"かぐや姫の里”京田辺"                Taketori okina Museum
   
竹取物語の舞台とされた京田辺は「世界遺産」にふさわしい町
 
『竹取物語の「舞台が京田辺」と判明,作者は空海で、
かぐや姫は『古事記』の「迦具夜比売(かぐやひめ)」
竹取翁博物館 国際かぐや姫学会 2012.4.30  竹取翁博物館
               
・博物館では、これからも皆様に愛されるNo1の博物館を維持してまいります
                      (京阪奈学研都市、かぐや姫と町づくり・交流会) 

『竹取物語』と「綴喜」
   2012年度より 国際かぐや姫学会「Top」 に偏向になりました。
超古代文明307 竹取物語の「舞台が京田辺」と判明,作者は空海で、かぐや姫は『古事記』の「迦具夜比売(かぐやひめ)」 竹取翁博物館 国際かぐや姫学会 2012.4.30
   【YouTube】  https://youtu.be/8VA1Gv18XQQ
     http://taketori.koiyk.com/ 
     http://taketori.koiyk.com/ootutu-shupan.html
『竹取物語』の舞台は筒木の京田辺市だと1980頃から判明ている。作者は空海だと多くの関係者や空海に詳しい方々も認められている。
『竹取物語』は、世界最古の物語りであり文学作品である。歴史的事実として、過去のある時点で実際に起こった出来事を物語に託して記した作品である。しかし、空海は朝廷に深く関わっていたので表だっては言えない立場だったので、物語りとして、過去の伝聞を表す助動詞「けり」を用いて、過去のある時点で実際に起こった出来事を語るのだという形式で語っている。すなわち、虚構のように見せかけて、事実あった出来事を語るという形式を取っているのである。
この具体例として、五人の求婚者の名前の問題が指摘できる。夙に、加納諸平が『竹取物語考』(竹取物語古註釈大成 昭和54)で指摘しているように、『竹取物語』の五人の求婚者名と「壬申の乱」の功臣とに名前の一致が見られる。それを記すと以下の通りである。
  石作皇子 ― 丹比島
  庫持皇子 ― 藤原不比等
  阿部御主人 ― 阿部御主人
  大伴御行 ― 大伴御行
  石上麻呂足 ― 石上麻呂
石作・庫持の両皇子の比定についての詳しい説明は、発行『竹取物語 現代考 原文・注釈・現代語訳・解説付き』小泉芳孝著「大筒木出版」2012年2月(平成24年)を見て頂ければ明らかである。http://taketori.koiyk.com/ootutu-shupan.html
 特に石作・庫持の二人の皇子の名前は、難題の品「仏の御石の鉢」との関連から「石作」となり、「蓬莱の珠の枝」が金銀・真珠からなる高価な品物であることから「庫持」となったというが、詳細は、最新作の『竹取物語 現代考 原文・注釈・現代語訳・解説付き』を見ると実に明快なのである。また、名前がほぼ一致する残る三人の求婚者名については、『竹取物語』執筆時点までには没落してしまった氏族であり、彼らの難題入手の失敗過程を描くことによる政治批判に終始している。彼ら「壬申の乱」の功労者三名の名前は、『竹取物語』の時代設定が従来は奈良時代であるとされたが、主人公はあくまで「かぐや姫」であり、また「竹取の翁」と「媼」なのであり、貴公子と言う愚かな人物(現在では政府の閣僚クラス)を意図的に持ち出してあざ笑っている材料に使っただけなのである。
 これ以外に、『竹取物語』の舞台設定が何処であるのかをぼかして明確にしていないのである。むしろ、平安京を舞台にしていたことの方が物語の中身に対して重要であり、その他の色々な表現から明らかとなるのである。
 ①名をば、讃岐の造となむいひける。 (「さるきのみやつこ」はあるが「さぬきのみやつこ」は何処の写本にもしるされていない)
 ②この子いと大きになりぬれば、名を、三室戸齋部の秋田をよびて、つけさす。
 ③三年ばかり、大和の国十市の郡にある山寺に、賓頭盧の前なる鉢の、ひた黒に墨つきたるを取りて…。
①は、かぐや姫の養父となる竹取の翁の名前であり、「讃岐」は、氏族名称か地名のいずれかということになる。本文中には、紹巴奥書本では「さるき」、天理図書館武藤本では「さかき」とあって、「さかき」とは何処の諸本にも書かれていない。
つまり「さるき」は「さぬき」に同じとこじつけている。「ぬ」は「る」に音訛すると一部の国文学者や大手出版社は記しているが、歴史学者からはまったくのこじつけで「さぬき」説は歴史学者から消えた」とされている。故に「さかきのみやつこ」の方が、文面からしてふさわしいのである。
そこで、大和国にこの地名を捜された方がいて「広瀬郡散吉郷(「さぬき」と無理やり読んでいる)」(北葛城郡河合町)とでっち上げられた。ここには、讃岐神社があり、ここを以て竹取の翁の居住地とするのが、従来の通説であった。
しかし京田辺説が出てきて大手出版社説の「さるき」は「さぬき」に同じという広陵町説はこじつけで「さぬき」説は消えてしまった。のである。しかし、ウィキべディアに再三主張しているが、御目付役が何回も出て来てそれらを訂正し追加しようとしていない。
②は、かぐや姫の命名を「三室戸齋部の秋田」が命名したというのだが、秋田の居住地「三室戸」については、『竹取物語 現代考 原文・注釈・現代語訳・解説付き』が指摘するように、「三室戸」も「みもろ」と同じだとして、三輪山を指す『新編日本古典文学全集本』というが、とんでもない間違いをしている。「みもろ」は、京田辺の甘南備山(日本最初のピラミッド山)なのであり、奈良の三輪山より古いのである。このかぐや姫の里である筒木の京田辺市は、日本の古代史にとっては、奈良よりも古い伝承があり大変重要な物部氏のニギハヤヒ尊が石船神社に降臨して生駒にいた縄文人でもある長髄彦の娘と結婚して、その後に「登美」という京田辺と奈良の県境に根拠地を築いていることからも大変重要なのである。また、決定打は、宇治に「三室戸」があり、そこにかぐや姫の名付け親の忌部氏がいたので、「奈良を舞台」としただけでは無く、物語の出来た嵯峨天皇の「平安時代」初期が大変重要であり通説となりました。
③は、求婚者石作皇子が、かぐや姫には天竺に「仏の石の鉢」を取りに行くといって、実は「十市の郡」の小倉山に隠れていたというのである。偽物の「仏の石の鉢」を、その山寺から調達したというこの叙述で気になるのは、『竹取物語』の舞台が大和国と見られるが「十市の郡」と記しているだけである。「十市の郡」は難題の「インドのみいしの鉢」が出てくる部分だけであり、本来の舞台は『竹取物語』が漢文で書かれた平安時代の初め嵯峨天皇の頃を重要視し想定しているのである。従来説は現存している『竹取物語』が「崩し字のひらがな」だったが、良く読むと本来は宣明体の漢文で書かれていたことが判明している。故に、NHKが述べていた作者の紀貫之説は平安時代の中期以降であることが判明したので紀長谷雄と訂正したが、難題の品を持ち出すのに日本にいただけでは書けない品なので、当時国際都市であった長安へ遣唐使で行った国際派の弘法大師・空海説でなければ考えられない品なのである。空海説の諸説については、上記『竹取物語 現代考 原文・注釈・現代語訳・解説付き』や、その後の研究発表を参照されたい。http://taketori.koiyk.com/

以上、『竹取物語』の地名や文体それに準ずる上記三例を例に出して、物語の舞台が京田辺の筒木を舞台として平安京の京都を中心に空海が記したことを述べた。これらは、既に30数年前から定説化していることであり、今後ともにこれが変わることはない。
その他に、5人の貴公子は「壬申の乱」で登場しているが、古事記に記す「かぐや姫」の父に「大筒木垂根王」がいて京田辺市普賢寺に古墳があり、古文書も代々伝えられた物もあり、「舞台が京田辺」だと言うことが判明している。この『竹取物語』は、「壬申の乱」で活躍した貴公子を痛烈に批判しているのであるから、舞台は大和国よりも平安京の山城や筒木に深く関係してことが明らかなのである。また、嵯峨天皇に仕えた「薬子の変」を作者・空海が祈祷で納めたということもあり舞台は平安京に深く関係していることが判明している。
■竹取物語の作者~空海説について(その1~6)
   http://blogs.yahoo.co.jp/miya09132001/35779522.html
■竹取物語の作者~空海説(博物館で1~6をまとめた物 )
   http://taketori.koiyk.com/haku-kukai.html

上記の詳細を知りたい方は、
 『竹取物語 現代考 原文・注釈・現代語訳・解説付き』
      小泉芳孝著「大筒木出版」2012年2月(平成24年)発行
   定価6000円+税→博物館特価5500円(税別) A5版 447ページ 
    (本の郵送料500円と消費税含みます)郵便振込のみ合計6000円
    http://taketori.koiyk.com/ootutu-shupan.html
「国際かぐや姫学会」と「竹取翁博物館」 http://taketori.koiyk.com/ 
copyright(C)2013 World Meeting Corp Kaguya-hime Japan Kyoto All Rights Reserved..


京都学派の重鎮 吉田金彦先生、『竹取物語』の場所は京田辺市山本、作者空海に合致!!
  京大国文「第110 訓点語学会」で画期的な発表!!
   訓点語学会HP  http://www.kuntengo.com/happyo.html
場所・日程2014.5.2513時半 於京大文学部 3講義室(吉田キャンパス内)
 
京大国文「第110 訓点語学会」での吉田金彦先生発表からレジュメ頂いた。
その研究発表内容によると題名は
  「名義抄「カガヤク(『求』の下に『糸』)」和訓のその後を追う
       ―原作竹取物語と天神山について―
である。レジュメでは、小泉氏の『竹取物語』の場所は山本は地理的に有利、適合地で真実性がある。作者空海作は東寺の『類聚名義抄』歌垣をした場所で「求婚」というカガヤク」の字があり竹取物語に通じる語源「光りカガヤク」と合致!! 京田辺市三山木高木の天神山と天神社が歌垣をした場所で「求婚」を現して等の発表をされます。

詳細については、下記を御覧下さい。 
110回訓点学会」で京都の重鎮 吉田先生が画期的な発表をされた。
京大国文「訓点学会」③ 『竹取物語』場所は筒木の山本と発表!
【YouTube】京大国文「第110回訓点学会」
 ① http://youtu.be/98oAJl-5wFU 館長が名義抄発表を取材! 
 ② http://youtu.be/IDqPkvEmw4M 『竹取物語』山本、作者空海
 ③ http://youtu.be/0s19NcmHOTs 『竹取物語』筒木の山本と発表!
 ④ http://youtu.be/8vu4RPjrk2Y 東寺の名義抄の発表直後に取材!
 ⑤ http://youtu.be/gy6QEh495Eo 総集編(名義抄・舞台・空海)
京大国文「第110回訓点学会」で京都の重鎮 吉田先生が画期的な発表をされた。
吉田先生は、『竹取物語』の舞台 山本が地理的に適合地で有利、真実性がある。「迦具夜比売命(かぐや姫)」の「竹取物語の舞台」が京田辺市であるという貴方の説に賛同します。
 また、『竹取物語』の作者空海は、東寺にあった『類聚名義抄』(日本最古の辞典)に「カガヤク」の字あり、作者空海作は漢文で書いたのでは!?と、述べられた。
「国際かぐや姫学会」と「竹取翁博物館」が取材 http://taketori.koiyk.com/
copyright(C)2013 World Meeting Corp Kaguya-hime Japan Kyoto All Rights Reserved.
筒木の天神社は歌垣(求婚) ①竹取物語に通じる「カガヤク」場所  (『類聚名義抄』から解明)2013.12.6
YouTube
動画 http://youtu.be/qH-lA0qW0tY  

筒木の京田辺市三山木は、竹取物語の舞台とされたところで、まさに、この京田辺市三山木地域は、世界遺産にふさわしい場所であると、吉田金彦 名誉教授が見えられました。そして、三山木高木の天神山と天神社をご案内させて頂きました。
 日本の語源学の権威である吉田金彦 名誉教授が、天神社は男女の歌垣をした場所で「求婚」を現していると発表されました。この地域では、20数年前から地元の京田辺市郷土史会で古代史研究が続けられていて『古事記』に登場する「かぐや姫」が筒木に住んでいて竹取物語の舞台とされた所とされ有名になっている。
  

 京都学派の重鎮で語源学を長年続けられている吉田金彦さんは、京都大学の卒業論文で京都の東寺に残されていた『類聚名義抄』を研究され卒業論文に書いて研究を続けてこられた。そして、その成果を後輩の尽力で2013年5月に『古辞書と国語』臨川書店から出版された。
 この本の中には、竹取物語に通じる「カガヤク」という語源を「光りカガヤク」とされているが本来は「求める、さがす、求婚する」というのが元の語源の意味であると述べられ『竹取物語』で5人の貴公子が求婚に訪れることと深い関係があると述べられている。
 この『類聚名義抄』は、東寺にあった物で弘法大師・空海が開いた場所でもあり遣唐使で中国の長安へ行ったときに持ち帰り作られた可能性もある。 

 京田辺市にある竹取翁博物館の小泉館長は、竹取物語の作者を空海と述べていて、その場所も京田辺市で密教寺院が多くあり深く関わっているのではないかとみておられます。
 その三山木の場所に天神社があり、その天神川の横にある天神山には、かつて天神社があって古く弥生時代の高地制集落が現在も存在する所(卑弥呼の邪馬台国の頃の遺跡)から『竹取物語に登場する恋愛の場所であった』
という重要な地域となるであろうとされ話題になっている。
 
「竹取物語かぐや姫サミット」には、かぐや姫美術館の山口館長さんが広島から参加頂きました。(上の写真右側)その時に7市町で「かぐや姫サミット」の地域間交流しているが、本命は京田辺市が発祥地だと断言された。
山口様は、京田辺舞台説を15年ほど前に聞いて見に来られ「きっちりとした説をお持ち」だとびっくりしてお帰りになられていた。そのご縁で山口様が収集された「竹取物語の古本」の写真を今回の「サミット特別展示物」として提供して頂き会場で皆さんにみて頂きました。
 また、大阪・徐福友好塾主宰 代表鳥居貞義様(上の写真左側)からは、 「2周年おめでとう御座います。今後末永く続く為の基盤が出来たこととして誠に意義深いことと存じます。 (中略) 
 神話はどのような時代背景で生まれ、どのように伝搬したかが研究の対象となります。
 そのためには、竹取翁博物館のような施設が是非必要であり、それが民力すなわち、 民間人の力でできあがったことに敬意を表します。」という丁重なメッセージを頂きました。
平成26年(2014)2月1日 天の川七夕星まつりの会 代表 大阪・徐福友好塾主宰 鳥居貞義
 
竹取翁博物館で2014.2.1に開催された「国際かぐや姫学会」と「竹取翁博物館シンポジウム」では、京都学派の重鎮で語源学の吉田金彦名誉教授から、「奈良・平安時代の歌垣(求婚)」について東寺に残されていた『類聚名義抄』を初披露されました。
 ■吉田金彦さん・・筒木の「竹取物語の舞台」説は正しく賛同する! 
『古事記』の「大筒木垂根王」と「大筒木真若王」の「筒木」は、継体天皇の筒木宮であり山城国のことである。
「迦具夜比売命(かぐや姫)」の「竹取物語の舞台」が京田辺市であるという貴方の説に賛同します。
吉田氏紹介-語源研究の第一人者。京都大学文学部卒業。専攻:国語国文学。京都府立女子短大教授、大阪外国語大学教授など歴任。姫路独協大学名誉教授。現在: 日本語語源研究会代表、京都地名研究会代表理事。著書:『日本語語源学の方法』
『古代日本語をさぐる』『古代日本語を歩く』『京都滋賀 古代地名を歩く』『ことばのカルテ』『埋もれた万葉の地名』他多数。
                       
〈参考〉吉田先生の過去の研究発表(HPバックナンバーから)
 ・ 類聚名義抄の「窳」の和訓イシマについて   吉田金彦
  ・「かたびら」の謎  ―地名と訓点語はなぜ共用されたか      
  ・家持の語法 ―「心つごく」は歌語か訓点語か―           
  ・憶良の語法 ―くれくれと―                  
「国際かぐや姫学会」 http://taketori.koiyk.com/
 copyright(C)2013 World Meeting Corp Kaguya-hime Japan Kyoto All Rights Reserved.


 同様の状況証拠を指摘すれば、帝は、翁邸にかぐや姫を実見しに行く口実として、御狩の行幸を提案する時、「みやつこまろが家は山もと近かなり」と発言する。「山もと」については、『続日本紀』和銅四年条に「丁未。始置都亭駅。山背国相楽郡岡田駅。綴喜郡山本駅」とあって、当時既に「山本」という地名が存在したことが知られる。そうした地名が存することは、そこが京田辺市にある甘南備山のご神体山、大住隼人の「月読神社」の山麓に位置する土地であることを意味しており、「筒木」は「山もと近かなり」という条件を満たす地域であることが知られるのである。
 また、既に本田義憲氏「かぐや姫の家」(叙説 昭和54年)が詳述されているが、かぐや姫の故郷である「月」と関わりのある、「月神」を祀る式内社が山城国に三社あり、そのうちの「月読神社」「樺井月神社」の二社が綴喜郡に祀られている。そして、南山城地域で「月神信仰」が盛んであったことを、史料を捜して述べておられる。こうしたことも、かぐや姫と竹取の翁の出会いが構想された地として、「綴喜」の方が相応しいことの傍証にはなるであろう。
 以上、(注」大手出版社が過去に述べられていることが間違っている。)既に指摘されていることを主として整理しながら、竹取の翁の居住地は、翁と姫の命名の経緯から判断して、「綴喜」がモデル地であった可能性について、状況証拠を三点指摘してみた。
 すべては、今後の状況証拠の積み上げ、換言すれば、古代における「綴喜」の位置と役割の解明にかかっているのであり、そのための契機となることを願って、大雑把なまとめを試みたに過ぎない。
       三 作者と『古事記』
 尚、一点だけ、補記しておきたい。
 それは、『竹取物語』の作者が、翁と姫の名前を『古事記』から引用した問題である。平安期において、正式の歴史書は『日本書紀』(注 『日本書紀』は再版では間違いが多いと指摘され『古事記』の方が正しいといわれている)であり、『古事記』が参看されることはあまりなかったようである(『古事記』の注釈書である『古事記裏書』は、十四世紀の成立)。
 物語の作者層は、男性知識人であり、『竹取物語』の作者も、五人の求婚者に与えた難題や女仙伝の記述を踏まえた叙述から判断して、大学寮で学んだ人であることは疑いない。当時、史書としての『古事記』の位置付けが低かったことは、間違いないが、接触の場が全くなかったともいえまい。その辺りの状況が掴みにくいのだが、『古事記』が注目される契機となる出来事の一つに、「読日本紀」、すなわち『日本書紀』の講筵が考えられよう。これは、「先朝之故事」を学ぶために、公卿殿上人を対象として、嵯峨天皇の弘仁三(812)年よりおおよそ三十年ごとに、数年をかけて実施された。(注」竹取翁博物館では、嵯峨天皇に慕われた弘法大師・空海が作者と主張している)
 実施開始年は、承和十(843)年、元慶二(878)年、延喜四(904)年、承平六(936)年、康保二(965)年であり、『竹取物語』の推定成立時期である貞観年間(859)から延喜九(909)年を重ねると、元慶二(878)年、延喜四(904)年が重なってくる。時期的には、元慶二(878)年の方が妥当性が高いようにも思われるが、その頃大学寮に学んだ人物を調べると、紀長谷雄がいる。これまでも、『竹取物語』の作者に擬せられてきたが、貞観十八(876)年文章生、元慶五年文章得業生になっている。
 こうした長谷雄の経歴と、『日本書紀』の講筵を準備し、担当したのが、大学寮の構成員であることを勘案する時、準備に従事する過程で、補助史料として『古事記』を手にした可能性は、十分考えられてよいように思われるのであるが、如何であろうか。
(そね・せいいち/花園大学教授)

追記
竹取翁博物館では、 国際かぐや姫学会を立ち上げ「かぐや姫サミット」を開催し、また京都地名研究会の名誉会長吉田金彦先生の京都大学での発表により、舞台が京田辺の三山木であり、また博物館の小泉館長の「竹取物語の作者が弘法大師・空海」の発表もあった。

 NHK文化センター講師が「文学の旅探訪」下見で「本格的な博物館に驚嘆」2014.5.21
 YouTube  http://youtu.be/lzzSf9oagP8 福山から第3回文学の旅「京都
(京田辺・大原野・大山崎)の探訪」
2014.6.22開催の下見で竹取翁博物館を訪問されました。

 新しい情報は、   2012年度より 国際かぐや姫学会「Top」 に偏向になりました。


竹取物語シンポ「物語の発祥地」強調! 『竹取物語』発祥の地は "京田辺”その二 
  メインに戻る 



竹取翁博物館大筒木出版 「国際かぐや姫学会」movie
  
場所:〒610-0313京都府京田辺市三山木直田10 代表者小泉芳孝
  JR片町線「JR三山木駅」東へ徒歩3分  近鉄京都線「三山木駅」東へ徒歩2分 Mail koiy@leto.eonet.ne.jp
  
TEL・FAX 0774-62-2522 携帯 090-6961-9391 HP http://taketori.koiyk.com/
  ここに掲載の写真および記事の無断転載を禁じます。yk 
   copyright(C) 1999 Yoshitaka Koizumi. Corporation Japan. All Rights Reserved.