@邪馬台国は「徳之島」だった!?
2012/6/26(火) 午後 3:24
邪馬台国は「徳之島」だった!? 『魏志倭人伝』に記す「南水行十日陸行一月」は、真ん中に「又」が無く「投馬国から南へ水行十日(+)陸行一月」。年中温暖「海南島」と同じ気候、裸足で入墨、長寿の島。
九州説の「放射線式」読み方が正当化されても「水行10日 陸行1月」からは、どうしても九州を遥かに越えて南下してしまう。徳之島へは多くの南西諸島の島々を船に乗っては島に上陸して歩いたり、又、船に乗っては島に上陸して南下していけば良いのであるから「水行10日 陸行1月」を見ておかねばならず、邪馬台国徳之島の位置は自ずと徳之島辺りに位置していると言えよう。[28]
。天城町の天城岳の麓にある松原神社は、かつて遣唐使船が水を供給する為に立ち寄ったという航海安全の守り神とされていて、南西諸島から中国へ行く南海航路が存在していた。[29]。
取材お問合せ「竹取翁博物館」
※小泉芳孝(博物館学芸員)。京都府京田辺市三山木直田10 0774-62-2522 まで…
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邪馬台国徳之島説(ウィキペディア小泉2013.8.19版)
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邪馬台国徳之島では、、徳之島の伊仙町を中心とした奄美一帯の徳之島 邪馬壹国説が益田宗児著[20]により発表されている。
1. それによると魏志倭人伝に記す卑弥呼の邪馬台国は、帯方郡(ソウル)から東南に直線距離で女王國まで12,000余里にあり、中国のニンポー(寧波)から真東に交わる大海にあるとされている。益田宗児は、九州王朝説を唱えた古田武彦よりも遥か南方の「太平洋上の大海に浮かぶ島」にあるとする徳之島説をとっている。つまり、伊都国の唐津からほぼ南へと魏志倭人伝に記述している南方方角であるとしている。また、陶芸家の中武久[21]や伊仙町観光協会の会長伊信貴それに民俗学の小泉芳孝も魏志倭人伝や中国の史書に記す方位から「太平洋上の大海に浮かぶ島」と述べておられる。さらに小泉芳孝は、方位以外に邪馬台国と対立した狗奴国を沖縄(琉球)の勢力と比定し徳之島説を強調している。[22]。 畿内説の内藤湖南は、朝廷と熊襲が激しく衝突したことから狗奴国を熊襲とし黒潮に載ってやって来た狗奴国を琉球の勢力と見てもよいだろう。
2. 魏志倭人伝中で邪馬台国の埋葬方法を記述した『有棺無槨』を土葬墓と見なす見解に基づけば、奄美地方一帯の徳之島に土葬墓が多数出土し数年後に掘り起こして海の水で骨を洗って追葬している。当時の徳之島地方は一般的に風葬という埋葬方法とされているが間違っている。これらから日本人本来の古代から続いている土葬墓が続いていて古くから巳の方角に葬る「巳葬」の風習がある。
3. 卑弥呼以降の邪馬台国は、卑弥呼の女王から男王に変わったあと、トヨが政権を取り治まったとされている。その後の歴史については何処にも記されていないので判明しないが、おそらく南西諸島を北上して九州から畿内へ行きニギハヤヒノミコトの物部氏が最初に奈良に来て、その後に神武天皇あたりが東遷し畿内を制圧したと見られるのである。九州からの東遷説は神武東征をその事実の反映と見られることから、『隋書』の記述が現存する記紀神話とつながり『古事記』・『日本書紀』への神話を根拠とする実在説でまとまる。
4. 小さな島で一般に古代の歴史が存在しないとされる徳之島では、邪馬台国が7万余戸とあるのは「多すぎるのではないか」と多くの人達に指摘されている。しかし、魏志倭人伝の記述から 奴国2万余戸、投馬国5万余戸、邪馬台国7万余戸、更に狗奴国といった規模の集落が唐津からほぼ南方に記されているのを前提にして。秦の始皇帝が除福に命じて不老不死の薬を捜しに蓬莱山など三山を目指して工人や童男童女ら3000人を数十隻の船に載せてきたのは、中国で古くから貨幣として使われていた子安貝の交流がある南西諸島にあり、それらを知っていた除福が目指したのであり、その400年後に邪馬台国が7万余戸になっても蓬莱竹のある不老不死の蓬莱山である徳之島なら決して可笑しくない。小泉芳孝は、除福が徳之島に移住して来て、400年間にわたる地元民との混血によって不老不死の老化防止効果が科学的に証明された水で稲作技術など100人の工人らにより集落が営まれたならば「7万余戸の卑弥呼の邪馬台国が誕生したとしても不思議ではない」と述べている。
5. 徳之島周辺を眺めれば古代遺跡から大量に採取されている「子安貝」が、中国の殷王朝時代から貨幣として使われていた事実があり相当古くから水先案内人らによる中国との交流があったと考えられる。ゆえに、秦の始皇帝が除福に命じ不老不死の薬を捜しに蓬莱山など三山を目指して100人の工人や2000人の童男童女らを船に載せ最初に日本を目指したのも蓬莱竹のある蓬莱山(徳之島の3岳)であったのである。たた単に不老不死の薬を探しに行くのに2000人の童男童女は必要ないのである。故に、除福は、秦の始皇帝に除福村が滅ぼされると察知して一家もろとも日本への移住を目指したと考えられるのである。現在、徳之島の数カ所にある岩石に刻まれた線刻画には、船やヤジリ、大魚、それに「山」の文字などがあり、大陸から渡ってきた工人らにより刻まれた物と見られている。[23]。 徳之島は、ギネスブックに載った世界最長老の泉重千代さんがいて老化防止の水(科学的に証明されている。)[24]。がある所から不老不死の島「徳之島」だったと考えられる。[25]。
6. 現在までに徳之島では、3世紀の紀年銅鏡は見つかっていないが天城町に松原銅山跡が現存しており今後発掘が行われれば、関連した何かが出てくるかも知れない。森浩一は、古墳時代は4世紀から始まるとする当時の一般的な理解にしたがい「三角縁神獣鏡はヤマト王権が邪馬台国との関係を顕示するために偽作したものだ」とする見解を述べておられる。故に、銅鏡による邪馬台国論説の整合性を述べるのには、まだまだ時間を要するであろう。
7. 一方、九州説の「放射線式」読み方が正当化されても「水行10日 陸行1月」からは、どうしても九州を遥かに越えて南下してしまう。徳之島へは多くの南西諸島の島々を船に乗っては島に上陸して歩いたり、又、船に乗っては島に上陸して南下していけば良いのであるから「水行10日 陸行1月」を見ておかねばならず、邪馬台国徳之島の位置は自ずと徳之島辺りに位置していると言えよう。[26] 。天城町の天城岳の麓にある松原神社は、かつて遣唐使船が水を供給する為に立ち寄ったという航海安全の守り神とされていて、南西諸島から中国へ行く南海航路が存在していた。[27]。
8. 邪馬台国の魏志倭人伝に記載された吉野ヶ里遺跡は、銅鐸や銅鐸の鋳型が出土ししていて邪馬台国より強大な国があったとしても、時代が弥生時代であることからシャーマンという卑弥呼がいて「国が治まった」とされている。これらから九州に邪馬台国がなくても良いと言えよう。徳之島には、古くからユタ[28]やノロと言われる松原神社の斎主(シャーマン)松堂久邇がいて現在も現存している。[29]。 この他、魏志倭人伝に記す「入れ墨」をして「裸足」で歩いていた人達がいて最近まで存在していたようで卑弥呼の邪馬台国にふさわしい証拠が他にも多数存在している。[30]。[31]。
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