"かぐや姫の里”京田辺"                Taketori okina Museum
   
竹取物語の舞台とされた京田辺は「世界遺産」にふさわしい町
竹取翁博物館を訪ねて(京都府京田辺市)
 竹取物語の作者は空海 確定!!
 入館者の方へ 竹取翁博物館
   竹取翁博物館 館長から…
   
 以下のブログは、たまたまヤフーのブログを発信して同様の「空海説…」を書いて
     おられたので読むと
、当「竹取翁博物館」へ来られた方が、館長の説明を聞かれて
     独自に作成された
ものです。
     中身もすばらしく当館の説をふまえて判りやすく書かれていたので、博物館のホーム
     ページに入れさせて頂くことにした。

全日開館として全て予約制(電話)により開館へ (2014年10月24日~)
当博物館は、2013年2月1日に開館して2年半となり当初目的を達成しました。
今後は開館日を全日として全て予約制(電話)にします。但し、本館入口左にあるインターホン両方を押して頂き館長が館内にいる時は、見学可能です。なお、お盆と年末年始は休館させて頂きます。

 他に、訪問される小学生迄の方はご両親または先生と一緒にお越し下さい。出来ない時は両親か親権者等の「承認書」を持って来て下さい。また、博物館の記録用として写真を撮らせて戴きますのでご協力お願いいたします。

 
   
世界の宗教界に大衝撃!! 空海には「愛する人がいた」初公開の本を出版(限定販売) 竹取翁博物館 2016.2.18
イメージ 1 詳細を知りたい方は、下記の本をお求めください。残部200冊の「大筒木出版」限定の直接販売です。増刷の予定はございません。
竹取物語から古代歴史を探る (数百冊の限定販売)残部200冊のみ  
 http://taketori.koiyk.com/ootutu-sekaibun.html
日本は世界文明の発祥地
日本のルーツ“ムー大陸と里帰り”② (定価3500円)
著 者 小泉 芳孝  発行者 竹取翁博物館 (国際かぐや姫学会)
発行所 大筒木出版  2016年2月1日 第一刷発行
 定価3500円+税→博物館特価3500円(税込) A5版 約234ページ 
    (本の郵送料と消費税含みます)郵便振込のみ合計3500円
 
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『日本は世界文明の発祥地 日本のルーツ“ムー大陸と里帰り”②』(定価3500円)
     著 者 小泉 芳孝  発行者 竹取翁博物館 (国際かぐや姫学会)
     発行所 大筒木出版  2016年2月1日 第一刷発行
   定価3500円+税→博物館特価3500円(税込) A5版 約234ページ 
     (本の郵送料と消費税含みます)郵便振込のみ合計3500円
   残部180冊ほど


    第4章、五色人の世界移動
    第5節、『竹取物語』の作者、弘法大師空海  ページ191~210
合わせて、
 『竹取物語 現代考』定価6000円→5500円(税込)+送料500円
 を、お求め頂くと詳細がお判かりいただけると思います。
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■上記の日本は世界文明の発祥地
    
日本のルーツ“ムー大陸と里帰り”② (定価3500円)
    博物館での販売と「郵便振込」のみです、
     定価3500円+税→博物館特価3500円(税込) A5版 約200ページ 
    (本の郵送料と消費税含みます)
郵便振込のみ合計3500円

      残部150冊ほど

 『郵便振込』講座番号 00920-7-40389
             加入社名 小泉芳孝
             通信欄 を必ず記入

    名前
    郵便番号 
    住所 
    電話番号 FAX番号 
    Eーmail
上記「振込」当方到着は5日程かかります。故に本の到着は2週間程見ておいて下さい。   ※お問い合わせは、ここへメールをお送り下さい。 
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参考
 プログラム基調講演 シンポジウム 竹取翁博物館 別館①かぐや姫館  
 (出版記念シンポジウム) 開催日 2016年2月14日(日) 終了しました。
竹取翁博物館4周年記念イベント(国際かぐや姫学会) Taketori okina MuseumWorld Meeting Corp 
○竹取物語「第4回かぐや姫サミット」Kaguya-hime Summit Vol.4
竹取物語から古代歴史を探る
日本は世界文明の発祥地 (出版記念シンポジウム)
①竹内文書と民俗探訪から(定価3500円)
②日本のルーツ“ムー大陸と里帰り”(定価3500円)
 
 
  シンポジウム開催 
9:30 基調講演  受付9時~
        小泉芳孝「竹取物語から見えてきた日本のルーツ発見」
竹取翁博物館 (館長) 専門分野:民俗・郷土史・古代史・地理
10:30 シンポ (パネラー発表)  別館内に「貴重資料」展示
     武内勝信「竹内文書の古代史」 (武内宿禰の末裔)
11:00   勝 信貴「ムーと邪馬台国、中国夏・殷王朝」(古代歴史研究家)
11:30 シンポジウム①  
        司会 小泉芳孝(日本民俗学・郷土史)
     (パネラー) 武内勝信・勝 信貴・小泉芳孝
開催場所:竹取翁博物館、別館①かぐや姫館「かぐや姫サロン(茶論)&カフエ」  
      〒610-0313 京都府京田辺市三山木直田4-2 
http://taketori.koiyk.com/haku-nyukan2.html
http://taketori.koiyk.com/take-aisatu.html
http://taketori.koiyk.com/haku-4samit.html
 http://taketori.koiyk.com/haku-4shinpo.html............................................................................
大発見!! 超古代文明 「真正天叢雲剣」日本初公開!! 日本は世界文明の発祥地。勝 信貴。キングコブラ
超古代文明 120 サミット⑨「真正天叢雲剣」日本は世界文明の発祥地。勝 信貴。キングコブラ。竹内文書、神武以前、神代文字、古事記 竹取翁博物館2016.2.14
  【YouTube】
               https://youtu.be/CryOhYYOc_M
               https://youtu.be/0eQhIKGvlh8
               https://youtu.be/zhANpq3AY14   
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超古代文明 121 サミット⑩「邪馬台国は奄美」日本は世界文明の発祥地。勝 信貴。南西諸島、竹内文書、人類の最初、古事記 竹取翁博物館2016.2.14
  【YouTube】https://youtu.be/IljR4B-Smzo
超古代文明 104 君が代「ムー、さくらさくら、竹内文書、民俗、邪馬台国、神代文字、数十兆円、歴史は­科学」前人未踏、古事記・アカデミック 竹取翁博物館2016.2.8  【YouTube】 https://youtu.be/YdHGtR560dY
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超古代文明 103 夜明は何処から?「竹内文書、ムー、民俗、邪馬台国、神代文字、数十兆円、歴史は科学」前人未踏、古事記・アカデミック 竹取翁博物館2016.2.8
  【YouTube】 https://youtu.be/M0e66I0TH78
超古代文明 112 サミット①「日本は世界文明の発祥地」中継。シンポ、竹内文書、神武以前、五色人、神­代文字、古事記 竹取翁博物館2016.2.14
【YouTube】https://youtu.be/UFT5k3jfMDY
                   https://youtu.be/zhANpq3AY14
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上記、新刊本 限定販売 ➡ http://taketori.koiyk.com/ootutu-sekaibun.html
(残部200冊のみ)

ついに大発見 日本初公開!!
  超古代文明 119 サミット⑧「真正天叢雲剣」日本は真正天叢雲剣中継。勝 信貴。シンポ。竹内文書、神武以前、五色人、神代文字、古事記 竹取翁博物館2016.2.14
  【YouTube】https://youtu.be/zhANpq3AY14
http://taketori.koiyk.com/ootutu-sekaibun.html

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「大筒木出版」大筒木出版 「国際かぐや姫学会」movie
  場所:〒610-0313京都府京田辺市三山木直田10 代表者小泉芳孝
 JR片町線「JR三山木駅」東へ徒歩3分  近鉄京都線「三山木駅」東へ徒歩2分
    TEL・FAX 0774-62-2522 携帯 090-6961-9391 
 HP http://taketori.koiyk.com/    Mail koiy@leto.eonet.ne.jp
こに掲載の写真および記事の無断転載を禁じます。yk  更新2016年2月18日
copyright(C) 1999 Yoshitaka Koizumi. Corporation Japan. All Rights Reserved

【内容項目】 誕生 キリスト誕生 聖書 イエスの復活 作者空海 奈良 大安寺 海外 僧侶 サンスクリット ゾロアスター教 ヘブライ語 勉強 遣唐使 古神道 三教指帰 竹ノ内文書 物部 空海 徐福 古神道 シュメール ギルガメシュ イスラエル ユダヤ人 レビ族 大伴 佐伯 物部 加茂 賀茂 陰陽道 弓月君 キリスト 新約 旧約 竹取翁博物館 竹取翁博物館 ヒンズー 佛教 神道 拝火教 密教 景教 原始 儒教 訪問 国際都市 長安 遣唐使 派遣 弓月君 大秦寺 原始 景浄 復活 ヒストリー、チャンネル、エイリアン,宇宙人,異星人,ピラミッドの謎,ナスカ地上絵,UFO,卑弥呼,銅鐸,弥生時代,南太平洋,世界最古 神々ゲーム,異星人,遺伝子工学,マヤ文明,インカ帝国,奴隷,DNA,核兵器,大西洋の謎(Bermuda)バミューダ ゾロアスター ,古事記の謎 出雲大社 戦争 GOD,古代ギリシア人,爬虫類 悪玉,シュメール文明,土偶,地球,出雲、諏訪、宝巖寺、大蛇の国々,鳥頭人間,計画都市,支配者,ダビンチ,エイリアン基地,ミケランジェロ疑惑,ライン理論,ガンダーラ仏ギリシア像,兵馬俑兵士,UFO目撃報告,縄文文明は環太平洋文明の発祥地,北朝鮮 普賢寺 籠宮 元伊勢神社 楊貴妃と熱田神宮 ロシアに墜落 小惑星 イースター島 モヘンジョダロ謎線,イスラムの謎 Islam 神々の幾何学,聖徳太子の正体,ヤンシャオ,謎の石画,縄文土器,長頭人間,アマテラス,フリーメーソン ヨーロッパ,,宇宙人 与那国島,レプティリアン,謎の巨石,アポロ,マレーシア航空機,ナチス・ドイツ,古墳,釈迦哲学,地図,謎の物体X,猿石はエンリル,エホバ,トーンヘンジ,イースター島モアイ,スコットランドの縄文土器,ビィーナス
 
  竹取翁博物館から…
 下記につきましては、竹取翁博物館の館長が2012年頃から竹取翁博物館で述べていたものです。
それまでにも色々な空海説を博物館で説明していました。ここに記されている内容の殆どの弘法大師・空海説は、博物館のホームページやブログそれにユーチューブで主張して参っています。
 その後、2014年2月の「かぐや姫サミット」で、空海の『三教指帰』により『竹取物語』は、空海であることが確定的になったと言うことを小泉芳孝館長から発表されました。
 ここで述べていたたいている内容は、どちらかというと竹取翁博物館の小泉館長説の「盗用」と取られますが、博物館の発表をふまえて、詳細に検討され記されている物ですので、博物館に見学に来て頂いて詳細な研究活動を展開されていることに対して応援させて頂きます。また、これらの主張に対しては、是非、小泉館長宛にご意見ご希望を電話やメールなりでお送り頂ければ幸いです。
  なお、下記の説や文章並びに漢字等に関しまして間違い等見受けられますが、宮口善通さんが記されたそのままを掲載させて頂いています。ご了承下さい。

【注記】以下の内容についての参考文献としては、
  
      
竹取翁博物館開館時の2012年2月1日に発行した時の常設展解説書として出版した
『竹取物語 現代考 原文・注釈・現代語訳・解説付き』
       
http://taketori.koiyk.com/ootutu-shupan.html
           定価6000円+税→博物館特価5000円(税込) A5版 447ページ
   
      (本の郵送料500円と消費税含みます)郵便振込のみ合計5500円
 
を。参照されたい。
 
また、『三教指帰』(その13) については、
 竹取翁博物館2周年記念イベント
(国際かぐや姫学会)
として開催した
 
 

  「竹取物語かぐや姫サミット」

  『竹取物語』の作者、不死薬、罪の謎を解く
の時に作成した
『竹取物語かぐや姫サミット』 の冊子を参照されたい。
   
竹取翁博物館2周年記念イベント(国際かぐや姫学会) ○竹取物語かぐや姫サミット
 『竹取物語』の作者、不死薬、罪の謎を解く  開催日 2014年2月1日(土)~2日(日)
6.『竹取物語』かぐや姫サミット小泉芳孝著「大筒木出版」86ページ
 定価2000円+税
(税込)   ( 郵送料500円ご負担下さい)
郵便振込のみ
合計2500円
。 売り切れました



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『竹取物語』研究所竹取の翁 2014.10.16作成
注」この原稿は、京田辺市郷土史会の機関紙『筒城』2002年3月30日発行の為、各所に「注」で最新情報を入れました。

      
 一 物語の舞台は筒木で京田辺市

 『竹取物語』は、日本初の物語であり小説である。(一部の方は世界初の物語であると行っている。)日本の歴史事実として、過去で実際に起こった出来事を記した作品である。物語は、過去の伝聞を表す助動詞「けり」を用いて、過去のある時点で実際に起こった出来事を語っている。。
 この五人の求婚者の5人の壬申の乱で活躍した貴公子が登場する。夙に、加納諸平が『竹取物語考』(竹取物語古註釈大成 日本図書センター 昭和54)で指摘していたように、『竹取物語』の五人の求婚者名と壬申の乱に登場する名前が見られる。
  石作皇子 ― 丹比島
  庫持皇子 ― 藤原不比等
  阿部御主人 ― 阿部御主人
  大伴御行 ― 大伴御行
  石上麻呂足 ― 石上麻呂
 これら5人の貴公子は、奈良時代を持ってきているが、この部分だけが奈良時代で、そのほかは、『竹取物語』の全体から京都南部であることを明確に証明出来る。
 ①名をば、讃岐の造となむいひける。
 ②この子いと大きになりぬれば、名を、三室戸齋部の秋田をよびて、つけさす。
 ③…三年ばかり、大和の国十市の郡にある山寺に、賓頭盧の前なる鉢の、ひた黒に墨つきたるを取りて…。
   
 ①は、かぐや姫の養父となる竹取の翁の名前であり、大手出版社は「讃岐」と記すが、紹巴奥書本では「さるき」
注」「さぬき」に同じ。「ぬ」は「る」に音訛すると一部の国ブナ学者や大手出版社は記しているが、歴史学者からはこじつけで「その節は消えた」とされている。)、
天理図書館武藤本では「さかき」と「榊」であり「さかきのみやつこ」(天理図書館所蔵『竹取物語』)説が相当である。
 しかし、従来の通説は、大和国の地名「広瀬郡散吉郷」(北葛城郡河合町)と誤って想到していた。
さらに、讃岐神社(延喜式)があるが向きが「南北向きの神社」で古くないことが明らかである。
故に、これを以て竹取の翁の居住地とするには、早計である。(注」京田辺説が出てきて大手出版社説が消えてしまった。)
 ②は、かぐや姫の命名を「三室戸齋部の秋田」というが、秋田の居住地「三室戸」については、新編日本古典文学全集本が指摘するように、『万葉集』九四番歌の「玉くしげ みもろの山の」について、「或本の歌に曰く、玉くしげ 三室戸山の」とあり、「ミムロトはミモロの在る所」(新編日本古典文学全集『万葉集』)の意とすると、「三室戸」も「みもろ」と同じことになり、三輪山を指すとある。
 しかし、宇治に「三室戸」という地名があり「作者空海説にも関係した真言宗の三室戸寺」があり、そこに忌部氏がいたので、ここが通説になりました。
 ③は、求婚者石作皇子が、かぐや姫には天竺に「仏の石の鉢」を取りに行くといって、「十市の郡」の小倉山に隠れていたというのである。
偽物の光っていない「仏の鉢」を、その山寺から取ってきたのは、『竹取物語』の舞台が「大和の国十市の郡」と記していることから、物語の舞台が大和国とも考えられるが、「十市の郡」は難題の「インドの仏の鉢」だけである。
 本来舞台は『竹取物語』が漢文で書かれた平安時代の初め嵯峨天皇の頃を想定しているのであるから京都府の南部が舞台なのである。
  従来説は現存している『竹取物語』が「崩し字のひらがな」だったが、、良く読むと本来は漢文で無ければ表現出来ない「宣命体」ま部分が多くあり「元は漢文で書かれていたことが判明」している。

 故に、平安時代に嵯峨天皇の元で高雄の高山寺(当時は高雄山寺)で政務を執っていた弘法大師・空海説説が有力なのである。

 さらに、京都府の京田辺市が『竹取物語』の舞台であるという証拠の一つとしては、5人の貴公子が「壬申の乱」で登場しているが、『古事記』に記す「かぐや姫」の父に「大筒木垂根王」がいて京田辺市普賢寺に古墳があり、古文書も代々伝えられた物もあったからである。
 故に、『竹取物語』の舞台が「京田辺」だと言うことが判明した。
いままで大手出版社が記している奈良県の広陵町説は間違っていることが判明したのである。

       二 かぐや姫と「さかきのみやつこ」と「筒木」(綴喜)

 かぐや姫という名前が命名された理由は、月の都で罪を犯したかぐや姫が地上界に降ろされ光り輝く竹から誕生した。これは、イエスキリストの「復活」であると言うことが判明したのである。
 この本来「さかきのみやつこ」とあるのに「さるきのみやつこ」という意味の判らない名前の出典を最初に指摘したのは、契沖の『河社』(契沖全集第十四巻 岩波書店 74年)である。
  かくや姫の名は、『古事記』垂仁天皇段云、又娶大筒木垂根王之女迦具夜比賣、生御子袁邪弁王であった。これを承けた田中大秀『竹取翁物語解』(竹取物語古註釈大成 日本図書センター 昭和54)は、更に、次のように記している。
  この指摘は、野口元大氏校注の日本古典集成本『竹取物語』(新潮社 昭和54年)でも、継承されている。この系図を眺めていると、「かぐや姫」という一名の問題ではないように思われてくる。つまり、かぐや姫の父の大筒木垂根王の娘なら、竹の筒から生れるという想像と結びつく、また、その先祖は竹野媛なのである。(中略)  なお、ここの大筒木垂根王以下三人の名は、『日本書紀』の方には見られなので、作者は『古事記』によって迦具夜比売の名を求めたのである。
 この解釈は、雨海博洋氏訳注の旺文社文庫本『竹取物語』(80年)も述べている。すなわち、かぐや姫のなは、「さかきのみやつこ」であり、「さるき」では意味を成さないので「さぬき」に無理矢理変えて「讃岐の造」の名前とし、奈良県の広陵町説とこじつけたのである。
 本来は、竹取の翁の家は、「やまもとちかく」であり、京田辺市の山本は『続日本紀』に記している古山陽道の平城京から最初の『山本駅』が舞台なのである。
 しかし、当初大手出版社が述べていた広瀬郡散吉郷は、間違っていたということになるのである。
 さらに述べると、迦具夜比売の父である大筒木垂根王の居住地は、「継体天皇の筒城宮」のあった場所の綴喜郡の可能性の方がより高いのである。
 「大筒木」の所在地については、『古事記』中巻・開化天皇条に「又其の母の弟袁祁都比売命に娶ひて生める子、山代の大筒木真若王」(新編日本古典文学全集本、原漢文)とあり、山城国の中心で合った筒木である。ここには、奈良時代より遙かに古い青銅鏡が、明治時代に十塚古墳から出土しているし、石船神社は「にぎはやひのみこと」が降臨した場所でもあり『先代旧事本紀』にしるす「物部氏」が渡来してきたという伝承のある地域でもある。
 そのほか、『古事記』仁徳記の中で「石之日売」が嫉妬して筒木の唐人「奴理能美」の家に滞在した時、口日売が歌った有名な「山代の 筒木の宮に 物申す 吾が兄の君は 涙ぐましも」(古事記下巻)がある。この部分は、国文学を習った人達が古文を勉強する時に必ず取り上げられ「奴理能美」の邸宅は皇后の滞在に相応しい立派なもので、仁徳天皇も後日、石之日売を訪ねて行幸したところである。
 これらから「筒木」すなわち、迦具夜比売の父である大筒木垂根王の居住地である「筒木」は、山城国の「綴喜郡」にあったことが明らかなのである。
 『竹取物語』の中では、竹取の翁の家は、物語の帝と考えられる嵯峨天皇が「かぐや姫」に会いに行こうと立場上言えないので「御狩の行幸の途次に立ち寄った」のである。
 平安時代の狩り場は、交野であり京田辺へは低い山や丘を越えれば直ぐに京田辺であり、『竹取物語』を書いた作者の弘法大師・空海は『古事記』に記す大筒木垂根王の居住地である「筒木」を良く知っていたのである。

     三 舞台は、京田辺の筒木

  それでは、弘法大師・空海と筒木との関係を述べて見ることにする。それは、京田辺市天王に古くからある延喜式内・朱智神社の神宮寺を空海が日本で初めて「神宮寺を建てた」場所で「本地物を刻んだ」という古文書が見つかったのである。
  さらに、この朱智神社のご神体は牛頭天皇であり、またの名は「すさのおのみこと」なのである。その「すさのおのみこと」は、世界4代文明のチグリス・ユーフラテス川で文明を築いたシュメール人のいた場所である「スサという地域にいた王様の命」だと言うことが判明したのである。
  『今昔物語集』巻三十一に記す竹取説話には、「居所ニ宮殿楼閣ヲ造リテ、ソレニ住ミ」「家ノ有様微妙ナルコト、王ノ宮ニ異ナラズ」と記している。これから偉大な存在の場所という事が明らかである。
 つまり、日本初の『竹取物語』に相応しい場所であり、竹取の翁がいて豪華な邸宅があっても決して不思議でないことが判明するのである。
 この様に、筒木は、ただ「筒木」という字体が「筒」の「木」ということから竹取に相応しいだけではなく、古代に大変栄えた地域であり豪邸が存在していても可笑しくないのである。
 まさに竹取翁の邸宅がシュメール文明に関係した世界四大文明の所在地と「筒木」は重なってくるのである。
 帝は、竹取の翁邸にかぐや姫を実見しに行く口実として、御狩の行幸を提案する時、「みやつこまろが家は山もと近かなり」と発言する。
「山もと」については、『続日本紀』和銅四年条に「丁未。始置都亭駅。山背国相楽郡岡田駅。綴喜郡山本駅」とあって、当時既に「山本」という地名が存在したことが知られる。そうした地名が存することは、そこが京田辺市にある甘南備山のご神体山、大住隼人の「月読神社」の山麓に位置する土地であることを意味しており、「筒木」は「山もと近かなり」という条件を満たす地域であることが知られるのである。
 また、京都府城陽市にお住まいで奈良女子大学におられた頃に本田義憲氏が『叙説』(昭和54年)で「かぐや姫の家」の中で少し述べておられる。それらによると、かぐや姫の場所として「月」と関わりのある、「月神」を祀る式内社が山城国に三社あり、そのうちの「月読神社」「樺井月神社」の二社が綴喜郡に祀られている。そして、南山城地域で「月神信仰」が盛んであったことを述べておられた。当時、竹取物語研究をされていた京田辺市の小泉氏は、本田義憲先生に内容を請おうと電話したところ「若い頃に書いた物なので本当かどうか不明だが山本という地域もあり月読神社という「月」に関した神社があるので竹取物語に関係しているのでは?」という事のみを教えて頂いたのである。先生は、それ以外のことについては「判らない」という事でした。
 この様に、かぐや姫と竹取の翁に関係した場所として色々な先生方が「綴喜」という場所に注目されていたのは確かであるが「きっちりとした説を述べるまでには至っていなかったのである。
 これに対して、大手出版社の殆どは、舞台を奈良であるとされていただけにどの先生も「山城では」という程度で終始していたのである。それは京都と奈良の通過地点で歴史は何もないと言われ続けていたからで否定され続けていたのである。
 しかし、それを地元の古文書や伝承されている大変古い形を残している民俗行事を通して歴史地理学、考古学、郷土史から研究された小泉氏が、自分の住む「山本村」の古い地名から「翁の家が山本近くと合致」して『古代駅制の山本駅が中国の駅亭制」と一致したことを解明されたのである。そして、『続日本紀』に平城京から最初の山本駅と記す場所が禁手地味や巻きす記とjR見柚木駅の地下に埋もれているという事を発見し京田辺市郷土史界の『筒城』に発表された。
 その語、この駅前地域が、区画事業で駅前開発が行われることになり、京田辺市教育委員糧と京都府埋蔵文化財センターが発掘したところ「井戸の中から和同開珎、他から円面硯・須恵器・溝から祓い串・古代条里制に沿った掘っ立て柱が多数・作りかけの勾玉」等がゾクゾクと見つかり半官半民の駅長がいた古代「山本駅の跡」と判明したのである。

 
その間、周囲からは、でっち上げだ! そんな所に歴史はない! 山本駅は都にあった! 残存している古文書は「椿井氏が書いた物で疑文書!…」なので「『田辺町誌』は椿井氏が『古事記』に記されているのを書き写しただけ!!で間違っている!! 故に書き直す必要がある!!等、長い間ばか者扱いされて来たのである。
  竹取の翁の居住地は「山本駅」の発見により、翁と姫の『古事記』に記されている命名の経緯から判断して、「綴喜」がモデル地であった可能性は、もう否定出来なくなり認められたのである。
 それは、京田辺市郷土史会が開催した講演会で文献学の権威である門脇禎二名誉教授が「垂仁天皇の后に「かぐや姫の命」」がいて京田辺市の元「綴喜郡」で継体天皇の「筒城の宮」があった場所であり、これらの人物は「実在していた」と明解に述べられたのであった。
 これ以来、否定説を盛んに述べられていた方々も自ら進んで「自分が解明し発見したかのように」述べ立てられたのである。
  この講演の時に門脇禎二名誉教授は、『古事記』に記されている開化天皇以下の登場人物の系図を示しながら「山代大筒木真若王」が「大筒木垂根王」と同系列にいるので「山代」は「山城」よりも古い書き方で継体天皇の「筒木の宮」の事でありこの京田辺市の事であると明解に述べられたのである。これにより二〇年の長きにわたって京田辺市郷土史会が述べてきた『竹取物語』の舞台が京田辺であることが全面的に認められるに事になったのである。

       三 作者は、弘法大師・空海
 
  『竹取物語』の作者が、翁と姫の名前から『古事記』を引用して付けられ舞台とされるのは問題であるという主張を述べられたのが花園大学の曽根誠一教授であった。
  
つまり、平安期において、正式の歴史書は『日本書紀』であり、「『古事記』が参看されることはあまりなかった」ようであると京田辺市で開かれたシンポジウムで発表された。(『古事記』の注釈書である『古事記裏書』は、十四世紀の成立)。そして、その語の京田辺市の『筒城』の投稿でいかを寄せられたりで紹介する。
  故に、物語の作者層は、男性知識人であり、『竹取物語』の作者も、五人の求婚者に与えた難題や女仙伝の記述を踏まえた叙述から判断して、大学寮で学んだ人であることは疑いないとされ。当時、史書としての『古事記』の位置付けが低かったことは、間違いないが、接触の場が全くなかったともいえまい。その辺りの状況が掴みにくいのだが、『古事記』が注目される契機となる出来事の一つに、「読日本紀」、すなわち『日本書紀』の講筵が考えられよう。
  これは、「先朝之故事」を学ぶために、公卿殿上人を対象として、嵯峨天皇の弘仁三(812)年よりおおよそ三十年ごとに、数年をかけて実施された。実施開始年は、承和十(843)年、元慶二(878)年、延喜四(904)年、承平六(936)年、康保二(965)年であり、『竹取物語』の推定成立時期である貞観年間(859)から延喜九(909)年を重ねると、元慶二(878)年、延喜四(904)年が重なってくる。
 時期的には、元慶二(878)年の方が妥当性が高いようにも思われるが、その頃大学寮に学んだ人物を調べると、紀長谷雄がいる。これまでも、『竹取物語』の作者に擬せられてきたが、貞観十八(876)年文章生、元慶五年文章得業生になっている。
 こうした長谷雄の経歴と、『日本書紀』の講筵を準備し、担当したのが、大学寮の構成員であることを勘案する時、準備に従事する過程で、補助史料として『古事記』を手にした可能性は、十分考えられてよいように思われるのであるが、如何であろうか。  (曽根誠一 そね・せいいち/教授)

  これらの主張に対して、竹取翁博物館の本館を私費で建てられた小泉館長は、退職金及び今までにため込んだ金をつぎ込み、館長が死んだらこの「京田辺説」は、消えて日本初とされる竹取物語の舞台が「闇に葬り去られる」として数名の協力を得て一年間で建物と展示物それに『竹取物語考』『京田辺の史跡探訪』『マスコミ一代記』という三冊の五本をを完成させられたのである。
 その意気込みは、完成後の研究会に引き継がれ見事に花を開かせられたのである。
  小泉館長は、歴史学者の間では 『日本書紀』は誇張があり間違いが多いと指摘されていて、むしろ『古事記』の方が正しいといわれていると主張されたのである。
  そして、嵯峨天皇に慕われた弘法大師・空海の手で漢文で書かれたと発表されたのである。さして現存している『竹取物語』はもとの漢文を女性にも読めるように書き直した物であるという事を述べられた。一般NHKが言っている『源氏物語』の中に記されているエア早稲の牧で絵は巨瀬の近江、作は紀貫行はもとの漢文を平安中期に書き直された物で「崩し字」で書かれた物が現存しているのであるとしている。 
 これらは、館長の説として竹取翁博物館に来られた方達に「作者は空海だ」と主張し、物語に出てくる不老不死の薬から「秦の始皇帝」が徐福に命じて「不老不死の薬」を探しに奄美諸島の徳之島へ来ていることを現地調査されて述べられてもいる。
 
          四 かぐや姫の誕生は、イエスキリストの「復活」

一般に徐福が来た場所は、九州の佐賀県、本州の新宮・伊根、それに富士市などが主張されている。
  しかし、館長は竹取物語の不老不死の薬を探しに来た場所が、『竹取物語』の子安貝から南海の海で多く採取され「中国へ輸出していた」ことから、中国人がかなり古くから「東夷」は蓬莱山など三山のある奄美諸島の徳之島であることを現地の徳之島へ調査に行き突き止められたのである。
  さらに、月でかぐや姫が罪を犯したので地上界に降ろされた、そして罪をつぐなう期間が終わったので8月15日に月から迎えが来て「月へ帰って行った」と述べられたのである。
 これらのことから、かぐや姫の誕生は、イエスキリストの「復活」という事が判明したので、小泉館長は急遽イスラエルのエルサレムへを訪問された。そして、イエスが布教したイスラエルのガリラヤ湖それに死海文書が近年見つかった死海それに聖地エルサレムなどを見てこられた。また、イエスが生まれたベツレヘムの「聖誕教会」地下2階の光の輝くイエスの誕生場所である洞窟にも行かれたのである。
  そして、イエスキリストは、「人間は全て罪を犯す、その罪の全てをイエスが背負って自ら十字架に貼り付けになって亡くなって行った」ということが本当だったことを確認されたのである。
  故に、イエスが自ら十字架に貼り付けになって「3日後に復活した」という事を、博物館に訪問された人達に述べている。そして、それが変え具や姫の誕生であり、作者空海は、平安時代では表だっていえなかつたので「竹取物語」の中に封じ込めた事を述べている。
 このことが、かぐや姫の月での罪であり「かぐや姫の誕生」が「イエスキリスト」の復活であると言えるのである。これらは、博物館を建て時に常設展の冊子としてつく制した『竹取物語現代考』の中に入れ込まれているし、作者空海説についても既に述べている。そして、これらをさらに裏付ける為に1年間に渡る勉強会の成果として空海が書いた『三教指帰』を読むことによって「あるいは…」を数回繰り返す手法が強調表現を表し、音楽的効果があること、それに『竹取物語』に出てくる世界・皇帝など色々な熟語や難題の品などか沢山見いだされることから空海説が決定したという事を述べている。
   一連のこれら作者像から、弘法大師空海の出自を調べられていた小泉館長は、空海の母親の阿刀氏がシルクロード沿いのカザフスタンにいた原始キリスト教の「弓月君」であることが判明した。
  さらに、この弓月君は、イスラエルのあたりから来ていた行商人の人達であり秦の始皇帝の父親も原始キリスト教の信者でシルクロード沿いのカザフスタンあたりにいた行商人から生まれていたことも判明したのである。

     五 不老不死から卑弥呼の邪馬台国が判明

 秦の始皇帝は、二メーターの大男で青い目をしていた事が判明している。また、秦の始皇帝の命令を受けて、蓬莱山を目指して徐福が最初に行ったときに「大魚がいて上陸出来ず射手が必要だと述べ不老不死の薬を持ってくることが出来なかった」と言い訳を述べたにもかかわらず徐福だけが助けられたのは、徐福が秦の始皇帝と同じ出自だったから殺されなかったと思われるのである。
 何故かというと、秦の始皇帝は、いずれ自分も死ぬので死んでしまうと一族みんな殺されてしまう。故に今の内に自分たちの子孫を繁栄させるために中国で理想郷と昔から言われていた東の恵比寿である「東夷」へ三〇〇〇人の「童男童女」と一〇〇人の「工人」それに「五穀」を以て『魏志倭人伝』に記す倭国へ送り込んだと言えよう。
 そうでなければ、不老不死の薬を取りに行くのに三〇〇〇人の優秀な童男童女は必要ないからである。
  そして、その四〇〇年後の紀元二三〇年頃に原住民と混血を繰り返して七万戸の卑弥呼の邪馬台国が奄美諸島の徳之島を中心として誕生したのでは無いかという事まで解明されたのである。
 勿徐、徐福の人達は、さらに南西諸島を北上して九州へ行き、さらに子孫が幾内や関東方面まで移動して行ったと考えられるのである。      おわり





竹取翁博物館を訪ねて(京都府京田辺市)
   -竹取物語の作者・空海説について-

        表示名 miy?*09?1*2?*01? 名前 宮口善通 性別 男性

.2013/8/4(日) 午前 4:22 竹取翁博物館を訪ねて(京都府京田辺市)
土曜日の早朝、竹取翁博物館を見学するために京都の京田辺市へ向った。そこへ行くためにはJR線でも近鉄線でもOKなのだ。三山木駅。近鉄の方がわずかに博物館に近いのだ。
博物館というから鉄筋のビルかと思っていたらごく普通の民家であった。藁葺き屋根の江戸村の民家ではなく、ごく普通の瓦葺の住宅である。
おそらく館長さんの自宅を博物館にしたのであろう。
さて、その日、正午頃に訪問しようかと、前日まで考えていたのであるが、なぜかかなり早く起床してしまったので、午前10時頃に到着した。午前10時が博物館の開館時間なのだ。玄関のブザーを押すと直ぐに館長さん出てこられた。館内に入るとなんとなく親しみを感じる。そんな雰囲気であった。
小生がこの博物館を訪問した理由は2つ。
①竹取物語の作者は誰か?
②竹取物語の書かれた時期はいつごろか?

多くの日本文学史の文献には
①作者不詳
②平安初期
となっている。しかし、この2つの問題には、様々な学説があるのだ。それらは以下の通り。
①-1:作者について
・紀貫之(きのつらゆき、源氏物語「絵合」より)
・源順(みなもとのしたごう)
・源融(みなもとのとおる)
・遍照(へんじょう)
・紀長谷雄(きのはせお)
・空海(くうかい)
①-2:作者の人物像について
・相当、教養のある身分の高い人
・反体制派の人
・文体からして、おそらく男性
・神仙思想を知っている人
・船に乗って航海した経験のある人
・貴重な紙を入手可能な人
・漢文の読み書きできる人
・平安京の近辺に住んでいた人
②成立時期について、
・平安初期の貞観年間(859)~延喜年間(923)頃
・西暦890年代頃
・貞観8年(866年)応天門の変~貞観17年(875年)富士山の記

<竹取翁博物館の館長さんの説>
①作者は、弘法大師、空海
②成立時期は9世紀末、平安時代初期

そして、京都の京田辺市が竹取物語の竹取翁が住んでいた舞台であると館長さんは力説する。館長さんは非常に気さくな人で会話しやすい。
京都放送(KBS京都)に長く勤務されていたようでいかにも報道出版の記者という雰囲気だった。随分解りやすく説明していただいた。小生は午前10時から午後1時頃まで昼飯抜きで約3時間も2人で会話し質疑応答した。楽しかった。誠にありがとうございました。最後に帰り際に、館長さんの書かれた書物「竹取物語現代考」を1冊購入した。これからじっくりと読もうと思っている。
尚、館長さんの説の根拠を知りたい人は、本ブログの最下に表示されている竹取翁博物館を訪問して下さい。とっても面白いですよ!

<所感>
普通、古代の日本において、和歌は作者の名前を書いて記録するのが原則であった。ところが、物語の方は作者の名前を伏せて隠すのが原則なのである。それゆえ、後世の研究者たちは大変な苦労をしたし、現在でもそうである。
竹取物語というと、なぁ~んだ。竹取物語か。
小学生や中学生の読むあの面白い御伽噺(おとぎばなし)ではないかと思っておられる人たちが多いのではないかと思われる。
しかし、それは読む人の立場に立ってこの物語を読んでいるからそのように思えるのであって、立場を代えて、この物語を書く人の立場で読むと物語の作者は大変な人物であると気づくのである。何回も何回も繰り返して読んでいると、作者は物凄い人物であるとある時点で気づくのだ。
昼、天に輝く太陽と夜、
同じく天に輝く月。
両者は左右対照的でちょうどコインの表と裏の関係のような感じがする。小生が考える両者のイメージは以下の通り。

<太陽>
・昼
・眩しく強い光線・強さ ・権力的・情熱的・政治的・表の世界・神話的、白書的・天照大神・与党・正統派・体制派・陽
<月>
・夜・目に優しい光・柔らかさ ・民主的・ロマンティック ・文学的・裏の世界・物語的・かぐや姫・野党・異端派・反体制派・陰

この物語を読んでいると何か表立って語れない裏の世界を見ているような感じがするのだ。つまり、本心を悟られないように隠しながら、直ぐに気づかれないように、何かを表現しているように思えるのだ。
作者はこの物語の中で何を言いたかったのであろうか?つまり、物語の主題は何か?ということなのだが、小生の独断と偏見かもしれないのだが、おそらく以下のようだと思える時がある。

人間には欲がある。さまざまな欲がある。
・食欲・富、金銭、豊かさなどの経済欲・性欲・権力欲・支配欲・所有欲
人間は欲があるから、成長もし発展もする。欲があることは生きている証拠である。良いことなのだ。しかし、その欲があまりにも大きくな りすぎると、人間には、
・傲慢さ・悪・不均衡・おごり高ぶり・畏怖の念の消滅
などを生じさせる可能性が高くなる。
この物語はそれらを戒めているのではないかと思える時がある。
人間の力をはるかに超えた自然の大きな力、神秘的な大自然の力がこの世に存在していて、あまりにも欲が大きくなりすぎて、傲慢さやおごり高ぶりが強くなってくると、かえって、災いが起こる。不幸が生じる。ということなのだ。
それゆえ、人間は何時いかなる時であっても、謙虚に生きていかなければならない。自然に対して畏怖の念を持ちながら生きていかなければならない。ということを教えているような感じがする。

それでは、この物語のどこで、人間の力をはるかに超えた自然の大きな力、神秘的な大自然の力を感じるのであろうか?小生の場合は「竹取物語」の以下の箇所である。それはかぐや姫が月の世界へ昇天する直前の部分である。

(原文)
ふと天の羽衣うち着せ奉りつれば、翁をいとほしく、かなしとおぼしつることも失せぬ。この衣着つる人は、もの思ひなくなりにければ、車に乗りて、百人ばかり天人具して上りぬ。
 
(現代語訳)
天人がいきなりさっと天の羽衣を着せたので、かぐや姫のこれまで翁をいたわしく、いとしいと思っていた気持ちが消えてしまった。
羽衣を着たかぐや姫は、憂い悩むことがなくなってしまい、そのまま車に乗り、百人ばかりの天人を引き連れて、天に上ってしまった。
 
この部分はあの有名な羽衣伝説から来た部分であるが、その中の「かなしとおぼしつることも失せぬ」の「失せぬ」の部分である。人間の力ではどうすることも出来ない神秘的な大自然の力を感じるのである。すべては終わってしまったのである。人間なんてはかない存在である。かぐや姫はもうこの世の人ではない。月世界の人。あの世の人なのである。このなんとも言えない非情さ!竹取翁たちにとっての非情さ!はかなさ!人間の全ての強欲を一瞬の内に抹殺してしまう大自然の力を感じるのである。
●竹取物語
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E5%8F%96%E7%89%A9%E8%AA%9E
●羽衣伝説
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%BD%E8%A1%A3%E4%BC%9D%E8%AA%AC
●竹取翁博物館(京都府京田辺市)
http://taketori.koiyk.com/

竹取物語の話しをしだすといつになっても終わらない。100ページ以上のブログを作っても終わらない。
例えば、紫式部の書いた「源氏物語」の主人公「光源氏」の「光」は竹取物語の主人公「光り輝くかぐや姫」の「光」から取って来たらしいし・・・?!?!?
竹取物語の話しをしだすといつになっても終わらない。日本最古の物語であるし・・・?!?!?それゆえ、今日はここまで。

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竹取物語の作者~空海説について(その1)
.      http://blogs.yahoo.co.jp/miya09132001/35779522.html
  2014/4/19(土) 午前 2:12

以前、2013年8月4日、本ブログにおいて、小生は「竹取翁博物館を訪ねて」と題するブログ記事を掲載した。
2つの疑問を持って、その博物館を訪問したのであるが、その後、その時の感想をごく簡潔にまとめて、ブログ記事として報告したのであった。詳細については、以下のURLを参照願います。
http://blogs.yahoo.co.jp/miya09132001/35176136.html

博物館の館長さんの説によれば、竹取物語の成立時期と作者は以下の通りであった。

・成立時期:平安時代初期
・作者:弘法大師空海

この説を裏付ける科学的かつ決定的な物的証拠は無いのだけれども、かなり有力な説であると思われるのだ。そこで今回は、

①もしも竹取物語の作者が空海であったなら、この物語をどのように解釈すべきだろうか?
②竹取物語と空海を結びつけるいくつかの根拠について
この2点について検討して見たいと思うのだ。

◆解釈その1:かぐや姫が満月の月世界へ昇天して行ったことの意味

真言密教における胎蔵界曼荼羅や金剛界曼荼羅に描かれている諸仏はよく観察して見ると丸い円形の輪に囲まれている。諸仏を囲んでいるあの輪は一般的には月輪(げつりん、又は、がちりん)であると言われている。古代インドにおいて、悟りを開こうとする修行者にとって、太陽は余りにも強く、耐え難い。
それに引き換え、夜の月は透き通るような美しさで、涼しく、しかも眼に優しい。修行者たちはこの月を、特に満月の月を悟りの境地になぞらえたと言われている。つまり、月輪の満月は密教において悟りの境地を意味するのだ。悟りとはあたかも満月の如し。密教における月輪観、阿字観がまさにそれである。

そして、雲が無ければ、月は太陽と違って、以下のように満ち欠けをする。

・新月(真暗)
・三日月(みかづき)
・半月(上弦の月=弓張月)
・十三夜月
・満月(望月=十五夜月)
・臥待月(寝待月)
・半月(下弦の月=弓張月=二十三夜)
・二十六夜月
・晦日(三十日=真暗)

つまり、この月の満ち欠けは、あたかも

・生まれて
・成長し
・成熟して
・衰退し
・やがて死を迎える

人間の一生を表現しているように見える。
この月の満ち欠けの運動が恒常的に光り輝く太陽と明らかに違う所なのだ。
もちろん、生命が最も活動的で華やかな時期は周期的な月の満ち欠けの運動に例えれば、満月の時である。つまり、曼荼羅の中に納まっている諸仏は生命の最も躍動した時を表現しており、悟りの境地そのものであると考えられる。つまり、静寂で涼しげな澄み渡った夜空に輝く満月こそが悟りの境地そのものであるとして、光り輝く生命活動そのものであるとしたのだ。古代インドの人たちはこの満月を悟りの境地に例えたのだ。それゆえ曼荼羅の中の諸仏は月輪の中に描かれているのだ。

このように考えるならば、なぜ竹取物語の主人公である「かぐや姫」が最後の最後に月世界へ、しかも8月15日の満月の日に月世界へ昇天して行ったかと言う一つの謎が解けるのである。つまり人間界をはるかに超越した悟りの世界、仏の世界へ昇天して行ったのである。ここに密教と竹取物語との1つの接点があると思われるのだ。竹取物語成立以前の竹取の翁に関する代表的な説話について検討して見ると、例えば、

・『近江国風土記』「伊香小江」羽衣伝説
・『丹波国風土記』「奈具社」羽衣伝説
そして、もう一つあげるとすれば、
・『万葉集』巻16の第3791
などがあげられる。ところが、これらの伝説では、どこへ昇天していったか明確でない。
一般的には大空へ昇天して行ったとされているだけである。しかもこれらは伝説であって、物語ではないのだ。つまり、明確に、月へ、しかも満月へ昇天して行ったとされるのはこの竹取物語のみである。それゆえ、竹取物語の作者が真言密教の開祖である空海ではなかろうかと推量されるのである。あくまでも、推量である。
●竹取物語(原文、現代語訳)
http://www5f.biglobe.ne.jp/~mind/knowledge/japan/literature.html#TAKE
http://www.h3.dion.ne.jp/~urutora/taketoripage.htm
●月輪観
http://jyoryuzi.aki.gs/jyoryuzi20/kokoro/gathirin.html
http://www.youtube.com/watch?v=fNdc6KdGwcg
http://www1.plala.or.jp/eiji/sub12.htm
●阿字観
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E5%AD%97%E8%A6%B3
http://www.yakushiin.sakura.ne.jp/ajikan.html
注)月輪観や阿字観は現在の経営心理学や産業心理学における自律訓練法に非常に近い。
以下、竹取物語の作者~空海説について(その2)へ続く。
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竹取物語の作者~空海説について(その2)
     2014/4/26(土) 午前 5:57

◆解釈その2:壬申の乱と薬子の変について

<壬申の乱について>
壬申の乱は古代日本最大の内乱戦争であって、時代的には奈良時代の前の飛鳥時代(AD592年~AD710年)の後期である。
約1ヶ月間続いたこの内乱(AD672年7月27日~8月24日)は明らかに皇室内部を真っ二つに分けた戦争であった。

・天智天皇の実子・大友皇子(後の弘文天皇)
・天智天皇の弟・大海人皇子(後の天武天皇)

この両陣営の対立が壬申の乱である。大友皇子に対し、大海人皇子が地方豪族を味方に付けて反旗をひるがえしたものである。反乱者である大海人皇子が勝利するという、例の少ない内乱であった。それゆえ日本史上、非常に有名。最終的に大友皇子(弘文天皇)が自決し、乱は収束した。そして、翌年(AD673年2月)、大海人皇子は飛鳥浄御原宮を造って即位した。天武天皇である。

・壬申の乱の原因-1(皇位継承問題)
中臣鎌足と手を組んで大化の改新を断行した中大兄皇子(後の天智天皇)は改新の後、皇極天皇、孝徳天皇の時代も実権を掌握した。
さらに、天智天皇として即位した後に、唐に ならって旧来の同母兄弟間での皇位継承の慣 例に代わって嫡子相続制(すなわち大友皇子(弘文天皇)への継承)の導入を目指すなど、かなり強引な手法で改革を進めた。その結果、弟の大海人皇子の不満を高めていった。当時の皇位継承では母親の血統や后妃の位も重視されており、身分の低い側室の子の大友皇子(後の弘文天皇)の弱点となっていた。これらを背景として大海人皇子(後の天武天皇)の皇位継承を支持する勢力が形成され、絶大な権力を誇った天智天皇の崩御とともに、これまでの反動から乱の発生へつながったと考えられる。

・壬申の乱の原因-2(白村江の敗戦)
中大兄皇子(後の天智天皇)はAD663年に百済の復興のため朝鮮半島へ出兵して新羅・唐連合軍と戦ったが、白村江の戦いで大敗した。
このため天智天皇は国防施設を玄界灘や瀬戸内海の沿岸に築くとともに百済難民を東国へ移住させ、都を奈良盆地の飛鳥から琵琶湖南端の近江宮へ移した。しかしこれらの動きは豪族や民衆に新たな負担を与えることとなり、大きな不満を生んだと考えられている。近江 宮遷都の際には火災が多発しており、遷都に対する豪族・民衆の不満の現れだとされている。また、白村江の敗戦後、国内の政治改革も急進的に行われ、唐風に変えようとする天智天皇側と、それに抵抗する守旧派との対立が生まれたとの説もある。これは白村江の敗戦の後、天智天皇在位中に数次の遣唐使の派遣があるが、大海人皇子が天武天皇として即位して以降、大宝律令が制定された後の文武天皇の世であるAD702年まで遣唐使が行われていないことから推察される。

・壬申の乱の原因-3(恋の三角関係)
万葉集を読まれた方なら良くご存知だと思わ れるのだが、額田王(ぬかだのおおきみ)と天 智天皇と弟の大海人皇子の三角関係である。
つまり、男兄弟2人で額田王を奪い合いした のだ。いわゆる、争奪戦である。この1人の女性をめぐる男兄弟の不和関係が壬申の乱の原因となったという説もあるのだ。まるで、ヘレネーの取り合いになったギリシア時代の トロイ戦争のようである。ところで、額田王はそんなに美人だったのだろうか?絶世の美 女であったと多くの書物に書かれているのだ が、実際に会ったことがないから、なんとも言えない!
●竹取物語(原文、現代語訳)
http://www5f.biglobe.ne.jp/~mind/knowledge/japan/literature.html#TAKE
http://www.h3.dion.ne.jp/~urutora/taketoripage.htm
●壬申の乱
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A3%AC%E7%94%B3%E3%81%AE%E4%B9%B1
以下、 竹取物語の作者~空海説について(その3)続く。
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竹取物語の作者~空海説について(その3)
.       2014/5/3(土) 午前 9:38

◆解釈その2:壬申の乱と薬子の変について
<薬子の変について>
さて、次に、薬子の変について考えてみたい と思う。薬子の変は平安時代初期(AD810)に起こった事件である。壬申の乱から数えて138年 後のことである。

薬子の変も壬申の乱と同様に皇室内部を真っ二つに分けた政変であった。

・平城上皇(桓武天皇の第1皇子)
・嵯峨天皇(桓武天皇の第2皇子)

この両陣営の対立が薬子の変である。
平城上皇と嵯峨天皇とが対立するが、嵯峨天 皇側が迅速に兵を動かしたことによって、平 城上皇が出家して決着する。平城上皇側の尚 侍・藤原薬子や、その兄である参議・藤原仲 成らが処罰された。その経過を以下に簡潔に記載する。

AD806年、桓武天皇が崩御して皇太子・安殿 親王(平城天皇)が即位。平城天皇は弟の神 野親王(嵯峨天皇)を皇太弟とした。

AD809年、平城天皇は発病し譲位を決意。天 皇の寵愛を受けていた尚侍・藤原薬子とその兄の参議・藤原仲成は譲位反対。しかしその後、神野親王が即位(嵯峨天皇)し、皇太子には平城天皇の三男高岳親王が立てられた。

AD810年、平城上皇は旧都である平城京へ移る。平城上皇が天皇のときに設置した観察使の制度を嵯峨天皇が改めようとしたことから平城上皇が怒り、二所朝廷といわれる対立が起こる。薬子と仲成はこの対立を利用して平城上皇の復位を画策。嵯峨天皇は蔵人所を設置し観察使を廃止し参議を復活。このことは平城上皇を刺激する。二所朝廷の対立が深まる中で、平城上皇は平安京を廃して平城京へ遷都する詔勅を出した。ところが、嵯峨天皇は遷都を拒否し、伊勢・近江・美濃の国府と関を固めさせる。さらに藤原仲成を捕らえ、監禁の上で佐渡権守に左遷し、薬子の官位を剥奪。嵯峨天皇の動きを知った平城上皇は激怒し、自ら東国に赴き挙兵することを決断。
上皇は薬子とともに輿にのって東に向かった。
平城上皇の動きを知った嵯峨天皇は坂上田村 麻呂に上皇の東向阻止を命じる。この日の夜に仲成は射殺され、平城上皇と薬子の一行は嵯峨天皇側の兵士に捉えられ平城京へ戻された。その後、平城上皇は出家し、薬子は毒を仰いで自殺。

以上で薬子の変の経過説明を終えるが、この事件の原因については、かつては藤原薬子らが中心となって乱を起こしたものと考えられていた。しかし、今日では、律令制下の上皇=太上天皇制度が王権を分掌していることに起因して事件が発生した、という評価がなされるようになり、「平城太上天皇の変」という表現がなされている。つまり、天皇も上皇も政治ができるという当時の政治制度、政治システムが良くなかったのだ。天に2つの太陽があってはならないのである。
●竹取物語(原文、現代語訳)
http://www5f.biglobe.ne.jp/~mind/knowledge/japan/literature.html#TAKE
http://www.h3.dion.ne.jp/~urutora/taketoripage.htm
●薬子の変
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%AC%E5%AD%90%E3%81%AE%E4%B9%B1
以下、 竹取物語の作者~空海説について(その4)へ続く。
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竹取翁博物館の館長から…
 下記につきましては、竹取翁博物館の館長が2012年頃から竹取翁博物館で述べていたものです。
それまでにも色々な空海説を博物館で説明していました。ここに記されている内容の殆どの弘法大師・空海説は、博物館のホームページやブログそれにユーチューブで主張して参っています。
 その後、2014年2月の「かぐや姫サミット」で、空海の『三教指帰』により『竹取物語』は、空海であることが確定的になったと言うことを発表しました。
 ここで述べていたたいている内容は、どちらかというと竹取翁博物館の小泉館長説の「盗用」と取られますが、博物館の発表をふまえて、詳細に検討され記されている物ですので、博物館に見学に来て頂いて詳細な研究活動を展開されていることに対して応援させて頂きます。



竹取物語の作者~空海説について(その4) .
     2014/5/10(土) 午前 9:06

◆解釈その2:壬申の乱と薬子の変について

さて、いよいよ本題に入りたいと思うのだ。
竹取物語には求婚難題説話が出てくる。5人の貴公子がかぐや姫に求婚するのだが、かぐや姫から難題を持ち掛けられて、ひどい仕打ちを受ける。その5人とそれぞれの難題は以下の通り。
・石作皇子
 (歴史上の実在の人物、多治比嶋の幼名、「石作」氏と同族)
 難題:仏の御石の鉢
・車持皇子
 (歴史上の実在の人物、藤原不比等の幼名、母の姓が「車持」)
 難題:蓬莱の玉の枝(根が銀、茎が金、実が真珠の木の枝)
・阿倍御主人
 (歴史上の実在の人物、右大臣)
 難題:火鼠の裘(かわごろも、焼いても燃えない布)
・大伴御行
 (歴史上の実在の人物、大納言) 難題:龍の首の珠

・石上麻呂
 (歴史上の実在の人物、中納言) 難題:燕の産んだ子安貝
どれもこれも、入手不可能な難題ばかり。
結局、5人とも難問解決できず、馬鹿にされ、恥さらしにされ、おまけに命を失った者まで出る始末。なぜこの5人はこのように蹴落とされたのであろうか?実はこの5人は「壬申の乱」の時の勝利者側に属していた人々なのだ。彼らは日本書紀の一番最後の巻第30の持統天皇10年10月に出てくる歴史上の人物達である。つまり、大海人皇子(後の天武天皇)側に味方した人々なのだ。と言うことは、この物語、竹取物語を書いた人物は勝者側を批判しているのであるから、反体制派なのである。体制派の人物ではないということになる。
竹取物語の書かれた時代は藤原摂関家が政治を行っていた時代であるから、竹取物語の作者は藤原家の人物ではないと一般的に言われている。まさに、その通りなのだ。
そして次に、もし仮に、空海が竹取物語を書いたとするならば、「薬子の変」を契機にして書かれたであろうと思われるのである。空海は「薬子の変」において、嵯峨天皇側に味方し、勝利を祈念して、以降、日本仏教界一の実力者になった僧である。他方、敗者側の

・平城上皇は出家
・皇太子である高丘親王は廃太子
・藤原薬子は尚侍を解任、のち自殺
・藤原仲成は佐渡権守へ左遷、のち射殺
という結果となった。
しかし、ここで我々は注意しなければならないことが1つあるのだ。竹取物語は「壬申の乱」で勝った勝利者側の人々を批判しているのである。そうするならば、「薬子の変」の
勝者側のだれを批判しているのであろうか?もちろん、前述した敗者側の4人は除かれる。
実は驚くことに、空海は「薬子の変」で支援味方した勝利者である嵯峨天皇を批判しているのである。味方した人を批判しているのである。恐れ多くも、時の帝(みかど)を批判することなどもってのほかである。即刻、近衛府の兵士どもが出動して死刑にされること間違いなしである。それゆえ、空海は直ぐに悟られず、気付かれないように物語として書いたのではなかろうか?表立って批判しないで、刺激しないように、裏の世界として物語として書いたのではないかと思われるのである。つまり、空海はこの竹取物語で何を言いたかったのか?ということなのだが、おそらく小生の思うには以下のようであったと考えられる。

・血と血で争うような醜い骨肉の争いを止めよ!
・権力と富だけが全てではない!
・強欲を捨てて、悟りの境地を開け!

このような内乱が続けば、国家は衰退し、国民は飢え苦しむこと必定。聡明なる嵯峨天皇あれば、竹取物語を読んで直ぐに気付かれたであろうと思われる。嵯峨天皇に書の手ほどきをしたのは他でもない空海その人である。筆跡を見ただけで直ぐに悟られたと思うのだ。

ところで、弘法大師空海の十大弟子と言えば、
真済、真雅、実恵、道雄、円明
真如、杲隣、泰範、智泉、忠延
の10人。この中の1人、
「真如」こそが「薬子の変」の敗者側であっ た平城上皇の皇太子である高丘親王なのだ。
彼は廃太子の憂き目を負っている。つまり、空海は嵯峨天皇に願い出て、高丘親王を僧侶とすべく引き取ったのであった。後に「真如」は空海の死を高野山で見届け、唐の長安に渡り、その後インドへ向ったのだが、途中、羅越国(マレー半島の南端、現在のシンガポールの北方、マレーシアの最南端のジョホール付近)で薨去したと伝えられている。一説によれば虎に襲われたと言う話もある。

つまり、空海は嵯峨天皇に箴言して、
・皇太子の命を救った
・敗者側の人々に寛大なる処置を願い出た
・恩赦特赦を願い出たのであった。

竹取物語をこのように解釈するならば、この物語は大変な物語である。138年前の「壬申の乱」を例に出して「薬子の変」を批判しているのだ。薬子の変も嵯峨天皇も空海も、そして竹取物語も、ほぼ同じ時代である。さらに、かぐや姫を主人公にして、強欲を沈め、仏の悟りの境地に至ることを箴言している。このように考えるならば、この物語は優れて宗教的かつ政治的な物語と言えるのだ。
●竹取物語(原文、現代語訳)
http://www5f.biglobe.ne.jp/~mind/knowledge/japan/literature.html#TAKE
http://www.h3.dion.ne.jp/~urutora/taketoripage.htm
●壬申の乱
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A3%AC%E7%94%B3%E3%81%AE%E4%B9%B1
●薬子の変
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%AC%E5%AD%90%E3%81%AE%E4%B9%B1
以下、 竹取物語の作者~空海説について(その5)へ続く。
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竹取翁博物館の館長から…
 下記につきましては、竹取翁博物館の館長が2012年頃から竹取翁博物館で述べていたものです。
それまでにも色々な空海説を博物館で説明していました。ここに記されている内容の殆どの弘法大師・空海説は、博物館のホームページやブログそれにユーチューブで主張して参っています。
 その後、2014年2月の「かぐや姫サミット」で、空海の『三教指帰』により『竹取物語』は、空海であることが確定的になったと言うことを発表しました。
 ここで述べていたたいている内容は、どちらかというと竹取翁博物館の小泉館長説の「盗用」と取られますが、博物館の発表をふまえて、詳細に検討され記されている物ですので、博物館に見学に来て頂いて詳細な研究活動を展開されていることに対して応援させて頂きます。





竹取物語の作者~空海説について(その5) .
     2014/5/17(土) 午前 5:49

◆解釈その3:富士山と不死の薬について

竹取物語の最後のところで、以下のような文章(原文)が出てくる。

<原文>
大臣上達部(かんだちべ)を召して、『何れの山か、天に近き』と問はせ給ふに、ある人奏す、『駿河の国にあるなる山なむ、この都も近く、天も近く侍る』と奏す。これを聞かせ給ひて、
あふことも 涙に浮かぶ わが身には 死なぬ薬も 何にかはせむ
かの奉る不死の薬に、また、壺具して御使ひに賜はす。勅使には、調石笠(つきのいわかさ)といふ人を召して、駿河の国にあなる山の頂に持てつくべき由仰せ給ふ。峰にてすべきやう教へさせ給ふ。御文、不死の薬の壺並べて、火をつけて燃やすべき由仰せ給ふ。

<現代語訳文>
帝は大臣・高官を呼び寄せて、『どこの山が一番天に近いのか。』と尋ねると、その中の一人が、『駿河国にあるという山が、この都にも近くて、天にも近くてございます。』とお答えした。これを聞いた帝は、もうかぐや姫に会うことができず、流れる涙に浮かんでいるようなわが身にとって、不死の薬などがいったい何の役に立つというのだろうか。

帝はかぐや姫が送ってくれた不死の薬の壺に手紙を添えて、使者に渡してしまった。調石笠という人を呼び出して勅使に任命し、駿河国にあるという高い山にこの薬の壺を持っていくようにと命令した。そして山頂ですべきことを教えたのである。手紙と不死の薬の壺とを並べて、火をつけて燃やすようにと命じた。
つまり、帝はかぐや姫がいないのなら(不死の薬=不老長寿の仙薬)などまったく役に立たない。なくてもいいと言って、富士山の頂上で焼いてしまう。不死の薬は神仙思想(道教)そのものであるから、この物語は神仙思想に対する否定を意味しているのである。

この考え方は空海が23才頃に書いた「三教指帰」に明確に出てくるのだ。
その意味するところは儒教よりも道教(神仙思想)、道教よりも仏教の方が優れている。つまり、仏教の教えが儒教・道教・仏教の三教の中で最善であることを弁証法的な手法によって論理的に説明されているのである。それゆえ、帝は「不死の薬=道教(神仙思想)などなくてもいい」と言って、富士山の頂上で不死の薬を焼いてしまうのであるが、それは三教指帰の思想が帝の言葉となって表出したことを意味するのである。
そして「不死の薬=不老長寿の仙薬」を富士山の頂上で焼いてしまうのであるが、これは真言密教の護摩を焚く儀式と同じである。護摩を焚く儀式は大変古く、その起源については以下の2説がある。

・護摩はインドで紀元前2000年頃にできた「ヴェーダ聖典」に出ているバラモン教の儀礼を起源としている。それはサンスクリット語(梵語)のホーマ「homa」であり、知恵の火で迷いの薪を焼くことを意味する密教の修法である。インドで火天(Agni)を供養して魔を除き福を求めるために行われた火祭を仏教に採用したものと言われている。

・紀元前6世紀頃のアケメネス朝ペルシア時代に成立したゾロアスター教 (拝火教)を起源としている。ゾロアスター教徒は火天をアタール(Atar)と言い、ラテン語ではイグニス(ignis)と言い、先ほども述べたように、インドのバラモンはアグニ(Agni)と言った。 

これらの2説は火天の言葉、アタール(Atar)とアグニス(Agni)でもよく解るように、非常に良く似ており、どちらもイラン系のアーリア人を共通の起源としていることだけは確かであるようだ。つまりこの2説は歴史をさらにさかのぼれば1つに合一されると思われるのだ。護摩は火の神が煙とともに供物を天上に運び、天の恩寵にあずかろうとする素朴な信仰から生まれたものである。火の中を清浄の場として拝火壇の前で神仏を観想するのだ。
つまり、竹取物語の最後に出てくる以下の文章

<原文>
その煙、いまだ雲の中へ立ち昇るとぞ言ひ伝へたる。

<現代語訳文>
山頂で焼いた煙は、今もまだ雲の中に立ち昇っていると言い伝えられている。

は富士山の山頂を拝火壇にして人間の強欲の邪気を焼き払い、人々の心を清浄化して神仏の姿を観想しているのだと思われる。

空海の真言密教は確かにバラモン教やゾロアスター教(拝火教)の影響を受けていて、それを護摩の儀式として取り入れているのである。このゾロアスター教を現代まで脈々と受け継いでいる人々が少数派ではあるがインドにも存在する。最も有名な人々はイラン出身のインドのタタの一族であ る。タタの創立者であるジャムシェトジー・N・タタはパーシーと呼ばれるゾロスター教の信者の家系に生まれた。パーシーとはイランのパース地方の出身者の子孫の呼び名である。タタ財閥の統帥者たちは、代々、紀元前6世紀頃にザラスシュトラによって創設されたこのゾロアスター教の熱心な信者であって、タタのマネジメント手法の奥義を知るためにはゾロアスター教の教義を理解しておかなければならないと言われているほどである。
<追記>
ところで、ここで竹取物語という文学の立場で考えるよりも、という問題である。この点については、2説あって、
・空海は富士山に登っていない。(否定説)
・空海は富士山に登っている。(肯定説)

・前者の否定説は以下の通り。
竹取物語の最後の文章にもあるように「その煙、いまだ雲の中へ立ち昇るとぞ言ひ伝へたる」と記されている。つまり、「山頂で焼いた煙は、今もまだ雲の中に立ち昇っていると言い伝えられている」と記されているから、物語の作者はだれか他の人物から聞いた富士山の話を物語に取り入れただけであって、実際には富士山に登頂していないとする説である。

・それに対して後者の肯定説は以下の通り。真実かどうか未だ判明していないのであるが、この説は非常に興味をそそられる説である。地球物理学、地質学、地震学の分野で富士山をテーマにした文献を調べてみると、以下のような内容が出てくる。

○大同元年(AD806年) 坂上田村麻呂が大宮の地に社殿を造営。浅間大神を山宮より遷座。富士山本宮浅間大社を創建。最澄が天台宗、空海が真言宗を開く。
○大同2年(AD807年) 東口冨士浅間神社を創建。
○大同3年(AD808年) 空海が須山登山道沿いに光明寺を創建。平安時代には須山口登山道が有ったと思われる。

平安時代に富士山に登った歴史上の人物が2名登場してくる。坂上田村麻呂と空海である。AD806-AD808年と言えば、薬子の変で嵯峨天皇に敗北した平城天皇在位の期間である。須山口登山道というのは現在存在しない。
それは御殿場付近から宝永山に向かって富士山頂に行く登山道であったが、江戸時代の宝永4年(AD1707年12月16日)に須山口登山道で宝永噴火が発生。 宝永山と3つの火口ができて、須山口登山道は廃道になった。
さて、ここまで来て、改めて、現代人100人の前で、空海さんは富士山に登ったか?登ったと思う人、挙手願います。登っていないと思う人、挙手願います。と聞いて見て、どんな反応が出るかなぁ!
富士山に関する文献の中には、坂上田村麻呂が登った。空海も登ったのではなかろうか!という記述があるのだ。それでも、まだ、なんとなく半信半疑なのだが?!?!2人とも薬子の変で嵯峨天皇側に付いた味方同士!
坂上さん!あんさんが富士山登るんなら、おいらもいっしょに連れてってくんろ!と空海さんが頼んだかもしれない。そして2人でいっしょに登頂した。いや、そうではなくて、空海さんが坂上さんの話を聞いて、2人別々に行動してそれぞれ単独で登頂した。
想像ならいくらでもできるのだが、1200年も前のことだから、もうどうでもいいか!
空海は日本の京の都から中国の唐の都、長安まで行ったんだから駿河なんて近いもんさ!と考えられるのだが、はたして真実は如何に?

最後に富士山は平安時代に何回噴火したか?それについては最下の富士山の歴史のURLを参照願います。富士山噴火の年表が出てるよ。
●竹取物語(原文、現代語訳)
http://www5f.biglobe.ne.jp/~mind/knowledge/japan/literature.html#TAKE
http://www.h3.dion.ne.jp/~urutora/taketoripage.htm
●三教指帰(延暦16年(797年)12月1日に成立)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%95%99%E6%8C%87%E5%B8%B0
●護摩
http://blog.goo.ne.jp/goo3360_february/e/d7f2c62d4205df9c1779003521a40d0f
http://mazdayasnajapan.web.fc2.com/teachingsofzoroaster01.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AD%B7%E6%91%A9
●ゾロアスター教(拝火教)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BE%E3%83%AD%E3%82%A2%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E6%95%99
http://mazdayasnajapan.web.fc2.com/teachingsofzoroaster01.html
●富士山本宮浅間大社
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E5%A3%AB%E5%B1%B1%E6%9C%AC%E5%AE%AE%E6%B5%85%E9%96%93%E5%A4%A7%E7%A4%BE
http://fuji-hongu.or.jp/sengen/
http://fuji-hongu.or.jp/sengen/hongu/
http://www.city.fujinomiya.shizuoka.jp/isan/fujisan-sengen-taisha.htm
http://www.geocities.jp/fujinomiya_yuri/sengen.html
●富士山の歴史
http://www7b.biglobe.ne.jp/~fujisan60679/history.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E5%A3%AB%E5%B1%B1%E3%81%AE%E5%99%B4%E7%81%AB%E5%8F%B2
http://富士山噴火.net/rekisi/
以下、 竹取物語の作者~空海説について(その6)へ続く。 今日はここまで。
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竹取物語の作者~空海説について(その6)
.      2014/5/24(土) 午前 8:18
◆竹取物語と空海を結びつける根拠について
・根拠その1:飛白体・雑体・破体文字の意味について


空海は嵯峨天皇・橘逸勢と共に平安初期の三筆のひとりに数えられていることは有名である。彼は篆書、隷書、楷書、行書、草書、飛白体、雑体、破体のすべての体をよくこなした。
中国では五筆和尚と言われ、いくつかの真跡が現在でも残っている。その中には当然、国宝もある。これらの筆体の中でも特に小生が気に掛けているのが「飛白体」「雑体」「破体」である。空海筆と伝わる飛白体の「十如是(ジュウニョゼ)」と雑体・破体の「益田池碑銘」には、竹取物語の一節を連想させるような文字の形が出てくるのだ。例えば、かぐや姫が5人の求婚者に出した難題の中の以下の部分に出てくるのだ。

・「燕の産んだ子安貝」の「燕」と「子安貝」 これは「十如是」の中の「如是性」の「是」と「性」に出てくる。
・「龍の首の珠」の「龍」これは「十如是」の中の「如是作」の「作」が「龍」に見える。 
・「蓬莱の玉の枝」の「玉」これは「益田池碑銘」に出てくる「転星宿篆」や「星」等に出てくる。
これらは良く似てる!と思える部分である。
つまり文字の形が難題の対象物とよく似ているのである。「十如是」とは「これ、すなわち~~のごとし」と言われる文を10個集めて書かれた箇条書の短文である。他方「益田池碑銘」の方は空海が四国讃岐の満濃池の開発の後、奈良の大和益田池の潅漑用水開発の監督指導を行ったのであるが、その時の碑文である。それは天長2年(AD825年)9月に書かれたものである。これらの内容の詳細については最下のURLを参照されたし。それらは初級コースというよりも少し専門的な中級コース程度の内容であるから、本ブログの読者の皆さんはざぁ~と大まかに目を通されるだけで良いと思われる。

・根拠その2:車持皇子の蓬莱山への航海について
竹取物語の原文の中の車持皇子の部分には、
「海に漕ぎ漂い歩きて、我が国の内を離れて歩きまかりしに、ある時は浪に荒れつつ海の底にも入りぬべく、ある時には風につけて知らぬ国に吹き寄せられて、鬼のやうなるもの出で来て殺さむとしき。ある時には来し方行く末も知らず、海にまぎれむとしき。ある時には糧尽きて、草の根を食ひ物としき。ある時は、言はむ方なくむくつけげなるもの来て、食ひかからむとしき。ある時には、海の貝を採りて命をつぐ」

という文章が出てくる。このような難波から船出して蓬莱山まで航海した時の荒海の様子は空海が遣唐使船に乗って中国へ渡航した時の体験によって書かれたものと思われる。つまり、遠洋航海の体験談を物語の中に組み込んでいるのだ。実際に体験して見ないと、このような写実的な文章表現はできないものである。この内容は瀬戸内海や日本近海の航海の様子を描いているのではない。瀬戸内海や日本近海の航海の場合は海が荒れて来れば、直ぐに上陸して嵐が止むまで、陸地で退避して、嵐がおさまったら、再び、出港するのが普通である。それは紀貫之の土佐日記を読んだ人なら直ぐに理解できると思われるのだ。
従って、この竹取物語の航海の様子は遣唐使船のような遠洋航海の体験談を表現したものであると思われる。

●竹取物語(原文、現代語訳)
http://www5f.biglobe.ne.jp/~mind/knowledge/japan/literature.html#TAKE
http://www.h3.dion.ne.jp/~urutora/taketoripage.htm
●飛白体
http://kohkosai.com/chinaphoto/syouryou/syouryou/page/145.htm
●十如是
http://ir.lib.fukushima-u.ac.jp/dspace/bitstream/10270/3236/1/5-220.pdf
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E5%A6%82%E6%98%AF
●益田池碑銘
http://www.mikkyo21f.gr.jp/kukai-life/cat37/post-168.html
http://ir.lib.fukushima-u.ac.jp/dspace/bitstream/10270/3239/1/5-241.pdf
追記)車持皇子については、本ブログの「竹取物語の作者~空海説について(その4)」の中で以下のように説明した。

・車持皇子
 (歴史上の実在の人物、藤原不比等の幼名、母の姓が「車持」)
 難題:蓬莱の玉の枝(根が銀、茎が金、実が真珠の木の枝)
ここで、少し気になることが1点あるのだ。
それは車持皇子が藤原不比等の幼名であるにもかかわらず、つまり、臣下の藤原性であるにもかかわらず、皇子となっているのはなぜか?この点が非常に気になる所である。皇室でない藤原性の人物が皇子とはどういうことなのか?という疑問である。

実は、藤原不比等は天智天皇のご落胤で、母は車持国子君の娘、与志古で、車持夫人と言われていた。天智天皇は自分の子供を身ごもっていたこの与志古を中臣鎌足=藤原鎌足に預けた。そして、もし、与志古の母体から生まれてくる子供が女子ならば、天智天皇の内親王として育てる。ところが、もし、生まれてくる子供が男子ならば、臣籍降下して、中臣鎌足の息子として育てるよう命じたと言うのである。このことは「帝王編年記」斎明天皇5年の条に明確に記述されているのだ。
それゆえ、この竹取物語の作者はそのことを知っていて、車持皇子と書いてしまったと思われるのである。つまり、この竹取物語の作者は皇室の裏話や政界の裏話に詳しい人だったのだ。
そして、中臣鎌足の子息たちの中で、不比等と彼の子孫だけが藤原の性を名乗ることができた。その他の兄弟たちは中臣の性であって、藤原の性を名乗ることができなかったのである。それゆえ、藤原不比等だけは他の兄弟たちと違って異例のハイスピードで高位高官へと出世していったのである。
この藤原不比等のご落胤説については多くの文献に載っていて、例えば「公卿補任」「大鏡」「帝王編年記」「尊卑分脈」等の古典籍に記載されているので、まず、間違いないのではなかろうか。つまり、真実性が高いのだ。
●藤原不比等
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E4%B8%8D%E6%AF%94%E7%AD%89
以下、竹取物語の作者~空海説について(その7)へ続く。
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竹取物語の作者~空海説について(その7)
.       2014/5/31(土) 午前 9:28

◆竹取物語と空海を結びつける根拠について

・根拠その3:竹取物語の成立時期と作者候補者たちの生存期間

<竹取物語の成立時期>


先ず最初に、竹取物語の成立時期について検討してみたい。成立時期については様々な説があって未だ不明である。しかし、以下のことだけは確かであると小生は考えている。

・頭中将について

竹取物語には「頭中将」が出てくる。かぐや姫が月世界へ昇天して行こうとするまさにその瞬間にこの「頭中将」が出てくるのだ。
この役職は源氏物語にもよく出てくる平安時 代の官職名である。それは蔵人頭を兼務する近衛中将のことである。この蔵人という役職を初めて制定した人は、実は、嵯峨天皇なのだ。しかも薬子の変の時に制定したのだ。時は、弘仁元年(AD810年)である。従って、竹取物語が成立したのは、AD810年以降であるということだけは明確なのだ。嵯峨天皇は自分の秘書役として蔵人所を設立したのである。
以上のことから、竹取物語は嵯峨天皇と関係が有るらしい?そして体制批判できる立場に立つ空海とも関係が有るらしい?薬子の変とも関係が有るらしい?と言うことを我々は理解することができるのだ。

・六衛府の武官について

竹取物語には「六衛府」が出てくる。その言葉はかぐや姫の昇天のところで出て来るのだ。
六衛府とは、以下の通り。

 ・左右の近衛府(このえふ)
 ・左右の衛門府(えもんふ)
 ・左右の兵衛府(ひょうえふ)

この六衛府が制定されたのは弘仁2年(AD811年)の11月である。制定したのは嵯峨天皇なのだ。

・源氏物語の絵合の「竹取の翁」について
源氏物語の絵合には「物語の出で来はじめの祖なる竹取の翁」が登場し、さらに「絵は巨勢の相覧、手は紀貫之書けり」とある。この紀貫之の生存期間は(AD866年-AD945年)である。

以上のことから、竹取物語の成立時期は、(AD811年~AD945年)の134年間の中のある年であると結論付けることができるのだ。それにしても、この134年間は長いよねぇ!

<作者候補者たちの生存期間について>
竹取物語の作者ではなかろうか?と思われる人物を列挙すると、小生が調べた限りでは、以下の通りである。
この中で(AD811年~AD945年)の間に生存していた人物は?航海の経験をしたことのある人物は?と問いかけると以下の通りとなる。

・空海(AD774年-AD835年)
・紀貫之(AD866年-AD945年)
・源順(AD911年-AD983年)×
・源融(AD822年-AD895年)×
・遍昭(AD816年-AD890年)×
・紀長谷雄(AD845年-AD912年)
・菅原道真(AD845年-AD903年)
・玄昉(AD???年-AD746年)×

注1)×印の付いた人物は上記の2つのAND条件を満たさない人で、候補者から外される可能性大。
注2)さらに、×印の付かなかった人々の中で、瀬戸内海や日本近海の航海ではなく、中国大陸などへの遠洋航海の経験ある人は?となると、その条件を満たす人物は空海さんただ1人だけとなるのである。
注3)この消去法による推論方法が正しいかどうか解らないが、1つの考え方であると思っているのだ。もっと良い考え方や方法があったら、是非とも教えていただきたいと思われるのだ。

●竹取物語(原文、現代語訳)
http://www5f.biglobe.ne.jp/~mind/knowledge/japan/literature.html#TAKE
http://www.h3.dion.ne.jp/~urutora/taketoripage.htm
●頭中将
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%AD%E4%B8%AD%E5%B0%86
●蔵人
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%94%B5%E4%BA%BA
●六衛府
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E8%A1%9B%E5%BA%9C
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E8%A1%9B%E5%BA%9C#.E5.85.AD.E8.A1.9B.E5.BA.9C
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E8%A1%9B%E5%BA%9C
以下、竹取物語の作者~空海説について(その8)へ続く。 今日はここまで。
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竹取物語の作者~空海説について(その8)
http://blogs.yahoo.co.jp/miya09132001/35922249.html
2014/6/7(土) 午前 1:41

◆竹取物語と空海を結びつける根拠について
・根拠その4:作者は漢文の得意な人

竹取物語の作者~空海説について
(その4)で論じたように、竹取物語の求婚難題説話に出てくる5人の貴公子がかぐや姫から持ち掛けられた難題は以下の通りであった。

・石作皇子への難題:仏の御石の鉢
・車持皇子への難題:蓬莱の玉の枝(根が銀、茎が金、実が真珠の木の枝)
・阿倍御主人への難題:火鼠の裘(かわごろも、焼いても燃えない布)
・大伴御行への難題:龍の首の珠
・石上麻呂への難題:燕の産んだ子安貝

どれもこれも、入手不可能な難題ばかりであるが、これらの難題は竹取物語の作者が独自に考え付いたものではなく、以下のような文献から作者が意図的に引用したのである。
・仏の御石の鉢:南山住持感応伝、大唐西域記芸文類聚、初学記などから引用。
・蓬莱の玉の枝:列子の湯問から引用。
・火鼠の裘:和名類聚抄、神異記、列子、初学記などから引用。
・龍の首の珠:荘子の雑篇から引用。
・燕の産んだ子安貝:古代中国の安産のお守り。引用文献不明。

さらに、5人の貴公子たちは「壬申の乱」の時の勝利者側に属していた人々で、日本書紀の一番最後の巻第30の持統天皇10年10月に出てくる歴史上の人物たちである。彼らの名は
続日本紀にも登場する。
つまり、竹取物語の作者は以上のような漢文の文献をすらすらと軽く読める人物なのだ。
従って、作者はそうとう教養の高い学識ある知識人であったと思われる。空海も漢文はかなり読めた。さらに中国語会話もできた。

●竹取物語(原文、現代語訳)
http://www5f.biglobe.ne.jp/~mind/knowledge/japan/literature.html#TAKE
http://www.h3.dion.ne.jp/~urutora/taketoripage.htm

以下、竹取物語の作者~空海説について(その9)へ続く。

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竹取物語の作者~空海説について(その9)
http://blogs.yahoo.co.jp/miya09132001/35938766.html
2014/6/14(土) 午前 7:35

◆竹取物語と空海を結びつける根拠について
・根拠その5:作者男性説について


竹取物語の作者は女性ではなく、男性だったという説は、現代においては、ほぼ正しいとされている。その理由を以下に掲載する。

①車持皇子がかぐや姫の家に蓬莱の珠の枝を届けるくだりに、「我が御家へも寄り給はずしておはしたり」とある。これを現代語訳すれば「御自分の家にもお寄りにならないでい
らっしゃった」となるのであるが、普通の会話体では「寄り給はでおはしたり」ともっと柔らかな表現になるはずである。こんなに硬い表現は女性ではなく男性表現である。

②かぐや姫と帝の交流の場面で、「かやうにて御心を互ひに慰め給ふほどに三年ばかりありて春のはじめよりかぐや姫・・・」とあり。
この中の「互ひに」は訓読文の男性ことばである。もし女性ならば「御心かたみに慰め給ふ」となるはずなのだ。
つまり、
・互ひに:漢読み訓読の男性ことば
・かたみに:かな読み音読の女性ことば
で、意味は同じ。清少納言は枕草子で、時々、「かたみに」ということばを使用している。
従って竹取物語の作者は男性らしいと言える。

③竹取物語の中のいたる所に見られるのだが、「かぐや姫のいはく『なんでふさることはし侍らむ』と云えば」のように直接話法の引用文の前後に「いはく」「云う」を置くのも、漢文訓読の特有の表現である。つまり、作者は漢文や仏典に日ごろから慣れ親しんでいた男性であろうと思われるのである。おそらく竹取物語の最初の原型は漢文で書かれていたのであろうと推量されるのだ。

そして、作者は以下のような男性像であったと思われる。

・その時代に適応しないか、もしくは適応していても、当時の社会から少し離れた位置にいて第三者のような感じで世の中を観察していた人である。
・研ぎ澄まされた鋭利な頭脳でもって、世の中の実態を鋭く見つめていた人物である。
・高い教養の持ち主で時間的にも経済的にもゆとりのある生活をしていた人である。
・世の中の第一線で活躍し、多忙で自分の時間をほとんど持てないような高位高官ではない。
・世の中の底辺で貧しい生活をし、文化的な生活に触れることのできないような経済的なゆとりのまったくない人物ではない。
・学問を好み、豊かな知性と創造力を持ち、文学の世界に理解のあった人である。
・朝廷の役人ではない。
・当時の都から少し離れた位置にいて、しかも中央の政治の様子が手に取るようにわかっていて、教養高く、官職についていない人である。おそらく、作者は神主かもしくは僧侶だったであろうと思われるのだ。
・尚侍、中臣房子が出てくるところを見ると、中臣氏=藤原氏の一族ではない。

●竹取物語(原文、現代語訳)
http://www5f.biglobe.ne.jp/~mind/knowledge/japan/literature.html#TAKE
http://www.h3.dion.ne.jp/~urutora/taketoripage.htm

以下、竹取物語の作者~空海説について(その10)へ続く。


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竹取物語の作者~空海説について(その10)
http://blogs.yahoo.co.jp/miya09132001/35953472.html
2014/6/21(土) 午前 6:16

◆竹取物語と空海を結びつける根拠について
・根拠その6:不老不死の薬について


不死の薬については、八月十五日の夜、不老長寿の仙薬として、帝に不死の薬を残してかぐや姫が昇天しているが、帝は「かぐや姫のいない世に不老長寿の不死の薬などいらない」と言って駿河の富士の山頂で焼かせてしまった。
物語の中では、当時白煙を上げていた「駿河の富士の山」を想定しているが、日本一高い「富士の山」つまり「不死の山」と「不死の薬」を関連させて、人間の永遠のテーマである不老不死を強調している。
この不老不死の薬は、徐福伝説でも解るように人間の強欲の極致である。方士である徐福は秦の始皇帝の命を受けて東海の仙島に仙薬を求めて出航した。不老長生は古くから中国人の夢であった。まさに神仙思想そのものである。特に、唐の時代、中国では道教による神仙思想が非常に盛んであった。
それでは、この薬が空海とどのように関係しているのであろうか?空海が遣唐使船に乗って中国へ渡ったことはだれもが知っている。
それでは彼が中国へ渡ろうとした動機は何だったのだろうか?一般的には、
・密教を学ぶため
と言われている。がしかし、それだけではなかったのだ。彼の本心の中には確かに「密教を学ぶため」という動機があったかもしれないが、それだけでは、当時の日本政府は留学を許可しなかったと思われるのだ。空海は朝廷より留学生として最長20年間の中国滞在を許可されていた。他方、最澄の方は還学僧として半年から1年の短期中国滞在であった。
その違いは、最澄は中国語を話せなかった。それゆえ、最澄は通訳を同伴させていた。ところが、空海の方は中国語会話が完璧だった。

ところで、安然の「真言宗教時義」(第三)によれば、空海が中国へ渡ろうとした動機は、
・薬を学ぶため
であったと記述されている。空海は薬を勉強する研修生として中国へ留学しようとしていたというのだ。安然の「真言宗教時義」の一部を以下に掲載して本論を終了したいと思う。

「我が日本国の延暦年中、叡山本師入唐の時、空海阿闍梨、元、薬生為り。同じく共に唐に入る。慧果阿闍梨に値遇して、灌頂を蒙る。即ち本師、先ず、平城の北野に還りて、始めて灌頂を行う。」

「空海阿闍梨、元為薬生」の部分に注意されたし。空海は中国で薬を学んだ結果、不老不死の薬などどこにも存在しないと悟ったのかもしれない。

●竹取物語(原文、現代語訳)
http://www5f.biglobe.ne.jp/~mind/knowledge/japan/literature.html#TAKE
http://www.h3.dion.ne.jp/~urutora/taketoripage.htm
●神仙思想(仙人)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E4%BB%99%E6%80%9D%E6%83%B3
http://www.weblio.jp/content/%E7%A5%9E%E4%BB%99%E6%80%9D%E6%83%B3
http://homepage3.nifty.com/juroujinn/sinnsenn.htm
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%93%E6%95%99

追記1)空海は20年間と定められていた留学期間をたった2年で切り上げて帰国した。当時、このことは留学規定違反となっていた。それでは、なぜ、そのように早期に帰国できたのであろうか?だれでもこの点について、不思議に思うことである。その理由は以下の通り。

・たまたま、この頃(AD805年-AD806年)、唐の新皇帝の即位を祝う日本の使節団が日本から唐へ来ていた。
空海はその使節団の高階遠成一行の帰国船に同乗して帰国できた。

・空海に密教を授けた恵果はAD805年12月15日に亡くなった。この時、空海は恵果のそば近くにいた。生前、恵果は空海にできるだけ早く日本に帰って、密教の布教に努めて欲しいと懇願していた。

追記2)この時の唐の新皇帝は第14代皇帝の憲宗帝である。(在位AD805年 - AD820年)

以下、竹取物語の作者~空海説について(その11)へ続く。


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竹取物語の作者~空海説について(その11)
http://blogs.yahoo.co.jp/miya09132001/35966885.html
2014/6/28(土) 午前 5:40

◆竹取物語と空海を結びつける根拠について
・根拠その7-1:竹取物語と三教指帰における神仙思想(道教)の関連性について

<<竹取物語の中の神仙思想>>

竹取物語はよく神仙思想(道教)の物語であると言われている。確かに神仙思想に関連した言葉が多用されているから、そのように思われてもしかたがないのだ。しかし、この物語を何度もくり返して読んでいると、神仙思想(道教)の物語と言うよりも神仙思想を批判している物語であると小生は思えるのである。いや、そうではなくて、もう一歩進めると、儒教、道教、仏教はみな違うのだけれども、つまり、優劣は有るのだけれども、これら三教は共存しているのだ。

竹取物語の全体構成は以下の通りである。

1、.かぐや姫の生誕
2、.竹取の翁富裕の長者
3.、5人の貴公子たちの求婚
4、.5つの難題

   4-1.仏の御石の鉢
   4-2.蓬莱の玉の枝
   4-3.火鼠の皮衣
   4-4.龍の首の玉
   4-5.燕の子安貝
5、.帝の求婚
6.、かぐや姫月世界へ昇天
7.、富士山の煙



竹取物語の中で特に神仙思想が顕著に表われている場面は以下の通り。

<4、.5つの難題>

*原文-1
かぐや姫、「石作の皇子には、仏の御石の鉢といふ物あり、それを取りて賜へ」と言ふ。「庫持の皇子には、東の海に蓬莱(ほうらい)といふ山あるなり、それに白銀(しろかね)を根とし、黄金を茎とし、白き珠を実として立てる木あり。それ一枝折りて賜はらむ」と言ふ。「今一人には、唐土(もろこし)にある火鼠(ひねずみ)の皮衣を賜へ。大伴の大納言には、龍(たつ)の首に五色に光る珠あり。それを取りて賜へ。石上の中納言には、燕(つばくらめ)の持たる子安の貝、取りて賜へ」と言ふ。

*現代語訳-1
かぐや姫は、「石作の皇子は、仏の御石の鉢というものがあるので、それを持ってきてくださいね」と言った。「庫持の皇子には、東の海上に蓬莱山という山があり、そこには、白銀の根を張り、黄金の茎を持ち、白い宝石の実をつける木があります。その木の枝を一つ折って持ってきて下さい」と言った。「もう一人には、唐(中国)の国にあるという火鼠の皮衣を取ってきて下さい。大伴の大納言には龍の首にかかっているという五色に輝く宝石を取ってきて下さい。石上の中納言には、燕が持っているという子安貝を取ってきて下さい」と言った。

*所見-1
この文章の中の「蓬莱山」「火鼠の皮衣」「龍の首に五色に光る珠」が神仙思想に関係する言葉である。
それらは以下の中国の文献に登場する。
・史記「秦始皇本紀伊」「封禅書」
・列子「湯問」
・神仙伝★「張道陵」
・列仙伝◆「犢子」
・神異記▲(神異経)
・荘子▼「雑篇」


<4-2. 蓬莱の玉の枝>

*原文-2
海の上に漂へる山、いと大きにてあり。その山のさま、高くうるはし。これや我が求むる山ならむと思ひて、さすがに恐ろしくおぼえて、山のめぐりをさしめぐらして、二、三日ばかり見歩くに、天人のよそほひしたる女、山の中より出て来て、銀(しろかね)の金椀(かなまり)を持ちて、水を汲み歩く。これを見て、船より下りて、「この山の名を何とか申す」と問ふ。女、答へて言はく、「これは蓬莱の山なり」と答ふ。これを聞くに、うれしきこと限りなし。

*現代語訳-2
海の上を漂っているその山は、とても大きかったのです。その山の姿は、高くて素晴らしいものでした。これこそ私が求めている山だろうと思って、さすがに恐ろしく感じて、山の周囲を何度も船で回って、二、三日ほど見て回っていると、天人の衣裳をまとった女が、山の中から出て来て、銀で出来た金椀を手に持って、水を汲んで歩いていました。これを見て、私は船から下りて、「この山の名前は何というのですか?」と尋ねました。天女は、『これは蓬莱の山です。』と答えました。これを聞いて、この上なく嬉しい気持ちになりました。

*所見-2
この文章の中の「蓬莱の山」「天人のよそほひしたる女」が神仙思想に関係する言葉である。
それらは以下の中国の文献に登場する。
・史記「秦始皇本紀伊」「封禅書」
・列子「湯問」
・神仙伝★「張道陵」
・列仙伝◆「犢子」


<4-3 .火鼠の皮衣>

*原文-3
火鼠の皮衣、この国に無きものなり。音には聞けども、未だ見ぬ物なり。世にある物ならば、この国にも持てまうで来なまし。

*現代語訳-3
火鼠の皮衣はこの唐(中国)にはありません。噂には聞いたことがありますが、実物は見たことがないのです。もしこの世に存在するのであれば、必ず唐(中国)には渡ってきているはずです。

*所見-3
この文章の中の「火鼠の皮衣」が神仙思想に関係する言葉である。
それは以下の中国の文献に登場する。
・神異記▲(神異経)

<4-4 .龍の首の玉>

*原文-4
おのおの仰せ承りてまかりぬ。「竜の首の玉取り得ずは帰り来な」とのたまへば、いづちもいづちも、足の向きたらむ方へ往(い)なむず。

*現代語訳-4
家来たちはそれぞれが命令を仰せつかって出発した。「竜の首に掛かっている玉を取ってくるまで帰ってくるな」と命令されたので、あちらへこちらへと、足が向かうままの方角へ適当に出かけていった。

*所見-4
この文章の中の「竜の首の玉」が神仙思想に関係する言葉である。
それは以下の中国の文献に登場する。
・荘子▼「雑篇」

<6 .、かぐや姫月世界へ昇天>

*原文-5
天人の中に持たせたる箱あり。天の羽衣入れり。又、あるは不死の薬入れり。


*現代語訳-5
天人のうちの一人に持たせている箱があった。その箱には天の羽衣(あまのはごろも)が入っている。もう一つの箱には不死の薬が入っていた。

*所見-5
この文章の中の「天人」「天の羽衣」「不死の薬」が神仙思想に関係する言葉である。
それらは以下の中国の文献に登場する。
・史記「封禅書」
・列子「湯問」
・神仙伝★「衛叔卿」「沈義」
・太平廣記「羅公遠」

*原文-6
ふと天の羽衣うち着せ奉りつれば、翁をいとほし、かなしとおぼしつることも失せぬ。この衣着つる人は、物思ひなくなりにければ、車に乗りて百人ばかり天人具して昇りぬ。

*現代語訳-6
天人は素早く天の羽衣をかぐや姫に着せた。すると、翁を愛おしい、可哀想だという心も消えてしまった。この天の羽衣を着たかぐや姫は、人間らしい物思いの感情が無くなったので、飛ぶ車に乗って百人ほどの天人を引き連れて天へと昇っていった。

*所見-6
この文章の中の「天の羽衣」「車」「天人」が神仙思想に関係する言葉である。
それらは以下の中国の文献に登場する。
・神仙伝★「衛叔卿」「沈義」
・太平廣記「妙女」「羅公遠」

*原文-7
かの都の人は、いとけうらに、老いをせずなむ。思ふこともなく侍るなり。

*現代語訳-7
あの月の都の人は、とても美しくて年を取ることもないのです。思い悩むこともありません。

*所見-7
この文章の中の「老いをせずなむ」「思ふこともなく」が神仙思想に関係する言葉である。
それらは以下の中国の文献に登場する。
・神仙伝★「彭祖」
・太平廣記「妙女」

*原文-8
一人の天人言ふ。「壺なる御薬奉れ。きたなき所のものきこしめしたれば、御心地悪しからむものぞ」とて、持て寄りたれば、

*現代語訳-8
一人の天人が、「壺に入っている薬をお飲み下さい。汚れた地上の国のものを召し上がっていたので、ご気分が悪いでしょうね。」と言って箱を持ってきたが、

*所見-8
この文章の中の「壺なる御薬」が神仙思想に関係する言葉である。
それらは以下の中国の文献に登場する。
・太平廣記「妙女」


●竹取物語(原文、現代語訳)
http://www5f.biglobe.ne.jp/~mind/knowledge/japan/literature.html#TAKE
http://www.h3.dion.ne.jp/~urutora/taketoripage.htm
●道教
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%93%E6%95%99
●老子
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%80%81%E5%AD%90
●荘子
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%98%E5%AD%90
●老荘思想
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%80%81%E8%8D%98%E6%80%9D%E6%83%B3
●列子
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%97%E5%AD%90
●三教指帰
http://www.mikkyo21f.gr.jp/kukai-writing/post-105.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/三教指帰
http://blogs.yahoo.co.jp/emomonger/4345069.html

以下、竹取物語の作者~空海説について(その12)へ続く。


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竹取物語の作者~空海説について(その12)
http://blogs.yahoo.co.jp/miya09132001/35980528.html
2014/7/5(土) 午前 6:52

◆竹取物語と空海を結びつける根拠について
・根拠その7-2:竹取物語と三教指帰における神仙思想(道教)の関連性について


<<三教指帰の中の神仙思想>>

それでは、空海の作品の中で神仙思想(道教)に関連した書籍は何か?と問いただすと、最も有名なのは「三教指帰」である。それは空海が24才頃(AD797)に書いたものである。その意味するところは儒教よりも道教(神仙思想)、道教よりも仏教の方が優れている。つまり、仏教の教えが儒教・道教・仏教の三教の中で最善であることを弁証法的な手法によって論理的に説明されているのである。
そしてそれら三教は相争うことなく共存していると言うのである。この「三教指帰」の中に神仙思想(道教)に関連した中国の古典がいくつか出てくるのだ。

三教指帰の全体構成は以下の通りである。

1.、三教指帰を書いた理由
2、.亀毛先生の主張(儒教)
3.、虚亡隠士の主張(道教=神仙思想)
4.、仮名乞児の主張(仏教)


三教指帰の中で特に神仙思想(道教)が顕著に表われている場面は以下の通り。

<2.、亀毛先生の主張>

*漢文原文-9
葛公白飯、忽為黄蜂
左慈改形、忽為羊類

*漢文訓読み-9
葛公が白飯、忽ちに黄蜂と為り、
左慈が形を改めて、忽ちに羊類と為る

*現代語訳-9
「神仙伝」には葛公という、仙術を使う者の話しがあり、この人の食べていた白飯がたちまちに黄色い蜂の群れとなって、口から次々に飛び出していったと申しますし、また左慈という道教を学んだ人が警察に捕らえられようとした時に、変身して羊の姿となって逃れたという話も有ります。

*所見-9
この文章の中の「葛公」「左慈」が神仙思想に関係する言葉である。
それらは以下の中国の文献に登場する。
・神仙伝★

<3、.虚亡隠士の主張>

*漢文原文-10
東父西母、何足怪乎
是蓋吾所聞学霊宝之密術歟

*漢文訓読み-10
東父・西母も何ぞ怪しむに足らんや。
是れ蓋し、吾が聞き学ぶ所の、霊宝の密術か。

*現代語訳-10
「神異経」という道教の書物に、「崑崙山には天に届くほど高い桐樹の柱があって、その頂上に希有という大きな鳥が住んでいる。この鳥が南へ向かって翼を拡げると、左の翼は東王公を覆い、右の翼は西王母を覆う。この鳥の背に羽毛のはえていない場所が少しあって、その広さが一万数千里に達する」と記されている。仙人の境地がわかってくればこの大きさについて何ら疑うこともない、当たり前の話なのだ。これが仙道の秘術なのである」

*所見-10
この文章の中の「東父」「西母」が神仙思想に関係する言葉である。
それらは以下の中国の文献に登場する。
・神異記(神異経)▲

<4、.仮名乞児の主張>

*漢文原文-11
常歎楚河未決、周鮒就肆

*漢文訓読み-11
常に歎ずらくは、楚河未だ決らざるに、周鮒、肆に就く

*現代語訳-11
「荘子」の中に、荘周が、水溜りに喘いでいる鮒と対話する話があります。いま水がなくて苦しいから、何とか水を都合して助けて下さい、という鮒に対して荘周は、よろしい、いずれ楚の国から運河を作って沢山の水を送ってやろう、と答えますと、鮒は怒って、それでは間に合いません、工事が出来上がる前に私は死んで魚屋の店先に並べられてしまいます。

*所見-11
この文章の中の「周鮒」が神仙思想に関係する言葉である。
それらは以下の中国の文献に登場する。
・荘子▼

*漢文原文-12
磊?宝蔵、宛同鄭交之空承仙語

*漢文訓読み-12
磊?たる宝蔵も、宛も鄭交が空しく仙語を承けしに同じ。

*現代語訳-12
「列仙伝」には鄭交甫がある時に二人の神女に出会い、神女の帯につけていた飾珠をもらった話を載せています。彼は悦んでその玉を懐に入れて走り、数十歩行ってから見ると、懐中にはすでに玉は無く、振り向けば神女の姿もまた見えなかったといいます。うず高く積まれた宝の蔵も、生きている内の束の間の喜びあって、鄭交甫が空しく喜んだのと同じことです。

*所見-12
この文章の中の「宝蔵」「鄭交」「仙語」が神仙思想に関係する言葉である。
それらは以下の中国の文献に登場する
・列仙伝◆


<<最後に>>
以上のように、小生は竹取物語と三教指帰の両者において、神仙思想(道教)の関連性があると考えている。特に、以下の神仙思想関連の4古典書において繋がりがあると見ている。

・神仙伝★
・列仙伝◆
・神異記▲
・荘子▼

つまり、空海はこれらの書物を竹取物語を作成する以前によく読んでいた。そして、読んでいたという証拠が三教指帰の中に確かにある。つまり、それらの書物を題材にして、竹取物語の中に部分的に取り入れたと思われるのだ。読んでいなければ、書けない部分が確かにあるのだ。つまり、三教指帰と竹取物語には神仙思想(道教)に関する中国の古典書において関連性が有るということなのだ。

『挿入』
竹取翁博物館では、三教指帰と竹取物語関係については「竹取物語かぐや姫サミット冊子」P19~P39「竹取物語の作者は空海だった」を発行。
関心のある方は、竹取翁博物館へお越し下さい。
0774-62-2522

●竹取物語(原文、現代語訳)
http://www5f.biglobe.ne.jp/~mind/knowledge/japan/literature.html#TAKE
http://www.h3.dion.ne.jp/~urutora/taketoripage.htm
●道教
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%93%E6%95%99
●老子
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%80%81%E5%AD%90
●荘子
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%98%E5%AD%90
●老荘思想
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%80%81%E8%8D%98%E6%80%9D%E6%83%B3
●列子
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%97%E5%AD%90
●三教指帰
http://www.mikkyo21f.gr.jp/kukai-writing/post-105.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%95%99%E6%8C%87%E5%B8%B0
http://blogs.yahoo.co.jp/emomonger/4345069.html

以下、竹取物語の作者~空海説について(その13)へ続く。

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竹取翁博物館から…
 下記につきましては、竹取翁博物館の館長が2012年頃から竹取翁博物館で述べていたものです。
それまでにも色々な空海説を博物館で説明していました。ここに記されている内容の殆どの弘法大師・空海説は、博物館のホームページやブログそれにユーチューブで主張して参っています。
 その後、2014年2月の「かぐや姫サミット」で、空海の『三教指帰』により『竹取物語』は、空海であることが確定的になったと言うことを小泉芳孝館長から発表されました。
 ここで述べていたたいている内容は、どちらかというと竹取翁博物館の小泉館長説の「盗用」と取られますが、博物館の発表をふまえて、詳細に検討され記されている物ですので、博物館に見学に来て頂いて詳細な研究活動を展開されていることに対して応援させて頂きます。また、これらの主張に対しては、是非、小泉館長宛にご意見ご希望を電話やメールなりでお送り頂ければ幸いです。

  なお、下記の説や文章並びに漢字等に関しまして間違い等見受けられますが、宮口善通さんが記されたそのままを掲載させて頂いています。ご了承下さい。


竹取物語の作者~空海説について(その13)

◆竹取物語と空海を結びつける根拠について
・根拠その8:対語対句を重ねて用いる竹取物語と三教指帰の文章表現の類似性について

●対語対句を重ねて用いる「竹取物語」の文章表現
以下については、5人の貴公子たちの求婚の部分をよく読んでみて下さい。

<原文1>

日暮るる程、例の集まりぬ。
あるひは笛を吹き、
あるひは歌をうたひ、
あるひは唱歌をし、
あるひはうそぶき
扇を鳴らしなどするに、


<現代語訳文1>

日暮れ頃に、男たちはいつものように集まった。
ある者は笛を吹き、
ある者は歌をうたい、
ある者は唱歌をし、
ある者は口笛を吹き、
扇を鳴らして手拍子をとりなどするところに、

以下については、車持の皇子の部分をよく
読んでみて下さい。

<原文2>

海に漂ひ、漕ぎありきて、わが国のうちを離れて、ありきまかりしに、ある時は波荒れつつ海の底にも入りぬべく、ある時は風につけて知らぬ国に吹き寄せられて、鬼のやうなる物出でて殺さんとしき。
ある時は来し方行末も知らず、海にまぎれんとしき。
ある時は糧尽きて草の根を食ひ物としき。
ある時は言はん方なくむくつけげなる物来て、食ひかからんとしき。
ある時には海の貝を取りて命をつぐ。

<現代語訳文2>

あてもなしに海に船を浮かべ、漕ぎまわって、わが国を遠く離れて、あちこちしてますうちに、ある時は、波が荒れて海の底に沈みそうになり、ある時は風に送られて未知の国に吹き寄せられて、鬼のような物が現われて殺そうとした。
ある時は、過ぎて来た方角も進む先も分らず海で迷いそうになった。
ある時は食糧が絶えて、草の根を食糧にした。
ある時は言いようもなく気味悪いような物が来て、食いかかろうとした。
ある時は海の貝を取って命をつないだ。

●対語対句を重ねて用いる「三教指帰」の文章表現

以下については、仮名乞児論の部分をよく読んでみて下さい。

<原文3>

或登金巌
而遇雪坎壈
或跨石峯
以絶粮轗軻

或眄雲童娘
懈心服思
或観滸倍尼
策意厭離


<訓み下し文3>

或る時は金巌に登って、雪に逢うて坎壈たり。
或る時は石峯に跨り、以て糧を絶って轗軻たり。

或る時は雲童の娘を眄て、心懈んで思いを服け、或る時は滸倍の尼を観て、意を策まして厭い離る。

<現代語訳文3>

ある時は金嶽に登って修行し、雪に降られてずいぶん苦しみましたし、またある時は石峰に登って修行し、食糧がなくてずいぶん苦労しました。

またある時は住の江の雲童のような美しい乙女を見て、心をゆるめ、しばらく思いに耽ることもありましたが、またある時には修行にはげむ滸倍の尼僧のしわだらけの老境を見て、娘ざかりの美しさもうつろい易いものと感じて意をはげまし、厭い離れるようなこともありました。


<原文4>

或天堂為國
或地獄為家
或為汝妻孥
或為汝父母
有波旬為師
有外道為友


<訓み下し文4>

或る時は天堂を国とし、或る時は地獄を家とす。
或いは汝が妻孥たり、或いは汝が父母たり。
有る時は波旬を師とし、有る時は外道を友とす。

<現代語訳文4>

ある時は天堂を自国とし、ある時は地獄をわが家とします。
またある時はあなた方の妻子ともなりますし、ある時は父母となる時もあります。
またある時は悪魔を師として学んだり、ある時は仏教以外の教えを信じる外道の人を友として暮らします。

<原文5>

或沈溺泥中
抜出未期
或騁馬奔車
先巳発進

<訓み下し文5>

或いは泥中に沈溺して、抜出未だ期あらず。
或いは馬を騁せ車を奔らせて先だって己に発進せり。

<現代語訳文5>

ある者は世俗の生活に溺れ沈み、いつまた脱け出るともわかりませんし、また、ある者たちは自分の目標に向かって馬を走らせ車を走らせて出発して行きました。

<原文6>

或投嶃巖之刀嶽
流血潺湲
或穿嶕嶫之鋒山
貫胸愁焉

乍轢萬石之熱輪
乍沒千仞之寒川

有鑊湯入腹
常事炮煎
有鐵火流喉
無暫脱縁

<訓み下し文6>

或る時は嶃巖たる刀嶽に投ぜられて、血を流して潺湲たり。
或る時は嶕嶫たる鋒山に穿たれて、胸を貫ぬいて愁焉たり。

乍いは万石の熱輪に轢かれ、乍いは千仞の寒川に没す。

有るいは鑊湯腹に入って、常に炮煎を事とし、有るいは鉄火喉に流れて、暫くも脱るるに縁無し。

<現代語訳文6>

ある時は鋭く突き出た刀剣の嶽へ投げ入れられ、その流れる血が潺湲と音を立てて流れていきます。
また、ある時は高く盛り上った鋒の山に入れられ、鋒で胸を貫かれて、憂愁に打ちのめされます。

また、ある時は万石の重さの灼熱した車輪に轢きつぶされ、また、ある時は千仞の深さの凍てついた川に打ち沈められます。

ある地獄では鑊に投げ入れられ、鑊湯が腹に流れ込み、全身が絶えず炮られ煎られて苦しみ、ある地獄では真赤に溶けた鉄を喉から流し込まれて、その苦しみからのがれられないのです。


<原文7>

或饕或餮


<訓み下し文7>

或いは饕し或いは餮して、

<現代語訳文7>

ある時は貪り食い
ある時は貪り追って


<原文8>

或痛或死


<訓み下し文8>

或いは痛み或いは死んで、

<現代語訳文8>

ある時は病んで苦しみ
ある時は倒れて死んで、


<<結論>>

以上のような、竹取物語や三教指帰からの引用文でも解るように、空海の場合、以下のような対語対句を重ねて用いることによって、文章表現を誇張する癖(くせ)というか、習性があるのだ。この習性が竹取物語にも見られるのだが、三教指帰にも、同様に見られるのだ。

「あるひは・・・・、あるひは・・・・、」
「ある時は・・・・、ある時は・・・・、」
「或いは・・・・、或いは・・・・、」
「在る時は・・・・、在る時は・・・・、」
「有るいは・・・・、有るいは・・・・、」
「有る時は・・・・、有る時は・・・・、」
「乍(ある)いは・・・・、乍(ある)いは・・・・、」
以上のような対語対句を重ねて用いる文章表現で、

「竹取物語」≒「三教指帰」=「空海」
と言える「ニアリーイコールの推論」または「類似性の推論」または「類推」が成り立つと思われるのだ。

最後に、以上のような類推から、竹取物語は、最初、漢文で書かれていた。そしてその後、漢字まじりのひらがな文に書き換えられたと思われるのだ。その理由はより多くの人々に読んでもらいたかったからだと思われるのだ。

●竹取物語(原文、現代語訳)
http://www5f.biglobe.ne.jp/~mind/knowledge/japan/literature.html#TAKE
http://www.h3.dion.ne.jp/~urutora/taketoripage.htm
●三教指帰
http://www.mikkyo21f.gr.jp/kukai-writing/post-105.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/三教指帰
http://blogs.yahoo.co.jp/emomonger/4345069.html

以下、竹取物語の作者~空海説について(その14)へ続く。

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竹取物語の作者~空海説について(その14)
★竹取物語の秘義について
この竹取物語の秘義は「胎蔵界」から「金剛界」へ そしてさらに「護摩」を焚いて祈願するところで終わっていると思われる。
かぐや姫が生まれて出て来る「節」で囲まれた「竹」の中の空間が女性の子宮の胎盤を意味し、「竹」は「蓮華」を表象する「胎蔵界」のシンボルとなっている。
また、かぐや姫が最後に昇天する8月15日の中秋の名月の「満月」が「月輪」を意味し「金剛界」の シンボルとなっている。
さらに「富士山」の仙薬を焼く煙は「護摩」を意味し、日本で一番高い山の山頂で、国民全体の煩悩、病苦、 災難を焼き払い、利益、繁栄、幸福、そして永遠の平和を祈願しているのだ。

そして「かぐや姫」本人は阿吽の「阿字」を意味しているのだ。それは阿尾囉吽欠・縛日羅駄都鑁(アビラ ウンケン・バザラダドバン)の最初の文字である「阿字」である。そう、あの阿字観の「阿字」である。
頭の中をさらに整理すると、
・梵名: 摩訶毘盧遮那怛他誐多(マカビルシャナタタギャタ、Mahāvairocanatathāgata)
・真言:胎蔵界:唵 阿尾羅吽欠(オン アビラウンケン、Om a vi ra hum kham)
     金剛界:唵 縛日羅駄都鑁 (オン バザラダドバン、Om vajra-dhatu vam)
となる。これが光り輝く「かぐや姫」の正体である。
つまり、竹取物語のシナリオの全体の流れは、竹=蓮華(胎蔵界)→満月(金剛界)→富士山(護摩)
となっており、「竹」と「月」と「富士山」が非常に深い意味を持っているのだ。そして、物語の中に「月」が登場する場面から「胎蔵界→金剛界」への切替えが行われているのだ。そして「かぐや姫の月への昇天」から「富士山」への場面の切替えが「金剛界→護摩」への切替えを意味しているのだ。
以上のことから、空海さんは入唐以前に「三教指帰」を書き、入唐後、密教を学んで日本へ帰国した後に「竹取物語」を書いたと思われるのだ。つまり、空海の思想変遷は「三教指帰」の中の「儒教→道教→仏教」へと進んで行って、「竹取物語」の中の「密教」で終わっているのだ。

●竹取物語(原文、現代語訳)
http://www5f.biglobe.ne.jp/~mind/knowledge/japan/literature.html#TAKE
http://www.h3.dion.ne.jp/~urutora/taketoripage.htm

以下、 竹取物語の作者~空海説について(その15)へ続く。
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竹取物語の作者~空海説について(その15)

◆竹取物語の空間性と時間性について
竹取物語を空間と時間と言う2つの次元、または軸で考えると、物語が進行するにつれて、以下のようになると思われる。ごく簡潔に箇条書きで記載してみる。
●かぐや姫の誕生
 ・時間:古墳時代以前(斎部氏、忌部氏、迦具夜比売命)
 ・空間:竹薮、竹取翁の邸(京都府京田辺市近辺)
 ・追記:迦具夜比売命は古事記に出てくる第11代天皇、垂仁天皇の妃。
     竹藪の竹の中から生まれたかぐや姫。三寸(約10cm)ばかりなる人。
●五人の貴公子たちへの難題
 ・時間:飛鳥時代~奈良時代
 ・空間:国内(山城、大和、筑紫、難波、播磨の明石)
     海外(唐土(中国)、天竺(インド))
●帝の求婚
 ・時間:平安時代初期
 ・空間:京都(宮中)、竹取翁の邸
●月への昇天
 ・時間:平安時代初期(六衛府、頭中将)
 ・空間:月&宇宙
 ・追記:中秋の名月(秋)
●富士山
 ・時間:平安時代初期(富士山の活動時期)
 ・空間:国内(駿河の富士山)
 ・追記:不死の仙薬を焼く護摩の祈祷(未来に対する祈願)

<結論>
物語が進行するにつれて、
●空間的には竹取物語の作者にとって、次第に広がりを見せて行って、最後に自分自身の方へ再び戻ってくる。
・竹藪
  ↓
・京都近辺
  ↓
・近畿地方
  ↓
・海外(中国、インド)
  ↓
・月世界(宇宙)
  ↓
・富士山(駿河)
  ↓
・富士山の煙を観想する自分自身(現地点)

●時間的には竹取物語の作者にとって、次第に過去から現在へさらに未来へと流れて行くのである。
・かぐや姫、忌部氏(古墳時代以前)
  ↓
・五人の貴公子(飛鳥時代~奈良時代)
  ↓
・月への昇天(平安時代初期)
  ↓
・富士山&護摩(未来への祈願)

以上をごく簡潔にまとめると、心の中では、次第に、
●空間的に広がって行って、その後、自分自身の方へ戻ってくる。
 (竹藪→京都近辺→近畿地方→海外→月&宇宙→駿河→自分自身)つまり、心の中が自分自身から始まって、次第にどんどん大きくなって行って、宇宙大にまで拡大して行く。そしてその次に、今度は逆に、どんどん狭まって行って、小さく縮小して行って、最後には、再び、自分自身の方へ向かって戻って来るのである。
●時間的には(過去→現在→未来)へと流れて行くのである。
 つまり、遠い過去から、次第に、自分自身に最も近い現代へ近づいて行って、そして、現時点にまでたどり着く。そこでいったん、立ち止まって、そして、その後、今度は未来に向かって、観想し祈願するのである。つまり、自分の心を未来へ投げ飛ばすのである。
このような文章構成、シナリオ構成はどこから来るのであろうか?
これはあくまでも小生の独断と偏見なのであるが、おそらく「数息観」「阿息観」「月輪観」「阿字観」などに見られる密教の瞑想方法、特に「拡縮法」又は「広観斂観法」から来ていると思われるのだ。
●竹取物語(原文、現代語訳)
http://www5f.biglobe.ne.jp/~mind/knowledge/japan/literature.html#TAKE
http://www.h3.dion.ne.jp/~urutora/taketoripage.htm
以下、 竹取物語の作者~空海説について(その16)へ続く。
今日はここまで。
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竹取物語の作者~空海説について(その16、最終回)

最後の最後に、この竹取物語の中で、最も美しいと思われる場面はどこか?と質問された時、あなたな らどの場面にしますか?それは人によって皆違うと思うのだけれども、小生の場合は以下の通り。それはかぐや姫が月へ昇天して行く場面である。
<原文>
この衣着つる人は、物思ひなくなりにければ、車に乗りて百人ばかり天人具して昇りぬ。
<現代語訳>
この天の羽衣を着たかぐや姫は、人間らしい物思いの感情が無くなったので、飛ぶ車に乗って百人ほどの天人を引き連れて天へと昇っていった。

この場面を、どのようにしたら、現代の人々に理解してもらえるだろうか?といろいろと思案したあげく、現在までに小生が行き着いた回答は以下のような「YouTube」を見ていただくしか方法が無いと思われたのである。それを見ることによって、飛天、天女、天人、仙女の美しさがよく理解できると思われるのだ。現代の日本では、これら飛天、天女、天人、仙女の美しさが忘れ去られてしまっているように思われる。なぜなら、明治維新以降、西洋芸術が大量に流入し摂取されてきたからである。
中国の舞台芸術と言うと、一般的には、上海雑技団や京劇などがあげられるのだが、小生が最も好む中国の舞台芸術は実は「中国古典舞踊」なのである。
非常に優雅で美しい。唐代の優雅さをイメージするからなのであろうか?特に北京のCCTV大ホールで演じられる古典舞踊は本当に優雅で美しいのだ。
皆様方に是非とも以下の古典舞踊を一つ一つ順に堪能していただければ幸いなことであると思われるのだ。中国の北京へ行かれたら、是非とも、CCTV大ホールでの舞台芸術を一度でもいいから、鑑賞されることをお薦めする。
●Chinese Dance- fairs fly in sky (飛天)
http://www.youtube.com/watch?v=r_lsFq8yeY0
●Beautiful Chinese Dance【1】Spring Outing Dance
http://www.youtube.com/watch?v=adXrSXJCwjE
●dun huang dance 敦煌飛天舞蹈
http://www.youtube.com/watch?v=Me6uhrF_Fts
●飞天 - Flying Apsaras ( 徐杰, 资华筠)
http://www.youtube.com/watch?v=ef3-0bZAsJE
●chinese classical dance "tao yao" 中國古典舞"桃夭"( 較清晰版 )
http://www.youtube.com/watch?v=JFBw2pZcQbU
●飛天 -《舞苑奇葩聚香江-2012》
http://www.youtube.com/watch?v=UHt_2R_fD34
●敦煌飞天 DunHuangFeiTian
http://www.youtube.com/watch?v=KeC0RwDX7No
●霓裳羽衣舞(古典舞女子群舞)
http://www.youtube.com/watch?v=sIYl9dhKBYM
●大飞天
http://www.youtube.com/watch?v=QgtbOulRXCg
●2008春晚舞蹈-飞天 Spring Festival Gala Dance-Fei Tian V2-2
http://www.youtube.com/watch?v=gQJq6m8Chak

以上のような中国古典舞踊を鑑賞することによって、かぐや姫が月へ昇天して行く場面を少しでも理解し てもらえるようであれば、幸いなことだと思えるのだ。竹取物語では、かぐや姫が百人もの天人を引き連れて天へと昇っていったのであるから、たいへんな華やかさであったであろうと思われるのだ。
日本の古代の天の羽衣伝説や飛天、天女、天人、仙女たちが登場する物語を書いた作者たちはこのような美しい女性の舞姿をきっとどこかで見たに違いないと思われるのだ。空海も唐の都、長安でそのような光景を見ていたのではなかろうか?

以上で「竹取物語の作者~空海説」を終了するが、これはあくまでも一つの仮説なのである。ひょっとしたら、将来、より優れた新説が出てくるかもしれない?そしてこの空海説が否定されるかもしれない。
しかし、一つだけ確実に言えることは、この竹取物語には、人々を引き付ける大きなパワー、人々を魅了させるパワーがあって、約1200年もの長きにわたって、多くの人々に読み継がれてきたパワーがあるのだ。それはこの物語には「人間とは何か?」と言う問いに対する普遍性、永遠性があるからだと思えるのである。

それでは皆様さようなら!

●竹取物語(原文、現代語訳)
http://www5f.biglobe.ne.jp/~mind/knowledge/japan/literature.html#TAKE
http://www.h3.dion.ne.jp/~urutora/taketoripage.htm

<完>

 
 
 
竹取翁博物館 大筒木出版 「国際かぐや姫学会」movie

Taketori okina Museum
"Interpretation of Taketori no Okina no Monogatari"
場所:〒610-0313京都府京田辺市三山木直田10 代表者小泉芳孝
  JR片町線「JR三山木駅」東へ徒歩3分  近鉄京都線「三山木駅」東へ徒歩2分
  
TEL・FAX0774-62-2522  携帯090-6961-9391 
  HP http://taketori.koiyk.com/
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