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曖昧さ回避

この項目では、国について説明しています。雑誌については「邪馬台 (雑誌)」をご覧ください。

 

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邪馬台国(やまたいこく / やまとこく)は、23世紀に日本列島に存在したとされる国(くに)のひとつである。 中国の史書では、邪馬台国は卑弥呼が治める女王国であり、倭国連合の都があったとされている。邪馬台国の所在地が九州か近畿か南西諸島か、21世紀に入っても日本の歴史学者の説が分かれている。

目次

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         1 概説

         2 「魏志倭人伝」中の"邪馬台国"

o    2.1 道程

o    2.2 倭地、女王国の地理

o    2.3 政治

o    2.4 「鬼道」について

o    2.5 魏・晋との外交

o    2.6 風俗

o    2.7 邪馬台国のその後

         3 名称・表記

o    3.1 発音

         4 邪馬台国に関する論争

o    4.1 位置に関する論争

o    4.2 距離の計算

         5 邪馬台国畿内説

         6 邪馬台国九州説

o    6.1 邪馬台国徳之島説

o    6.2 大隅半島説

o    6.3 東遷説

         7 フィクションにおける邪馬台国

         8 脚注

o    8.1 注釈

o    8.2 出典

概説

三国志』における「魏志倭人伝」(『三国志』魏書東夷伝倭人条)では、親魏倭王卑弥呼はこの国の女王であり、約30の国からなる倭国の都としてここに住居していたとしている。「魏志倭人伝」では「邪馬壹国」と表記されているが、『後漢書』には「邪馬臺国」とある。「邪馬台国」の通称は、「邪馬臺国」の""の字を、""をもって代用したものである。また、耶馬台国とも記述される。 弥生時代1-3世紀倭国にあったと推定されている。女王が治めていたことから魏志倭人伝では女王国とも記されている。

倭国の邪馬台国は元々男王が治めていたが、国成立(1世紀中頃か2世紀初頭)から70-80年後、倭国全体で長期間にわたる騒乱が起きた(倭国大乱の時期は2世紀後半)。邪馬台国もその影響を逃れえず、卑弥呼という女子を王に共立することによって、ようやく混乱が収まった。弟が彼女を補佐し国を治めていた。女王は魏に使節を派遣し親魏倭王封号を得た。248頃、狗奴国との戦いの最中に卑弥呼が死去し、男王が後継に立てられたが混乱を抑えることができず、「壹與」(壱与)または「臺與」(台与)が女王になることで収まったという。

なお倭人伝中に出現する表記は、邪馬台国1回に対して、女王国は5回の出現を確認できる[1]。邪馬台国と後のヤマト王権の関係ははっきりしない。邪馬台国の位置についても諸説ある。一般的な読みは「やまたいこく」だが、本来の読みについても諸説がある。

「魏志倭人伝」中の"邪馬台国"

以下は「魏志倭人伝」に記述された邪馬台国の概要である。

道程

魏志倭人伝には、の領土で朝鮮半島北部ないし中部に当時あった郡[注釈 1]から邪馬台国に至る道程が記されている。

倭人在帶方東南大海之中 依山島爲國邑 舊百餘國 漢時有朝見者 今使譯所通三十國

從郡至倭 循海岸水行 歴韓國 乍南乍東到 其北岸狗邪韓國七千餘里

始度一海千餘里 至對海國 其大官曰卑狗副曰卑奴毋離所 居絶島方可四百餘里 土地山險多深林 道路如禽鹿徑 有千餘戸 無良田食海物自活 乗船南北市糴

又南渡一海千餘里 名曰瀚海 至一大國 官亦曰卑狗副曰卑奴毋離 方可三百里 多竹木叢林 有三千許家 差有田地 耕田猶不足食亦南北市糴

又渡一海千餘里 至末盧國 有四千餘戸 濱山海居 草木茂盛行不見前 人好捕魚鰒 水無深淺皆沈没取之

東南陸行五百里 到伊都國 官曰爾支副曰泄謨觚柄渠觚 有千餘戸 世有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐

東南至奴國百里 官曰?馬觚副曰卑奴毋離 有二萬餘戸

東行至不彌國百里 官曰多模副曰卑奴毋離 有千餘家

南至投馬國水行二十日 官曰彌彌副曰彌彌那利 可五萬餘戸

南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月 官有伊支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲支次曰奴佳? 可七萬餘戸

自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳

次有斯馬國次有巳百支國次有伊邪國次有都支國次有彌奴國次有好古都國次有不呼國次有姐奴國次有對蘇國次有蘇奴國次有呼邑國次有華奴蘇奴國次有鬼國次有爲吾國次有鬼奴國次有邪馬國次有躬臣國次有巴利國次有支惟國次有烏奴國次有奴國 此女王境界所盡

其南有狗奴國 男子爲王 其官有狗古智卑狗 不屬女王

自郡至女王國 萬二千餘里

位置や道程の比定をめぐっては論争が起きてきた(#邪馬台国に関する論争を参照)。位置については畿内説と九州説が有力とされる(#位置に関する論争を参照)。道程についても「連続説」と「放射説」がある(#道程に関する論争を参照)。

倭地、女王国の地理

倭地、女王国について説明があり、「倭地について參問(情報を収集)すると、海中の洲島の上に絶在していて、或いは絶え、或いは連なり、一周して戻って来るのに五千里ばかりである。」などとある。

女王國東渡海千餘里 復有國 皆倭種

又有侏儒國在其南 人長三四尺 去女王四千餘里

又有裸國 K齒國復在其東南 船行一年可至

參問倭地 絶在海中洲島之上 或絶或連 周旋可五千餘里

政治

対海国一大国末廬国伊都国奴国不彌国投馬国、邪馬台国に関しては、「魏志倭人伝」に詳しい記述がある。その他、斯馬国、百支国、伊邪国、都支国、彌奴国、 好古都国、不呼国、姐奴国、對蘇国、蘇奴国、 呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、爲吾国、鬼奴国、 邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国、奴国[注釈 2]があり、邪馬台国はこれら20数カ国を支配していたが、日本列島の全てを支配していたわけではなく領域外にも国々があり、女王国から海を渡って東へ1000里にも倭種の国があり、その先には侏儒国、裸国、K齒国があった。南には男王卑弥弓呼が治める狗奴国があり女王国と不和で戦争状態にあった。

收租賦 有邸閣國 國有市 交易有無 使大倭監之

租税や賦役の徴収が行われ、国々にはこれらを収める倉がつくられていた。また、市場が各地に開かれ、大倭という官がこれを監督していた。

自女王國以北 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史 王遣使詣京都 帶方郡 諸韓國 及郡使倭國 皆臨津搜露 傳送文書賜遺之物詣女王 不得差錯

邪馬台国の北方の諸国には一大率という官が置かれ、諸国を監視していた。一大率は常に伊都国で治めていた、魏の刺史[注釈 3]のような役目を果たしていた。伊都国は中心地で、王が魏の都、帶方郡、韓の国々に使者を派遣するさいや、郡の使者が倭国に来たさいは、皆が港に臨んで文書や贈物の点検をして女王に送っていたので間違いは起きない。

其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂 相攻伐歴年 乃共立一女子為王 名曰卑彌呼 事鬼道 能惑衆 年已長大 無夫婿 有男弟佐治國 自為王以來 少有見者 以婢千人自侍 唯有男子一人給飲食 傳辭出入 居處宮室樓觀 城柵嚴設 常有人持兵守衛

倭国には元々は男王が置かれていたが、国家成立から70-80年を経たころ、霊帝光和年間に政情不安が起き、歴年におよぶ戦乱の後、女子を共立し王とした。その女王が卑弥呼である。この戦乱は、中国の史書に書かれたいわゆる「倭国大乱」と考えられている。

女王は鬼道(後述)によって人心を掌握し、既に高齢で夫は持たず、弟が国の支配を補佐した。卑弥呼は1,000人の侍女に囲われ宮室や楼観で起居し、巡らされた城や柵、多数の兵士に守られていた。王位に就いて以来、人と会うことはなく、一人の男子[注釈 4]が飲食の世話や取次ぎをしていた。

卑弥呼に関する「魏志倭人伝」のこの記述から、卑弥呼は呪術を司る巫女シャーマン)のような人物であり、邪馬台国は原始的な呪術国家とする見方がある。一方で、弟が政治を補佐したという記述から、巫女の卑弥呼が神事を司り、実際の統治は男子が行う二元政治とする見方もある[注釈 5]

女王は景初2年(238)以降、帯方郡を通じ数度にわたって魏に使者を送り、皇帝から親魏倭王に任じられた。正始8年(248年)には、狗奴国との紛争に際し、帯方郡から塞曹掾史張政が派遣されている。魏志倭人伝の記述によれば、朝鮮半島の国々とも使者を交換していたらしい。

卑彌呼以死 大作家 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人 更立男王 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人 復立卑彌呼宗女壹與 年十三為王 國中遂定 政等以檄告?壹與 壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還 因詣臺 獻上男女生口三十人 貢白珠五千孔 青大句珠二枚 異文雜錦二十匹

卑弥呼が死去すると大きな墳墓がつくられ、100人が殉葬された。その後、男王が立てられたが、人々はこれに服さず内乱となり1,000人が死んだ。そのため、卑弥呼の親族で13歳の少女だった壹與(臺與)が王に立てられた。先に倭国に派遣された張政は檄文をもって壹與を諭しており、壹與もまた魏に使者を送っている。

「鬼道」について

詳細は「鬼道」を参照

卑弥呼の「鬼道」についてはシャーマン説、道教と関係があるとする説、道教ではなく「邪術」とする説など幾つかの解釈がある。

その他、「鬼道」についてシャーマニズム的な呪術という解釈以外に、当時の中国の文献では儒教にそぐわない体制を「鬼道」と表現している用法がある(神道#由来と教義も参照)ことから、呪術ではなく、単に儒教的価値観にそぐわない政治体制であることを意味するという解釈がある。

魏・晋との外交

「魏志倭人伝」には、帯方郡を通じた邪馬台国と魏との交渉が記録されている。

         建安年間(196-220年)公孫康屯有県以南の荒地の一部に帯方郡を置いた、後漢の遺民を集めるため公孫摸張敞などを派遣し兵を興して韓と?を討伐したが、後漢の旧民は少ししか見い出せなかった。この後、倭と韓は帯方郡に服属した。

         景初2年(238年)、魏の明帝は劉を帯方太守、鮮于嗣を楽浪太守に任じ、この両者は海路で帯方郡と楽浪郡をそれぞれ収めた(『三国志』魏書東夷伝序文)。

o    6[注釈 6]または景初3年(239年)6月女王は大夫の難升米と次使の都市牛利を帯方郡に派遣し、天子に拝謁を願い出た。帯方太守の劉夏は彼らを都に送り、使者は男の生口奴隷4人と女の生口6人、班布22丈を献じた。

o    12月、悦んだ魏の皇帝(景初2年だとすると明帝128日から病床、27日の曹宇罷免の詔勅も直筆できなかった。-『三国志』裴注引用 習鑿歯『漢晋春秋』)景初3年だとすると曹芳)は女王を親魏倭王とし、金印紫綬を授けるとともに銅鏡100枚を含む莫大な下賜品を与えた。また、難升米を率善中郎将、牛利を率善校尉とした。

o    823帯方郡楽浪郡を支配していた公孫淵司馬懿により斬首される。

o    帯方郡と楽浪郡が魏に占領される[2]

o    景初3年(239年)春正月丁亥日(11日)明帝崩御(『三国志』魏書明帝紀)。

         正始元年(240)帯方太守弓遵は建中校尉梯儁らに詔書と印綬を持たせて倭国へ派遣し、倭王の位を仮授するとともに下賜品を与えた。

         正始4年(24312月、女王俾彌呼は魏に使者として大夫伊聲耆、掖邪狗らを送り、生口と布を献上。皇帝(斉王)は掖邪狗らを率善中郎将とした(『三国志』魏書少帝紀)。

         正始6年(245)皇帝(斉王)は帯方郡を通じ難升米に黄幢(黄色い旗さし)を下賜した。

         正始6年(245)帯方太守弓遵と楽浪太守劉茂は嶺東へ遠征して?を討った後、郡内の韓族が反乱して崎離営を襲ったため、軍を出して韓族を討ち滅ぼしたたが弓遵は戦死した。

         正始8年(247年)女王は太守王?に載斯烏越を使者として派遣して、狗奴国との戦いについて報告。太守は塞曹掾史張政らを倭国に派遣した。

         女王に就いた壹与は、帰任する張政に掖邪狗ら20人を同行させ、掖邪狗らはそのまま都に向かい男女の生口30人と白珠5,000孔、青大句珠2枚、異文の雑錦20匹を貢いだ。

また、『日本書紀』の「神功紀」に引用される『晋書』起居註に、泰始2年(266)に倭の女王の使者が朝貢したとの記述がある。魏志の魏書三少帝紀によれば、同じ年に東夷が朝貢して禅譲革命の準備がなされたという記事があるので、この女王は壹與で、魏に代って成立したの皇帝(武帝)に朝貢したと考えられている。

風俗

魏志倭人伝に当時の倭人の風俗も記述されている。

         男子はみな顔や体に入墨を施している。人々は朱や丹を体に塗っている。

         ?豆(たかつき)を用い、手で食べる。(を使用していない)

         男子は冠をつけず、髪を結ってをつくっている。女子はざんばら髪。

         着物は幅広い布を横で結び合わせているだけである。

         兵器は、木弓を用いる。その木弓は下が短く上が長い。(和弓#歴史参照)

         土地は温暖で、冬夏も生野菜を食べている。

         人が死ぬと10日あまり哭泣して、もがり(喪)につき肉を食さない。他の人々は飲酒して歌舞する。埋葬が終わると水に入って体を清める。

         倭の者が船で海を渡る際、持衰が選ばれる。持衰は人と接さず、虱を取らず、服は汚れ放題、肉は食べずに船の帰りを待つ。船が無事に帰ってくれば褒美が与えられる。船に災難があれば殺される。

         特別なことをする時は骨を焼き、割れ目を見て吉凶を占う。

         長命で、百歳や九十、八十歳の者もいる。

         女は慎み深く嫉妬しない。

         盗みは無く、訴訟も少ない。

         法を犯した場合、軽い者は妻子を没収し、重い者は一族を根絶やしにする。

         宗族には尊卑の序列があり、上の者の言い付けはよく守られる。

邪馬台国のその後

3世紀半ばの壹與の朝貢を最後に、義熙9年(413)の倭王讃による朝貢(倭の五王)まで150年近く、中国の史書から倭国に関する記録はなくなる。このため日本の歴史で4世紀は「空白の世紀」と呼ばれた。邪馬台国と後のヤマト王権との関係は諸説ありはっきりしない。

名称・表記

現存する『三国志(魏志倭人伝)』の版本では「邪馬壹國」と書かれている。『三国志』は晋の時代に陳寿(233-297)が編纂したものであるが、現存する刊本で最古のものは、12世紀の宋代の紹興本(紹興年間(1131 - 1162年)の刻版)と紹煕本(紹煕年間(1190 - 1194年)の刻版)である。一方、勅撰の類書でみると、宋代の『太平御覧』は成本が10世紀で現存の『三国志』写本より古いが、『三国志』を引用した箇所をみると「邪馬臺国」の表記が用いられている。

『三国志』より後の5世紀に書かれた『後漢書』倭伝では「邪馬臺国」、7世紀の『梁書』倭伝では「祁馬臺国」、7世紀の『隋書』では?国について「都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也」(魏志にいう邪馬臺)、唐代の『北史』四夷伝では「居于邪摩堆 則魏志所謂邪馬臺者也」となっている。これらの正史は、現存の宋代の『三国志』より古い写本を引用している。

日本漢字制限後の当用漢字常用漢字教育漢字では、「壹」は壱か一にあたる文字であり、「臺」は台にあたる文字である。

表記のぶれをめぐっては、11世紀以前の史料に「壹」は見られないため、「壹」を「臺」の版を重ねた事による誤記とする説[注釈 7]のほか、「壹與,倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送,政等還。因詣,」から混同を避けるために書き分けたとする説、魏の皇帝の居所を指す「臺」の文字を東の蛮人の国名には用いず「壹」を用いたとする説[3]などがある。

発音

「邪馬壹國」と「邪馬臺国」の表記のいずれも、発音の近さから「やまと」の宛字ではないかとする説がある。これは、邪馬台国と同じく「魏志倭人伝」に登場する対馬國を対馬,一支國を壱岐,末廬國を肥前國松浦郡といったふうに発音の近さを手掛かりの一つとしてあてはめるのと同様に、邪馬台国も発音から場所をあてはめようとするものである。新井白石が記した「古史通或問」や「外国之事調書」では、その場所を大和国や山門郡と説いていることから、白石は「邪馬台」を「やまと」に近い音と想定してその場所を比定したと考えられている。

「邪馬壹國」の表記から、三世紀の音符は【 】(つくり)にあり【 】の旁は【 】であって「登」あるいは「澄」と同様に「と」と発音されていたして、「やまと」と読む説もある[注釈 8]

なお、『隋書』『北史』は、邪馬臺国の発音に関する記述(邪靡堆、邪摩堆)があるが、堆は過去にも現在にも「壹」(イ)の音には発音しない[4]

現在「邪馬台国」は一般に「やまたいこく」と読まれる。この「やまたいこく」という読みであるが、これは二種の異なった体系の漢音呉音を混用している。例えば呉音ではヤマダイ又はヤメダイ、漢音ではヤバタイとなることから、「魏志倭人伝」の書かれた当時の中国における音が「やまたい」であったとは考えにくい。

邪馬台国に関する論争

日本に邪馬台国があったとする根拠は、『日本書紀』卷第九の神功皇后の記述に、「魏志倭人伝」の引用があり、神功皇后と卑弥呼を同一人物と見なした記述があることである。[注釈 9]。一般に「魏志倭人伝」の名称で知られる『魏書』の「東夷倭国伝」」は中国の正史『魏書』の本筋ではなく外伝にあたる部分で、(参照→Wikisource)、以降に書かれた中国の正史以外の史書にも「魏志倭人伝」からとったと思われる記載がある。

史料によって漢字の表記方法にぶれがある上、「やまたいこく」と読むべきか否かも統一的な理解はなく、その場所や大和朝廷との関係についても長期的な論争が続いている。

この論争が始まったのは江戸時代後期である。新井白石が「古史通或問」において大和国説を説き、「外国之事調書」では筑後国山門郡説を説いた。

その後、国学者の本居宣長は「日本こそが中国(中心たる国)であるべきであり、日本の天皇が中国に朝貢した歴史などあってはならない」という立場から[要出典]、「馭戎概言」において九州熊襲説を提唱した。大和朝廷とはまったく別でつながることはない王国を想定し、筑紫(九州)にあった小国で卑弥呼とは神功皇后の名を騙った熊襲の王であるとするものである。これ以来、政治的意図やナショナリズムを絡めながら、学界はもちろん在野研究者を巻き込んだ論争が現在も続いている。この論争は、すなわち、正史としての『日本書紀』の記述の信頼性や天皇制の起源に影響するものである。漢委奴国王印とともに、一般にもよく知られた古代史論争である。

位置に関する論争

邪馬台国九州説」および「邪馬台国畿内説」も参照

厳密に「魏志倭人伝」の行程どおりに素直に距離と方角を辿ると邪馬台国は太平洋のど真ん中に行きつく[5]。ゆえに、白石も宣長もさまざまな読み替えや注釈を入れてきた。江戸時代から現在まで学界の主流は「畿内」(内藤湖南ら)と「九州」(白鳥庫吉ら)の二説に大きく分かれている。ただし九州説には、邪馬台国が”畿内に移動してヤマト政権となった"とする説(「東遷説」)と、邪馬台国の勢力は小さく"畿内で成立したヤマト政権に滅ぼされた"とする説がある。

河野俊章は『予言大隅邪馬台国』(牧歌舎2008年)で、鹿児島県大隅半島の錦江湾東部から、鹿屋市肝属平野を含む、太平洋側に至る大隅半島中部全域であるとする独自の新説を提唱している。さらに、自論が正しければ唐人古墳群(鹿児島県東串良町)の「大塚(一号墳)」は卑弥呼の墓の有力候補であると結論している。

それ以外にも、久米雅雄は「二王朝並立論」を提唱し、「自郡至女王国萬二千餘里」の「女王国」と、「海路三十日」(「南至投馬国水行二十日」を経て「南至邪馬台国水行十日」してたどり着く)の「邪馬台国」とは別の「相異なる二国」であり、筑紫にあった女王国が「倭国大乱」を通じて畿内に都した新王都が邪馬台国であるとする[6]

従来は畿内で邪馬台国の時期にあたる遺物があまり出土しないのに比べ、九州では邪馬台国の時期にそうそうたる遺跡遺物がそろうことから、畿内説は考古学的に根拠薄弱とされてきた。しかし2000年代に入り、纏向遺跡箸墓古墳を邪馬台国と卑弥呼の墓に結び付け大和朝廷の成立時期をさかのぼらせるよう、放射性炭素年代測定年輪年代学による新しい考古学年代観が国立研究所によって示され、畿内の土器の放射性炭素の測定を国立研究所が行って畿内の大和地方での初期国家の成立が邪馬台国成立と同時代の1世紀から2世紀頃までさかのぼるとの説が推される傾向にある[7][8][9][10]。この畿内説に立てば、3世紀の日本に少なくとも大和から大陸に至る交通路を確保できた勢力が存在したことになり、大和を中心とした西日本全域に大きな影響力を持つ勢力、即ち「ヤマト王権」がこの時期既に成立しているとの見方ができる。

距離の計算

         「連続説」(連続読み)- 「魏志倭人伝」に記述されている順序に従って方角を90度読み替えたり距離を修正しながら比定していく読み方で、帯方郡を出発後、狗邪韓国対海国一大国を経て北部九州に上陸し、末廬国伊都国奴国不弥国投馬国・邪馬台国までを順にたどる。この読み方だと畿内説をとることが多い。

         「放射説」(放射読み) - 榎一雄の説[11]。伊都国までは連続読みと同じだが、その先は距離を修正しながら伊都国から奴国、伊都国から不弥国、伊都国から投馬国、伊都国から邪馬台国というふうに、伊都国を起点にする読み方である。多くは九州説となるが、畿内説でも「放射説」で説明するものも少なくない。

         奴国・投馬国を「傍線行程」として解釈するような案も九州説から出されている[12]

畿内説・九州説どちらだとしても「魏志倭人伝」の距離(里数)が過大であるという問題については、「短里」の概念が提示されている。「短里」とは尺貫法1里が約434mではなく75-90m程とする説である。古田武彦などは、魏・西晋時代時代には周王朝時代に用いられた長さに改められたとした。しかし、生野真好による『三国志』全編の調査では、「短里」で記述されていると思われる記述は「魏志」と「呉志」の一部に集中しており、「蜀志」には全く見られない。また、「魏志」のうちでも後漢から魏への禅譲の年である西暦220年より以前の記事には「短里」での記事は見当たらず、220年以後の「魏志」に集中して現れる。これは、三国志が「蜀志」については、漢の伝統を守っていたことを陳寿はそのまま記したものと思われる。

安本美典らの説では、「短里」は東夷伝のみに見られ、他の箇所では存在しないとしているが、実際は中華中原に関わる部分にも頻出する。ただし、220年以後の記述であっても従来通りの「長里」でないと解釈できない部分もあり、「魏王朝=短里」という単線的構図は成立しない。

なお、宮崎康平は、道程に関して「古代の海岸線は現代とは異なることを想起しなければならない」と指摘し、現在の海岸線で議論を行っていた当時の学会に一石を投じた。しかし、古代の海岸線を元に考察しても、有利となる場所の相互間のみで変化があるだけで連続説あるいは放射説の根本部分に大きな影響を与えるほどの学説ではないことから現在ではこの点に関しては問題とはされていない。

邪馬台国畿内説

詳細は「邪馬台国畿内説」を参照

邪馬台国畿内説には、琵琶湖湖畔、大阪府などの説があるが、その中でも、奈良県桜井市三輪山近くの纏向遺跡(まきむくいせき)を邪馬台国の都に比定する説が、下記の理由により有力とされる。

1.     年輪年代学の成果により、画文帯神獣鏡などの記年鏡の年代も一致したことから、邪馬台国の時代にすでに遺跡の築造が始まっていたとみられ、最盛期が弥生時代終末期-古墳時代であり、邪馬台国の時代と合致すること。

2.     吉備、阿讃(東四国)の勢力の技術によると見られる初期の前方後円墳が大和を中心に分布しており、時代が下るにつれて全国に広がっていること(箸墓古墳ほか)

3.     北九州から南関東にいたる全国各地の土器が出土し、纏向が当時の日本列島の大部分を統括する交流センター的な役割を果たしたことがうかがえること。

4.     卑弥呼の遣使にちなんだと見られる景初三年、正始元年銘の三角縁神獣鏡が畿内を中心に分布、かつこれらが発掘される古墳の多くは年輪年代学等の結果により3世紀に築造されたと見られ、時代が合致すること[注釈 10]

5.     弥生時代から古墳時代にかけておよそ4,000枚の鏡が出土するが、そのうち紀年鏡13枚のうち12枚は235-244年の間に収まって銘されており、かつ畿内を中心に分布していること。この時期の畿内勢力が中国の年号と接しうる時代であったことを物語る。

6.     日本書紀神功紀では、魏志と『後漢書』の倭国の女王を直接神功皇后に結び付けている。中国の史書においても、『晋書』帝紀では邪馬台国を「東倭」と表現していること。また、正しい地理観に基づいている『隋書』では、都する場所ヤマトを「魏志に謂うところの邪馬臺なるものなり」と何の疑問もなく同一視していること。すなわち「魏志」がすべて宋時代の刊行本を元としているのに対し、それ以前の写本の中には、南を東と正しく記載したものがあった可能性もある[注釈 11]

逆に、畿内説の弱点として上げられるのは次の点である。

1.     年輪年代学では原理的に遺跡の年代の上限しか決定できない上に、まだ専門家の数が少なく、日本の標準年輪曲線は一つの研究グループによって作成され、正確データの公表すらなされておらず追試検証が行われていない。

2.     倭国の産物とされるもののうち、鉄や絹は主に北九州から出土する[注釈 12]

3.     「魏志倭人伝」に記述された民俗・風俗がかなり南方系の印象を与え、南九州を根拠とする隼人と共通する面が指摘されていること。

4.     「魏志倭人伝」の記述は北九州の小国を詳細に紹介する一方で、畿内説が投馬国に比定する近畿以西に存在したはずの吉備国出雲国の仔細には全く触れられておらず、近畿圏まで含む道程の記述とみなすのは不自然。

5.     「魏志倭人伝」を読む限り、邪馬台国は伊都国や奴国といった北九州の国より南側にあること。[注釈 13]

かつて、畿内説の重要な根拠とされていたが、今は重要視されていない説は以下である。

1.     三角縁神獣鏡を卑弥呼が魏皇帝から賜った100枚の鏡であるとする説 - しかし、既に見つかったものだけでも400枚以上になること、中国社会科学院考古学研究所長王仲殊が「それらは漢鏡ではない」と発表したことなどから、九州説の側から「三角縁神獣鏡は全て偽作」との反論を受けた[注釈 14]

2.     邪馬台国長官の伊支馬(いきま?)と垂仁天皇の名「いくめ」の近似性を指摘する説 - 大和朝廷の史書である記紀には、卑弥呼の遣使のこと等具体的に書かれていない。田道間守の常世への旅の伝説を、遣使にあてる説もある。

邪馬台国九州説

詳細は「邪馬台国九州説」を参照

邪馬台国九州説では、福岡県の糸島市を中心とした北部九州広域説、福岡県の大宰府天満宮、大分県の宇佐神宮、宮崎県の西都原古墳群など諸説が乱立している。

1.     帯方郡から女王國までの12,000里のうち、福岡県内に比定される伊都国までで既に10,500里使っていることから、残り1,500里(佐賀県唐津市に比定される末盧國から伊都國まで500里の距離の3倍)では邪馬台国の位置は九州地方を出ないとされること[注釈 15]

2.     邪馬台国と対立した狗奴国を熊本(球磨)の勢力と比定すれば、狗奴国の官「狗古知卑狗」が「菊池彦」の音訳と考えられること[注釈 16]

3.     魏志倭人伝中で邪馬台国の埋葬方法を記述した『有棺無槨』を甕棺と見なす見解に基づき、北九州地方に甕棺が多数出土していること[注釈 17]

4.     その後の邪馬台国については、畿内勢力に征服されたという説と、逆に東遷して畿内を制圧したとの両説がある[注釈 18]

5.     一部の九州説では、倭の五王の遣使なども九州勢力が独自に行ったもので、畿内王権の関与はないとするものがある[注釈 19][13]

逆に、九州説の弱点として上げられるのは次の点である。

1.     魏から女王たちに贈られた品々や位が、西の大月氏国に匹敵する最恵国への待遇であり、小領主へ贈られたものとは考えにくいこと[注釈 20]

2.     奴国2万余戸、投馬国5万余戸、邪馬台国7万余戸、更に狗奴国といった規模の集落が九州内に記述通りの順番に収まるとは、大月氏国が10万戸の人口40万人、また考古学では当時の日本の人口が百数十万人とされている事などから、考えにくいこと[注釈 21]

3.     中国地方や近畿地方に、九州をはるかに上回る規模の古墳や集落が存在していること。

4.     古墳築造の開始時期を、4世紀以降とする旧説に拠っているが、年輪年代学放射性炭素年代測定などの結果からは3世紀に遡るという結果が出ていること[14]

5.     3世紀の紀年鏡をいかに考えるべきかという点。はやくから薮田嘉一郎森浩一は、古墳時代4世紀から始まるとする当時の一般的な理解にしたがって、「三角縁神獣鏡は古墳ばかりから出土しており、邪馬台国の時代である弥生時代の墳墓からは1枚も出土しない。よって、三角縁神獣鏡は邪馬台国の時代のものではなく、後のヤマト王権が邪馬台国との関係を顕示するために偽作したものだ」とする見解を表明し、その後の九州論者はほとんどこのような説明に追随している。しかし、このような説には以下のような点が問題として挙げられる。

1.     三角縁神獣鏡を、の鏡またはの工人の作であり、の地が西晋に征服された280年以降のものとする説もあるが、様式論からはかならずしもの作であるといいきれるものでない。少なくとも銘文にある徐州を呉の領域であるなどとはいえない[注釈 22]。これらを280以降の製造と考えると、紀年鏡に記される年号が何ゆえに三国時代235から244年に集中しているのか、整合的な理解が難しい。

2.     また、九州説論者の見解では、いわゆる「卑弥呼の鏡」は後漢鏡であるとするが、弥生時代の北九州遺跡から集中して出土する後漢鏡は、中国での文字資料を伴う発掘状況により、主として1世紀に編年され、卑弥呼の時代には届かないのも難点のひとつである。2世紀のものは量も少ない上、畿内でもかなり出土しており、北九州の優位性は伺えない。# 旅程記事について、通常の連続読みでは九州内に収まりきらないので、放射線式の読み方に従うにしても、次のような難点がある。

3.     放射線式読み方が正当化されるには、「到」「至」の使い分けがされているときは、そのように読むべきであるという当時の中国語の決まりがなければならないが、魏志倭人伝の内容をほぼ引き写している梁書では、そのような使い分けはされておらず、使い分けに特別な意味があったとは思えない。

4.     仮に放射線式の読み方を受け入れると、邪馬台国は伊都国の南水行十日陸行一月の行程にあるが、これを九州を大回りして水行し南下する意味に捉えたとしても、邪馬台国の位置は中南部九州内陸に求めることとなり、後の熊襲の地に邪馬台国があることになる。そしてさらにその南に狗奴国が存在することになる。したがって比較的支持者の多い北九州内には到底収めることはできない。

5.     魏からの使いが2度あったことから、2度の行程が異なるものであったのが、一緒くたにされ1つの行程のように書かれていると考える説もある。

かつて、九州説の根拠とされていたが、今は重要視されていないものは以下のものである。

1.     近畿地方から東海地方にかけて広まっていた、銅鐸による祭祀を行っていた銅鐸文明を、「魏志倭人伝」に記載された道具であり、『日本書紀』にも著される(剣)、鏡、勾玉の、いわゆる三種の神器を祭祀に用いる「銅矛文明」が滅ぼしたとされる説。
しかし、発掘される遺跡の増加に伴い、「銅鐸文化圏」の地域で銅矛や銅剣が、吉野ヶ里遺跡のような「銅矛文化圏」内で銅鐸や銅鐸の鋳型が出土するといったことが増えたことから、今では否定的に見られている。
また、「倭人伝」の記載は、祭祀について触れられたものではないこと、6世紀以前は3種ではなく、多種多様な祭器が土地それぞれで使用されていたことも九州説では重要視されない理由として挙げられる。

論者

邪馬台国九州説を唱える論者には、新井白石白鳥庫吉和辻哲郎[15]田中卓[16]安本美典(東遷説)古田武彦鳥越憲三郎[17]若井敏明[18]らがいる。また記紀などの国内資料に基づく研究については、坂本太郎『国家の誕生』や原秀三郎らの指摘にも関わらず、考慮されない傾向があるといわれ、若井敏明はこうした傾向について、戦前に弾圧された津田左右吉の学説が戦後一転してもてはやされたことに起因するとして批判している[19]

 

邪馬台国徳之島説

邪馬台国徳之島では、、徳之島伊仙町を中心とした奄美一帯の徳之島 邪馬壹国説が益田宗児[20]により発表されている。

1. それによると魏志倭人伝に記す卑弥呼の邪馬台国は、帯方郡(ソウル)から東南に直線距離で女王國まで12,000余里にあり、中国のニンポー(寧波)から真東に交わる大海にあるとされている。益田宗児は、九州王朝説を唱えた古田武彦よりも遥か南方の「太平洋上の大海に浮かぶ島」にあるとする徳之島説をとっている。つまり、伊都国の唐津からほぼ南へと魏志倭人伝に記述している南方方角であるとしている。また、陶芸家の中武久[21]伊仙町観光協会の会長伊信貴それに民俗学の小泉芳孝魏志倭人伝や中国の史書に記す方位から「太平洋上の大海に浮かぶ島」と述べておられる。さらに小泉芳孝は、方位以外に邪馬台国と対立した狗奴国を沖縄(琉球)の勢力と比定し徳之島説を強調している。[22] 畿内説の内藤湖南は、朝廷と熊襲が激しく衝突したことから狗奴国を熊襲とし黒潮に載ってやって来た狗奴国を琉球の勢力と見てもよいだろう。

2. 魏志倭人伝中で邪馬台国の埋葬方法を記述した『有棺無槨』を土葬墓と見なす見解に基づけば、奄美地方一帯の徳之島に土葬墓が多数出土し数年後に掘り起こして海の水で骨を洗って追葬している。当時の徳之島地方は一般的に風葬という埋葬方法とされているが間違っている。これらから日本人本来の古代から続いている土葬墓が続いていて古くから巳の方角に葬る「巳葬」の風習がある。

3. 卑弥呼以降の邪馬台国は、卑弥呼の女王から男王に変わったあと、トヨが政権を取り治まったとされている。その後の歴史については何処にも記されていないので判明しないが、おそらく南西諸島を北上して九州から畿内へ行きニギハヤヒノミコト物部氏が最初に奈良に来て、その後に神武天皇あたりが東遷し畿内を制圧したと見られるのである。九州からの東遷説神武東征をその事実の反映と見られることから、『隋書』の記述が現存する記紀神話とつながり『古事記』・『日本書紀』への神話を根拠とする実在説でまとまる。

4. 小さな島で一般に古代の歴史が存在しないとされる徳之島では、邪馬台国が7万余戸とあるのは「多すぎるのではないか」と多くの人達に指摘されている。しかし、魏志倭人伝の記述から 奴国2万余戸、投馬国5万余戸、邪馬台国7万余戸、更に狗奴国といった規模の集落が唐津からほぼ南方に記されているのを前提にして。秦の始皇帝が除福に命じて不老不死の薬を捜しに蓬莱山など三山を目指して工人や童男童女ら3000人を数十隻の船に載せてきたのは、中国で古くから貨幣として使われていた子安貝の交流がある南西諸島にあり、それらを知っていた除福が目指したのであり、その400年後に邪馬台国が7万余戸になっても蓬莱竹のある不老不死の蓬莱山である徳之島なら決して可笑しくない。小泉芳孝は、除福が徳之島に移住して来て、400年間にわたる地元民との混血によって不老不死の老化防止効果が科学的に証明された水で稲作技術など100人の工人らにより集落が営まれたならば「7万余戸の卑弥呼の邪馬台国が誕生したとしても不思議ではない」と述べている。

5. 徳之島周辺を眺めれば古代遺跡から大量に採取されている「子安貝」が、中国の殷王朝時代から貨幣として使われていた事実があり相当古くから水先案内人らによる中国との交流があったと考えられる。ゆえに、秦の始皇帝が除福に命じ不老不死の薬を捜しに蓬莱山など三山を目指して100人の工人や2000人の童男童女らを船に載せ最初に日本を目指したのも蓬莱竹のある蓬莱山(徳之島の3)であったのである。たた単に不老不死の薬を探しに行くのに2000人の童男童女は必要ないのである。故に、除福は、秦の始皇帝に除福村が滅ぼされると察知して一家もろとも日本への移住を目指したと考えられるのである。現在、徳之島の数カ所にある岩石に刻まれた線刻画には、船やヤジリ、大魚、それに「山」の文字などがあり、大陸から渡ってきた工人らにより刻まれた物と見られている。[23]  徳之島は、ギネスブックに載った世界最長老の泉重千代さんがいて老化防止の水(科学的に証明されている。)[24]。がある所から不老不死の島「徳之島」だったと考えられる。[25]

6. 現在までに徳之島では、3世紀の紀年銅鏡は見つかっていないが天城町に松原銅山跡が現存しており今後発掘が行われれば、関連した何かが出てくるかも知れない。森浩一は、古墳時代は4世紀から始まるとする当時の一般的な理解にしたがい「三角縁神獣鏡はヤマト王権が邪馬台国との関係を顕示するために偽作したものだ」とする見解を述べておられる。故に、銅鏡による邪馬台国論説の整合性を述べるのには、まだまだ時間を要するであろう。

7. 一方、九州説の「放射線式」読み方が正当化されても「水行10日 陸行1月」からは、どうしても九州を遥かに越えて南下してしまう。徳之島へは多くの南西諸島の島々を船に乗っては島に上陸して歩いたり、又、船に乗っては島に上陸して南下していけば良いのであるから「水行10日 陸行1月」を見ておかねばならず、邪馬台国徳之島の位置は自ずと徳之島辺りに位置していると言えよう。[26] 。天城町の天城岳の麓にある松原神社は、かつて遣唐使船が水を供給する為に立ち寄ったという航海安全の守り神とされていて、南西諸島から中国へ行く南海航路が存在していた。[27]


8.
 邪馬台国の魏志倭人伝に記載された吉野ヶ里遺跡は、銅鐸や銅鐸の鋳型が出土ししていて邪馬台国より強大な国があったとしても、時代が弥生時代であることからシャーマンという卑弥呼がいて「国が治まった」とされている。これらから九州に邪馬台国がなくても良いと言えよう。徳之島には、古くからユタ[28]ノロと言われる松原神社(シャーマン)松堂久邇がいて現在も現存している。[29] この他、魏志倭人伝に記す「入れ墨」をして「裸足」で歩いていた人達がいて最近まで存在していたようで卑弥呼の邪馬台国にふさわしい証拠が他にも多数存在している。[30][31]。 

 

大隅半島説

河野俊章が提唱する大隅半島説は、古代航海術に基づく科学的考察と卑弥呼の墓の特定が一体になった説であるところが他の九州説と一線を画している。河野は自説を『「魏志倭人伝」を中心とする中国の古史を精読した推論』であり、考古学的な実証はないとしているものの、海洋考古学の第一人者茂在寅男の助言や関連自治体の発掘資料などにもとづく科学的論考をたんねんに重ねている。河野は、不彌国は福岡市の北東、津屋崎町あたりとし、そこから投馬国までの「南水行二十日」とは、18?10時間(昼間)、時速2?2.5kmで南方への沿岸航行であり、その結果西都市に到達、すなわち西都市を投馬国とする。そこから南へさらに「水行十日」は約200kmの航行に相当、志布志湾の柏原海岸肝属川河口を上陸地点とみなす。つづく「陸行一月」は「一日」の誤りであり、したがって邪馬台国は、錦江湾東岸から鹿屋市、肝属平野に至る大隅半島を大きく横切る一帯であると結論する。そしてこの地にある唐人古墳群のうちの最大の前方後円墳「大塚」の造成年代とサイズは、卑弥呼の墓についての魏志の記述とほぼ一致しており、その有力候補であるとする。大隅半島の邪馬台国のその後については、大隅半島を出発点とする神武東遷説にたつ。

東遷説

神武東征を史実とするかはともかく、記紀などの国内資料に基づく研究では、九州で成立した王朝(邪馬台国)が東遷したという説がある。白鳥庫吉和辻哲郎[32]が戦前では有名であるが、戦後は、歴史学および歴史教育の場から日本神話を資料として扱うことは忌避された。しかしこの東遷説は戦後も 主に東京大学を中心に支持され発展し続けた。栗山周一黒板勝美林家友次郎飯島忠夫和田清[33]榎一雄[34]橋本増吉植村清二市村其三郎坂本太郎[35]井上光貞[36]森浩一中川成夫谷川健一金子武雄布目順郎安本美典奥野正男らが論じた。

フィクションにおける邪馬台国

         手塚治虫の漫画『火の鳥 黎明編』(1967)は邪馬台国を舞台としている。邪馬台国は九州にある倭の大国(火の鳥が棲む火の山が九州にあり、そこまで海を渡る描写があるため、畿内説とも解釈できる)だったが、卑弥呼の死後に大陸から渡った騎馬民族に滅ぼされた。当時、一般に強い影響を与えた騎馬民族征服王朝説に立ち、騎馬民族の長のニニギが後の天皇家の始祖と解釈している。この漫画は『火の鳥』のタイトルで1978に実写映画化された。監督は市川崑、主演は高峰三枝子

         1974篠田正浩監督、岩下志麻主演による映画『卑弥呼』が制作された。

         安彦良和の漫画『ナムジ』(1989-1991)は、ナムジ(おおなむち、すなわち大国主)を主人公に神話を独自解釈した作品。邪馬台国は九州にあり、スサノオ率いる強国出雲と敵対している。卑弥呼は天照大神に比定されている。続編の『神武』(1992-1995)は、卑弥呼の孫のイワレヒコが(政略結婚のため)畿内へ東征ヤマト王権の祖となる東遷説を採っている(市井の古代史研究者である原田常治の著書の影響を大きく受けている[37][38])。

         作・寺島優、画・藤原カムイによる漫画『雷火』(1987-1997)は、邪馬台国の乗っ取りを図る張政(魏から派遣された役人)とライカたちとの神仙術を駆使した戦いを描く作品。邪馬台国の場所は九州説を採用している。

         矢吹健太朗による漫画『邪馬台幻想記』(1998-1999、連載前の読みきり分を含む)。卑弥呼亡き後、その意思を継ぎ倭国統一を目指していた壱与(台与)と、国王を暗殺し国を滅ぼす「国崩し」を行っていた少年、紫苑との出会いと触れ合い、壱与を亡き者にしようと企む敵との戦いを描いている。短期打ち切りの為、様々な伏線を張っていたにもかかわらず、その伏線を回収することなく唐突な終り方をしている。上述雷火の強い影響を受けたと思われる作品。

脚注

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注釈

1.     ^ ただし、郡とは景初2年(238年)の823日に公孫淵が殺されて以降に魏が占拠した朝鮮西海岸の帯方郡であると考えられる、『三国志魏書』の倭人伝にも帯方郡の記述しかなく韓伝にも「倭韓遂屬帶方」とあり、楽浪郡あるいは玄菟郡などの可能性はほとんどない。

2.     ^ 先に詳細が記されている奴国と同一とする説がある。

3.     ^ 大きな行政単位の州の巡察長官。

4.     ^ とする説がある。

5.     ^ 後の推古天皇聖徳太子との関係が例として挙げられる。

6.     ^ この景初26月(司馬懿が遼東の公孫淵攻撃のため出発した月)には帯方郡は公孫淵の支配下で、遣使は困難であるとして、『梁書』と『日本書紀』引用に従い、翌年の景初3年の誤りであろうとする説がある。ただし、卑弥呼の遣使は2人で貢物が奴婢10人布22丈と、かつての奴国の貢物奴婢160人と比べて粗末なものにも拘らず魏が邪馬台国を厚遇しているのは、公孫氏政権からいち早く魏に乗り換えた事の功績が認められた為という観点から、公孫氏政権滅亡直前の景初2年の遣使が正確であるという説(古田武彦「邪馬台国」はなかった 角川文庫 1977年)もあるし、「魏志は倭人伝の前の東夷伝前半で、魏の母丘険の軍隊が沿海州から朝鮮半島の日本海側の玄菟郡故府方面に遠征していたことを語り、その記事の延長線上に倭人伝が書かれているため、朝鮮の西側の帯方郡と逆の東海岸に遣使した可能性があり、この場合、遣使困難とは言えない」という説も存在するようである。

7.     ^ 現存する版本は全て (王朝)以後のものである。隋書では「邪靡堆」と国ではなく地域となっていることにも注意すべきであろう。

8.     ^ 古代中国語音の研究が進んだことにより、「邪馬臺国」も「jamato」に近い発音となると考えられている[要出典]

9.     ^ 那珂通世は神功皇后と卑弥呼を同一人物とするこの日本書紀の記述を否定する。市村其三郎は『卑弥呼は神功皇后である』(新人物往来社、1972年)を著している。

10.   ^ 九州説では調査の精度に疑問を呈し、銘入りの鏡を後世の偽作と見ている。

11.   ^ 九州説では、書紀の編纂に当たった当時の大和朝廷が、参照した中国の史書(魏書、後漢書など)にある古代国家の記述を書紀に組み入れたにすぎないとする。

12.   ^ しかし、邪馬台国が北九州をすでに勢力下においていたとすれば、絹や鉄の記述があるのは不思議ではない。

13.   ^ これに対して、北九州の国々の行程を表記するにあたっても、すでに60度ほど南にずれているからもともと正確ではない、あるいは、倭国が会稽東冶の東海上に南に伸びて存在するという誤った地理観に影響されたものである混一疆理歴代国都之図[1]」の影響下にある地図には、日本を右回りに傾かせて描かれたものがある(「日本地図」の項目も参照のこと)などの意見がある。また方角の正しい地図は、現代において九州説が創作された時代以降のものしか確認されていないため、その方角の正しい地図の創作自体が、九州説創作の切っ掛けとなったという説もなされている。ただし混一疆理歴代国都之図については、15世紀に原図を作った朝鮮人が「行基図」を誤って右回りにはめ込んだにすぎず、古くからの地理観とはいえないと主張する説や、他に15世紀以前に日本を右回りに回転させたと証明できる地図が存在するわけでもなく、『隋書』では正しい地理観に基づいて行程を記述しているので、根拠とはしがたいという反論がある。

14.   ^ ただし九州説の側も「全てが偽作」であることの論証を明確にしているとは言い難く、オリジナルのものが伝来した可能性自体を排除できてはいない。逆に畿内説の側は、多くの鏡の年号が235年から244年の範囲内に納まるにもかかわらず、邪馬台国とは無関係であるとするのは逆に無理があると再反論している。

15.   ^ 三宅米吉は、12,000里は里程のわかっている不弥国までの距離であるとし、山田孝雄は、これは一部不明のところのある現実の距離をあわせたものではなく、単に狗邪韓国までの7,000里と倭地の周旋5,000里を合算したものに過ぎないとする。九州王朝説を唱えた古田武彦は、「正確を期するため同じ行程を距離と掛かる日数とで二重に標記している」とする読み方を提唱している。

16.   ^ 畿内説では狗奴国を毛野または桑名加納などの東海地方の勢力と考えるにしても、官名に対し特別な解釈を与えないようである。畿内説の内藤湖南は、彼が邪馬台国の時代に近いと考える景行天皇の時代に、朝廷と熊襲が激しく衝突したことから狗奴国を熊襲、「狗古知卑狗」を菊池彦に当てている。そうすると、ここでは方角が正しいことになるが、彼は狗奴国に関する記述は旅程記事とは別系統に属するから、問題はないという。『魏略』には「拘右智卑狗」とあるが、古代の日本語は語中に母音が来ることはないから、これは誤字と見てよい。吉備説・出雲説・東四国説では狗奴国を河内の勢力と見ている。

17.   ^ 当時の北九州以外における一般的な埋葬方法はまだ良く分かっていない。

18.   ^ 後者の東遷説は神武東征をその事実の反映と見る立場が多いが、『隋書』の記述がすでに現存する記紀神話とは相当異なっている可能性があるとして、神話を根拠とすることは受け入れがたいとする意見もある。

19.   ^ 江戸時代後期の国学者による「偽僣説」(九州勢力が朝廷を僭称したとする説。本居宣長『馭戎概言』、鶴峯戊申『襲国偽僣考』、近藤芳樹『征韓起源』など。)

20.   ^ 九州説ではに圧力をかけるための厚遇であったとする。また前述の古田武彦は、公孫氏政権からいちはやく魏に乗り換えた功績に対する厚遇であるとする。

21.   ^ もちろんこれらをそのまま信じていいのかには疑問もある。

22.   ^ 一般的には概ねの領域と考えられている。

出典

1.     ^ 森浩一『倭人伝を読みなおす』筑摩書房、p.29ISBN 978-4480065582

2.     ^ 『三国志』魏書東夷伝序文

3.     ^ ただし、『三国志』には「臺獄」という表記や死体を積み上げた塚を「臺」としている例があることから、これに反対する説もある。

4.     ^ 汪向栄『中国の研究者のみた邪馬台国』同成社、p.213ISBN 978-4886214096

5.     ^ 岡本健一『邪馬台国論争』(講談社選書メチエ、1995年)p89に引く岡田英弘の説

6.     ^ 「新邪馬台国論―女王の鬼道と征服戦争―」『歴史における政治と民衆』1986年、「親魏倭王印とその歴史的背景」『日本印章史の研究』雄山閣、2004年)。

7.     ^ 石野 博信『大和・纒向遺跡』、邪馬台国の候補地・纒向遺跡 (シリーズ「遺跡を学ぶ」) 、田原本町教育委員会『唐古・鍵遺跡の考古学』

8.     ^ 毎日新聞連載「深読み日本史 邪馬台国」邪馬台国論争・畿内説と九州説のそれぞれの意味邪馬台国時代の列島事情

9.     ^ “「九州説は無理…」新井白石以来の邪馬台国論争ゴール近し 纒向遺跡”. 産経新聞. (20091111). http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/091111/acd0911111059006-n1.htm 20091111日閲覧。 

10.   ^ ただし、年輪年代学では原理的に遺跡の年代の上限しか決定できない上に、まだ専門家の数が少なく、日本の標準年輪曲線は一つの研究グループによって作成され、正確データの公表すらなされておらず追試検証が行われていないためである。放射性炭素年代測定法にしても、測定資料をとることは遺物を損傷することでもあり機材も必要なので追試検証は行われないとの指摘もある。

11.   ^ 「邪馬台国の方位について」(『オリエンタリカ』119488月)

12.   ^ 「邪馬台国」はなかった

13.   ^ 現代では古田武彦などによる九州王朝説がある(日本列島を代表する王朝は一貫して九州にあり、白村江の戦い以降に衰亡したとする説。一部を除いて学術論文として発表された説ではなく、学会では議論の対象とされていない。)。

14.   ^ 新しい年代観に懐疑的な研究者もいる。年輪年代学では原理的に遺跡の年代の上限しか決定できない上に、まだ専門家の数が少なく、日本の標準年輪曲線は一つの研究グループによって作成され、正確データの公表すらなされておらず追試検証が行われていないためである。放射性炭素年代測定法にしても、測定資料をとることは遺物を損傷することでもあり機材も必要なので追試検証は行われない。

15.   ^ 大正9年『日本古代文化』

16.   ^ 若井敏明『邪馬台国の滅亡 大和王権の征服戦争』吉川弘文館 ,2010,7

17.   ^ 「大いなる邪馬台国」ほか

18.   ^ 若井敏明『邪馬台国の滅亡 大和王権の征服戦争』吉川弘文館 ,2010

19.   ^ 若井敏明『邪馬台国の滅亡 大和王権の征服戦争』吉川弘文館 ,2010,7-12

20.   ^ 益田宗児『夢に見た邪馬台国は徳之島』で徳之島興産()2000927

21.   ^ 中武久著『徳之島にあった古代王国―邪馬台国の実像』[単行本] 文芸社2002

22.   ^ 邪馬台国は「徳之島」だった http://taketori.koiyk.com/yama-tokunoshima.html

23.   ^ 『伊仙町誌』伊仙町誌編さん委員会編 伊仙町 1978年 

24.   ^ 伊仙町観光協会の会長伊信貴

25.   ^ 益田宗児・三好誠著『除福物語 改訂版』奈良除福研究所発行2008

26.   ^ 益田宗児『夢に見た邪馬台国は徳之島』で徳之島興産()2000

27.   ^ 徳之島の情報誌『よーりよーり』まじゅんワークス発行2012

28.   ^ 西村仁美」著『「ユタ」の黄金言葉』東邦出版2007ISBN-13: 978-4809406652

29.   ^ 松堂久邇著『神女(シャーマン)誕生』徳之島に生まれたノロ フォレスト出版、2002

30.   ^ 『伊仙町誌』伊仙町誌編さん委員会編 伊仙町 1978

31.   ^ 徐福の蓬莱山「徳之島」は、400年後「邪馬台国」となった http://taketori.koiyk.com/yama-horaisan.html 

32.   ^ 大正9年『日本古代文化』

33.   ^ 1956年「東洋史上より観たる古代の日本」

34.   ^ 1960年に刊行された「邪馬台国」、日向起源説。

35.   ^ 『国家の誕生』

36.   ^ 1960年に刊行された「日本の歴史1 神話から歴史へ」の中で邪馬台国の東遷が最も自然な解釈とした。

37.   ^ 原田実 『トンデモ日本史の真相 と学会的偽史学講義』 文芸社、20076月。ISBN 978-4-286-02751-7

38.   ^ ナムジ1巻著者あとがき

邪馬台国論争関連

         佐伯有清 『邪馬台国論争』 岩波新書2006年、ISBN 4004309905 - 著者の遺著、ほかにも関連書籍を吉川弘文館で数冊出している。

         真野和夫 『邪馬台国論争の終焉』 2009年、大分県教育委員会に長年勤務、考古学に携わってきた著者が退職記念として、邪馬台国に対して自らの見解をまとめ、自費出版した。

         邪馬台国研究大会 『公式記録DVD ジャパンライム2011年、JAN 4562301590100 -

         『伊仙町誌』伊仙町誌編さん委員会編 伊仙町 1978

         益田宗児]]著『夢に見た邪馬台国は徳之島』徳之島興産()2000

         中武久[1]


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