邪馬台国論争に終止符!?
 卑弥呼の邪馬台国
  
小泉芳孝
(竹取翁博物館 館長)
                                      「国際かぐや姫学会」
    邪馬台国論争に終止符!!
 
 1.徳之島説の根拠
 
 
@邪馬台国は「徳之島」だった!? 2012/6/26() 午後 3:24

 邪馬台国は「徳之島」だった!? 『魏志倭人伝』に記す「南水行十日陸行一月」は、真ん中に「又」が無く「投馬国から南へ水行十日()陸行一月」。年中温暖「海南島」と同じ気候、裸足で入墨、長寿の島。

 九州説の「放射線式」読み方が正当化されても「水行10日 陸行1月」からは、どうしても九州を遥かに越えて南下してしまう。徳之島へは多くの南西諸島の島々を船に乗っては島に上陸して歩いたり、又、船に乗っては島に上陸して南下していけば良いのであるから「水行10日 陸行1月」を見ておかねばならず、邪馬台国徳之島の位置は自ずと徳之島辺りに位置していると言えよう。[28] 。天城町の天城岳の麓にある松原神社は、かつて遣唐使船が水を供給する為に立ち寄ったという航海安全の守り神とされていて、南西諸島から中国へ行く南海航路が存在していた。[29]。

取材お問合せ「竹取翁博物館」
※小泉芳孝(博物館学芸員)。京都府京田辺市三山木直田
10 0774-62-2522 まで…
全日開館として全て予約制(電話)により開館へ (2014年10月24日〜)
竹取翁博物館は、2013年2月1日に開館して2年半となり当初目的を達成しました。
今後は開館日を全日として全て予約制(電話)にします。但し、本館入口左にあるインターホン両方を押して頂き館長が館内にいる時は、見学可能です。なお、お盆と年末年始は休館させて頂きます。

 他に、訪問される小学生迄の方はご両親または先生と一緒にお越し下さい。出来ない時は両親か親権者等の「承認書」を持って来て下さい。また、博物館の記録用として写真を撮らせて戴きますのでご協力お願いいたします。

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邪馬台国徳之島説(ウィキペディア小泉2013.8.19版)
  ※このページは過去の版です。竹取翁 (会話 | 投稿記録) による 2013819 () 07:13
    現在の邪馬台国です。このページは何者からよって消されたために
ここに掲載した物です。

邪馬台国徳之島では、、徳之島伊仙町を中心とした奄美一帯の徳之島 邪馬壹国説が益田宗児[20]により発表されている。

1. それによると魏志倭人伝に記す卑弥呼の邪馬台国は、帯方郡(ソウル)から東南に直線距離で女王國まで12,000余里にあり、中国のニンポー(寧波)から真東に交わる大海にあるとされている。益田宗児は、九州王朝説を唱えた古田武彦よりも遥か南方の「太平洋上の大海に浮かぶ島」にあるとする徳之島説をとっている。つまり、伊都国の唐津からほぼ南へと魏志倭人伝に記述している南方方角であるとしている。また、陶芸家の中武久[21]伊仙町観光協会の会長伊信貴それに民俗学の小泉芳孝魏志倭人伝や中国の史書に記す方位から「太平洋上の大海に浮かぶ島」と述べておられる。さらに小泉芳孝は、方位以外に邪馬台国と対立した狗奴国を沖縄(琉球)の勢力と比定し徳之島説を強調している。[22] 畿内説の内藤湖南は、朝廷と熊襲が激しく衝突したことから狗奴国を熊襲とし黒潮に載ってやって来た狗奴国を琉球の勢力と見てもよいだろう。

2. 魏志倭人伝中で邪馬台国の埋葬方法を記述した『有棺無槨』を土葬墓と見なす見解に基づけば、奄美地方一帯の徳之島に土葬墓が多数出土し数年後に掘り起こして海の水で骨を洗って追葬している。当時の徳之島地方は一般的に風葬という埋葬方法とされているが間違っている。これらから日本人本来の古代から続いている土葬墓が続いていて古くから巳の方角に葬る「巳葬」の風習がある。

3. 卑弥呼以降の邪馬台国は、卑弥呼の女王から男王に変わったあと、トヨが政権を取り治まったとされている。その後の歴史については何処にも記されていないので判明しないが、おそらく南西諸島を北上して九州から畿内へ行きニギハヤヒノミコト物部氏が最初に奈良に来て、その後に神武天皇あたりが東遷し畿内を制圧したと見られるのである。九州からの東遷説神武東征をその事実の反映と見られることから、『隋書』の記述が現存する記紀神話とつながり『古事記』・『日本書紀』への神話を根拠とする実在説でまとまる。

4. 小さな島で一般に古代の歴史が存在しないとされる徳之島では、邪馬台国が7万余戸とあるのは「多すぎるのではないか」と多くの人達に指摘されている。しかし、魏志倭人伝の記述から 奴国2万余戸、投馬国5万余戸、邪馬台国7万余戸、更に狗奴国といった規模の集落が唐津からほぼ南方に記されているのを前提にして。秦の始皇帝が除福に命じて不老不死の薬を捜しに蓬莱山など三山を目指して工人や童男童女ら3000人を数十隻の船に載せてきたのは、中国で古くから貨幣として使われていた子安貝の交流がある南西諸島にあり、それらを知っていた除福が目指したのであり、その400年後に邪馬台国が7万余戸になっても蓬莱竹のある不老不死の蓬莱山である徳之島なら決して可笑しくない。小泉芳孝は、除福が徳之島に移住して来て、400年間にわたる地元民との混血によって不老不死の老化防止効果が科学的に証明された水で稲作技術など100人の工人らにより集落が営まれたならば「7万余戸の卑弥呼の邪馬台国が誕生したとしても不思議ではない」と述べている。

5. 徳之島周辺を眺めれば古代遺跡から大量に採取されている「子安貝」が、中国の殷王朝時代から貨幣として使われていた事実があり相当古くから水先案内人らによる中国との交流があったと考えられる。ゆえに、秦の始皇帝が除福に命じ不老不死の薬を捜しに蓬莱山など三山を目指して100人の工人や2000人の童男童女らを船に載せ最初に日本を目指したのも蓬莱竹のある蓬莱山(徳之島の3)であったのである。たた単に不老不死の薬を探しに行くのに2000人の童男童女は必要ないのである。故に、除福は、秦の始皇帝に除福村が滅ぼされると察知して一家もろとも日本への移住を目指したと考えられるのである。現在、徳之島の数カ所にある岩石に刻まれた線刻画には、船やヤジリ、大魚、それに「山」の文字などがあり、大陸から渡ってきた工人らにより刻まれた物と見られている。[23]  徳之島は、ギネスブックに載った世界最長老の泉重千代さんがいて老化防止の水(科学的に証明されている。)[24]。がある所から不老不死の島「徳之島」だったと考えられる。[25]

6. 現在までに徳之島では、3世紀の紀年銅鏡は見つかっていないが天城町に松原銅山跡が現存しており今後発掘が行われれば、関連した何かが出てくるかも知れない。森浩一は、古墳時代は4世紀から始まるとする当時の一般的な理解にしたがい「三角縁神獣鏡はヤマト王権が邪馬台国との関係を顕示するために偽作したものだ」とする見解を述べておられる。故に、銅鏡による邪馬台国論説の整合性を述べるのには、まだまだ時間を要するであろう。

7. 一方、九州説の「放射線式」読み方が正当化されても「水行10日 陸行1月」からは、どうしても九州を遥かに越えて南下してしまう。徳之島へは多くの南西諸島の島々を船に乗っては島に上陸して歩いたり、又、船に乗っては島に上陸して南下していけば良いのであるから「水行10日 陸行1月」を見ておかねばならず、邪馬台国徳之島の位置は自ずと徳之島辺りに位置していると言えよう。[26] 。天城町の天城岳の麓にある松原神社は、かつて遣唐使船が水を供給する為に立ち寄ったという航海安全の守り神とされていて、南西諸島から中国へ行く南海航路が存在していた。[27]


8.
 邪馬台国の魏志倭人伝に記載された吉野ヶ里遺跡は、銅鐸や銅鐸の鋳型が出土ししていて邪馬台国より強大な国があったとしても、時代が弥生時代であることからシャーマンという卑弥呼がいて「国が治まった」とされている。これらから九州に邪馬台国がなくても良いと言えよう。徳之島には、古くからユタ[28]ノロと言われる松原神社(シャーマン)松堂久邇がいて現在も現存している。[29] この他、魏志倭人伝に記す「入れ墨」をして「裸足」で歩いていた人達がいて最近まで存在していたようで卑弥呼の邪馬台国にふさわしい証拠が他にも多数存在している。[30][31]。 

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「邪馬台国」徳之島の航空写真

 
A邪馬台国論争に終止符!? 2012/6/26() 午後 1:16

 邪馬台国論争に終止符!? 『魏志倭人伝』に記す邪馬台国は、方位&距離から九州より南の大海「徳之島」。昔から新井白石らが苦悩、畿内・九州説の議論続くが、帯方郡東南の大海の中の山島。

 邪馬台国徳之島では、徳之島の伊仙町を中心とした奄美一帯の徳之島の邪馬壹国説が益田宗児著[1]、陶芸家の中武久が天城町の「犬の門蓋眼鏡岩」遺跡[2]、伊仙町観光協会会長の伊信貴、それに民俗学の小泉芳孝[3]も魏志倭人伝や中国の史書に記す方位から「太平洋上の大海に浮かぶ島」と共通した意見で徳之島説を述べておられる。

 それらによると魏志倭人伝に記す卑弥呼の邪馬台国は、帯方郡(ソウル)から東南に直線距離で女王國まで12,000余里にあり、中国のニンポー(寧波)から真東に交わる大海にあるとされている。益田宗児は、九州王朝説を唱えた古田武彦よりも遥か南方の「太平洋上の大海に浮かぶ島」にあるとする徳之島説をとっている。つまり、伊都国の唐津からほぼ南へと魏志倭人伝に記述している南方方角であるとしている。また、陶芸家の中武久は、天城町の「犬の門蓋眼鏡岩」遺跡をギリシャのパルテノン神殿の石造を卑弥呼の城や塚として中国殷王の陵墓を例に出して述べている[2]一方、伊仙町観光協会の会長伊信貴それに民俗学の小泉芳孝は、魏志倭人伝や中国の史書に記す方位から「太平洋上の大海に浮かぶ島」として徳之島の面縄が卑弥呼の宮殿にふさわしい遺跡や地勢になっていると述べておられる。さらに民俗学の小泉芳孝は、方位以外に邪馬台国と対立した狗奴国を沖縄(琉球)の勢力と比定し徳之島伊仙町の紀念海岸に来た除福が400年後に邪馬台国を樹立したのではという説を述べている。[3]。

中国で作られた「倭国」邪馬台国の場所を表す地図。ほぼ決定!?


参考文献
[1]益田宗児『夢に見た邪馬台国は徳之島』で徳之島興産(株)2000年27日
[2]中武久著『徳之島にあった古代王国―邪馬台国の実像』[単行本] 文芸社2002年
[3]邪馬台国は「徳之島」だった http://taketori.koiyk.com/yama-tokunoshima.html

取材お問合せ「竹取翁博物館」小泉芳孝。京都府京田辺市三山木直田
10 0774-62-2522

新日本古地図学会 会長 松井淳さんへ
古地図有難う御座います。海の水位が有明海において深く感じ大きく描かれていますね。の部分は、陸地が少なくなっていて、水位が上昇しているようです。
大きな地殻変動でもあったのでしょうか? また、地図上の地名が、上が北でないのが不思議ですね。
邪馬台国の朝鮮半島で見つかっているただ一つの地図が、90度右下に傾き、南に大和がある地図として大和説の根拠にされています。
しかし、それの参考とされたと言われる「行基図」の地図は、北が青森となり「地図の地名が読めます」が。その地図上の詳細説明文が逆さまにしないと読めません。
このように、地図上の地名と、地図の説明文が逆になっている例など他にあるのでしょうか。
 他に邪馬台国と推定する奄美諸島の徳之島の東に国があるとあります。
以前頂いた古地図に、それらの島が写っていました。太平洋に浮かぶ島が地殻変動で沈んでしまったのかもしれませんね。

From: Atsushi Matsui
Sent: Thursday, April 03, 2014 6:52 PM
To: koiy@leto.eonet.ne.jp
Subject: 文政の頃の國郡全國二この様な地図帳

両開きで御座います  日本国総図として木版刷り物があります  又他の物も見ときますね お送りします
  日本古地図学会 会長松井 淳
***************************

新日本古地図学会
(古地図ニュース・情報)
   会長 松井淳

〒570-0031
守口市橋波東之町2丁目11-12(松井ビル3F)
TEL 06-6901-9601 FAX 06-6998-6393
URL http://www2.ocn.ne.jp/~kochizu/
Mail kochizu@vivid.ocn.ne.jp

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B邪馬台国は「徳之島」だった!? 2012/6/26() 午後 9:56

  邪馬台国は「徳之島」だった!? 中国貨幣(宝貝・竹取物語では「子安貝」)出土は徳之島との交易の証。戸森の舟の線刻画(鉄器で描く)と不老不死薬、除服の坐像石は、徐福が最初に渡来して邪馬台国・卑弥呼の王国を誕生させた。

 徳之島周辺を眺めれば古代遺跡から大量に採取されている「子安貝」が、中国の殷王朝時代から貨幣として使われていた事実があり相当古くから水先案内人らによる中国との交流があったと考えられる。 秦の始皇帝が除福に命じ不老不死の薬を捜しに蓬莱山など三山を目指して100人の工人や2000人の童男童女らを船に載せ最初に日本を目指したのも蓬莱竹のある蓬莱山(徳之島の3岳)であったのである。たた単に不老不死の薬を探しに行くのに2000人の童男童女は必要ないのである。故に、除福は、秦の始皇帝に除福村が滅ぼされると察知して一家もろとも日本への移住を目指したと考えられるのである。
 現在、徳之島の数カ所にある岩石に刻まれた線刻画には、船やヤジリ、大魚、それに「山」の文字などがあり、大陸から渡ってきた工人らにより刻まれた物と見られている。[25]。
 徳之島は、ギネスブックに載った世界最長老の泉重千代さんがいて老化防止の水(科学的に証明されている)[26]がある所から不老不死の島「徳之島」は、除福が目指した不死の薬がある蓬莱山であり除福が目指した理想郷へ移住して来た為に再び祖国の中国へ帰らなかったのであろう。[27]。

※取材お問合せ「竹取翁博物館」小泉芳孝(博物館学芸員)。京都府京田辺市三山木 
0774-62-2522

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C  邪馬台国は徳之島(牛馬いなかった)説が有力!? 2012/7/17() 午後 11:57

 邪馬台国は徳之島(牛馬いなかった)説が有力!?魏志倭人伝には、「邪馬台国には牛馬いない」と記されている。しかし、『古事記』上巻に「牛を放ち馬を息へ」、『日本書紀』巻第一に「牛馬化為る有り」とある。神話に、牛馬のことが書かれ「飛鳥には牛馬がいた」と記載ある。
 この、牛馬がいなかったのか説については、大変難題である。卑弥呼が誕生する以前に除福が徳之島へ不老長寿の薬を求めて徳之島へ来ているのである。この除服が何故に稲作農耕で使ったであろう牛馬を連れて来なかったのかが謎である。
 そし除福が原子キリスト教徒であったのならば、駱駝を連れてきて農耕作業をしていたのかも知れない。インドでは、牛を神聖視していて駱駝や象を荷馬車や農耕に使っているからである。
 もし邪馬台国に「牛馬いなかった」ならば、『古事記』上巻に「牛を放ち馬を息へ」、『日本書紀』巻第一に「牛馬化為る有り」とある。神話に、牛馬のことが書かれ「飛鳥には牛馬がいた」と記載ある。これらから中国人にとって特殊な出来事だったのでわざわざ記録していたのである。
 邪馬台国を推定する為にも日本本土には、「牛馬がいた」ようなので、それ以外の地域が邪馬台国と推定可能である。これらからも徳之島の特殊性が注目されるのである。
 

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  魏志倭人伝
 
D邪馬台国論争に終止符!(方位&距離から徳之島) 2012/6/26(火) 午後 1:16

『魏志倭人伝』に記す邪馬台国は、方位&距離から九州より南の大海「徳之島」。昔から新井白石らが苦悩、畿内・九州説の議論続くが、帯方郡東南の大海の中の山島。

取材お問合せ「竹取翁博物館」小泉芳孝。京都府京田辺市三山木直田10 0774-62-2522
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E邪馬台国論争に終止符!!不老長寿薬と卑弥呼の人骨から「徳之島」と推定 2012/6/26(火) 午前 10:53

@邪馬台国論争に終止符!? 『竹取物語』の不老不死薬と徐福伝説から邪馬台国を発見。物語に登場する宝貝と不老長寿薬から「徳之島」と推定! 魏志倭人伝の方位と距離など80%が一致。

 魏志倭人伝中で邪馬台国の埋葬方法を記述した『有棺無槨』を土葬墓と見なす見解に基づけば、奄美地方一帯の徳之島に土葬墓が多数出土し数年後に掘り起こして海の水で骨を洗って追葬している。当時の徳之島地方は一般的に風葬という埋葬方法とされているが間違っている。これらから日本人本来の古代から続いている土葬墓が続いていて古くから巳の方角に葬る「巳葬」の風習がある。現在、伊仙町の歴史民俗資料館に展示保存されている弥生時代のシャーマンとされている「面縄第1貝塚の洞穴から埋葬された完全な形の人骨が巳葬で埋葬されていて弥生時代中期である[24]ことから「邪馬台国の卑弥呼」ではないかと見られている。

取材等お問合せ『竹取翁博物館』館長 小泉芳孝。京都府京田辺市三山木直田10 0774-62-2522 この記事のURL: http://blogs.yahoo.co.jp/koiiyk/29615949.html
 
 

F邪馬台国論争に終止符!? [除福 邪馬台国 魏志倭人伝 九州説大和説 ]

G邪馬台国論争に終止符!? [除福 邪馬台国 魏志倭人伝 九州説大和説 ]
 『魏志倭人伝』に記す邪馬台国の九州説大和説は、方位&距離からかると九州より南の大海「徳之島」です。昔から新井白石らが苦悩、畿内・九州説の議論続くが、帯方郡東南の大海の中の山島とあります。

 竹取翁博物館の小泉館長は、毛沢東が生きていた時代から中国に取材に行っていて中国の少数民族や遣唐使の関係で弘法大師・空海についても調べています。
 『竹取物語』に出てくる「蓬莱山の不老不死薬」とも通じていて、そこらを調べているうちに、徳之島の徐福伝説につながり卑弥呼の「邪馬台国」との関係も見えてきたのです。
 魏志倭人伝に記されている卑弥呼の邪馬台国は、何時か徳之島ということになるのではないかと現地を詳しく調査して歩き間違いないのではないかと自負しています。
 江戸時代から卑弥呼の邪馬台国説は、大和・九州説だと新聞や書物でマスコミ陣が取上げられ論争が続いています。この為に突拍子もない説を突然で述べても誰も信じて頂けないので「ネット」で公開することにしました。
また、2012年7月1日から「竹取翁博物館」で「邪馬台国論争に終止符!?」展を開催します。

 現在までに徳之島では、3世紀の紀年銅鏡は見つかっていないが天城町に松原銅山跡が現存しており今後発掘が行われれば、関連した何かが出てくるかも知れない。森浩一は、古墳時代は4世紀から始まるとする当時の一般的な理解にしたがい「三角縁神獣鏡はヤマト王権が邪馬台国との関係を顕示するために偽作したものだ」とする見解を述べておられる。故に、銅鏡による邪馬台国論説の整合性を述べるのには、まだまだ時間を要するであろう。

 邪馬台国の魏志倭人伝に記載された吉野ヶ里遺跡は、銅鐸や銅鐸の鋳型が出土していて邪馬台国より強大な国があったとしても、時代が弥生時代であることからシャーマンという卑弥呼がいて「国が治まった」とされている。これらから九州に邪馬台国がなくても良いと言えよう。徳之島には、古くからユタ[30]やノロと言われる松原神社の斎主(シャーマン)松堂久邇がいて現在も現存している。[31]。 この他、魏志倭人伝に記す「入れ墨」をして「裸足」で歩いていた人達がいて最近まで存在していたようで卑弥呼の邪馬台国にふさわしい証拠が他にも多数存在している。[32]。[33]。 

 
 
H徐福の蓬莱山は、400年後「邪馬台国」となった!?

徐福は、中国の秦の時代(紀元前3世紀頃)の方士(学者)であった。
司馬遷の『史記』によると、徐福は秦の始皇帝に「東方の三神山に長生不老(不老不死)の霊薬がある…」と具申し、3,000人の童男童女と百工(百人の技術者)を従え、五穀の種を持って、東方の蓬莱山を目指してに船出した。そして平原広沢(広い平野と湿地)を得て王となり戻らなかったと記述されている。この最初にたどり着いた場所が「徳之島」であり不老長寿の大海の島だったのである。そして、そのおよそ400年後に『魏志倭人伝』に記されている「大海の中の島」卑弥呼の邪馬台国が「徳之島」に誕生したのである。

4. 小さな島で一般に古代の歴史が存在しないとされる徳之島では、邪馬台国が7万余戸とあるのは「多すぎるのではないか」と多くの人達に指摘されている。しかし、魏志倭人伝の記述から 奴国2万余戸、投馬国5万余戸、邪馬台国7万余戸、更に狗奴国といった規模の集落が唐津からほぼ南方に記されているのを前提にして。秦の始皇帝が除福に命じて不老不死の薬を捜しに蓬莱山など三山を目指して工人や童男童女ら3000人を数十隻の船に載せてきたのは、中国で古くから貨幣として使われていた子安貝の交流がある南西諸島にあり、それらを知っていた除福が目指したのであり、その400年後に邪馬台国が7万余戸になっても蓬莱竹のある不老不死の蓬莱山である徳之島なら決して可笑しくない。伊信貴と小泉芳孝は、アガレン山のガジュマルの木が生えていて古墳と見られる所に、家型石箱に納めらた除福像が保存されていることから、除服が徳之島に移住し400年間にわたり地元民との混血によって集落が営まれたのであり「7万余戸の卑弥呼の邪馬台国が誕生したとしても不思議ではない」と述べられている。一方、伊仙町観光協会によって近年科学的に「老化防止の効果がある」と証明され、徳之島全体に存在する不老不死の老化防止効果の石清水が豊富にあることから、除福一行の100人の工人らによる稲作栽培等で邪馬台国7万余戸の人達の食をまかなうこともできたであろう。


I邪馬台国の徳之島説は、何時か有力説となる!!

邪馬台国の徳之島説は、東京大学の「九州説」と京都大学の「大和説」、それに「マスコミ説」と「大手出版説」という巨大な勢力と戦わねばなりません。先日もある全国紙の優秀な記者が『魏志倭人伝』を片手に持ち取材にこられましたが、江戸時代から続いてきた今までの成果? はどうするのか!? とか、実に判らないことを発して帰られました。これは記事に出来ないとまで!?  首をかしげておられました。http://4travel.jp/domestic/area/kyushu/kagoshima/rito/tokunoshima/tips/10317818/

3. 卑弥呼以降の邪馬台国は、卑弥呼の女王から男王に変わったあと、トヨが政権を取り治まったとされている。その後の歴史については何処にも記されていないので判明しないが、おそらく南西諸島を北上して九州から畿内へ行きニギハヤヒノミコトの物部氏が最初に奈良に来て、その後に神武天皇あたりが東遷し畿内を制圧したと見られるのである。九州からの東遷説は神武東征をその事実の反映と見られることから、『隋書』の記述が現存する記紀神話とつながり『古事記』・『日本書紀』への神話を根拠とする実在説でまとまる。

 
■2012年7月1日から「竹取翁博物館」で「邪馬台国論争に終止符!?」展を開催しています。


■京都学派の重鎮 吉田金彦先生に「邪馬台国説の徳之島説」等を述べると「貴方の説に同意します」と賛同!!(2013年2月24日)」

竹取物語の作者が空海ではないかから「古代の歴史」が見えてきた。物語に出てくる不老不死の薬から除福が最初にきたのが徳之島と判明、また「帝のガド族説」等を詳しくお話しさせて頂いた。
そして、除福が最初にきた徳之島から400年後に卑弥呼の邪馬台国が徳之島に誕生した…として、「邪馬台国説に終止符!!」を発信しています。さらに徐福から、ユダヤと日ユ同素論の展示もしています。
 
 この「卑弥呼の邪馬台国は徳之島説」を京都市中京区の吉田金彦先生宅に伺った時にお話したところ「貴方の説に同意します(2013年2月24日)」賛同して頂いた。
これは、京都学派の中でも重鎮の吉田先生が長年にわたって邪馬台国に相当感心を持っておられたことを伺える証拠でもある。 
 吉田先生が、まさか「同意」と言って頂けるとは思っていなかったので大変な事になってしまった。
  
 吉田氏紹介−語源研究の第一人者。京都大学文学部卒業。専攻:国語国文学。京都府立女子短大教授、大阪外国語大学名誉教授など歴任。姫路独協大学名誉教授。現在: 日本語語源研究会代表、京都地名研究会代表理事。著書:『日本語語源学の方法』『古代日本語をさぐる』『古代日本語を歩く』『京都滋賀 古代地名を歩く』『ことばのカルテ』『埋もれた万葉の地名』他多数。
  
 この「邪馬台国に終止符!!」とも言える宣言記録として残す為に先生の図書室入口で記念撮影した。
 写真後方の図書室入口の入った所に邪馬台国に関する本が沢山あった。



〈YouTube動画〉
竹取物語の舞台は京田辺、作者は空海、邪馬台国は徳之島… (竹取翁博物館)
  ■右をクリックすると御覧になれます〈YouTube動画〉竹取物語の舞台は京田辺
  上記に続いて関連した項目も出て来ますのでYouTubeを御覧下さい。

『竹取物語』の舞台とされたことについては、物語の竹取翁のいた所が「山本近く」とある。「山もと」の近くに『竹取物語』の主人公、かぐや姫の家が設定された。

物語の中で
 帝おうせ給はく「みやつこまろが家は、山もと近なり。御狩みゆきし給はむやうにて、見てむや」とのたまはす。・・・
とあり、「山もとの近くに」 あると記されている。
 
 「竹取物語」など世界史に詳しい方が博物館を訪問@A、邪馬台国の徳之島説に同調  2014.4.19

  【YouTube】古代史 http://youtu.be/jixWGaKcC58
        邪馬台国 http://youtu.be/25bdmOw7sIg
奈良にお住まいで垂仁天皇の付近で幼少期を過ごされた方と、九州出身の古代の歴史に詳しい方が竹取翁博物館を訪問された。
 そこで展開された歴史談義を交えながら『竹取物語』について論じ合いました。
 いずれも歴史通の方で、想像たくましく大変元気なお二人で、表千家のお茶を数十年続けられておられるだけにかつて学んだ知恵を思い浮かべながら話しが展開しました。途中から頭がクラクラしてきたという方と、その相手の方も色々な事を知っておられたことにびっくり。
 『竹取物語』から、不老不死薬、垂仁天皇の古墳、物部氏、岩舟神社、石上神宮、談山神社から発して、ポンペイ、マヤ文明、イスラエルのエルサレム等へと話しが進みました。
小泉館長からは、『竹取物語』に関連した物を話しながら、日本人のルーツや、徐福、邪馬台国へと進めて、古代日本に大陸からやってきていた話しをされました。話しはキリスト教やイスラエルのエルサレム等の話しになり、日本とユダヤが似ていて日本神道は、ユダヤから来ていることなどを感知用から説明されました。
 その後、邪馬台国は何処かという話しになり、奄美諸島の徳之島にシュメール人がやってきていて「奄美」は、シュメール語で「海洋民」という意味で、ここが「日本列置等の入口であった」という話しを披露されました。
 そして、徳之島で収集されてきた邪馬台国の卑弥呼の像や、卑弥呼と見られる弥生時代の「シャーマン」の遺体のあることも述べられました。
 これに対して、小倉出身の方は、徳之島が「邪馬台国と見られますね」と賛同されました。
この後、別館@のかぐや姫館「かぐや姫サロン&カフェ」に移動し、「竹取物語絵巻」の襖絵が描かれた茶室で「こけら落し」を兼ねた本格的なお茶会を楽しみました。この茶室には、館長こだわりの竹取物語にちなんだ「竹の結界」や、館長が作陶した「水差し・香合」を使うという手作りの茶器で楽しみました。亭主は40数年の表千家ベテラン先生で、正客は茶歴50数年という博識、それに次客は昔裏千家のお茶を習ったという拘りの三人。お茶の醍醐味や手前の失敗談、茶事の取り合わせなどに話題が上り楽しいひとときを過ごしました。  

「国際かぐや姫学会」
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卑弥呼の邪馬台国は徳之島だった 日本国際古地図学会
http://youtu.be/HzIND9g18KQ
 



 邪馬台国論争に終止符!!
   ー邪馬台国は徳之島だったー

関連リンク集
卑弥呼の邪馬台国
 1.徳之島説の根拠
 2.徐福の蓬莱山は徳之島
 3.徳之島は有力説に
 4.邪馬台国「徳之島説」展

 D邪馬台国の徳之島に同意

YouTube「邪馬台国論争に終止符!!

  除福・邪馬台国談義
 
 ウィキWiki「竹取物語」に間違い多く追加投稿したが、数ヶ月後に編集世話人「松茸?」に全て抹消された。

ウィキWiki「竹取物語」の項目に間違いが多いので昨年(2013年)複雑怪奇なウィキWiki記入の仕方を勉強してウィキペディアWikipedia1に投稿した。
そして、しばらくは当方で追加記入した内容が認められアップされた。しかし、その項目が突然ウィキペディア日本版の編集世話人(お目付役)である「松茸?」という人物により連絡もなく追加文の全てが抹消されていたことが2014年5月判明した。
 その内容は、「竹取物語」の版間の差分の書きを見て頂くと判る。 http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E7%AB%B9%E5%8F%96%E7%89%A9%E8%AA%9E&diff=next&oldid=48186346 さらに「竹取物語」のウィキの頁を開け http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E5%8F%96%E7%89%A9%E8%AA%9E の右上にある「閲覧 編集 履歴表示」の「履歴表示」をクリック、
 この項目を抹消した「松茸?」という人物は、ウィキWikiを見ても物語の原文を読んでおらず住所・氏名・年齢・経歴すら明らかにせず、ペンネーム?の「松茸?」しか判明しない。
 今回の抹消行為は、ウィキWikiの存在すら問われ危うくする物であることを述べておきたい。
 これらの内容記事についての真実は、他のネットで検索して頂ければ明らかなので多くは語らない。
 ただ今回の件によりウィキWikiの存在価値が無くなってしまった。少しでも良い内容になればと苦労して文章を書いたが、連絡もなく勝手に全てを抹消するという行為にあきれ果てた。ネットの世界で「とんでも内容」と知らずに真実として読んでいるとしたら、明日の日本はもう無い…!!
 すでにウィキWikiは、日本人はじめ世界の多くの人達から厄介者となっているのに拍車をかけるだろう。その点ヤフーは人員が沢山いて、グーグルは大量サーバーが有。 ウィキペディアは何もない。ツイッターやYouTubeそれにホームページは、両論があり今後の発展が期待されている。その点ウィキWikiは、過去に存在していた掲示板のように廃止されていく運命となるであろう。
 私の哲学は、一人の「クレーム」に耳を傾けない企業は「倒産する」である。実際に沢山の企業が今までに倒産している例が事実を示す。それは、クレームの裏に数十万人、いや数百万人の人達が「そのように感じている」と言うことを知らないからであり、明日はもうない…と!!  最後に述べておきたい。今回の抹消行為でウィキWikiの信頼を失墜したと言うことを…!!

以下に時間のある方は、消された内容の主な物を述べたので読んで頂ければ、その内容が理解できる。
2013年6月16日 (日) 12:07時点における版 (編集)など数回有り以下である。「竹取物語」の版間の差分
http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E7%AB%B9%E5%8F%96%E7%89%A9%E8%AA%9E&diff=next&oldid=48186346

http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E7%AB%B9%E5%8F%96%E7%89%A9%E8%AA%9E&oldid=48796661

作者についても不詳である。作者像として、当時の推定識字率から庶民は考えづらく、上流階級に属しており、貴族の情報が入手できる平安京近隣に居住し、物語に反体制的要素が認められることから、当時権力を握っていた藤原氏の係累ではなく、漢学・仏教・民間伝承に精通し、仮名文字を操ることができ、和歌の才能もあり、貴重であった紙の入手も可能な人物で、性別は男性だったのではないかと推定されている。

以上をふまえ、源順、源融、遍昭、紀貫之、紀長谷雄など数多くの説が唱えられていたが、最近になり京田辺市に竹取翁博物館ができ、弘法大師・空海説が有力視されるようになってきた。
駿河国にある日本で一番高い不死の山で焼くように命じた。その由緒を謹んで受け、「士(つわもの)らを大勢連れて不死薬を焼きに山へ登った」ことから、その山を不死の山「富士の山(士に富む山)」と名づけた(不死の薬を燃やしたから「不死の山」だろう、という読者の予想の裏をかいている[3])。その煙は今も雲の中に立ち昇っていると言い伝えられている。また、その時に山頂に積もっていた雪が決して溶けることがなくなった(万年雪)ともいう。この竹取物語に登場する不死の山は、京田辺市にある平安京朱雀大路の「南起点」とされた甘南備山を指していると言われていることから京田辺市大住の延喜式内樺井月神社と月読神社の大住隼人の士(つわもの)つまり隼人司に見られる兵士が登場している。[5]。[6]。

竹は普段の生活に密着しており、その点でも説話の生成伝播を促した。『山姥と桶屋』では竹が妖怪・山父を追い払うが、『竹取物語』同様、竹説話は竹細工を行う隼人司に見られる隼人がその伝播に関与していたと考えられる[5]。[6]。

かぐや姫のモデル
主人公のかぐや姫は、垂仁天皇妃である迦具夜比売(かぐやひめ、大筒木垂根王の女)との関係から京田辺市に継体天皇「筒城宮」(つつきのみや)があることや、古事記に「山代之大筒木真若王」(やましろのおおつつきまわかのみこ)から「山代」の京都府南部「綴喜郡」が有力視されている。さらに物語の中で翁の家が「山もと」近くとあることから京田辺市三山木に古代駅制「山本駅」(和銅4年設定)が筒木にあり、[16]。古図に「冠者殿」が記されていることから同志社大学の森浩一名誉教授や地名研究会の吉田金彦名誉教授それに竹取翁博物館の小泉芳孝館長が「山代は竹取物語の舞台とされた所」だと断定されている。[17]。

時代設定
この5人はいずれも壬申の乱の功臣で天武天皇・持統天皇に仕えた人物であることから、奈良時代初期の人物が登場するが、批判的に描かれている事から平安時代初期の嵯峨天皇の頃に作られたと考えられている。嵯峨天皇の狩場は交野であり、ものがたりで帝が「狩りに行くついでに見に行こう」としている事から一山越えれば筒木の京田辺である。

また、この時期に富士山が噴気活動中の火山であったようだが、物語では「駿河の不死の山」とされ「富士山」とは記されていないことから、作者は京田辺市にある富士山に似た甘南備山を想定した物と見られる。富士山は「不老不死」との関係で「不死の山」とされ月に近く当時煙が上がっていたから物語に使われたものである。

最近の研究では作者は紀貫之が有力視されているが、遣唐使で唐の長安へ行った弘法大師・空海が暴風雨に出合ったことから「龍の首の玉」が大変リアルに描かれたり中国やインドそれに中東等にしかない難題を加え、それに文才があり時代的にも藤原氏を批判的に描くことの出来る聖職者の「空海」が有力視されている。[20] 

『竹取物語』のかぐや姫のモデルとしては、『古事記』に垂仁天皇の妃として記載される、大筒木垂根王(おおつつきたりねのみこ)の娘「迦具夜比売命」(かぐやひめのみこと)が指摘されている(「筒木」は筒状の木と解すれば竹、また「星」の古語「つづ」との関わりもあるか。また、同音の「綴喜」には月読命を祀る樺井月神社と月読神社を祀る式内社が鎮座する)。大筒木垂根王の弟に「讃岐垂根王」(さぬきたりねのみこ)がおり、竹取の翁の名「讃岐造」(さぬきのみやつこ)を連想させるが、現存する原文には「さかきのみやつこ」か「さるきのみやつこ」であり「さるき」では意味が分からないので「さぬき」と変えて「讃岐神社」が奈良県広陵町にあったから述べているにすぎない。本来の「讃岐垂根王」の「讃岐」は、四国地方のことであり機内になく遠い存在と言えよう。(古事記』によるとこの兄弟は開化天皇が丹波の大県主・由碁理(ゆごり)の娘「竹野比売」(たかのひめ)を召して生まれた比古由牟須美王(ひこゆむすみのみこ)を父としており、「竹」との関連が深い。『日本書紀』では開化天皇妃の「丹波竹野媛」の他、垂仁天皇の後宮に入るべく丹波から召し出された5人の姫のうち「竹野媛」だけが国に帰されたという記述がある。 また、かぐや姫の名からは天香具山(あまのかぐやま)(奈良県橿原市)との関わりが連想されるが、『作者は『古事記』に記された垂仁天皇の后である実在の「迦具夜比売命」をモデルにヤマト政権の壬申の乱で活躍した5人の貴公子を描きながら京田辺を舞台にして描いたと見られる。本居宣長が、竹取物語の出来たところは奈良でなく「奈良に近いところ」と述べていることから京都府南部の筒木--竹取翁(会話) 2013年5月23日 (木) 07:07 (UTC)(現在の京田辺市)が重要視されるのである。[21]。

『竹取物語』のかぐや姫のモデルとしては、『古事記』に垂仁天皇の妃として記載される、大筒木垂根王(おおつつきたりねのみこ)の娘「迦具夜比売命」(かぐやひめのみこと)が指摘されている(「筒木」は筒状の木と解すれば竹、また「星」の古語「つづ」との関わりもあるか。また、同音の「綴喜」には月読命を祀る樺井月神社と月読神社を祀る式内社が鎮座する)。大筒木垂根王の弟に「讃岐垂根王」(さぬきたりねのみこ)がおり、竹取の翁の名「讃岐造」(さぬきのみやつこ)を連想させるが、現存する原文には「さかきのみやつこ」か「さるきのみやつこ」であり「さるき」では意味が分からないので「さぬき」と変えて「讃岐神社」が奈良県広陵町にあったから述べているにすぎない。

常設展の解説書として『竹取翁博物館 現代考』原文・注釈・現代語訳・解説付 小泉芳孝著「大筒木出版」が博物館のみで販売されている。他に竹取物語の里として裏付けられる書物として『京田辺の史跡探訪-歴史散歩コース-』小泉芳孝著「大筒木出版」がある。この2冊を詠むことで京田辺市が竹取\物語の舞台とされている理由が理解できる。   ホームページ http://taketori.koiyk.com/ 参照。

本文
他にも、京都府京田辺市 - 竹取物語由来の地と名乗り、2012年2月に竹取翁博物館が完成した。 この竹取物語に登場する不死の山は、京田辺市にある平安京朱雀大路の「南起点」とされた甘南備山を指すとの解釈をし、京田辺市大住の延喜式内樺井月神社と月読神社の大住隼人の士(つわもの)つまり隼人司に見られる兵士が登場していることも考慮している[16][17]。

『竹取物語 現代考』原文・注釈・現代語訳・解説付き 小泉芳孝著大筒木出版 ISBN 978-4-905524-00-7
『京田辺の史跡探訪-歴史散歩コース-』小泉芳孝著大筒木出版 ISBN 978-4-905524-02-1
『稲作民俗の源流 -日本・インドネシア-』小泉芳孝著 文理閣 ISBN 4-89259-374-5

出典・補注
5.^ 小泉芳孝著『竹取物語 現代考』大筒木出版、2012年
6.^ 小泉芳孝著『稲作民俗の源流 -日本・インドネシア-』文理閣、2001年
16.^ 小泉芳孝著『竹取物語 現代考』大筒木出版、2012年
17.^ 小泉芳孝著『稲作民俗の源流 -日本・インドネシア-』文理閣、2001年
20.^ [[小泉芳孝]著『竹取物語 現代考』大筒木出版、2012年
21.^ 小泉芳孝著『竹取物語 現代考』大筒木出版、2012年

絵巻・奈良絵本
http://www.youtube.com/watch?v=qqXyKplGPEo 竹取物語の舞台は京田辺 (竹取翁博物館)
http://www.youtube.com/watch?v=Va6uAv9lCv8 五人の求婚者は「壬申の乱」で活躍した人物
http://www.youtube.com/watch?v=fdskPtv98dA 竹取物語の作者は空海 (竹取翁博物館)
http://www.youtube.com/watch?v=C3n_qc4T1nM 「竹取物語の語り」言語造形家の村上恭仁子さん

自治体関連
竹取翁博物館 京田辺市三山木直田10 竹取物語の京田辺説から作者弘法大師・空海説。不老不死の薬から除福・卑弥呼の邪馬台国展示あり。
竹取翁博物館、京田辺市 - 竹取物語の京田辺説から空海作者説をとる。不老不死の薬から除福・卑弥呼の邪馬台国展示あり。

http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E7%AB%B9%E5%8F%96%E7%89%A9%E8%AA%9E&direction=prev&oldid=48186346

「竹取翁博物館」「国際かぐや姫学会」http://taketori.koiyk.com/
copyright(C)2013 World Meeting Corp Kaguya-hime Japan Kyoto All Rights Reserved.
 
 ウィキ小泉芳孝 2013.05.23

小泉 芳孝(こいずみ よしたか 1947年 - )は、京都府京田辺市に在住の 郷土史研究家 (KBS京都出身)によると、日本最古の物語『竹取物語』や『古事記』など関連資料を詳細に研究の結果、かぐや姫の里は京田辺と結論づけている。小泉氏は教育、学術、文化の発展に寄与する事を目的として2012年2月有志らと共に 「竹取翁博物館」を開館させている。「古事記」の記述では迦具夜比売命の父は大筒木垂根王で京田辺説では「竹取の翁」に当たり、大筒木は古代の山城地域の旧称を示している。また現存する最古の写本(鎌倉時代)に、翁の家は「山本」近くに有ると記述があり、京田辺市三山木地区にあった奈良時代の交通・通信施設 「山本驛」に該当すると推定した。[1]。   目次 [非表示] 1 来歴・人物 1.1 かぐや姫の舞台は京田辺 1.2「竹取翁博物館」建設に尽力 1.3「まちづくり」提案 1.4 邪馬台国は徳之島 2 略歴 2.2 諸団体 2.3 免許・資格  3 著書 3.1 単著 3.2 共編著 3.3 論文・著述・その他 4 出典 4.1 インターネット放送局 4.2 関連サイト 
==来歴・人物== 
京都府生まれ。文学士、法学士、 博物館学芸員の資格を取得。民俗学・古代史・郷土史専攻、学生時代にカメラに没頭し放送局の報道カメラマンから放送記者、ディレクター(テレビ・ラジオ)、プログラムディレクター、プロデューサーを歴任し定年退職。在職中に取材を通じ各種の有名人と交流したりしている。そして民俗学・古代史・郷土史分野を研究中に『稲作民俗の源流 −日本−・インドネシア』を文理閣から出版した。[2]。
その後、京田辺市が『竹取物語』の舞台とされたところとして[[京田辺郷土史会員らと共に研究して探し当てられた。[3]。
==かぐや姫の舞台は京田辺==
 京田辺市郷土史会は、日本最古の物語「竹取物語」が「古事記」など関連資料を詳細に研究の結果、かぐや姫の里は京田辺と結論づけている。「古事記」の記述では迦具夜比売命の父は大筒木垂根王で京田辺説では「竹取の翁」に当たり、大筒木は古代の山城地域の旧称を示している。  また現存する最古の写本(鎌倉時代)に、翁の家は「山本」近くに有ると記述があり、京田辺市三山木地区にあった奈良時代の交通・通信施設「山本驛」に該当すると推定した。かぐや姫ゆかりの地は奈良県広陵町や静岡県富士市など全国に10か所以上に上るが、会員らは諸々の検証結果より京田辺以外にあり得ないと自信をもち教育、学術、文化の発展に寄与する事を目的として2013年の2月11日に会員や賛同者の協力によって「竹取翁博物館」を開館された。
==「竹取翁博物館」建設に尽力==
 日本最古の『竹取物語』関連を展示した「竹取翁博物館」は、舞台が山代の大筒木であり、翁の「山もと」が古代山陽道の山本駅、月読神社等と決定的な証拠を多数あげている。考古学研究の第一人者で同志社大学の森浩一名誉教授・語源研究の第一人者で姫路独協大学の吉田金彦名誉教授ら多くの学者も「舞台とされた所」と述べられている。また、文献史学の第一人者で京都府立大学学長と京都橘女子大学学長の門脇禎二名誉教授は、古代の「筒木は神功皇后や仁徳天皇それに継体天皇などが居住していたところ」で「記紀などに明記されている」と地元京田辺市で開かれた講演会で発表。また、今まで]]『古事記』]]に]]神話と言われていた「大筒木垂根王」(おおつつきたりねおう)や「山代大筒木真若王」(やましろのおおつつきまわかおう)それに「迦邇米雷王」(かにめいかづちのみこと)は「筒木にいた人物」と発表された。さらに平安時代初期に作られた『竹取物語』に登場する「かぐや姫」は、垂仁天皇の后「迦具夜比売命」(かぐやひめのみこと)であり、そり父の「・・大筒木真若王」の頭に「山代」(やましろ)と記されている事から筒木付近にいた「実在の皇后をモデルとして登場させた」という事を発表された。[4]。  小泉氏はこれらの成果をふまえて考古学・語源学・地名学・文献学の権威の先生方の応援を受けて教育、学術、文化の発展に寄与する事を目的とした「竹取翁博物館」を有志らと共に開館された。博物館は古民家を再生利用して建設され、館内は土蔵や竹などの古材を生かした内装が施されている。そして、『竹取物語』の舞台となった古代駅制の山本驛跡や筒城宮、延喜式内月読神社の隼人など「かぐや姫」に関連する物をはじめ、日本や京田辺市の郷土史関係の資料、それに世界50カ国余りを民俗調査された資料や珍しい土産物それに考古資料など約数千点が展示されている。「竹取翁博物館」はJR学研都市線JR三山木駅より徒歩3分、近鉄京都線夫々三山木駅より徒歩2分
==「まちづくり」提案==
 十年ほど前に、京田辺市の南の玄関口としての「三山木地区」の特別区画整理事業に関連して、市民からの「まちづくり」の提案をしようと集まった有志一同の中心に小泉さんがおられ、初めてお会いして以来の知人なのだが、現役の仕事も定年を迎えられて退職されて、より一層大好きでもあり最大の関心事でもあった、「かぐや姫の里」としての地元に、長年の調査、研究を重ねられてきた資料や絵図と共に、作成された解説資料などを整理されて、「本館」「別館@」「別館A土蔵展示室」などに分散展示されたのである。  彼の人生の集大成と言えば大げさではあるが、この博物館の開館に際して、自らが編纂された著書も三冊出版[5]。[6]。[7]。されていて、ほんとうにご本人にとっては、一世一代の大仕事としての「博物館」として産声を上げたところと言った感じであり、今後益々多種多様な展示と地元はもとより、全国各地から興味と関心を寄せて来られる来館者たちとの交流も合わさって、「竹取翁博物館」が発展していくことだろうと感じたのである。 [http://blog.goo.ne.jp/gulliver2004/e/3d816c9984dd2c032d9ddc7305715c35 最初はgoo ガリバー通信のブログ
目次 [非表示]
1 邪馬台国は徳之島!!
2 著書 単著
3 出典
4 関連サイト
邪馬台国は徳之島!! [編集]

 一方ハイテク分野においても若い頃からカメラに興味を持たれ、テレビラジオ局の社員としてカメラマン、放送記者、ディレクター、プロデューサーの仕事に従事され放送システムのソフト開発プロジェクトチームにも入り活躍された。  現在、60代後半に達し介護保険被保険者にもかかわらず館長は、5台のコンピューターを駆使5ホームページ・7ブログ・5メール・フェイスブック・ツイッターなどを運用され超人的な活躍に周囲から「脱帽」(故京都府立大学]]学長 門脇禎二名誉教授他)と言われさえしている。  さらに竹取物語の不死薬から「徐福の蓬莱山は徳之島」を主張、その400年後「卑弥呼の邪馬台国は徳之島!!」になったと述べ「邪馬台国論争に終止符!?」と言う「とんでもない!?説」を述べて力説されており大変注目の的となっています。
 ==略歴== 日本写真専門学校 映画TV技術学部卒業、近畿大学法学部卒業、佛教大学文学部史学科卒業、博物館学芸員資格。969年 葛゚畿放送(現[[]]京都放送]])報道部、放送記者兼カメラマンから テレビ・ラジオディレクター、プロデューサー他歴任。2012年2月“かぐや姫の里”京田辺「竹取翁博物館」開館させる。
==諸団体==
(社)日本映画テレビ技術協会正会員、関西写真記者協会会員、関西運動記者クラブ会員、京田辺市郷土史会理事(会誌「筒城」に多数投稿執筆)、京都地名研究会常任理事 広報担当、京都民俗学談話会会員、山城郷土資料館友の会会員、城南郷土史研究会 会員、(NPO)やましろ里山の会 会員。
==免許・資格==
 茶道裏千家 正引次、潜水士免許、米国USA PADIダイバーライセンス 、1級小型船舶操縦士免許(海技免許証)。  
著書 単著 [編集]

2001年 H.13 2月 『稲作民俗の源流ー日本・インドネシアー』小泉芳孝著 文理閣 ISBN 4-89259-374-5
2001年 H.13 9月 シンポジウム小冊子『竹取物語』“かぐや姫”京田辺 制作 京田辺市郷土史会
2012年 H.24 1月 『竹取物語 -現代考-』原文・注釈・現代語訳・解説付き 小泉芳孝著 大筒木出版 ISBN 978-4-905524-00-7
2012年 H.24 1月『京田辺の史跡探訪 -歴史散歩コース-』小泉芳孝著 大筒木出版 ISBN 978-4-905524-02-1
2012年 H.24 1月『マスコミ一代記 -昭和・平成-』小泉芳孝著 大筒木出版 ISBN 978-4-905524-01-4
 ==共編著==
2005年 H.17 4月 『京都の地名検証』(筒木・山本・飯岡・天王・甘南備山)勉誠出版 ISBN 4-585-05138-4
2007年 H.19 1月 『京都の地名検証2』(三山木)勉誠出版 IISBN 978-4-585-05139-8
2003年 H.15 3月 「地名探研」創刊号『竹取物語』“かぐや姫の里”京田辺京都地名研究会
2003年 H.15 10月 京都地名研究会別冊1号 シンポジウム「秘められた南山城の地名を探る」制作
 == 論文・著述・その他==
1990年 H.2 12月 京都民俗8号「京田辺町『佐牙神社』の宮座」 京都民俗学談話会会誌
1991年 H.3 3月 筒城第36輯「山背国綴喜郡山本駅と古代駅制について」田辺郷土史会
1991年 H.3 12月 京都民俗9号「神社以前の祭祀ーオハケと御仮屋について」京都民俗学談話会会誌
1993年 H.5 3月 筒城第38輯「南山城、山本の宮座と講」田辺郷土史会
1994年 H.6 3月 筒城第39輯「南山城、山本の宮座と講その2」田辺郷土史会
1995年 H.7 3月 筒城第40輯「南山城、山本の宮座と講その3」田辺郷土史会
1995年 H.7 12月 京都民俗13号「例祭の古式神饌について」京都民俗学談話会会誌
1996年 H.8 3月 筒城第41輯「南山城、山本の宮座と講その4」田辺郷土史会
1996年 H.8 12月 京都民俗14号「例祭の古式神饌について(その2)」京都民俗学談話会会誌
1997年 H.9 3月 筒城第42輯「南山城、山本の宮座と講その5」田辺郷土史会
1997年 H.9 12月 京都民俗15号「神々の島“バリ”の民俗儀礼」京都民俗学談話会会誌
1998年 H.10 3月 筒城第43輯「山本村の寺院・民俗」京田辺市郷土史会
1999年 H.11 3月 筒城第44輯「神々の島“バリ”紀行ー民俗儀礼を中心にー」京田辺市郷土史会
2001年 H.13 3月 筒城第46輯「竹取物語発祥の地は京田辺」「大般若経修復(六百巻)完成」京田辺郷土史会
2001年 H.13 7月 京都新聞記事に小泉芳孝紹介。「私の研究、地元とともに」竹取物語を通して見える地域
2001年 H.13 9月 シンポジウム『竹取物語』かぐや姫の里は京田辺だった!司会・小泉芳孝 主催・京田辺市郷土史会 後援・京田辺市教育委員会・京都新聞社・竹資源活用フォーラム
シンポジウム記事掲載社・京都新聞・読売新聞・広報・きょうたなべ・洛南タイムス・NHKニュース
2001年 H.13 9月 「かぐや姫の里・京田辺」の歌、作詞・作曲 
2001年 H.13 9月 『竹取物語』“かぐや姫の里”京田辺 京田辺市郷土史会
2001年 H.13 11月 第36回京田辺市民文化祭で成果発表 京田辺市体育館 京田辺市郷土史会
2002年 H.14 10月 市民のための「三山木地区特定土地区画整理」構想「市民参加の町づくり」三山木駅前区画整理の街づくり構想計画 冊子 作成
2002年 H.14 3月 筒城第47輯「『竹取物語』発祥の地は京田辺その2」「飯岡トヅカ出土の『神人車馬画像鏡』は中国製か」「円面硯・斎串と翡翠製の勾玉」京田辺市郷土史会
2003年 H.15 3月 筒城第48輯「『竹取物語』かぐや姫の里“京田辺”」「三山木駅前周辺を歴史・文化ゾーンに 京田辺市歴史民俗資料館(歴史博物館)の早期建設を要望」京田辺市郷土史会
2003年 H.15 8月 ハウジングマガジン雑誌『ぴゅあはうす』「隼人の民がルーツ!?かぐや姫の里」に紹介
2004年 H.16 3月 筒城第49輯「『竹取物語』かぐや姫の里“京田辺”の活動経過」「竹取物語ゆかりの筒木について」「飯岡の七井戸について」京田辺市郷土史会
2004年 H.16 8月 「隼人サミット」シンポジウムのパネラー出演、鹿児島県隼人町・教育委員会
2004年 H.16 8月 「隼人サミット」『講演・シンポジウム録』 投稿・隼人町教育委員会
2005年 H.17 3月 筒城第50輯 第39回京田辺市民文化祭展示発表「かぐや姫の里」京田辺市郷土史会
2005年 H.17 9月 『エプタ』雑誌23号「日本昔話の世界で、京田辺市が「かぐや姫発祥の地」と紹介される。
2006年 H.18 10月 毎日新聞掲載「古代の駅・山本駅」竹取翁の家説 
2007年 H.19 3月 筒城第52輯 「『竹取物語』発祥の地は京田辺その3」「新島襄ゆかりの『南山義塾跡』石碑の保存を」「京田辺市『三山木』の地名起源について」史跡探訪ふるさと史跡探訪マップ』松井・大住周辺“歴史散歩コース”京田辺市郷土史会
2007年 H.19 6月 毎日新聞掲載 図書館教育ニュース「学校壁新聞に掲載」『竹取物語』の京田辺市発祥地説を掲載「古事記に名前」信憑性ありと判断
2008年 H.20 3月 筒城第53輯 「臨済宗大徳寺派の寺『酬恩庵一休寺』」「一休宗純禅師の足跡」「竹取物語ゆかりの筒木について」「朱智社の飛天と筒木の絹織物〜多々羅は、日本発の養蚕飼育所〜」「天王地区]]の地名と歴史について」京田辺市郷土史会
2009年 H.21 3月 筒城第54輯 史跡探訪「ふるさと史跡探訪マップ」田辺・河原周辺“歴史散歩コース”京田辺市郷土史会
2009年 H.21 6月 第75回きゅうたなべ倶楽部情報交換会[[「京田辺とかぐや姫伝説について」ゲスト出演
2009年 H.21 6月 京田辺市商工会青年部会「竹取物語京田辺説について講演」「三山木周辺の社寺などの歴史について」
2010年 H.22 2月 京都eラーニング塾 ホームページ(動画配信)「“かぐや姫の里”京田辺」講師出演 @『竹取物語』発祥の地は京田辺A『竹取物語』の成立B飛天の絹織物と神仙思想の里(各40分程)
2010年 H.22 2月 京都eラーニング塾 紹介記事 (読売新聞・京都新聞・毎日新聞・洛南タイムス・京田辺市広報)
2011年 H.23 7月 京田辺市 関西観光拠点化計画シンポジウム〜同志社大学文学部移転問題を考える パネリスト出演・小泉芳孝 京田辺市 関西観光拠点化計画シンポジウム 京都新聞・毎日新聞に掲載。
2011年 H.23 6月 毎日新聞「京の人 今日の人」に紹介される。
2012年 H.24 2月 『竹取物語 現代考』『マスコミ一代記 昭和・平成』『マスコミ一代記 昭和・平成』『京田辺の史跡探訪 歴史散歩コース』出版。
出典 [編集]

『竹取物語 現代考』 大筒木出版、2012年。 『マスコミ一代記 -昭和・平成-』 大筒木出版 2012年。 『京田辺の史跡探訪-歴史散歩コース-』 大筒木出版 2012年
==インターネット放送局== 京都府発見講座 ・京都eラーニング塾「“かぐや姫の里”京田辺」(第1回)京都府発見講座 2012年3月26日(月)開始  [http://spogaku.pref.kyoto.lg.jp/movie_info.html?id=198 ・京都eラーニング塾「“かぐや姫の里”京田辺」(第2回)京都府発見講座 2012年3月26日(月)開始  [http://spogaku.pref.kyoto.lg.jp/movie_info.html?id=199 ・京都eラーニング塾「“かぐや姫の里”京田辺」(第3回)京都府発見講座 2012年3月26日(月)開始  [http://spogaku.pref.kyoto.lg.jp/movie_info.html?id=200
関連サイト [編集]

[http://4travel.jp/traveler/sasuraiojisan/album/10679484/日本の旅 関西を歩く かぐや姫の里・京田辺市の竹取翁博物館周辺 [http://4travel.jp/traveler/sasuraiojisan/ さすらいおじさんの旅行ブログ [http://www.youtube.com/watch?v=qqXyKplGPEo 竹取物語の舞台は京田辺 (竹取翁博物館) [http://www.youtube.com/watch?v=Va6uAv9lCv8 五人の求婚者は「壬申の乱」で活躍した人物 [http://www.youtube.com/watch?v=fdskPtv98dA 竹取物語の作者は空海 (竹取翁博物館) [http://www.youtube.com/watch?v=C3n_qc4T1nM 「竹取物語の語り」言語造形家の村上恭仁子さん



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ウィキ小泉芳孝 2013.05.23

'''小泉 芳孝'''(こいずみ よしたか 1947年 - )は、京田辺市 [[三山木]]に在住の [[郷土史家]] [[小泉芳孝]]氏([[KBS京都]]出身)によると、日本

最古の物語[[『竹取物語』]]や[[『古事記』]]など関連資料を詳細に研究の結果、[[かぐや姫の里は京田辺]]と結論づけている。小泉氏は教育、学術、文化の発展に寄与する事を目的として2012年2月私費で本格的な [[「竹取翁博物館」]]を開館させ館長として活躍中。「古事記」の記述では迦具夜比売命の父は大筒木垂根王で京田辺説では[[「竹取の翁」]]に当たり、大筒木は古代の山城地域の旧称を示している。また現存する最古の写本(鎌倉時代)に、翁の家は「山本」近くに有ると記述があり、京田辺市三山木地区にあった奈良時代の交通・通信施設 [[「山本驛」]]に該当すると推定した。<ref>[[小泉芳孝]]著『竹取物語 現代考』[[大筒木出版]]、2012年</ref>。<ref>『京田辺の史跡探訪-歴史散歩コース-』小泉芳孝著「大筒木出版」、2012年</ref>
 一方、日本人のルーツがイスラエルの12部族と判明したとされ、さらに、 [[邪馬台国論争]]に終止符!! と大胆な説を述べ、 [[卑弥呼]]の [[「邪馬台国]]が [[徳之島]]だ」と現地を調べ判明したと驚くべき説を述べておられる。

目次 [非表示]
1 来歴・人物
1.1 かぐや姫の舞台は京田辺
1.2「竹取翁博物館」館長
1.3「まちづくり」提案
1.4 邪馬台国は徳之島
2 略歴
2.2 諸団体
2.3 免許・資格 
3 著書
3.1 単著
3.2 共編著
3.3 論文・著述・その他
4 かぐや姫の里は京田辺
4.1「竹取翁博物館」館長
4.2 インターネット放送局
4.3 関連サイト
5 出典
6 カテゴリ

==来歴・人物== 
京都府生まれ。文学士、法学士、 [[博物館学芸員]]の資格を取得。民俗学・古代史・郷土史専攻、学生時代にカメラに没頭し放送局の報道カメラマンから放送記者、ディレクター(テレビ・ラジオ)、プログラムディレクター、プロデューサーを歴任し定年退職。在職中に取材を通じ各種の有名人と交流したりしている。そして[[民俗学]]・[[古代史]]・[[郷土史]]分野を研究中に[[『稲作民俗の源流 −日本−・インドネシア』]]を[[文理閣]]から出版した。<ref>[[小泉芳孝]]著『稲作民俗の源流 -日本・インドネシア-』[[文理閣]]、2001年</ref>。

その後、自分の住む場所が『竹取物語』の舞台とされたところとして[[京田辺郷土史会員らと共に研究して探し当てられて[[「竹取翁博物館」]]を建てて館長に就任した。他に、マンションオーナー、出版社代表もされている 。<ref>[[小泉芳孝]]著『マスコミ一代記 昭和・平成』[[文理閣]]、2001年</ref>。

==かぐや姫の舞台は京田辺== (平成24年8月1日)
 京田辺市三山木に在住の郷土史研究家 小泉芳孝氏(KBS京都出身)は、日本最古の物語「竹取物語」や「古事記」など関連資料を詳細に研究の結果、かぐや姫の里は京田辺と結論づけている。「古事記」の記述では[[迦具夜比売命]]の父は[[大筒木垂根王]]で京田辺説では「竹取の翁」に当たり、大筒木は古代の山城地域の旧称を示している。
 また現存する最古の写本(鎌倉時代)に、翁の家は「山本」近くに有ると記述があり、京田辺市[[三山木]]地区にあった奈良時代の交通・通信施設「山本驛」に該当すると推定した。かぐや姫ゆかりの地は奈良県広陵町や静岡県富士市など全国に10か所以上に上るが、小泉氏は諸々の検証結果より京田辺以外にあり得ないと自信をもっている。
 さらに、小泉氏は教育、学術、文化の発展に寄与する事を目的として2013年の2月11日に私費で「竹取翁博物館」を開館した。

==「竹取翁博物館」館長==
 日本最古の[[『竹取物語』]]関連を展示した「竹取翁博物館」が2013年2月1日京都府京田辺市に誕生した。舞台が[[山代]]の[[大筒木]]であり、翁の「山もと」が古代山陽道の山本駅、月読神社等と決定的な証拠を多数あげている。考古学研究の第一人者で[[同志社大学]]の[[森浩一]]名誉教授・[[語源研究]]の第一人者で[[姫路独協大学]]の[[吉田金彦]]名誉教授ら多くの学者も「舞台とされた所」と述べられている。また、[[文献史学]]の第一人者で[[京都府立大学]]学長と[[京都橘女子大学]]学長の[[門脇禎二]]名誉教授は、古代の[[「筒木]]は[[神功皇后]]や[[仁徳天皇]]それに[[継体天皇]]などが居住していたところ」で「[[記紀]]などに明記されている」と地元京田辺市で開かれた講演会で発表。また、今まで]]『古事記』]]に]]神話と言われていた[[「大筒木垂根王」]](おおつつきたりねおう)や[[「山代大筒木真若王」]](やましろのおおつつきまわかおう)それに[[「迦邇米雷王」]](かにめいかづちのみこと)は「筒木にいた人物」と発表された。さらに[[平安時代]]初期に作られた[[『竹取物語』]]に登場する[[「かぐや姫」]]は、[[垂仁天皇]]の后[[「迦具夜比売命」]](かぐやひめのみこと)であり、そり父の「・・大筒木真若王」の頭に[[「山代」]](やましろ)と記されている事から[[筒木]]付近にいた「実在の皇后をモデルとして登場させた」という事を発表された。<ref>[[小泉芳孝]]著『竹取物語 現代考』[[大筒木出版]]、2012年</ref>。
 小泉氏はこれらの成果をふまえて[[考古学]]・[[語源学]]・[[地名学]]・[[文献学]]の[[権威]]の先生方の応援を受けて教育、学術、文化の発展に寄与する事を目的とした[[「竹取翁博物館」]]を開館された。博物館は[[古民家]]を再生利用して建設され、館内は土蔵や竹などの古材を生かした内装が施されている。そして、『竹取物語』の舞台となった[[古代駅制]]の[[山本驛]]跡や[[筒城宮]]、[[延喜式内]][[月読神社]]の[[隼人]]など[[「かぐや姫」]]に関連する物をはじめ、日本や京田辺市の郷土史関係の資料、それに世界50カ国余りを民俗調査された資料や珍しい土産物それに考古資料など約数千点が展示されている。<ref>[[小泉芳孝]]著『マスコミ一代記 昭和・平成』[[文理閣]]、2001年</ref>。
 「竹取翁博物館」はJR学研都市線[[JR三山木駅]]より徒歩3分、近鉄京都線夫々[[三山木駅]]より徒歩2分のところにあり土・日・祝祭日の10:00〜17:00に開館している。
場所:京都府京田辺市三山木直田10番地
電話番号:0774-62-2522 FAX番号:0774-62-2522
開館日時:土・日(10:00〜17:00)祝・祭日(10:00〜16:00)
定休日・休館日など:休館日:盆・正月。月〜金(団体見学は、ご相談下さい)
入館料:大人500円、高大生300円、小中学生・子供200円
(団体10名以上1割引、20名以上2割引、障害者手帳持参の方2割引)
[http://taketori.koiyk.com/ 竹取翁博物館公式ホームページ

==「まちづくり」提案==
 実は十年ほど前に、[[京田辺市]]の南の玄関口としての「[[三山木]]地区」の特別区画整理事業に関連して、市民からの「まちづくり」の提案をしようと集まった有志一同の中心に小泉さんがおられ、初めてお会いして以来の知人なのだが、現役の仕事も定年を迎えられて退職されて、より一層大好きでもあり最大の関心事でもあった、「かぐや姫の里」としての地元に、長年の調査、研究を重ねられてきた資料や絵図と共に、作成された解説資料などを整理されて、「本館」「別館@」「別館A土蔵展示室」などに分散展示されたのである。
 彼の人生の集大成と言えば大げさではあるが、この博物館の開館に際して、自らが編纂された著書も三冊出版<ref>[[小泉芳孝]]著『竹取物語 現代考』[[大筒木出版]]、2012年</ref>。<ref>『京田辺の史跡探訪-歴史散歩コース-』小泉芳孝著「大筒木出版」、2012年</ref>。<ref>[[小泉芳孝]]著『マスコミ一代記 昭和・平成』[[文理閣]]、2001年</ref>。されていて、ほんとうにご本人にとっては、一世一代の大仕事としての「博物館」として産声を上げたところと言った感じであり、今後益々多種多様な展示と地元はもとより、全国各地から興味と関心を寄せて来られる来館者たちとの交流も合わさって、「竹取翁博物館」が発展していくことだろうと感じたのである。
[http://blog.goo.ne.jp/gulliver2004/e/3d816c9984dd2c032d9ddc7305715c35 最初はgoo ガリバー通信のブログ

==邪馬台国は徳之島!!==
 一方ハイテク分野においても若い頃からカメラに興味を持たれ、テレビラジオ局の社員としてカメラマン、放送記者、ディレクター、プロデューサーの仕事に従事され放送システムのソフト開発プロジェクトチームにも入り活躍された。
 現在、60代後半に達し介護保険被保険者にもかかわらず館長は、5台のコンピューターを駆使5ホームページ・7ブログ・5メール・フェイスブック・ツイッターなどを運用され超人的な活躍に周囲から「脱帽」(故京都府立大学]]学長 [[門脇禎二]]名誉教授他)と言われさえしている。
 さらに竹取物語の不死薬から「徐福の[[蓬莱山]]は徳之島」を主張、その400年後「卑弥呼の邪馬台国は徳之島!!」になったと述べ「邪馬台国論争に終止符!?」と言う「とんでもない!?説」を述べて力説されており大変注目の的となっています。
■詳細は下記を参照。
[http://skyhits.koiyk.com/ 竹取翁博物館公式ホームページ
[http://taketori.koiyk.com/yamataikoku.html [[除服]]・[[卑弥呼]]の[[邪馬台国]]ホームページ

 ==略歴==
日本写真専門学校 映画TV技術学部卒業、[[近畿大学]]法学部卒業、[[佛教大学]]文学部史学科卒業、博物館学芸員資格。969年 [[葛゚畿放送]](現[[]]京都放送]])報道部、放送記者兼カメラマンから テレビ・ラジオディレクター、プロデューサー他歴任。2012年2月“かぐや姫の里”京田辺「竹取翁博物館」開館し館長となる。

==諸団体==
(社)日本映画テレビ技術協会正会員、[[関西写真記者協会]]会員、[[関西運動記者クラブ]]会員、[[京田辺市郷土史会]]理事(会誌[[「筒城」]]に多数投稿執筆)、[[京都地名研究会]]常任理事 広報担当、[[京都民俗学談話会]]会員、[[山城郷土資料館友の会]]会員、[[城南郷土史研究会]] 会員、[[(NPO)やましろ里山の会]] 会員。

==免許・資格==
 茶道[[裏千家]] 正引次、[[潜水士免許]]、米国USA [[PADIダイバーライセンス]] 、[[1級小型船舶操縦士免許]](海技免許証)。
 
==著書 単著==
* 2001年 H.13 2月 [[『稲作民俗の源流ー日本・インドネシアー』]]小泉芳孝著 [[文理閣]] ISBN 4-89259-374-5
* 2001年 H.13 9月 シンポジウム小冊子『竹取物語』“かぐや姫”京田辺 制作 京田辺市郷土史会
* 2012年 H.24 1月 [[『竹取物語 -現代考-』]]原文・注釈・現代語訳・解説付き 小泉芳孝著 大筒木出版 ISBN 978-4-905524-00-7
* 2012年 H.24 1月[[『京田辺の史跡探訪 -歴史散歩コース-』]]小泉芳孝著 大筒木出版 ISBN 978-4-905524-02-1
* 2012年 H.24 1月[[『マスコミ一代記 -昭和・平成-』]]小泉芳孝著 大筒木出版 ISBN 978-4-905524-01-4

 ==共編著==
* 2005年 H.17 4月 『京都の地名検証』(筒木・山本・飯岡・天王・甘南備山)[[勉誠出版]] ISBN 4-585-05138-4
* 2007年 H.19 1月 『京都の地名検証2』(三山木)[[勉誠出版]] IISBN 978-4-585-05139-8
* 2003年 H.15 3月 「地名探研」創刊号『竹取物語』“かぐや姫の里”京田辺京都地名研究会
* 2003年 H.15 10月 京都地名研究会別冊1号 シンポジウム「秘められた南山城の地名を探る」制作
 == 論文・著述・その他==
* 1990年 H.2 12月 京都民俗8号「京田辺町『佐牙神社』の宮座」 京都民俗学談話会会誌
* 1991年 H.3 3月 筒城第36輯「山背国綴喜郡山本駅と古代駅制について」田辺郷土史会
* 1991年 H.3 12月 京都民俗9号「神社以前の祭祀ーオハケと御仮屋について」京都民俗学談話会会誌
* 1993年 H.5 3月 筒城第38輯「南山城、山本の宮座と講」田辺郷土史会
* 1994年 H.6 3月 筒城第39輯「南山城、山本の宮座と講その2」田辺郷土史会
* 1995年 H.7 3月 筒城第40輯「南山城、山本の宮座と講その3」田辺郷土史会
* 1995年 H.7 12月 京都民俗13号「例祭の古式神饌について」京都民俗学談話会会誌
* 1996年 H.8 3月 筒城第41輯「南山城、山本の宮座と講その4」田辺郷土史会
* 1996年 H.8 12月 京都民俗14号「例祭の古式神饌について(その2)」京都民俗学談話会会誌
* 1997年 H.9 3月 筒城第42輯「南山城、山本の宮座と講その5」田辺郷土史会
* 1997年 H.9 12月 京都民俗15号「神々の島“バリ”の民俗儀礼」京都民俗学談話会会誌
* 1998年 H.10 3月 筒城第43輯「山本村の寺院・民俗」京田辺市郷土史会
* 1999年 H.11 3月 筒城第44輯「神々の島“バリ”紀行ー民俗儀礼を中心にー」京田辺市郷土史会
* 2001年 H.13 3月 筒城第46輯「竹取物語発祥の地は京田辺」「大般若経修復(六百巻)完成」京田辺郷土史会
* 2001年 H.13 7月 京都新聞記事に小泉芳孝紹介。「私の研究、地元とともに」竹取物語を通して見える地域
* 2001年 H.13 9月 シンポジウム『竹取物語』かぐや姫の里は京田辺だった!司会・小泉芳孝 主催・京田辺市郷土史会 後援・京田辺市教育委員会・京都新聞社・竹資源活用フォーラム
シンポジウム記事掲載社・京都新聞・読売新聞・広報・きょうたなべ・洛南タイムス・NHKニュース
* 2001年 H.13 9月 KBS京都ラジオ「笑福亭晃瓶のほっかほかラジオ出演」京田辺が「かぐや姫」伝承地であり『竹取物語』発祥地であることを紹介
* 2001年 H.13 9月 KBS京都TV「田淵の岩夫の特ダネ!」京田辺が「かぐや姫」伝承地であり『竹取物語』発祥地であることを紹介
* 2001年 H.13 9月 「かぐや姫の里・京田辺」の歌、作詞・作曲 
* 2001年 H.13 9月 『竹取物語』“かぐや姫の里”京田辺 京田辺市郷土史会
* 2001年 H.13 11月 第36回京田辺市民文化祭で成果発表 京田辺市体育館 京田辺市郷土史会
* 2002年 H.14 10月 市民のための「三山木地区特定土地区画整理」構想「市民参加の町づくり」三山木駅前区画整理の街づくり構想計画 冊子 作成
* 2002年 H.14 3月 筒城第47輯「『竹取物語』発祥の地は京田辺その2」「飯岡トヅカ出土の『神人車馬画像鏡』は中国製か」「円面硯・斎串と翡翠製の勾玉」京田辺市郷土史会
* 2003年 H.15 3月 筒城第48輯「『竹取物語』かぐや姫の里“京田辺”」「三山木駅前周辺を歴史・文化ゾーンに 京田辺市歴史民俗資料館(歴史博物館)の早期建設を要望」京田辺市郷土史会
* 2003年 H.15 8月 ハウジングマガジン雑誌『ぴゅあはうす』「隼人の民がルーツ!?かぐや姫の里」に紹介
* 2004年 H.16 3月 筒城第49輯「『竹取物語』かぐや姫の里“京田辺”の活動経過」「竹取物語ゆかりの筒木について」「飯岡の七井戸について」京田辺市郷土史会
* 2004年 H.16 8月 「隼人サミット」シンポジウムのパネラー出演、鹿児島県隼人町・教育委員会
* 2004年 H.16 8月 「隼人サミット」『講演・シンポジウム録』 投稿・隼人町教育委員会
* 2005年 H.17 3月 筒城第50輯 第39回京田辺市民文化祭展示発表「かぐや姫の里」京田辺市郷土史会
* 2005年 H.17 9月 『エプタ』雑誌23号「日本昔話の世界で、京田辺市が「かぐや姫発祥の地」と紹介される。
* 2006年 H.18 10月 毎日新聞掲載「古代の駅・山本駅」竹取翁の家説 
* 2007年 H.19 3月 筒城第52輯 「『竹取物語』発祥の地は京田辺その3」「新島襄ゆかりの『南山義塾跡』石碑の保存を」「京田辺市『三山木』の地名起源について」史跡探訪ふるさと史跡探訪マップ』松井・大住周辺“歴史散歩コース”京田辺市郷土史会
* 2007年 H.19 6月 毎日新聞掲載 図書館教育ニュース「学校壁新聞に掲載」『竹取物語』の京田辺市発祥地説を掲載「古事記に名前」信憑性ありと判断
* 2008年 H.20 3月 筒城第53輯 「臨済宗大徳寺派の寺『酬恩庵[[一休寺]]』」「一休宗純禅師の足跡」「竹取物語ゆかりの筒木について」「[[朱智社]]の飛天と筒木の絹織物〜多々羅は、日本発の養蚕飼育所〜」「天王地区]]の地名と歴史について」京田辺市郷土史会
* 2009年 H.21 3月 筒城第54輯 史跡探訪「ふるさと史跡探訪マップ」田辺・河原周辺“歴史散歩コース”京田辺市郷土史会
* 2009年 H.21 6月 第75回きゅうたなべ倶楽部情報交換会[[「京田辺とかぐや姫伝説について」ゲスト出演
* 2009年 H.21 6月 京田辺市商工会青年部会[[「竹取物語京田辺説]]について講演」「三山木周辺の社寺などの歴史について」
* 2010年 H.22 2月 京都eラーニング塾 ホームページ(動画配信)「“かぐや姫の里”京田辺」講師出演 @『竹取物語』発祥の地は京田辺A『竹取物語』の成立B飛天の絹織物と神仙思想の里(各40分程)
* 2010年 H.22 2月 京都eラーニング塾 紹介記事 (読売新聞・京都新聞・毎日新聞・洛南タイムス・京田辺市広報)
* 2011年 H.23 7月 京田辺市 関西観光拠点化計画シンポジウム〜同志社大学文学部移転問題を考える パネリスト出演・小泉芳孝 京田辺市 関西観光拠点化計画シンポジウム 京都新聞・毎日新聞に掲載された。
* 2011年 H.23 6月 毎日新聞「京の人 今日の人」に紹介される。『「竹取物語」作者を空海と推定』(出版物)
* 2012年 H.24 2月 [[大筒木出版]]で発行『竹取物語 現代考』『マスコミ一代記 昭和・平成』<ref>[[小泉芳孝]]著『マスコミ一代記 昭和・平成』[[文理閣]]、2001年</ref>。『京田辺の史跡探訪 歴史散歩コース』発行

==インターネット放送局== 京都府発見講座
・京都eラーニング塾「“かぐや姫の里”京田辺」(第1回)京都府発見講座 2012年3月26日(月)開始
 [http://spogaku.pref.kyoto.lg.jp/movie_info.html?id=198
・京都eラーニング塾「“かぐや姫の里”京田辺」(第2回)京都府発見講座 2012年3月26日(月)開始
 [http://spogaku.pref.kyoto.lg.jp/movie_info.html?id=199
・京都eラーニング塾「“かぐや姫の里”京田辺」(第3回)京都府発見講座 2012年3月26日(月)開始
 [http://spogaku.pref.kyoto.lg.jp/movie_info.html?id=200

==関連サイト==
[http://4travel.jp/traveler/sasuraiojisan/album/10679484/日本の旅 関西を歩く かぐや姫の里・京田辺市の竹取翁博物館周辺
[http://4travel.jp/traveler/sasuraiojisan/ さすらいおじさんの旅行ブログ
[http://www.youtube.com/watch?v=qqXyKplGPEo 竹取物語の舞台は京田辺 (竹取翁博物館)
[http://www.youtube.com/watch?v=Va6uAv9lCv8 五人の求婚者は[[「壬申の乱」]]で活躍した人物
[http://www.youtube.com/watch?v=fdskPtv98dA 竹取物語の作者は[[空海]] (竹取翁博物館)
[http://www.youtube.com/watch?v=C3n_qc4T1nM 「竹取物語の語り」[[言語造形家]]の村上恭仁子さん

==出典== 『マスコミ一代記 -昭和・平成-』小泉芳孝著者紹介 [[大筒木出版]] BookWeb<ref>[[小泉芳孝]]著『竹取物語 現代考』[[大筒木出版]]、2012年</ref>。
[http://taketori.koiyk.com/ootutu-shupan.html=66zzg 大筒木出版&oldid=44855035」から取得
[http://taketori.koiyk.com/ 竹取翁博物館 京田辺市三山木直田10 竹取物語の京田辺説から作者[[弘法大師]]・空海説。[[不老不死]]の薬から除福・卑弥呼の邪馬台国展示あり。

==カテゴリ==: 古代史 竹取物語 竹取翁博物館 竹取の翁 京田辺市 筒城 かぐや姫 京田辺市郷土史会 BS京都 京都地名研究会 京都民俗 佛教大学 稲作民俗 1947年

--~~~~小泉芳孝






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'''小泉 芳孝'''(こいずみ よしたか 1947年 - )は、京田辺市 [[三山木]]に在住の [[郷土史家]] [[小泉芳孝]]氏([[KBS京都]]出身)によると、日本最古の物語[[『竹取物語』]]や[[『古事記』]]など関連資料を詳細に研究の結果、[[かぐや姫の里は京田辺]]と結論づけている。小泉氏は教育、学術、文化の発展に寄与する事を目的として2012年2月私費で本格的な [[「竹取翁博物館」]]を開館させ館長として活躍中。「古事記」の記述では迦具夜比売命の父は大筒木垂根王で京田辺説では[[「竹取の翁」]]に当たり、大筒木は古代の山城地域の旧称を示している。また現存する最古の写本(鎌倉時代)に、翁の家は「山本」近くに有ると記述があり、京田辺市三山木地区にあった奈良時代の交通・通信施設 [[「山本驛」]]に該当すると推定した。<ref>[[小泉芳孝]]著『竹取物語 現代考』[[大筒木出版]]、2012年</ref>。<ref>『京田辺の史跡探訪-歴史散歩コース-』小泉芳孝著「大筒木出版」、2012年</ref>
 一方、日本人のルーツがイスラエルの12部族と判明したとされ、さらに、 [[邪馬台国論争]]に終止符!! と大胆な説を述べ、 [[卑弥呼]]の [[「邪馬台国]]が [[徳之島]]だ」と現地を調べ判明したと驚くべき説を述べておられる。

目次 [非表示]
1 来歴・人物
1.1 かぐや姫の舞台は京田辺
1.2「竹取翁博物館」館長
1.3「まちづくり」提案
1.4 邪馬台国は徳之島
2 略歴
2.2 諸団体
2.3 免許・資格 
3 著書
3.1 単著
3.2 共編著
3.3 論文・著述・その他
4 かぐや姫の里は京田辺
4.1「竹取翁博物館」館長
4.2 インターネット放送局
4.3 関連サイト
5 出典
6 カテゴリ

==来歴・人物== 
京都府生まれ。文学士、法学士、 [[博物館学芸員]]の資格を取得。民俗学・古代史・郷土史専攻、学生時代にカメラに没頭し放送局の報道カメラマンから放送記者、ディレクター(テレビ・ラジオ)、プログラムディレクター、プロデューサーを歴任し定年退職。在職中に取材を通じ各種の有名人と交流したりしている。そして[[民俗学]]・[[古代史]]・[[郷土史]]分野を研究中に[[『稲作民俗の源流 −日本−・インドネシア』]]を[[文理閣]]から出版した。<ref>[[小泉芳孝]]著『稲作民俗の源流 -日本・インドネシア-』[[文理閣]]、2001年</ref>。その後、自分の住む場所が『竹取物語』の舞台とされたところとして[[京田辺郷土史会員らと共に研究して探し当てられて[[「竹取翁博物館」]]を建てて館長に就任した。他に、マンションオーナー、出版社代表もされている 。<ref>[[小泉芳孝]]著『マスコミ一代記 昭和・平成』[[文理閣]]、2001年</ref>。

==かぐや姫の舞台は京田辺== (平成24年8月1日)
 京田辺市三山木に在住の郷土史研究家 小泉芳孝氏(KBS京都出身)は、日本最古の物語「竹取物語」や「古事記」など関連資料を詳細に研究の結果、かぐや姫の里は京田辺と結論づけている。「古事記」の記述では[[迦具夜比売命]]の父は[[大筒木垂根王]]で京田辺説では「竹取の翁」に当たり、大筒木は古代の山城地域の旧称を示している。
 また現存する最古の写本(鎌倉時代)に、翁の家は「山本」近くに有ると記述があり、京田辺市[[三山木]]地区にあった奈良時代の交通・通信施設「山本驛」に該当すると推定した。かぐや姫ゆかりの地は奈良県広陵町や静岡県富士市など全国に10か所以上に上るが、小泉氏は諸々の検証結果より京田辺以外にあり得ないと自信をもっている。
 さらに、小泉氏は教育、学術、文化の発展に寄与する事を目的として2013年の2月11日に私費で「竹取翁博物館」を開館した。

==「竹取翁博物館」館長==
 日本最古の[[『竹取物語』]]関連を展示した「竹取翁博物館」が2013年2月1日京都府京田辺市に誕生した。舞台が[[山代]]の[[大筒木]]であり、翁の「山もと」が古代山陽道の山本駅、月読神社等と決定的な証拠を多数あげている。考古学研究の第一人者で[[同志社大学]]の[[森浩一]]名誉教授・[[語源研究]]の第一人者で[[姫路独協大学]]の[[吉田金彦]]名誉教授ら多くの学者も「舞台とされた所」と述べられている。また、[[文献史学]]の第一人者で[[京都府立大学]]学長と[[京都橘女子大学]]学長の[[門脇禎二]]名誉教授は、古代の[[「筒木]]は[[神功皇后]]や[[仁徳天皇]]それに[[継体天皇]]などが居住していたところ」で「[[記紀]]などに明記されている」と地元京田辺市で開かれた講演会で発表。また、今まで]]『古事記』]]に]]神話と言われていた[[「大筒木垂根王」]](おおつつきたりねおう)や[[「山代大筒木真若王」]](やましろのおおつつきまわかおう)それに[[「迦邇米雷王」]](かにめいかづちのみこと)は「筒木にいた人物」と発表された。さらに[[平安時代]]初期に作られた[[『竹取物語』]]に登場する[[「かぐや姫」]]は、[[垂仁天皇]]の后[[「迦具夜比売命」]](かぐやひめのみこと)であり、そり父の「・・大筒木真若王」の頭に[[「山代」]](やましろ)と記されている事から[[筒木]]付近にいた「実在の皇后をモデルとして登場させた」という事を発表された。<ref>[[小泉芳孝]]著『竹取物語 現代考』[[大筒木出版]]、2012年</ref>。
 小泉氏はこれらの成果をふまえて[[考古学]]・[[語源学]]・[[地名学]]・[[文献学]]の[[権威]]の先生方の応援を受けて教育、学術、文化の発展に寄与する事を目的とした[[「竹取翁博物館」]]を開館された。博物館は[[古民家]]を再生利用して建設され、館内は土蔵や竹などの古材を生かした内装が施されている。そして、『竹取物語』の舞台となった[[古代駅制]]の[[山本驛]]跡や[[筒城宮]]、[[延喜式内]][[月読神社]]の[[隼人]]など[[「かぐや姫」]]に関連する物をはじめ、日本や京田辺市の郷土史関係の資料、それに世界50カ国余りを民俗調査された資料や珍しい土産物それに考古資料など約数千点が展示されている。<ref>[[小泉芳孝]]著『マスコミ一代記 昭和・平成』[[文理閣]]、2001年</ref>。
 「竹取翁博物館」はJR学研都市線[[JR三山木駅]]より徒歩3分、近鉄京都線夫々[[三山木駅]]より徒歩2分のところにあり土・日・祝祭日の10:00〜17:00に開館している。
場所:京都府京田辺市三山木直田10番地
電話番号:0774-62-2522 FAX番号:0774-62-2522
開館日時:土・日(10:00〜17:00)祝・祭日(10:00〜16:00)
定休日・休館日など:休館日:盆・正月。月〜金(団体見学は、ご相談下さい)
入館料:大人500円、高大生300円、小中学生・子供200円
(団体10名以上1割引、20名以上2割引、障害者手帳持参の方2割引)
[http://taketori.koiyk.com/ 竹取翁博物館公式ホームページ


==「まちづくり」提案==
 実は十年ほど前に、[[京田辺市]]の南の玄関口としての「[[三山木]]地区」の特別区画整理事業に関連して、市民からの「まちづくり」の提案をしようと集まった有志一同の中心に小泉さんがおられ、初めてお会いして以来の知人なのだが、現役の仕事も定年を迎えられて退職されて、より一層大好きでもあり最大の関心事でもあった、「かぐや姫の里」としての地元に、長年の調査、研究を重ねられてきた資料や絵図と共に、作成された解説資料などを整理されて、「本館」「別館@」「別館A土蔵展示室」などに分散展示されたのである。
 彼の人生の集大成と言えば大げさではあるが、この博物館の開館に際して、自らが編纂された著書も三冊出版<ref>[[小泉芳孝]]著『竹取物語 現代考』[[大筒木出版]]、2012年</ref>。<ref>『京田辺の史跡探訪-歴史散歩コース-』小泉芳孝著「大筒木出版」、2012年</ref>。<ref>[[小泉芳孝]]著『マスコミ一代記 昭和・平成』[[文理閣]]、2001年</ref>。されていて、ほんとうにご本人にとっては、一世一代の大仕事としての「博物館」として産声を上げたところと言った感じであり、今後益々多種多様な展示と地元はもとより、全国各地から興味と関心を寄せて来られる来館者たちとの交流も合わさって、「竹取翁博物館」が発展していくことだろうと感じたのである。
[http://blog.goo.ne.jp/gulliver2004/e/3d816c9984dd2c032d9ddc7305715c35 最初はgoo ガリバー通信のブログ

==邪馬台国は徳之島!!==
 一方ハイテク分野においても若い頃からカメラに興味を持たれ、テレビラジオ局の社員としてカメラマン、放送記者、ディレクター、プロデューサーの仕事に従事され放送システムのソフト開発プロジェクトチームにも入り活躍された。
 現在、60代後半に達し介護保険被保険者にもかかわらず館長は、5台のコンピューターを駆使5ホームページ・7ブログ・5メール・フェイスブック・ツイッターなどを運用され超人的な活躍に周囲から「脱帽」(故京都府立大学]]学長 [[門脇禎二]]名誉教授他)と言われさえしている。
 さらに竹取物語の不死薬から「徐福の[[蓬莱山]]は徳之島」を主張、その400年後「卑弥呼の邪馬台国は徳之島!!」になったと述べ「邪馬台国論争に終止符!?」と言う「とんでもない!?説」を述べて力説されており大変注目の的となっています。
■詳細は下記を参照。
[http://skyhits.koiyk.com/ 竹取翁博物館公式ホームページ
[http://taketori.koiyk.com/yamataikoku.html [[除服]]・[[卑弥呼]]の[[邪馬台国]]ホームページ


 ==略歴==
日本写真専門学校 映画TV技術学部卒業、[[近畿大学]]法学部卒業、[[佛教大学]]文学部史学科卒業、博物館学芸員資格。969年 [[葛゚畿放送]](現[[]]京都放送]])報道部、放送記者兼カメラマンから テレビ・ラジオディレクター、プロデューサー他歴任。2012年2月“かぐや姫の里”京田辺「竹取翁博物館」開館し館長となる。
==諸団体==
(社)日本映画テレビ技術協会正会員、[[関西写真記者協会]]会員、[[関西運動記者クラブ]]会員、[[京田辺市郷土史会]]理事(会誌[[「筒城」]]に多数投稿執筆)、[[京都地名研究会]]常任理事 広報担当、[[京都民俗学談話会]]会員、[[山城郷土資料館友の会]]会員、[[城南郷土史研究会]] 会員、[[(NPO)やましろ里山の会]] 会員。
==免許・資格==
 茶道[[裏千家]] 正引次、[[潜水士免許]]、米国USA [[PADIダイバーライセンス]] 、[[1級小型船舶操縦士免許]](海技免許証)。
 
==著書 単著==
* 2001年 H.13 2月 [[『稲作民俗の源流ー日本・インドネシアー』]]小泉芳孝著 [[文理閣]] ISBN 4-89259-374-5
* 2001年 H.13 9月 シンポジウム小冊子『竹取物語』“かぐや姫”京田辺 制作 京田辺市郷土史会
* 2012年 H.24 1月 [[『竹取物語 -現代考-』]]原文・注釈・現代語訳・解説付き 小泉芳孝著 大筒木出版 ISBN 978-4-905524-00-7
* 2012年 H.24 1月[[『京田辺の史跡探訪 -歴史散歩コース-』]]小泉芳孝著 大筒木出版 ISBN 978-4-905524-02-1
* 2012年 H.24 1月[[『マスコミ一代記 -昭和・平成-』]]小泉芳孝著 大筒木出版 ISBN 978-4-905524-01-4
 ==共編著==
* 2005年 H.17 4月 『京都の地名検証』(筒木・山本・飯岡・天王・甘南備山)[[勉誠出版]] ISBN 4-585-05138-4
* 2007年 H.19 1月 『京都の地名検証2』(三山木)[[勉誠出版]] IISBN 978-4-585-05139-8
* 2003年 H.15 3月 「地名探研」創刊号『竹取物語』“かぐや姫の里”京田辺京都地名研究会
* 2003年 H.15 10月 京都地名研究会別冊1号 シンポジウム「秘められた南山城の地名を探る」制作
 == 論文・著述・その他==
* 1990年 H.2 12月 京都民俗8号「京田辺町『佐牙神社』の宮座」 京都民俗学談話会会誌
* 1991年 H.3 3月 筒城第36輯「山背国綴喜郡山本駅と古代駅制について」田辺郷土史会
* 1991年 H.3 12月 京都民俗9号「神社以前の祭祀ーオハケと御仮屋について」京都民俗学談話会会誌
* 1993年 H.5 3月 筒城第38輯「南山城、山本の宮座と講」田辺郷土史会
* 1994年 H.6 3月 筒城第39輯「南山城、山本の宮座と講その2」田辺郷土史会
* 1995年 H.7 3月 筒城第40輯「南山城、山本の宮座と講その3」田辺郷土史会
* 1995年 H.7 12月 京都民俗13号「例祭の古式神饌について」京都民俗学談話会会誌
* 1996年 H.8 3月 筒城第41輯「南山城、山本の宮座と講その4」田辺郷土史会
* 1996年 H.8 12月 京都民俗14号「例祭の古式神饌について(その2)」京都民俗学談話会会誌
* 1997年 H.9 3月 筒城第42輯「南山城、山本の宮座と講その5」田辺郷土史会
* 1997年 H.9 12月 京都民俗15号「神々の島“バリ”の民俗儀礼」京都民俗学談話会会誌
* 1998年 H.10 3月 筒城第43輯「山本村の寺院・民俗」京田辺市郷土史会
* 1999年 H.11 3月 筒城第44輯「神々の島“バリ”紀行ー民俗儀礼を中心にー」京田辺市郷土史会
* 2001年 H.13 3月 筒城第46輯「竹取物語発祥の地は京田辺」「大般若経修復(六百巻)完成」京田辺郷土史会
* 2001年 H.13 7月 京都新聞記事に小泉芳孝紹介。「私の研究、地元とともに」竹取物語を通して見える地域
* 2001年 H.13 9月 シンポジウム『竹取物語』かぐや姫の里は京田辺だった!司会・小泉芳孝 主催・京田辺市郷土史会 後援・京田辺市教育委員会・京都新聞社・竹資源活用フォーラム
シンポジウム記事掲載社・京都新聞・読売新聞・広報・きょうたなべ・洛南タイムス・NHKニュース
* 2001年 H.13 9月 KBS京都ラジオ「笑福亭晃瓶のほっかほかラジオ出演」京田辺が「かぐや姫」伝承地であり『竹取物語』発祥地であることを紹介
* 2001年 H.13 9月 KBS京都TV「田淵の岩夫の特ダネ!」京田辺が「かぐや姫」伝承地であり『竹取物語』発祥地であることを紹介
* 2001年 H.13 9月 「かぐや姫の里・京田辺」の歌、作詞・作曲 
* 2001年 H.13 9月 『竹取物語』“かぐや姫の里”京田辺 京田辺市郷土史会
* 2001年 H.13 11月 第36回京田辺市民文化祭で成果発表 京田辺市体育館 京田辺市郷土史会
* 2002年 H.14 10月 市民のための「三山木地区特定土地区画整理」構想「市民参加の町づくり」三山木駅前区画整理の街づくり構想計画 冊子 作成
* 2002年 H.14 3月 筒城第47輯「『竹取物語』発祥の地は京田辺その2」「飯岡トヅカ出土の『神人車馬画像鏡』は中国製か」「円面硯・斎串と翡翠製の勾玉」京田辺市郷土史会
* 2003年 H.15 3月 筒城第48輯「『竹取物語』かぐや姫の里“京田辺”」「三山木駅前周辺を歴史・文化ゾーンに 京田辺市歴史民俗資料館(歴史博物館)の早期建設を要望」京田辺市郷土史会
* 2003年 H.15 8月 ハウジングマガジン雑誌『ぴゅあはうす』「隼人の民がルーツ!?かぐや姫の里」に紹介
* 2004年 H.16 3月 筒城第49輯「『竹取物語』かぐや姫の里“京田辺”の活動経過」「竹取物語ゆかりの筒木について」「飯岡の七井戸について」京田辺市郷土史会
* 2004年 H.16 8月 「隼人サミット」シンポジウムのパネラー出演、鹿児島県隼人町・教育委員会
* 2004年 H.16 8月 「隼人サミット」『講演・シンポジウム録』 投稿・隼人町教育委員会
* 2005年 H.17 3月 筒城第50輯 第39回京田辺市民文化祭展示発表「かぐや姫の里」京田辺市郷土史会
* 2005年 H.17 9月 『エプタ』雑誌23号「日本昔話の世界で、京田辺市が「かぐや姫発祥の地」と紹介される。
* 2006年 H.18 10月 毎日新聞掲載「古代の駅・山本駅」竹取翁の家説 
* 2007年 H.19 3月 筒城第52輯 「『竹取物語』発祥の地は京田辺その3」「新島襄ゆかりの『南山義塾跡』石碑の保存を」「京田辺市『三山木』の地名起源について」史跡探訪ふるさと史跡探訪マップ』松井・大住周辺“歴史散歩コース”京田辺市郷土史会
* 2007年 H.19 6月 毎日新聞掲載 図書館教育ニュース「学校壁新聞に掲載」『竹取物語』の京田辺市発祥地説を掲載「古事記に名前」信憑性ありと判断
* 2008年 H.20 3月 筒城第53輯 「臨済宗大徳寺派の寺『酬恩庵[[一休寺]]』」「一休宗純禅師の足跡」「竹取物語ゆかりの筒木について」「[[朱智社]]の飛天と筒木の絹織物〜多々羅は、日本発の養蚕飼育所〜」「天王地区]]の地名と歴史について」京田辺市郷土史会
* 2009年 H.21 3月 筒城第54輯 史跡探訪「ふるさと史跡探訪マップ」田辺・河原周辺“歴史散歩コース”京田辺市郷土史会
* 2009年 H.21 6月 第75回きゅうたなべ倶楽部情報交換会[[「京田辺とかぐや姫伝説について」ゲスト出演
* 2009年 H.21 6月 京田辺市商工会青年部会[[「竹取物語京田辺説]]について講演」                      「三山木周辺の社寺などの歴史について」
* 2010年 H.22 2月 京都eラーニング塾 ホームページ(動画配信)「“かぐや姫の里”京田辺」講師出演 @『竹取物語』発祥の地は京田辺A『竹取物語』の成立B飛天の絹織物と神仙思想の里(各40分程)
* 2010年 H.22 2月 京都eラーニング塾 紹介記事 (読売新聞・京都新聞・毎日新聞・洛南タイムス・京田辺市広報)
* 2011年 H.23 7月 京田辺市 関西観光拠点化計画シンポジウム〜同志社大学文学部移転問題を考える パネリスト出演・小泉芳孝  
京田辺市 関西観光拠点化計画シンポジウム 京都新聞・毎日新聞に掲載された。
* 2011年 H.23 6月 毎日新聞「京の人 今日の人」に紹介される。『「竹取物語」作者を空海と推定』
(出版物)
* 2012年 H.24 2月 [[大筒木出版]]で発行『竹取物語 現代考』『マスコミ一代記 昭和・平成』<ref>[[小泉芳孝]]著『マスコミ一代記 昭和・平成』[[文理閣]]、2001年</ref>。『京田辺の史跡探訪 歴史散歩コース』発行


==インターネット放送局== 京都府発見講座
・京都eラーニング塾「“かぐや姫の里”京田辺」(第1回)京都府発見講座 2012年3月26日(月)開始
 [http://spogaku.pref.kyoto.lg.jp/movie_info.html?id=198
・京都eラーニング塾「“かぐや姫の里”京田辺」(第2回)京都府発見講座 2012年3月26日(月)開始
 [http://spogaku.pref.kyoto.lg.jp/movie_info.html?id=199
・京都eラーニング塾「“かぐや姫の里”京田辺」(第3回)京都府発見講座 2012年3月26日(月)開始
 [http://spogaku.pref.kyoto.lg.jp/movie_info.html?id=200

==関連サイト==
[http://4travel.jp/traveler/sasuraiojisan/album/10679484/日本の旅 関西を歩く かぐや姫の里・京田辺市の竹取翁博物館周辺
[http://4travel.jp/traveler/sasuraiojisan/ さすらいおじさんの旅行ブログ
[http://www.youtube.com/watch?v=qqXyKplGPEo 竹取物語の舞台は京田辺 (竹取翁博物館)
[http://www.youtube.com/watch?v=Va6uAv9lCv8 五人の求婚者は[[「壬申の乱」]]で活躍した人物
[http://www.youtube.com/watch?v=fdskPtv98dA 竹取物語の作者は[[空海]] (竹取翁博物館)
[http://www.youtube.com/watch?v=C3n_qc4T1nM 「竹取物語の語り」[[言語造形家]]の村上恭仁子さん


==出典== 『マスコミ一代記 -昭和・平成-』小泉芳孝著者紹介 [[大筒木出版]] BookWeb<ref>[[小泉芳孝]]著『竹取物語 現代考』[[大筒木出版]]、2012年</ref>。
[http://taketori.koiyk.com/ootutu-shupan.html=66zzg 大筒木出版&oldid=44855035」から取得
[http://taketori.koiyk.com/ 竹取翁博物館 京田辺市三山木直田10 竹取物語の京田辺説から作者[[弘法大師]]・空海説。[[不老不死]]の薬から除福・卑弥呼の邪馬台国展示あり。

==カテゴリ==: 古代史 竹取物語 竹取翁博物館 竹取の翁 京田辺市 筒城 かぐや姫 京田辺市郷土史会 BS京都 京都地名研究会 京都民俗 佛教大学 稲作民俗 1947年


 ''''''  [[]] ==人物== *
==人物== *]]   。<ref>[[小泉芳孝]]著『竹取物語 現代考』[[大筒木出版]]、2012年</ref>。<ref>[[小泉芳孝]]著『稲作民俗の源流 -日本・インドネシア-』[[文理閣]]、2001年</ref>。<ref>『京田辺の史跡探訪-歴史散歩コース-』小泉芳孝著「大筒木出版」、2012年</ref>

<ref>[[小泉芳孝]]著『マスコミ一代記 昭和・平成』[[文理閣]]、2001年</ref>。
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小泉芳孝

「かぐや姫の里は京田辺」 (平成24年8月1日)

 京田辺市三山木に在住の郷土史家小泉芳孝氏(KBS京都出身)によると、日本最古の物語「竹取物語」や「古事記」など関連資料を詳細に研究の結果、かぐや姫の里は京田辺と結論づけている。「古事記」の記述では迦具夜比売命の父は大筒木垂根王で京田辺説では「竹取の翁」に当たり、大筒木は古代の山城地域の旧称を示している。
 また現存する最古の写本(鎌倉時代)に、翁の家は「山本」近くに有ると記述があり、京田辺市三山木地区にあった奈良時代の交通・通信施設「山本驛」に該当すると推定した。かぐや姫ゆかりの地は奈良県広陵町や静岡県富士市など全国に10か所以上に上るが、小泉氏は諸々の検証結果より京田辺以外にあり得ないと自信をもっている。
また小泉氏は教育、学術、文化の発展に寄与する事を目的として今年の2月1日に「竹取翁博物館」を開館。博物館は古民家を再生利用、館内は土蔵や古材を生かした内装を施し「竹取物語」の舞台となった山本驛跡や筒城宮、月読神社など「かぐや姫」に関連する物や日本そして世界の民族・考古資料などを展示している。
「竹取翁博物館」はJR学研都市線、近鉄京都線夫々三山木駅より徒歩数分のところにあり土・日・祝祭日の10:00〜17:00に開館している。

竹取翁博物館
日本最古の『竹取物語』関連を展示した「竹取翁博物館」が京都府京田辺市に誕生した。舞台が山代の大筒木であり、翁の「山もと」が古代山陽道の山本駅、月読神社等と決定的な証拠を多数あげている。名誉教授の森浩一・吉田金彦ら多くの学者も「舞台とされた所」と述べられている。 竹取翁博物館 http://taketori.koiyk.com/ 日本






竹取物語発祥の地は、ここ京田辺です」と郷土史家であり館長の小泉芳孝さん。竹取物語にまつわる古文書、研究文献、絵画、写真など数多くの資料に基づいて京田辺が”かぐや姫の里”であると確信するに至りました。市内には竹取物語にゆかりがある旧跡がいくつかあります。研究員の青井さんに道案内をしていただきました。

日本最古の『竹取物語』関連を展示した「竹取翁博物館」が京都府京田辺市に誕生した。舞台が山代の大筒木であり、翁の「山もと」が古代山陽道の山本駅、月読神社等と決定的な証拠を多数あげている。名誉教授の森浩一・吉田金彦ら多くの学者も「舞台とされた所」と述べられている。 竹取翁博物館 http://taketori.koiyk.com/ 日本

竹取翁博物館 竹取の翁 7月12日更新
 日本最古の物語『竹取物語』関連を展示した「竹取翁博物館」が2012年2月1日に京都府京田辺市三山木直田10に誕生しました。舞台が山代の大筒木であり、翁の「山もと」が古代山陽道・山陰道の山本駅、月読神社等と決定的な証拠を多数あげています。同志社大学名誉教授の森浩一先生・京都地名研究会会長で姫路獨協大学名誉教授の吉田金彦先生ら多くの学者先生方も「舞台とされた所」と述べられています。
竹取物語の舞台となった山本駅跡や筒城宮、月読神社など「かぐや姫」に関連する物。日本や世界の民俗考古資料などを展示。古民家を再生利用!土蔵や古材生かした内装!!国民の教育、学術、文化発展に寄与する。平和・猪突猛進・大筒木出版・スカイハイツ三山木を経営。


日本最古の『竹取物語』関連を展示した「竹取翁博物館」が京都府京田辺市に誕生!!

 日本最古の物語『竹取物語』関連を展示した「竹取翁博物館」が2012年2月1日に京都府京田辺市三山木直田10に誕生しました。舞台が山代の大筒木であり、翁の「山もと」が古代山陽道・山陰道の山本駅、月読神社等と決定的な証拠を多数あげています。同志社大学名誉教授の森浩一先生・京都地名研究会会長で姫路獨協大学名誉教授の吉田金彦先生ら多くの学者先生方も「舞台とされた所」と述べられています。

http://4travel.jp/traveler/sasuraiojisan/album/10679484/日本の旅 関西を歩く かぐや姫の里・京田辺市の竹取翁博物館周辺
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ロマンあふれる“かぐや姫の里” 京田辺市の竹取翁博物館 
             大阪府枚方市 今中哲男   2012年11月12日

 京田辺市は竹取物語の舞台となったとされる山本駅跡、月神信仰に基づく月読神社、「不死の山」とされる甘南備山、継体天皇の筒城宮、などかぐや姫にまつわる歴史遺産が多い場所です。
 竹取翁博物館館長の小泉芳孝さんは種々文献などの研究をされ、“かぐや姫の里”は京田辺であると確信され、竹取翁博物館館を2012年2月に設立されました。古民家を再生利用した博物館には「かぐや姫」に関連する資料のほか日本や世界の民俗考古資料などが展示されており、竹取翁博物館は京田辺市だけでなくアジアの新たな歴史・文化・文学などの研究の拠点のひとつになるかもしれません。
 かぐや姫が5人の貴族の求婚を難題を出して退け、最後は帝の求婚までも断って月に帰って行く物語が語りつがれてきたのは、農民たちを重税で苦しめる思い上がった貴族社会を風刺した痛快なお話だからかもしれません。京田辺の竹から生まれ育ち月に帰った舞台が京田辺で、京田辺の農民たちのうっぷんを晴らした説話だと考えながら竹取物語を読むと、壮大なロマンの世界が現実の場所とマッチして広がり、かぐや姫ゆかりの月読神社、甘南備山、継体天皇の筒城宮、山本駅跡など訪ねてみたくなります。
 竹取翁博物館は近鉄、JRの三山木駅(みやまきえき)から徒歩2−3分の便利な場所にあり、是非一度訪問され同時にかぐや姫ゆかりの場所を訪ねロマンの世界を堪能されることをお勧めします。



竹取翁博物館は、これらの論考と共通しているだけに大変注目しています。小泉館長は、数十年前に『稲作民俗の源流 -日本・インドネシア-』を出版された。この本について京都府立大学総長で文献学の権威である故 門脇禎二名誉教授から「脱帽です…」という手紙が届いたらしい。小泉館長は、信頼している大先生から何故なのか判らなかったらしい。それで、その後に取材に伺った時にそのことを伺うと、「私は常々学生に、机上の空論をするのでなく現地へ行き足で歩いて調べるよう話している。君は、それを実現したから…」と話されたという。そして、その時に「先生は次々と本を出されておられるが、私など壁に突き当たるとストップしてしまい進まなくなりいつまでたってもまとまらない。どの様にすればよいのか」とお聞きすると、「部屋ごとに資料を分けて原稿を書いている。壁に突き当たった時は、他の部屋で書き進んでいるものをやり、その後資料や良い文章が見つかれば元の部屋に戻って書く」と話されたという。
 小泉館長は最近、日本人のルーツがイスラエルの12部族と判った。さらに、邪馬台国に終止符と大胆な説を述べ、卑弥呼の「邪馬台国が徳之島だ」と現地を調べ判明したと驚くべき説を述べておられる。門脇先生の教えである「現地に出向き歩いて調べ」られ「多事同時進行」を心がけておられることに敬意を表したい。私は、常々「継続は力なりですね」と小泉館長にお話している。       
                    (日本ペンクラブ、日本文芸家協会などの会員) (株)ギルガメシュ 石田天祐


 長年の研究、調査の結果、京田辺はかぐや姫の里に                      

「竹取翁博物館」は、館長の小泉芳孝氏が長年の研究、調査の結果、彼の住む京田辺市三山木の「山本」集落が、竹取物語の舞台だと推定されるということで、20年ほど前から彼を中心に「かぐや姫の里」として間違いないとの確信で、地元の郷土史会などで発表されて以来、こつこつと調査、研究の成果を各種古文書や絵図などから立証され、念願の展示公開の場として自宅と隣接する和風住居などを利用して、今年2月に開館されたのである。

 小泉芳孝さんは、長年放送関係の会社に勤務されつつ、全国各地と中国、インドをはじめ世界を旅されながら、かぐや姫に纏わる古文書、絵図だけでなく、シルクロード、稲作民族俗の源流、日本の神社神道、日本とユダヤ同祖論、世界の宗教、柳田民俗学の遠野などにも幅広い興味と調査、研究をされてきた方なので、今回初めて拝見した博物館の展示物を案内していただいただけでも、語り尽くせないほどの諸説、解説をして下さった。

http://blog.goo.ne.jp/gulliver2004/e/3d816c9984dd2c032d9ddc7305715c35 最初はgooブログ自然派・ガリバー通信 2012年02月17日 





竹取翁博物館は、日本最古の物語である『竹取物語』の舞台となった有力地にある博物館です。”かぐや姫の里”京田辺は、20年ほど前に京田辺市郷土史会員らによる研究の成果によって発表!! 奈良時代より遙かに古い歴史がある筒木(筒城)を背景に”かぐや姫の里”と発表! 古事記の開化天皇の孫「大筒木垂根王(おおつつきたりねのみこ)」とその娘「迦具夜比売命(かぐやひめのみこと)」の名をはじめ、「竹取の翁の家は山本の近くにある」ことなど地元の絵図や古文書などから実証。その成果を広く皆さんに公開する為に設けられました。場所 京都府京田辺市三山木直田10番地 電話0774−62−2522

住所:京都府京田辺市三山木直田
電話番号:0774-62-2522
FAX番号:0774-62-2522
営業時間:開館日時:土・日(10:00〜17:00)
祝・祭日(10:00〜16:00)

定休日・休館日など:休館日:盆・正月。月〜金(団体見学は、ご相談下さい)

平均予算:入館料:大人500円、高大生300円、小中学生・子供200円
(団体10名以上1割引、20名以上2割引、障害者手帳持参の方2割引)



履歴書」等の概要 2011年10月3日現在
※1947年( S. 22年)男・女12月 13日生
2011年4月1日現在満64歳
本籍地 京都府
氏 名 小泉芳孝
ふりがな キョウトフ キョウタナベシ ミヤマキ ジキデン10バンチ
現住所〒610−0313 京都府京田辺市三山木直田10番地
電話 (0774) 62 − 2522  

学歴職歴等の項目別 ※西暦 元号    学 歴 ・ 職 歴 卒業・修了・
中退の別
年 年 月
自      (学  歴)
自1966年 S.41 4月 日本写真専門学校 映画TV技術学部  卒業
至1968年 S.43 3月
自1979年 S.54 4月 近畿大学 法学部 法律学科(法学士) 卒業
至1983年 S.58 3月
自1986年 S.61 4月 佛教大学 文学部 史学科 日本史専攻(文学史) 卒業
至1988年 S.63 3月
自      (職  歴)
自1968年 S.43 4月 大阪映画株式会社 撮影部
至1969年 S.44 8月
自1969年 S.44 9月 葛゚畿放送(現京都放送)報道部、放送記者兼カメラマン
自 葛椏s放送報道制作局テレビ・ラジオディレクター、プロデューサー他歴任
自1994年 H.6 4月 学生マンション「スカイハイツ三山木」オーナー兼管理人
自2011年 H.23 8月 「大筒木出版」経営、代表
自2012年 H.24 2月 “かぐや姫の里”京田辺「竹取翁博物館」開館、館長
自       (諸団体)
自 (社)日本映画テレビ技術協会 正会員
自 関西写真記者協会 会員
自 関西運動記者クラブ 会員
自 京田辺市郷土史会理事 会誌「筒城」に多数投稿執筆



学歴職歴等の項目別 ※西暦 元号       学 歴 ・ 職 歴
(S.H.)
年 年 月
自         (諸団体)
自 京都地名研究会常任理事 広報担当
自 京都民俗学談話会 会員 
自 山城郷土資料館友の会 会員
自        (免許・資格)
自 博物館学芸員資格
自 茶道裏千家 正引次
自 潜水士免許
自 米国USA PADIダイバーライセンス
自 電話級アマチュア無線技士免許 JF3HUY
自 1級小型船舶操縦士免許(海技免許証)
自 普通一種運転免許

「竹取翁博物館」の館長「業績書」        2011年 10月 3日現在
氏名          館長 小泉芳孝 学位 法学士 文学士
取得年月 ※58年  3月 ※63年 3月

項目別 ※西暦 元号      論 文 ・ 著 述 ・ その他
年 年 月
          (著   書)
2001年 H.13 2月 『稲作民俗の源流ー日本・インドネシアー』文理閣
2001年 H.13 9月 シンポジウム小冊子『竹取物語』“かぐや姫”京田辺 制作 京田辺市郷土史会
2005年 H.17 4月 『京都の地名検証』(筒木・山本・飯岡・天王・甘南備山)勉誠出版
2007年 H.19 1月 『京都の地名検証2』(三山木)勉誠出版
2003年 H.15 3月 「地名探研」創刊号『竹取物語』“かぐや姫の里”京田辺京都地名研究会
2003年 H.15 10月 京都地名研究会別冊1号 シンポジウム「秘められた南山城の地名を探る」制作
      (論文・著述・その他)
1990年 H.2 12月 京都民俗8号「京田辺町『佐牙神社』の宮座」 京都民俗学談話会会誌
1991年 H.3 3月 筒城第36輯「山背国綴喜郡山本駅と古代駅制について」田辺郷土史会
1991年 H.3 12月 京都民俗9号「神社以前の祭祀ーオハケと御仮屋について」京都民俗学談話会会誌
1993年 H.5 3月 筒城第38輯「南山城、山本の宮座と講」田辺郷土史会
1994年 H.6 3月 筒城第39輯「南山城、山本の宮座と講その2」田辺郷土史会
1995年 H.7 3月 筒城第40輯「南山城、山本の宮座と講その3」田辺郷土史会
1995年 H.7 12月 京都民俗13号「例祭の古式神饌について」京都民俗学談話会会誌
1996年 H.8 3月 筒城第41輯「南山城、山本の宮座と講その4」田辺郷土史会
1996年 H.8 12月 京都民俗14号「例祭の古式神饌について(その2)」京都民俗学談話会会誌
1997年 H.9 3月 筒城第42輯「南山城、山本の宮座と講その5」田辺郷土史会


1997年 H.9 12月 京都民俗15号「神々の島“バリ”の民俗儀礼」京都民俗学談話会会誌
1998年 H.10 3月 筒城第43輯「山本村の寺院・民俗」京田辺市郷土史会
1999年 H.11 3月 筒城第44輯「神々の島“バリ”紀行ー民俗儀礼を中心にー」京田辺市郷土史会
2001年 H.13 3月 筒城第46輯「竹取物語発祥の地は京田辺」「大般若経修復(六百巻)完成」京田辺郷土史会
2001年 H.13 7月 京都新聞記事に小泉芳孝紹介。「私の研究、地元とともに」竹取物語を通して見える地域
2001年 H.13 9月 シンポジウム『竹取物語』かぐや姫の里は京田辺だった!司会・小泉芳孝 主催・京田辺市郷土史会 後援・京田辺市教育委員会・京都新聞社・竹資源活用フォーラム
シンポジウム記事掲載社・京都新聞・読売新聞・広報・きょうたなべ・洛南タイムス・NHKニュース
2001年 H.13 9月 KBS京都ラジオ「笑福亭晃瓶のほっかほかラジオ出演」        京田辺が「かぐや姫」伝承地であり『竹取物語』発祥地であることを紹介
2001年 H.13 9月 KBS京都TV「田淵の岩夫の特ダネ!」京田辺が「かぐや姫」伝承地であり『竹取物語』発祥地であることを紹介
2001年 H.13 9月 「かぐや姫の里・京田辺」の歌、作詞・作曲 
2001年 H.13 9月 『竹取物語』“かぐや姫の里”京田辺 京田辺市郷土史会
2001年 H.13 11月 第36回京田辺市民文化祭で成果発表 京田辺市体育館 京田辺市郷土史会
2002年 H.14 10月 市民のための「三山木地区特定土地区画整理」構想「市民参加の町づくり」三山木駅前区画整理の街づくり構想計画 冊子 作成
2002年 H.14 3月 筒城第47輯「『竹取物語』発祥の地は京田辺その2」「飯岡トヅカ出土の『神人車馬画像鏡』は中国製か」「円面硯・斎串と翡翠製の勾玉」京田辺市郷土史会
2003年 H.15 3月 筒城第48輯「『竹取物語』かぐや姫の里“京田辺”」「三山木駅前周辺を歴史・文化ゾーンに 京田辺市歴史民俗資料館(歴史博物館)の早期建設を要望」京田辺市郷土史会
2003年 H.15 8月 ハウジングマガジン雑誌『ぴゅあはうす』「隼人の民がルーツ!?かぐや姫の里」に紹介
2004年 H.16 3月 筒城第49輯「『竹取物語』かぐや姫の里“京田辺”の活動経過」「竹取物語ゆかりの筒木について」「飯岡の七井戸について」京田辺市郷土史会
2004年 H.16 8月 「隼人サミット」シンポジウムのパネラー出演、鹿児島県隼人町・教育委員会
2004年 H.16 8月 「隼人サミット」『講演・シンポジウム録』 投稿・隼人町教育委員会
2005年 H.17 3月 筒城第50輯 第39回京田辺市民文化祭展示発表「かぐや姫の里」京田辺市郷土史会
2005年 H.17 9月 『エプタ』雑誌23号「日本昔話の世界で、京田辺市が「かぐや姫発祥の地」と紹介される。


2006年 H.18 10月 毎日新聞掲載「古代の駅・山本駅」竹取翁の家説 
2007年 H.19 3月 筒城第52輯 「『竹取物語』発祥の地は京田辺その3」「新島襄ゆかりの『南山義塾跡』石碑の保存を」「京田辺市『三山木』の地名起源について」史跡探訪ふるさと史跡探訪マップ』松井・大住周辺“歴史散歩コース”京田辺市郷土史会
2007年 H.19 6月 毎日新聞掲載 図書館教育ニュース「学校壁新聞に掲載」『竹取物語』の京田辺市発祥地説を掲載「古事記に名前」信憑性ありと判断
2008年 H.20 3月 筒城第53輯 「臨済宗大徳寺派の寺『酬恩庵一休寺』」「一休宗純禅師の足跡」「竹取物語ゆかりの筒木について」「朱智社の飛天と筒木の絹織物〜多々羅は、日本発の養蚕飼育所〜」「天王地区の地名と歴史について」京田辺市郷土史会
2009年 H.21 3月 筒城第54輯 史跡探訪「ふるさと史跡探訪マップ」田辺・河原周辺“歴史散歩コース”京田辺市郷土史会
2009年 H.21 6月 第75回きゅうたなべ倶楽部情報交換会「京田辺とかぐや姫伝説について」ゲスト出演
2009年 H.21 6月 京田辺市商工会青年部会「竹取物語京田辺説について講演」                      「三山木周辺の社寺などの歴史について」
2010年 H.22 2月 京都eラーニング塾 ホームページ(動画配信)「“かぐや姫の里”京田辺」講師出演 @『竹取物語』発祥の地は京田辺A『竹取物語』の成立B飛天の絹織物と神仙思想の里(各40分程)
2010年 H.22 2月 京都eラーニング塾 紹介記事 (読売新聞・京都新聞・毎日新聞・洛南タイムス・京田辺市広報)
2011年 H.23 7月 京田辺市 関西観光拠点化計画シンポジウム〜同志社大学文学部移転問題を考える パネリスト出演・小泉芳孝  
京田辺市 関西観光拠点化計画シンポジウム 京都新聞・毎日新聞に掲載された。
2011年 H.23 6月 毎日新聞「京の人 今日の人」に紹介される。『「竹取物語」作者を空海と推定』
(出版物)
2012年 H.24 2月 大筒木出版で発行『陸のシルクロード』『竹取物語 現代考』『マスコミ一代記』
『京田辺の歴史散歩』発行
2012年 H.24 7月 大筒木出版で発行『海のシルクロード』発行予定
2012年 H.24 12月 大筒木出版で発行『世界遺産』発行予定

 『竹取物語』の作者は、弘法大師・空海だった!!

今年から始めた『竹取物語を語る会』臨時勉強会実施!!
  ●かぐや姫の里は、京田辺 の論理展開
  ●作者、空海説 の調査
  ●景教、徐副の調査 およびそれらがもたらした文化
さらに今後
●ヤマト政権、卑弥呼  の研究を進めていく。
これに注目した、ある大学のグループが博物館の取材を重ね、『竹取物語の作者は空海』を制作している。数回にわたる撮影や、語る会の勉強・研究会の様子を取材していった。


 竹取物語発祥の地は、ここ京田辺です」と郷土史家であり館長の小泉芳孝さん。竹取物語にまつわる古文書、研究文献、絵画、写真など数多くの資料に基づいて京田辺が”かぐや姫の里”であると確信するに至りました。 
 同館では、開館に先立つ2年余り前の2010年10月頃から『竹取物語』の作者が弘法大師・空海であると述べて来ました。上記のように大学生が竹取翁博物館のホームページを見て取材し、『竹取物語の作者は空海』を制作されました。若い人達らによる活動は、これからの博物館にとっても有意義なことです。

 竹取翁博物館は、これらの論考と共通しているだけに大変注目しています。最近は、小泉さんが邪馬台国の徳之島説まで研究され「邪馬台国論争に終止符!!」を打ち出しておられ、竹取物語の論述に続き卑弥呼の邪馬台国論術でも世間をアット言わせる時が来るのも間近となりましたね。もうこの勢いは閉まりませんね、まさに「継続は力なり」ですね。
 
 個人が博物館法に規定された本格的な博物館施設を生きている間に造るという快挙は、例がないのではないかと思われます。通常は、偉大な方がお亡くなりお孫さんや有志らが法人化して造られるケースが多い。小泉館長は、博物館の開館と同時に展示解説書を兼ねた『竹取物語 現代考』、地元京田辺市の歴史を全て網羅した『京田辺の史跡探訪』、高校時代カメラマンを目指して京都放送に就職、そして退職後に博物館を建てる迄を記した『マスコミ一代記』という3冊の立派な著書も開館と同時に出版された。


 博物館をご案内していただいた時の第一印象は、テレビ局に勤務されながら、ここまで長く民族学研究を続けてこられた彼のひたむきさに感嘆しました。多くのテーマを研究されてこられた中で、かぐや姫にテーマを絞り、私費を投じて博物館を建てられたこの執念には驚きを感じずにはいられません。更に、彼の研究は自身の手足で収集された情報に基づいていることに一つの信念を感じました。このフィールドワークの原点はカメラマン人生にあることが、「マスコミ一代記」を拝読して理解できました。私たちの最初の接点が何故インドネシアの空港であり、当時、トラジャの少数民族の現地調査からの帰りであったというのも納得できました。全くの畑違いの私たちが少数民族への関心という接点でお知り合いになったのも何かの縁かもしれません。


朝日新聞に京田辺(厳密にはJR三山木駅近く)に「竹取物語の館」がオープンしたとの記事があり、野次馬的興味本位に昨年4月末に訪問させていただいた。

小泉館長の熱のこもった説明が、どれも新鮮に聞こえる。何しろこちらの「竹取物語」に関する知識は、おとぎ話の「かぐや姫」の物語に、受験勉強で少し出てきた古文の一節ぐらいの知識でしかないため、奥の深い話にのめりこんで行ってしまった。

古文書や種々の学説、5人の貴公子とそれに課せられた無理難題が、当時として非常に意味のある事など、考えてもみなかった驚きである。

また日本の皇族の起源に関する説明で。皇族行事や京都で現在も行われている儀式・行事がユダヤ文化を基にしているのではないかと言う説や、物部氏や大住の隼人の由来等興味尽きない。

そして圧巻は「竹取物語」の作者(学校では作者不詳と習ったが?)探求に至り、ついつい納得してしまう。あっという間に1時間半がたった気がした。

7月に再度訪れた時は、少し展示内容も変わっており、話が「邪馬台国」の場所探しと言うミステリアスな領域で、話が一段と盛り上がった。徐福が二度目に日本にたどり着いた地点が、彼の記から徳之島と言うのは驚きの感がある。史記に出てくる徐福の話は私も記憶していたが、日本における徐福伝説の広がりにはあまり関心がなかった。館長の説明で、徐福の記述を江戸時代の学者新井白石が誤った解釈をしたため、邪馬台国が近畿圏にあったという説が大勢を占めるに至った、と言う点は今後の検証が必要だろうが、ロマンがまた広がったように思える。

インターネット放送局>京都府発見講座>
 
・京都eラーニング塾「“かぐや姫の里”京田辺」(第1回)
  京都府発見講座 2012年3月26日(月)開始
 http://spogaku.pref.kyoto.lg.jp/movie_info.html?id=198 ←クリック放映中
・京都eラーニング塾「“かぐや姫の里”京田辺」(第2回)
  京都府発見講座 2012年3月26日(月)開始
 http://spogaku.pref.kyoto.lg.jp/movie_info.html?id=199 ←クリック放映中
・京都eラーニング塾「“かぐや姫の里”京田辺」(第3回)
  京都府発見講座 2012年3月26日(月)開始
 http://spogaku.pref.kyoto.lg.jp/movie_info.html?id=200 ←クリック放映中
 
  
竹取翁博物館大筒木出版 「国際かぐや姫学会」
  場所:〒610-0313京都府京田辺市三山木直田10 代表者小泉芳孝
  JR片町線「JR三山木駅」東へ徒歩3分  近鉄京都線「三山木駅」東へ徒歩2分
  
TEL・FAX 0774-62-2522 携帯 090−6961−9391
  HP http://taketori.koiyk.com/
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