた、と記している。
つまり隼人は、日向神話の海幸彦・山幸彦の神話に淵源する神楽(朝貢舞)であり日本民族芸能の源泉とされている。一般的に、海幸(火照命)は山幸(火遠理命)に救助されそれに感銘して服従を誓い、その後この様子を舞う隼人舞を演舞したとされ、これは海幸の敗北と大和朝廷への服属とされている。そして隼人の盾は、インドネシアのサダン・トラジャに伝わる高床式住居の妻側壁面に取り付けられている彩色彫刻の模様と一致しているし、盾の形も良く似ている所から同様のアニミズム(精霊信仰)と考えられる。 隼人は、六世紀頃に薩摩半島南部から畿内の各地に移住して大和朝廷のさまざまな儀式に奉仕した。文献で「大隅隼人」が登場するのは、 『日本書紀』巻第二十九の天武十一年(六八二)に
「隼人多く来たり、方物を貢す。是日、大隅隼人、阿多隼人朝廷に相撲す」秋七月の壬辰の朔甲午に、隼人、多に来て、方物を貢れり。是の日に、大隅の隼人と阿多の隼人と、朝廷に相撲る。大隅の隼人勝ちぬ。(中略)戊午に、隼人等に明日香寺の西に饗たまふ。
とある。
これは天武朝のころと考えられ、隼人が多く来て方物を献上して大隅の隼人と阿多の隼人が相撲をとり、さまざまな楽を奏したと書かれている。
つまり南九州の隼人の一部が現在の京田辺市の大住に移住し、宮廷の儀式の際の歌舞や警護にあたったといわれている。この大住の南方に位置する薪の堀切(7号墳から出土した6世紀の武人)埴輪は、顔にいれずみが施された大変貴重なもので、その特異な風俗から海洋民族の隼人との関連性が注目されている。
また『職員令』第二十八「隼人司」(「養老律令」)には「…竹笠造り作らむこと」とあり「隼人」が竹笠を作っていたことが記されている。
京田辺一帯は、『竹取物語』に登場する真竹が多くあり戦前までは多くの人達が竹細工をしていた地域である。綴喜の竹は笛工の居住でも知られる一方、京田辺市天王では、現在「山城松明講」による奈良東大寺二月堂の「お水取り」に使う竹送りをしたり、茶道家元の初釜茶筅を代々作っている家もある。
七、「不死の山」は「甘南備山」
『竹取物語』の中で、八月十五日の夜、帝の軍兵の護衛をよそに、天の羽衣を身につけた姫は、帝へ不死の薬を残して昇天する。そして終末でかぐや姫に去られた帝が、富士山頂で姫が遺した手紙と不死の薬を焼かせる。
これは天に最も近い駿河の富士の山頂で、天上にいる姫に届けよと使いの者に焼かせてしまったもので、天人女房譚としての羽衣説話、地名起源説話であるが、私は、物語の中でこの部分は、後日談であり付け足しのような存在と考えている。
京田辺市の北西に位置する甘南備山は、そびえ立っていて富士山に似た山
である。山頂にあった延喜式内甘南備神社は、かつてそこから月読みの神を迎え麓の延喜式内月読神社にお祭りしていたことから天孫降臨神話の伝承が見られる。
不死の薬については、不老長寿の仙薬として帝に不死の薬を残してかぐや姫が昇天しているが「かぐや姫のいない世に不老長寿の不死の薬などいらない」といって駿河の富士の山頂で焼かせてしまった。実際、仁明天皇は、玉石類を調合した丹薬を服用していたようで、その時代の風潮が『竹取物語』の不死薬を生みだしている。
物語の中では、当時白煙を上げていた「駿河の富士の山」を想定しているが、作者は、京田辺の甘南備山の信仰にヒントを得て日本一高い「富士の山」つまり「不死の山」と「不死の薬」をミックスさせ、人間の永遠のテーマである不老不死を強調している。
この不老不死の薬は、異界の力下界の汚れを清める払いの意味を込めているのではないだろうか。つまり月の世界は、清らかで美しく老いのない不老不死の国であり、人間的な感性を持たない理想郷としているからであろう。
八、『竹取物語』の舞台は京田辺
『竹取物語』と似たものは、チベット地方の説話『斑竹姑娘』(田海燕『金玉鳳凰』所収)に五人の若者の求婚難題譚があり求婚者たちの失敗が竹取物語と類似している。中国で一九五十年代になって出版された『金玉鳳凰』の話が、中国に現存しているのではないかというので数年前に話題となった。もし原話があったのなら、その伝承がチベット周辺や他の地域で類話が見つかるはずなのにいまだ出てこないことから、逆に日本から伝わっていったのではないかとみる研究者も多くいる。
また中国の『後漢書』には、竹の中から人が生まれるという内容が記され、日本の『海道記』にも「竹取説話」として、かぐや姫の伝説が紹介されている。これらは、竹の筒では無く、鶯の卵から生まれたことになっていることから別個の物と解釈できる。 むしろ日本では『今昔物語集』の竹取の翁説話のように求婚者三人から、竹取物語の五人に改作されたと考えた方が妥当である。また羽衣伝説は、『近江国風土記』「伊香小江」や『丹後国風土記』「奈具社」など日本全国各地に伝承されている。『万葉集』巻十六の三七九一に「由縁ある雑歌」があり竹取の翁が出てくるが、直接『竹取物語』に影響を与えたものではないと言える。
これまで、この『竹取物語』にかかわる人達の研究や考察は、実に膨大で多岐の分野にわたっています。国文学者をはじめ歴史学者や民俗学者それに児童文学者さらには作家にいたるまで、この物語についての考究、発言が国内外で行われている。それはこの「竹取物語」が、
貴族批判・超能力・怪奇現象、異国趣味、求婚活動など、世間に古くから伝わっている話や伝承を複数取り入れるなど、物語として引き込まれる要素があり、現在の私達にも通ずる物が多くて光り輝いているからだと思われる。
私は、収集した資料を元に古文書や文献に記された地名やその背景等に基づいて推論して来た。その結果、竹取の翁がいたのは、京田辺ではないかと考え平成三年の京田辺市郷土史会『筒城』に「山城国綴喜郡山本駅と古代駅制について」の中で少し書き、その後も研究を重ねるうち、『古事記』垂仁記に「大筒木垂根王之女、迦具夜比売命」とあり、「大筒木垂根王」とその娘「迦具夜比売命」が記されていて「かぐや姫」は実在の人物であったことがわかり、田辺が『竹取物語』発祥の地であり「かぐや姫」伝説地という結論に達した。
京田辺市普賢寺の「大筒木垂根王」か山本駅の駅長それに延喜式内佐牙神社の太夫が『竹取物語』に登場する翁と考えられ、山本駅一帯は、大陸の文化や国内の伝承が行き交う重要な場所であり、過去の出来事や伝承が大変豊富であったと推定されるところから“竹取物語の里”と考えている。また大住隼人の月読神社や甘南備山それに海洋民族の隼人が呪術や竹細工技術をもっていたなど、京田辺を舞台にして『竹取物語』が生み出されたと断定して良いと考えている。
『竹取物語』の作者と推定される平安時代の紀長谷雄は、京田辺市一帯を物語の舞台にして『古事記』垂仁記の「大筒木垂根王之女、迦具夜比売命」を引用しながら古くから伝承されている日本の説話やインドそれに中国など外国の物も取り込み、また「壬申の乱」の貴公子五人を登場させたり「大住隼人」の天孫降臨神話、山本駅近くの「鶴沢の池」の羽衣伝説など、日本古来から語り継がれてきた伝承や民間説話それに民話などをそのまま真似することなく、うまくアレンジして独自な発想と展開で書き綴ったと見ている。
《参考文献》
『京都府田辺町史』 村田太平編 田辺町役場
「『竹取物語』“かぐや姫の里”京田辺」 編集・発行 京田辺市郷土史会
『竹取物語』 山岸徳平・田口宿庸一著 法文社
『新潮日本古典集成 竹取物語』 校注者 野口元大
新潮社
『柳田國男全集 第九巻 昔話と文学』 柳田國男 筑摩書房
『定本柳田國男集 第六巻 昔話と文芸』 柳田國男 筑摩書房
『物語史の研究』 三谷栄一 有精堂
『かぐや姫の誕生』 伊藤清司 講談社
『かぐや姫の光と影』 梅山秀幸著 人文書院
『竹の民俗誌 ー日本文化の深層を探るー』 沖浦和光著 岩波新書
『花園大学研究紀要』第二十六号『斑竹姑娘』関係資料集成(続) 張喬松 曽根誠一
『花園大学文学部研究紀要』第二十九号『斑竹姑娘』関係資料集成(三) 張喬松 曽根誠一
『東アジアの日本 平安文学』論集平安文学第二号 かぐや姫の研究 二題 厳紹
『筒城』第三十六輯 「山背国綴喜郡山本駅と古代駅制について」 田辺町郷土史会
『筒城』第四十五輯 「山本村の鶴沢の池」 京田辺市郷土史会
『コミグラフィック日本の古典二.竹取物語』 構成者 辻真先 暁教育図書
『竹取物語事典』 上原作和編著 ハイパーテクスト版
「蓬莱の玉の枝考」徳島文理大学文学論叢一三号 奥津春雄
(『竹取物語』の原画、玉井芳泉)
この原稿は、京田辺市郷土史会の機関紙第74輯『筒城』2002年3月30日発行に掲載したものです。
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