『ふるさと史跡探訪マップ』  

    三山木周辺“歴史散歩コース” 

                   京田辺市郷土史会「出版部会」

 京都府南部の京田辺市は、古くから栄えた地域である。しかし、私たちが学校の歴史の中で
学んだものの中には殆んど出てこない。
 京田辺市には、山崎神社に伝わる縄文時代の石棒をはじめ、卑弥呼の時代の「高地性集落」、
また渡来人がもたらしたとされている『古事記』奴理(ぬり)能美(のみ)の家の養蚕や多々羅の鉄製造、
大筒木(おおつつき)
垂根(たりねの)王之女(みこのむすめ)迦具夜(かぐや)比売(ひめの)(みこと)や大住隼人(はやと)
らの『竹取物語』の里、継体天皇の「筒城宮(つつきのみや)」に関連した古墳などがある。

 また、奈良から平安時代にかけては、古代交通路の官道筋として「山本駅」が設けられたり、
木津川の水運による物資の輸送などがある。
 社寺仏閣においては、延喜式内社の神社も多くあり、お寺においては普賢寺の観音寺や一休寺、
寿宝寺などがある。明治の廃仏毀釈以前までは、現在の三倍もの寺があったようである。

 これら京田辺市内の歴史や文化財を市民の皆さんに知ってもらい、また気軽に散歩できる道しるべ
のような地図を作ることにした。
 今回は、三山木周辺の山本区「寿宝寺」、飯岡区「古墳群」、同志社大学「筒城宮」周辺を一日で
歩ける“歴史散歩コース”を取り上げる。
 

三山木周辺“歴史散歩コース”

近鉄京都線「三山木駅」・JR学研都市線「JR三山木駅」→山本集落→寿宝寺・山本駅の碑・佐牙神社
の御旅所→駅鈴出土地・条里制と山本駅の石碑→佐牙神社「上の大神宮・下の大神宮」→飯岡古墳群
→咋岡神社→木津川・飯岡の渡し場跡穴山梅雪墓→西方寺→田辺天神山遺跡・筒城宮跡伝承地・
同志社大学歴史資料館・下司古墳(同大構内)→近鉄京都線「三山木駅」・JR学研都市線「JR三山木駅」

近鉄・三山木駅をスタートして少し歩くと「山本」の集落がある。中世の環濠集落と見られる民家横の
小川沿いを東に進み、左折すると寿宝寺にたどりつく。門前の右手に「和銅四年設定山本駅旧跡」と
書いた
碑が建っている。
 寺には、重文指定の十一面千手千眼観世音菩薩が収蔵庫に入っていて拝観することが出来る。
この観音は、実際に千の手を持っていてすべての人々の苦しみを救ってくださるありがたい菩薩である
 門前左には、佐牙神社の御旅所があり例年十月に佐牙神社からここまで神輿渡御した夜に「湯立
て神楽」が行われる。この「百味と湯立て」行事は、京田辺市の文化財に指定されている。

この付近は、大宰府へ続く古山陽道の山本駅が設置された場所で「鈴・荒馬・道中・桜田」などの
地名があり、また
府道を少し東へ行き右折すると駅鈴の出土地などもあって古代のおもかげが残存
している。

  木津川の堤防近くまで府道を東へ行くと左手に小さな木の祠が二つ見え、ここは、かつて佐牙神社
があった「上の大神宮・下の大神宮」である。

その農道を北に進むと小高い丘が前方に見え、この丘陵一帯は、飯岡古墳群といい継体天皇に
関係する人達の墳などがある。飯岡古墳群の頂上には、薬師山古墳があり石仏が祀られていて、
この高台からの眺めは京都市内を始め京田辺市一帯を一望に見渡すことが出来る。

すぐ近くには、ゴロゴロ山古墳、弥陀山古墳があり、東に少し下った所に飯岡東原古墳がある。
さらに木津川堤防まで下ると飯岡の渡し場跡の石碑や用水路を作った豊田翁の碑がある。

少し下った所を左手に進むと飯岡集落の咋岡神社が見え、その右手を下ると「トヅカ古墳」と
「塚古墳」がある。トヅカ古墳からは、「神人車馬画像鏡」などの鏡が出土している。


元きた道を戻りさらに西に進むと右手に飯岡車塚古墳があり、左手の飯岡墓地に穴山梅雪の五輪
塔墓がある。また、右手の坂を登っていくと西方寺がある。この寺は、(たい)(ちゅう)上人が念仏強化の
ため各地を巡錫した時、瓶原より木津川を下りこの地を訪れて一宇をひらいたといわれている。

この付近から西方を望むと高台には、同志社大学の近代的な建物が見え、その右後方の頂上に
甘南備山が見える。

最後の訪問予定地の同志社大学までは、少し距離がある。田んぼの畦道か普賢寺川の堤防道を
歩いて行くと高木集落があり、正覚寺と南山義塾跡を巡って行くことができる。同志社大学の正門に
つくと、後方の田辺天神山遺跡、門を入った右手の継体天皇「筒城宮址伝承地」を巡り、また同大歴史
資料館
に寄って、同大名誉教授の森浩一氏らが発掘した多くの遺物を見学するといい。時間があれば
大学構内の南側丘陵地に保存されている下司古墳群も一見の価値がある。これら学内にある遺跡は、
教材として生かされていて、広く一般市民にも公開されている。

また、神功皇后神話に興味のある人は、近鉄京都線「興戸駅」・JR学研都市線「同志社前駅」へ行く
途中に「鉾立杉」があるので寄ってみるとよい。

 

飯岡トヅカ出土の「神人車馬画像鏡」は、中国製か

                    京田辺市郷土史会 小泉芳孝

 

三山木周辺“歴史散歩コース”の飯岡古墳群は、前期の飯岡車塚古墳、中期の薬師山古墳、
ゴロゴロ山古墳、弥陀山古墳、トヅカ古墳、後期の飯岡東原古墳、飯岡横穴と古墳時代を通
じて多くの古墳がある。

山城町で発掘された鏡として椿井大塚山古墳の「三角縁神獣鏡」が有名であるが、
京田辺市の「トヅカ古墳」からは、銅鏡3面「神人車馬画像鏡」「神人歌舞画像鏡」
「変形一神四獣鏡」、句玉・菅玉、馬具など多数が副葬品として出土している。この
「神人車馬画像鏡」などは、明治七年頃に発掘されていて京都国立博物館に現在
展示されている。このうち「神人車馬画像鏡」の内区には、絶世の美女として知ら
れる道教の神仙・西王母と従者、四頭立て車馬と二頭立て車馬出行、山岳などの
画像がみられるほか、銘文に「□氏作鏡四夷 多賀国家人民息・・・(以下略)」が
記されている。

 西王母と東王父は、中国の神話上の中心的人物とされ、西王母は不老不死の
薬をもって永遠の若さを保ちながら人の世の生命を司っているとされている。

 

この鏡について同志社大学講師の中村潤子氏は、

古墳の年代が五世紀頃で直径二十メートルの円墳とされ、出土した「神人車馬
画像鏡」「神人歌舞画像鏡」は、中国の三国時代(魏呉蜀)二世紀から三世紀の
後漢時代のもので中国山東省の墓石にある浮き彫りに似ている、と説明された。
(平成十二年「いま南山城の古代史がおもしろい」シンポジウムのメモから)

 

また、昭和五十七年の『田辺町埋蔵文化財調査報告書 第三集』によると、
径二十メートル高さ三、五メートルの円墳で葺石・埴輪とともに存在。副葬品に
鏡三面、勾玉二、管玉・小玉多数、鹿角製装具付刀剣、馬具(轡・杏葉)。鏡は
踏み返し鏡の「神人車馬画像鏡」「尚方作神人画像鏡」と?製鏡の「変形一神
四獣鏡」の三面。築造年代五世紀後半。と記されている。

 

以上のことから、私は「神人車馬画像鏡」について次のように考察した。

 

この鏡とほぼ同じ中国の「神人車馬画像鏡」(画像を参照)は、後漢の後半に
揚子江流域で制作された鏡とされ浙江省紹興出土の伝承を伴うため紹興鏡と
いわれている。鏡の内区は、鈕を中心に円座乳で四分割され、上下に西王母と東王父、左右に
騎馬と車馬が描かれている。中国の神話に登場する西王母は、西の崑崙山に住む不老不死を
与える神仙で、東王父は配偶者として考案され、それぞれ脇に侍者を従えている。車馬は四頭
立てで、車輿の上に傘蓋をつけ後方に乗車した人物の顔がみえ、騎馬は疾走している。

また中国の「神人車馬画像鏡」の銘文には、

「田氏作意四夷服 多賀国家人□□・・・(以下略)」

とある。(画像と銘文を参照)

鏡内に描かれている画像「西王母」は、二世紀始めの後漢時代になると東王父と西王母の
男女対になってニ神に分かれて陰と陽に分かれた。これらの画像は、不老不死の神仙思想を
銅鏡に表していて死者を悪霊から守る意味があったようで人間世界の理想郷でもある。画像は、
仙人修行を終えた者が崑崙山に棲む西王母のもとへ免許状を受けるため数頭立ての馬車に
乗って会いに来たところで、馬車を伴った対面シーンが描かれている。

 

これとほぼ同じと考えられるトヅカ古墳出土「神人車馬画像鏡」(二十二.六センチ)は、手法
が後漢時代墳墓の表飾とした畫象石に似ていると言われている。この鏡の
内区は、鈕を中心に
円座乳で4つに区分され、上下に脇侍を伴へる
西王母と東王父の~像を置き、左右の二区の一
つに馬車二つを現し、その上部は二頭の馬がこれを引き、下部の馬車は三頭の馬がこれを引いて
互いに相反する方向へ走り、相対する一区には人物を乗せる馬四頭とこれに付属する一頭を
あらわしている。そして、外区は銘帯、櫛歯文帯、唐草文帯に分かれ縁に続いている。
 
鏡の銘文には、

 「□氏作鏡四夷 多賀國家人民息 胡慮殄滅天下復、風雨時節五穀孰 長保二親得天力、
傳告後世樂無亟、乗雲驅馳參駕四馬、導從群~宜孫子公」

とあり、作者名が「□氏作鏡・・」と一字判明せず、又「夷」の後「服」の字が抜け、文章全体は
吉語を書き、
中国鏡と前半部分は同じである。

一方、トヅカ古墳出土のもう一枚の「神人歌舞画像鏡」(直径十九.九センチ)銘文には、

 「尚方作竟自有紀 辟去不羊宜古市、上有東王父西王母 令君陽遂多孫子兮」
とあり、西王母と東王父が明記されていることから、神仙思想にみち溢れた古墳
といえる。

 

また、「神人車馬画像鏡」(直径二十一.四センチ)が出土した京都府岩滝町の
岩滝丸山古墳は、直径三十メートル高さ四メートルの円墳で築造年代も五世紀初頭
、遅くとも五世紀前半を下らない時期と考えられている。この鏡の内区は、鈕を中心
に円座乳で4つに区分され、
相対して西王母と東王父の~像を置き、また別に相対
して三頭の馬が車馬を引くのと、双竜を現している。そして、外区は銘帯、櫛歯文帯、
唐草文帯に分かれ縁に続いている。

鏡の銘文には、

  「田王作□四夷服 多□□□□民息 胡虜殄滅天□復、風雨時節□□熟長保二親」
とあり、「田王作・・」の「王」が「氏」なら、トヅカ古墳の銘文とそっくり同じである。
 

ところで右に紹介した中国の紹興鏡が発掘された場所は、紹興酒で有名な所で最近この近くの
河姆渡(かぼと)
遺跡で七千年前の炭化米(ジャポニカ米)が出土した。この炭化米のDNA鑑定結果に
よると日本の炭化米と同じことがわかり日本と中国との関係が注目されている。ここは、平成十三年
のNHK特別番組「日本人はるか アジアの稲作」でも紹介されるなど、このあたり一帯は、高床式
住居が用いられ灌漑用水の整った江南地方の代表的な水田稲作地帯で、日本と同じのどかな田園
風景が広がっている。ここ紹興は夏王朝創建者の陵墓があり玉器・土器・石器・銅器や養蚕・竹器・
漆器がつくられた長江下流域の良渚(りょうしょ)文明が起こった所である。

 

 以上のことから、トヅカ古墳から出土した「神人車馬画像鏡」は、画像や銘文から中国浙江省の紹興鏡とほとんど同じで二世紀後半の後漢後期に中国で製造され日本に持ってこられた舶載鏡と考えられる。この二世紀後半といえば、邪馬台国の卑弥呼が景初三年(二三九)魏に使者を送った時より数十年ほど前であり卑弥呼が魏の国から賜わった銅鏡百枚との関係でも注目されるべきものである。

また古墳の年代が五世紀頃となっているが、はたして誰の古墳であったのか。
五世紀といえば履中・反正・允恭天皇の母の磐之媛(仁徳天皇の皇后)がみられ、
これらに関係した人物とみられる。しかし『田辺町郷土史 社寺編』の筒城郷佐賀
庄咋岡全図によるとトヅカ古墳は、「石姫皇女丘 俗字 地崇山」と記されている。
石姫皇女は、欽明天皇との間に敏達天皇をもうけていて西暦五百三十九年頃な
ので六世紀中頃となり、古墳の推定年代(五世紀後半)と数十年のずれがある
ことになる。




 

  参考文献

『田辺町埋蔵文化財調査報告書 第三集』編集・発行 田辺町教育委員会 昭和五十七年

『京都府史蹟勝地調査曾報告 第二冊 大正九年三月』 京都府 一九二〇

『京都府文化財調査報告 第二十二冊』「舞鶴切山古墳」樋口隆康 京都府教育委員会 昭和三十六年

『史想第十三号』 「京都府与謝郡岩滝町丸山古墳発掘調査に参加して」

杉原和雄 京都教育大学考古学研究会 昭和四十二年 

『埋蔵文化財発掘調査概報(一九七〇)』京都府教育委員会 一九七〇

『仙界伝説〜卑弥呼の求めた世界〜』大阪府立弥生文化博物館 一九九九

『中国歴代銅鏡目録』 中国杯境科学出版社

『田辺町郷土史 社寺編』 編集者 村田太平 田辺郷土史会 昭和三十八

『鏡と古墳』編集・発行者 京都府立山城郷土資料館ほか 一九八七

 

この原稿は、京田辺市郷土史会の機関紙第74輯『筒城』2002年3月30日発行に掲載したものです。


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