「かぐや姫の里を考える会」ホームページ  開始:平成15年7月開設
    『竹取物語』”かぐや姫の里”京田辺 (京田辺市郷土史会)
 
     

『竹取物語』”かぐや姫の里”京田辺 (その3)  

  『竹取物語』発祥の地は "京田辺"  「かぐや姫の里」ビデオ動画講座
全日開館として全て予約制(電話)により開館へ (2014年10月24日~)
当博物館は、2013年2月1日に開館して2年半となり当初目的を達成しました。
今後は開館日を全日として全て予約制(電話)にします。但し、本館入口左にあるインターホン両方を押して頂き館長が館内にいる時は、見学可能です。なお、お盆と年末年始は休館させて頂きます。

 他に、訪問される小学生迄の方はご両親または先生と一緒にお越し下さい。出来ない時は両親か親権者等の「承認書」を持って来て下さい。また、博物館の記録用として写真を撮らせて戴きますのでご協力お願いいたします。

一、 はじめに
 『竹取物語』は平安時代初期にできた日本最古の物語りで、作者不詳。物語りは、ある日竹取の翁が竹の中にいた光り輝く一寸余りの少女を授かり「かぐや姫」と名づけて育て成人する。そして五人の貴公子から求婚を受けるが無理難題を出して次々にしりぞけ、時の帝の求めにも応じず八月十五日の夜に月から迎えが来て昇天するという求婚・昇天説話である。
物語の最初は、いまはむかし、たけとりのおきなというものありけり。野山にまじりて、たけをとりつつ、よろづのことにつかひけり。・・・とある。
 私は、この竹取の翁がいたのは、この京田辺市ではないかと考え平成三年度発行の『筒城』第三十六輯に「山城国綴喜郡山本駅と古代駅制について」の中で少し書き、その後も研究を重ねるうち、『古事記』垂仁記に「大筒木垂根王之女、迦具夜比売命」とあり、「大筒木垂根王」とその娘「迦具夜比売命」(かぐやひめのみこと)が記されていて「かぐや姫」は実在の人物であったことがわかり、京田辺が『竹取物語』発祥の地であり「かぐや姫」伝説地という結論に達した。
 私は、京田辺市普賢寺の「大筒木垂根王」か山本駅の駅長それに佐牙神社の太夫が『竹取物語』に登場する翁であり、この山本駅一帯が”竹取物語の里”と考えている。
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発行者:京田辺市郷土史会 文化部会
「かぐや姫の里を考える会が発足
その後2013年度に
「国際かぐや姫学会と改名されました。

   発行責任者:理事 小泉芳孝(日本民俗学・郷土史研究家) kyoto japan 
    ここに掲載の写真および記事の無断転載を禁じます。
 copyright (C) 2000 Taketori no Okina Yoshitaka Koizumi. All rights reserved.
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二、研究の最初、
 竹取の翁は「山本駅」の駅長か太夫 私がこの『竹取物語』を研究するきっかけとなったのは、昭和六十年頃に奈良女子大学『叙説』に、本田義憲氏が書いた「かぐや姫の家」と言うのを読んでからであった。それによると、「山もと」の近くに『竹取物語』の主人公、かぐや姫の家が設定され、このあたりが神仙の地であり、綴喜郡の「綴喜」は「月」に通じると述べられていた。
 それによると
  帝おうせ給はく「みやつこまろが家は、山もと近なり。御狩みゆきし給はむやうにて、
  見てむや」とのたまはす。・・・
とあり、「山もとの近くに」 あると記している。 日本全国に沢山存在している 「山もと」と言うのは、「山のふもと」 という意味であり、『竹取物語』の出来た頃の「山もと」と言う地名は、前記した和銅四年に古代駅制の「山本駅」と言う駅家が平城京の頃からあった地名「山本」というのが有力であると考えた。

 その後、私は正保三年刊本を底本とした『竹取物語』山岸徳平・田口庸一著 昭和三十一年・法文社発行などの本を参考にしながら、物語の中に出てくる名前や地名などを考えて、『竹取物語』が作られた場所と、登場する人物を推定してみた。まず上記の翁の本名である「みやつこ」とは朝廷に仕える人をさし、「まろ」とは男子の名前をあらわしていて、半官半民の両方を受け持った翁であり、古代駅制における駅長のような人でなかったかと思われる。
 駅長とは、駅制における「駅家」の長として駅務を主宰し、その地方の豪族が任命されていて都の情報をはじめ海外などの色々な情報を知ることができる人物であった。そこで少し「山本駅」について書いてみたい。
  奈良時代の和銅四年(七一一)正月、七道のうち南北に通じる古山陰(小路)・山陽(大路)併用道に設けられた山本駅は、平城京からの最初の駅となり、さらに西方は河内へ通じ、東方は木津川を渡って井手町から北へ通ずる東山道(中路)と、同じ井手町から北へ通する北陸道(小路)とも関連した水陸相兼ねた重要な都亭駅であった。都亭駅は、都と地方との交通を円滑にするためと、
中央政府と地方との連絡を緊密にして中央集権統一国家樹立のための軍事を目的とした制度である。この駅制は官用交通のためのもので、築地で囲まれた駅には、駅馬・舟・駅長・駅子などを備え、駅馬・宿舎・食事などを供す宿舎の外、駅馬をつなぐ厩舎・人馬の水飲場・駅子の控室や休養室・馬具や駅稲を入れておく倉庫があった。そして築地の入り口には「駅門」があり、建物は瓦葺きで塗り壁の寺院なみであった。駅務は所属する駅子が奉仕し、駅長がこれを統轄していた。
 この「山本駅」は、公人が宿泊したり緊急の公文書を送る急使がいたので都の動きを察知する事が出来、都を防衛する重要な役目を担っていた。ここには「駅子」が住み「駅馬」を育てていて、交替で駅馬をひいて駅に勤務していた。また、駅長は、駅制における「駅家」の長として駅務を主宰し、その地方の豪族が任命された。 以上が山本駅の概要である。
 私は、『竹取物語』に登場する「…竹取の翁…名おば、さかきのみやつこまろ…」は、この山本駅の駅長か、当時の山本郷の長老である太夫ではないかと考えている。この「さかきのみやつこまろ」とは、「榊」(神に仕え)、「造麻呂」(朝廷に仕える人物)といえば、この山本駅の駅長または太夫ではないかと考えられる。 この京田辺市山本村周辺には、竹取物語にちなむ地名として前記の「山本」 の他「山崎」「筒城」 「筒城宮」「甘南備山」 「月読神社」 が存在し、神仙思想が溢れていて天女伝説を兼ね備えた地域であった。一方、多々羅には、フイゴによる和鉄製鉄炉・製鉄所の鍛治部や、また西方にある交野市「天の川」付近の仙女伝承地にも近く、山本周辺はまさに「神仙の地」でもあった。さらに平安時代には、京田辺市三山木にある寿宝寺の十一面千手千眼観音立像(重要文化財)や五大明王像(平安時代中期)が造られている事などから、奈良時代から平安時代にかけての長い期間に渡って栄えていた地域でもあった。
 これは最近の三山木地区特定土地区画整理事業に伴う京都府埋蔵文化財調査研究センターの三山木遺跡第二次発掘調査で、山崎付近の地層から弥生時代前期の土器片や石包丁・石鏃・石鋸・管玉の未製品や未完成の原石が出土し、丘陵上に玉造り関連遺構が存在した可能性があると報告されている。また近鉄三山木駅へかけての丘陵地には、山本駅と想定される地域で、奈良時代の掘立柱建物跡(三間×三間の総柱の建物で、古代の条里制に沿って南東方向に延びる)や奈良時代後半の瓦二十点それに井戸の遺構が発見されている。さらに平安時代の掘立柱建物跡(一間×二間の東西方向建物で先の建物と重複して出土)や・鎌倉時代の遺物も発掘さ、また、二又付近の地層からは、飛鳥時代や平安時代の井戸、それに平安時代の掘立柱建物跡の掘立柱も出土し長い時代に渡って栄えていたことが考古学の分野からも実証されている。
この発掘場所は、『山城国綴喜郡筒城郷朱智庄佐賀庄両惣図』と『筒城郷佐賀荘全図』に記されている「大筒城佐賀冠者殿旧館地」にあたる場所である。「大筒城」は京都府綴喜郡の「綴喜」で、「冠者殿」は元服して冠をつけた男子で宮仕えした人であり、もしここに竹取の翁が住んでいた所と推定すれば、「大筒城垂根王」は、「竹取の翁」と思われる。

三、 竹取の翁の名は「きかきのみやつこ」
 『竹取物語』の最初のでだしは、
     「いまはむかし、たけとりのおきなというものありけり。野山にまじりて、 たけをと
     りつつ、よろづのことにつかひけり。名をば、さかきのみやつことなむいひける。そ
     のたけのなかに、もとひかるたけなむ一すぢありける。あやしがりて、よりてみるに、
     つつのなかひかりたり。それをみれば、三寸ばかりなる人、いとうつくしうてゐたり。
     ・・・」 とあり。














 竹取の翁は、竹を取り籠をはじめ竹細工などをしていて、本名は「さかきのみやつこまろ」と言われていた。この「さかき」(榊)つまり「神に仕え」「朝廷に仕える人物」といえば、山本の駅長と言える。また「さか」 は、延喜式内佐牙神社や延喜式内社酒屋神社に関係した酒造りの「さか」(酒)に関係があって、この様に名前をつけたのかもしれない。しかし最近出版されている本は、「さかき」をべつに「さるき」「さぬき(讃岐)」として大和国広瀬郡散吉郷(現在の北葛城郡広陵町)に住んだ讃岐氏の一族かとしているが、私は、最初の呼び名を「さかきのみやつこ」の方が正統と考えている。

四、『竹取物語』の 「かぐや姫」と『古事記』の「迦具夜比売命」
 『古事記』垂仁記に「大筒木垂根王之女、迦具夜比売命」とあり、「大筒木垂根王」とその娘「迦具夜比売命」(かぐやひめのみこと)が記されている。この「大筒木垂根王」の弟に「讃岐垂根王」が記されている(「垂仁天皇関係図」と「開化天皇の子孫と筒木」を参照)が、私は「讃岐垂根王」より「大筒木垂根王」 の方が「迦具夜比売命」と親子関係にあり近い存在であると考える。 また『日本書記』には迦具夜比売命は、垂仁天皇の妃となっている。
  最近になって地元の方が旧記を写したという『普賢寺之遺跡』と書いた綴りを保存していたコピーを入手することができた。それによると
     王居谷古墳(地名 御所内山々頂有)
      大筒木垂根王、墳也ト云使フ
     西方 山麓 王居谷ト云フ
と記されていた。
 この旧記の写しから『古事記』に出てくる「大筒木垂根王」』の古墳は、普賢寺御所内の山頂にある王居谷古墳だと言い伝えられていて、その場所は西方山麓の王居谷という場所であることがわかる。この場所は、現在では小字名の「御所ノ内」の西方に「王子谷」と言う地名があり、「王居谷」と「王子谷」は同様と考えられる。では、この「王子谷」の山麓に「王居谷古墳」があるのではと思い、現地を歩き地元の人達に聞いて見た。すると「御所ノ内」の西方に慶照寺があり、山頂へ急な坂を登ったところに「白山神社」があった。この白山神社は、平安時代末期の近衛基道邸の鎮守社で、もと御所山権現といっていたようである。よく神社や寺のあった場所がかつて古墳であったという例があり、ここに「大筒木垂根王」』の古墳があったのかもしれない。しかし遠い昔のことであるため現在その場所は今のところ確認がとれず調査を続けて行く必要が有るが、いずれにしても「大筒木垂根王」の娘である「迦具夜比売命」は、この普賢寺御所ノ内の近くに住んでいたと私は考える。ところで「大筒木垂根王」は、その名前から京田辺市の朱智荘(普賢寺周辺)佐賀荘(三山木周辺)の「大筒木郷」の長だった思われ「竹取の翁」と推定できる。あるいは前記した山本駅の駅長と佐牙神社の太夫も竹取の翁と考えられる。『古事記』『日本書紀』に記されていることがすべて真実とは言えないが、何かの根拠があって記録されたものであり、明らかに「大筒木垂根王」と「迦具夜比売命」は、『古事記』に登場する実在の人物であり「大筒木郷」に住んでいたことが明らかである。
 一方「大筒木」は、京田辺市三山木の継体天皇「筒城宮」にあたり「垂根」は「竹の根」の宮であると考えられ、筒木は、京都府綴喜郡の「綴喜」を、かつては「筒木」「筒城」と書かれていて孟宗竹の「筒」が用いられ、『竹取物語』の竹そのものであり、「つつき」の「つき」は「月」を連想させる。この様に山本村周辺の「大筒木郷」である朱智荘と佐賀荘は月と大変深い関係にある場所で、ここに迦具夜比売命(かぐや姫)がいたと考えられはしないだろうか。
また綴喜の竹は笛工の居住でも知られる一方、京田辺市天王では、現在「山城松明講」による奈良東大寺二月堂の「お水取り」に使う竹送りや、茶道家元の初釜茶筅を代々作っている家もあり、ますます信憑性を帯びてくると感じるのは私だけだろうか。

五、「かぐや姫」は「光り輝く」「火の神」
 ところで「かぐやひめ」の「かぐ」は、「火の神」(火之迦具土神)で「光り輝く、火、燃える」の意味がある。この関係では、京田辺市天王の延喜式内朱智神社の祭神が「火の神」にちなむ迦爾米雷命を主神に須佐之男命・天照国照彦火明命を祀っている。迦爾米雷命は開化天皇の孫で、父は山代大筒城真若王である。この「山代」は現在の「山城」であり、「大筒城」は「筒木」それに綴喜郡の「綴喜」と同様である。
 また京田辺市多々羅には、この地域に住んでいた百済からの渡来人による「多々良公」(任那人)による鍛治と日本最初の養蚕の地、それに多々羅都谷には継体天皇の「筒城宮」伝承地がある。さらに三山木大南山、(地元では「難波はん」)と推定される所に『古事記』仁徳記の磐之媛による筒木の「奴理能美」(百済人)の家があったと地元の人達に伝わっている。また「多々羅」という場所は、六世紀頃の欽明朝の頃に大陸から渡来人がやってきてフイゴで風をおこして鉄を加工する文化が日本に伝えられた事で知られ、武器や農具などの鉄製品を作る人達が住んでいた所である。
 この地は『古事記』では、仁徳天皇が難波の堀江から山背川(現在の木津川)を上って「三度変化する奇しき虫(絹織物の蚕)を見に行こう」という口実で「奴理能美」の家へやってきて皇后である磐之媛に会いに来た場所である。この『古事記』仁徳記の部分は、『竹取物語』の後半で帝が御狩りをする口実で行幸し、かぐや姫の姿を見に行くという想定と同じであるのは、偶然の一致であろうか。

六、『竹取物語』 の五人の求婚者は実在人物
 『竹取物語』にユーモアたっぷりで登場する五人の求婚者は、美しいかぐや姫のことを聞き付けてやってきたとある。この五人の求婚者について江戸時代の国学者、加納諸平は、『竹取物語考』で「実在人物(石作皇子・庫持皇子・阿倍大臣・大伴大納言・石上中納言)である」としている。 この五人の貴公子は「壬申の乱」の大功労者として持統・文武両朝に渡って特別な待遇を与えられていた人物とされ
    石作皇子は右大臣多治比真人島
    車持皇子は藤原朝臣不等
    右大臣阿倍御主人は大納言阿倍御主人
    大納言大伴御幸は大伴宿禰御幸
    中納言石上麻呂足は中納言石上麻呂
としている。
物語の中では、この五人の求婚者に対して「かぐや姫」が望んだ品物は、実現不可能な難題を求めている。
    石作皇子には、天竺にある仏の御石の鉢(釈迦が持っていた石の鉢)
   車持皇子には、蓬莱の玉の枝(仙境の蓬莱山にある、
       白銀を根とし 黄金を茎とし 真珠を実とする木の枝)
   右大臣阿倍御主人には、火鼠の皮衣 (支那にある火鼠の皮衣)
   大納言大伴御幸には、龍の頸の玉(龍の首に五色に光る玉)
   中納言石上麻呂足には、 燕の子安貝(燕が持っている子安貝)
であった。
  

  しかし、前の三人が持参した物は、偽物と言うことが分かってしまい、後の二人は持参すら出来ず、とんでもない結末となった。
ところで、これら五人の求婚者は、「壬申の乱」を起こした大海人皇子の出身であり、この乱で敵方の大友皇子(弘文帝)が縊死した場所が「山前(やまさき)」とされている。『日本書紀』巻第二十八の天武朝には 是に、大友皇子、走げて入らむ無し。乃ち還りて山前に隠れて、自ら縊れぬ。 とあり、山前に隠れていて自ら縊死したと書かれている。


 「壬申の乱」とは、天智天皇の死後これを引き継いだ長子である大友皇子(弘文天皇)を代表とした近江朝廷に対し、吉野に籠もっていた皇弟大海人皇子(天武天皇)が皇位継承権をうばうため六七一年壬申の夏に起こした約一カ月に及ぶ内乱である。この内乱は、まず吉野の大海人皇子が伊賀・伊勢を経て美濃に入り東国を押さえ、次いで別隊が倭古京を占拠し近江の瀬田で大友皇子の軍を大破して「大津京」を兵火で焼いた。この時、大友皇子は「山前」 (やまさき)の地にかくれて自害し、大海人皇子は翌年正月即位し天武天皇となった。
 この「山前」の地名は、一般に大津市長等山(三井寺の地)や京都府乙訓郡大山崎と言われているが、私は山本村のすぐ西にある「京田辺市三山木山崎」だと以前から考えていた。
その理由は、この山崎(読みは「やまさき」)にある「山崎神社」の祭神に「大友皇子」と記されているからである。
 明治の『山崎神社由緒取調書』によると
    山城國筒城郷佐賀酒屋荘山佐奇の神社は八皇子神社と称せしも、
    今は山崎神社と改む。・・神体に石棒を祭る。
    ・・近江朝弘文帝の御崩御の後たる事を言牌に伝う
と記されている。
 『竹取物語』を書いた人物は、「壬申の乱」を起こした大海人皇子に対して敵であったからこそ、高位高官人物だった五人の貴公子を腐敗墜落への批判や風刺した内容のことを強調して書いたのであり、この自害した場所が弘文帝「大友皇子」にとって安住の地であったのであろう。この地は、五人の求婚者である「壬申の乱」の功労者(貴公子)を風刺する人達のいた地域であるといえよう。この山崎神社には、継体天皇の第八皇子の菟皇子と伝える墓もあり、ここから明治二十年(一八八七)に縄文時代の「石棒」や「金環」それに「須恵器」などが出土してことからも考えられるのではないだろうか。この「山前」の知名に関しては、大阪八尾市に住む灌里良子氏が『壬申の乱 大友皇子の母』を新人物往来社から一九八九年に出版され私に贈呈して頂いて読んだ時「・・大友最期の地山前(やまさき)に移った。・・」と書かれていて大変興味をもっていた。今回竹取物語を調べているうちに、四人の貴公子が壬申の乱に関係していることがわかり「山前」の場所が一致してきた。
七、「大住」と「甘南備山」は、天女伝説地か      
 山本の北方にある京田辺市大住には、祭神が月読尊・伊邪那岐尊・伊邪那美尊である延喜式内月読神社がある。この大住には九州の大隅半島から来た「大住隼人」が住んでいたところで都(奈良・平安時代)を防衛する朝廷の警護や貴人の警護それに諸儀式に奉仕していた。『竹取物語』で「大住隼人」は、「かぐや姫」が羽衣を着て昇天する場面で、帝から遣わされた兵士として姫の屋敷を守る所で登場している。そして「かぐや姫」は、月から持ってきた薬を飲んで下界の汚れを清め地上の人間界から理想の天上へと上って行った。
 醍醐天皇の「延喜式」によると、隼人は朝廷において元旦や即位式それに外蕃の客の儀式にあたり応天門内の左右に陣し、隼人司の官人らとともに琴を弾き笛を吹き、歌舞し、風俗歌舞を奏したとある。山城国綴喜郡大住郷の大住隼人と考えられる横穴古墳は、大住松井向山にあり孟宗竹に覆われた竹林の中にひっそりとたたずんでいる。また、この大住郷の「大住隼人」を考えるときには、もと隼人が住んでいた南九州の薩摩半島南部に残っている阿多(あた)、笠沙(かささ)地方を検討しなければならない。阿多の隼人は、東南アジア系の民族と血縁関係にあると考えられ、日向神話の海幸彦・山幸彦の神話に淵源する神楽(朝貢舞)であり日本民族芸能の源泉とされている。一般的に、海幸(火照命)トラジャに伝わる盾と模様や形が大変良く似ていて武器として利用している所から同様のと考えられる。隼人は、六世紀頃に薩摩半島南部から畿内の各地に移住して大和朝廷のさまざまな儀式に奉仕した。文献で「大隅隼人」が登場するのは、
 『日本書紀』巻第二十九の天武十一年に
   秋七月の壬辰の朔甲午に、隼人、多に来て、方物を貢れり。是の日に、
   大隅の隼人と阿多の隼人と、朝廷に相撲る。大隅の隼人勝ちぬ。(中略)
   戊午に、隼人等に明日香寺の西に饗たまふ。種々の楽を発す。仍、
   禄賜ふこと各差有り。道俗悉に見る。
とある。
これは天武朝のころと考えられ、隼人が多く来て方物を献上して大隅の隼人と阿多の隼人が相撲をとり、さまざまな楽を奏したと書かれている。
 また京田辺市大住の「大住隼人」が登場するのは、正倉院文書の山背国綴喜郡大住郷計帳の『山城国隼人計帳』に大住隼人が記されていて九一名中隼人は八六人で、四名は内臣・石作連・葺屋矢寸など他姓、一名は稗とある。
これらから「大住隼人」は、薩摩半島の「大隅隼人」から移住してきたことがわかる。この大住隼人が住み着いた大住で天孫降臨に通じる隼人舞を復活させようと、九州で代々継承されていた牧山望氏に教えを受けて昭和四十五年に延喜式内月読神社の境内で披露された。
その後も隼人舞は、隼人舞保存会の人達によって毎年十月十四日の夜に月読神社で行われている。 ところで『竹取物語』の最後に「不死の山」が出てくるが、大住村の南西に見える京田辺市薪の甘南備山は、平安京の朱雀大路を決めるのにこの甘南備山と京都市の船岡山とを結んだ南北の線上に設けられている。この甘南備山は、飛鳥の「三諸山」、大和竜田の「三室山」、近江の「三上山」と同じもので、いずれも神が降臨する神聖な場所とされている。
京田辺市の「甘南備山」の頂上には、かつて延喜式内甘南備神社があり、ふもとの大住には延喜式内月読神社がある。この山には現在でも水晶が採れることから、かつては富士山のように噴火をした山と考えられる。甘南備山の麓は、「宮中御神楽発祥の地」とされ、甘南備山から月読の神を迎え月読神社にお祭りし、大住隼人の御神楽が、隼人の風俗舞として宮中御神楽や大嘗祭にも奉納していて、隼人が天孫降臨の神話を伝承していったのである。
その後この隼人の御神楽が、猿楽や能楽へと発展していった。これら神社は、いずれも醍醐天皇の「延喜式」神名帳に記載されている大変古い神社であり、また、大住の西方にある交野市「天の川」付近の仙女伝承地にも近くて神仙思想が満ち溢れた場所である。このように天孫降臨の伝承が隼人に伝わり隼人舞の踊りが神話伝説を表していて『竹取物語』の天女伝説に通じているのではないか。



八、 おわりに
 以上のことから、京田辺市の山本周辺一帯は、まさに『竹取物語』発祥の地であり「かぐや姫」伝説地と考えられる。また平城京があった奈良時代に存在していたと考えられる。京田辺市三山木塔ノ島の「鶴澤ノ池」は、古来から鶴が飛来していたことから付けられた名から、鶴が近くの飯岡山や神が宿る「不死の山」(甘南備山)に飛び立つさまを創造するとき、『竹取物語』のクライマックスである天女伝説を思わせる。そして、ここを舞台にして日本初の物語りで小説でもある『竹取物語』が創られたものと考えられる。 『竹取物語』と良く似た物は、チベット地方
の説話『斑竹姑娘』に五人の若者の求婚難題譚があり求婚者たちの失敗が竹取物語と類似している。また中国の『後漢書』には、竹の中から人が生まれるという内容が記されている。
日本では『今昔物語集』の竹取の翁説話のように求婚者三人から竹取物語の五人に改作されたとも考えられている。また羽衣伝説は、『近江国風土記』「伊香小江」や『丹後国風土記』「奈具社」など日本全国各地に伝承されている。『万葉集』巻十六の三七九一に「由縁ある雑歌」があり竹取の翁が出てくるが、直接『竹取物語』に影響を与えたものではないと言える。
このように『竹取物語』は、致富長者説話、求婚難題説話、昇天説話、羽衣説話、地名起源説話、仏生説話が取り込まれていることに特色が有り日本最初の小説と言われていることにより、この京田辺市の歴史と重なることが随所にみられ興味を持って京田辺市民みんなで腰を入れて調べて行くことを願うものである。 私は、「竹取物語」の里について収集した資料を元に、「翁の人物像」や「かぐや姫」「五人の求婚者」「不死の山」(甘南備山)などについて最近の発掘成果や古文書それに文献に記された地名やその背景等にもとずいて推論して来た。
しかし私が、ここに記して来たように、この京田辺市周辺を調べれば調べるほど『竹取物語』の発祥地だと思われてならないのである。それは古代の山本駅が、平城京から最初の駅であり古山陰・古山陽道を始め、東西に通ずる山道があり、東の木津川を渡ると南北に通じる北陸道と東に通じる田原道・東山道にも通じていて大陸の文化や国内の伝承が行き交う重要な場所であり、過去の出来事や伝承が大変豊富であっと推定され、また大住隼人の月読神社や甘南備山それに『古事記』垂仁記の「大筒木垂根王之女、迦具夜比売命」が住んでいた場所
であり京田辺を舞台にして『竹取物語』が生み出されたと断定して良いと考えている。
《参考文献》
『京都府田辺町史』村田太平編田辺町役場
『竹取物語』山岸徳平・田口宿庸一著 法文社
『叙説』「かぐや姫の家」 本田義憲 奈良女子大
『新潮日本古典集成竹取物語』校注者 野口元大新潮社
『かぐや姫の光と影』梅山秀幸著 人文書院
『けいはんな風土記』「宮都をめぐる山々」干田稔 関西文化学術研究都市推進機構
『筒城』第三十六「山背国綴喜郡山本駅と古代駅制について」田辺町郷土史会
『筒城』第四十五「山本村の鶴沢の池」京田辺市郷土史会 

 「かぐや姫の里」ビデオ動画講座



特集「日本昔話の世界」かぐや姫発祥の地"京田辺市"
     
雑誌『エプタ』Vol.23
 エプタ編集室発行。2005年9月1日発行。

1.浦島太郎のふるさと (京都伊根町・浦島神社)
   浦島神社宮司 宮嶋淑久
  浦島太郎の子孫
   丹後歴史文化研究会代表 森恭満
   郷土史研究家 森茂夫
2.桃太郎と岡山の温羅伝説 (岡山・吉備津神社) 
   郷土史家 市川俊介
  桃太郎に魅せられて103歳
   桃太郎資料館館長 小久保桃江
3.かぐや姫発祥の地"京田辺市"
   日本民俗学・郷土史研究家 小泉芳孝
   京田辺市郷土史会 会長  藤本富雄
  内容: 京田辺の地名が「竹取物語」の多くと一致。
      翁の家のある「山もと(本)」は古代の駅だった。
      古事記、日本書紀にかぐや姫のモデルが。
      「竹取物語」の作者はだれか?紀長谷雄ではないか。

4.コラム「おとぎ話の不思議」
5.昔話の楽しみ
   東京学芸大学教授 石井正己
6.おとぎ話に秘められた歴史のミステリー
   歴史作家 関裕二
7.アジアで見つけたそっくりなお話し
   国立民族学博物館名誉教授 君島久子

《雑誌問合せ先》東京都新宿区新宿5-12-11-903
             エプタ編集室 TEL 03-3350-7232
                      FAX 03-3350-7826
           第23号 定価700円(税込み)

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この「ホームページ」の挿絵は、
 京田辺市薪の手書き染色作家 玉井芳泉さんの作品です。


郷土史会50周年記念誌投稿から・・・ 2005年7月

同志社大学(京田辺校地)学生専用
デサイナーズマンション
「スカイハイツ三山木」

・サイバー見学
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“かぐや姫の里”と京田辺市について
                        小泉芳孝
1. あゆみ

 郷土史会50周年おめでとう御座います。長い歴史ある会に所属することにより、私の未熟な調査研究を深めることができ感謝しますと共に、今後の益々の発展を祈念致します。   
さて私が郷土の歴史に興味を持ったのは、延喜式内佐牙神社の宮座で「十七の頭(男子が17歳位になると当たる宮座の役)」という行事に参加した時である。その時に何故この様な古い行事を村の人達が行っているのかという疑問からであった。
 私は、それまで仕事の関係で京都府内や滋賀県の年中行事を見てきたが外部からそれらの行事を見るだけで、行事の参加者として祭に参加することはなかった。
 ところがこの神社行事には、宮座という組織があり太夫・中老・若座という不思議な存在のあることがわかった。しかし、これらのことについて市販されている本が一冊も無く、これらを調べるには、民俗学という学問を勉強せねばならないことを知った。
 そして民俗学を勉強するうちに何かぼやっとしたものが見えてきて、田辺町郷土史会の初代役員でもある村田太平さんらが編纂された『田辺町郷土史社寺篇』と『京都府田辺町史』も少しずつ理解できるようになった。また奈良や京都の古い行事を見て回るごとに共通したものがあることに少しずつ気付いてきた。
 一方長年疑問であった「山本駅」の存在についても調べていた所、中国の古代駅制を取り入れた重要な駅(うまや)であることがわかり、初めて郷土史会の会誌(「山城国綴喜郡山本駅と古代駅制について」平成5年3月発行)に山本駅と竹取物語なども合せて掲載させて頂いた。しかし周囲の学識経験者の人達からは、「そんなものは無くて、ただ都に置かれただけ・・・」などという批判的な目にさらされた。その後、平成13年に京都府埋蔵文化財調査研究センターによる三山木駅周辺の区画整理事業で駅周辺の三山木遺跡を発掘され、奈良時代の平城から最初の駅である「山本駅」に関連する施設と見られる遺構が出土した。田んぼの地下3メートルからは、奈良時代の遺跡から硯や和銅開宝それに井戸跡などが次々と出土したため公共的な建物であったことがわかり、山本駅の遺構と推定された。
 その後、昭和の終わりころ日本最古の物語である『竹取物語』の文中に、翁の家は「・・・山本近く・・・」 という文のあることがわかり、調べているうちに京田辺市に関連したものではないかと思うようになってきた。その時は、まさか自分の住む郷土を舞台にして『竹取物語』が書かれたかも知れないなど予想だに思いもしていなかったので次々と関連したものが浮かび上がって来たのには、我ながら驚くと共にそれらの解明に魅せられていった次第である。
『古事記』には、第9代開化天皇の孫「大筒木垂根王(おおつつきたりねのみこ)」とその娘「迦具夜比売命(かぐやひめのみこと)」の名が記されているのに注目した。
それで当郷土史会の水山春男さんと一緒に調べていたところ古い古絵図の三山木駅と思われる所に「大筒城佐賀冠者殿旧館地」があり、また普賢寺の古文書に「大筒木垂根王」古墳のあることがわかった。
 そこで、京田辺の”かぐや姫の里” 伝承として、大々的に発表するため、平成12年11月3日から4日の「第35回京田辺市民文化祭」で『竹取物語』”かぐや姫の里”京田辺と題して展示を行った。
 しかし、この大筒木(おおつつき)が継体天皇の「筒(つつ)城宮(きのみや)」の「筒城」となり、現在の綴喜郡になったのか実証することが出来ず京田辺市郷土史会で平成13年に「シンポジウム」を開催した。シンポジウムには、竹取物語を研究しておられる国文学者で花園大学の曽根誠一教授や歴史学それに竹研究家の第一線の学者に来て頂き盛大に開催された。そしてチベットの『斑竹姑娘』と日本の『竹取物語』、大住隼人と月読神・ 甘南備山、日本及び世界各地「天女伝説」との関係、5人の求婚者と「壬申の乱」、大友皇子を祀る山崎神社、説話・民話・万葉集の竹取翁、天皇とかぐや姫の「歌垣」(古代の恋愛)、作者は紀長谷雄か・・など多彩な分野に渡ってそれぞれの分野から発言して頂いた。このシンポジウムには、地元を初め全国紙の新聞社やNHK・京都放送などのマスコミ各社の取材があり大きく報道された。
 その時、山城の地名に詳しい日本語源研究会代表で姫路獨協大学名誉教授の吉田金彦先生が会場にこられていて、間違いなく「筒木」は、この地のことであり「これは凄い発見であるので研究を進めてほしい・・・」と助言して下さった。それまでは周囲の教育関係者から私に「大筒木垂根王」なる人物は、古事記に記されているだけでその時代はなかったと言われ続けていただけに自信を持つことが出来ました。
これに続いて平成15年5月25日には、元京都府立大学長 門脇禎二氏を講師に招き「-甦った大筒木(綴喜)「王女かぐや姫」-」を同郷土史会主催で開催した。門脇氏は、講演で「文献の大筒木は、山代の古代史系図にある。そして王女かぐや姫は、この山代にいた・・」ということをお話された。 
 これらについては、本会機関誌『筒城』第36輯・第38輯・第45から49輯、それに郷土史会シンポ用の冊子『竹取物語』”かぐや姫の里”京田辺」、京都地名研究会編集発行のシンポジウム「秘められた南山城の地名を探る」をご覧下さい。


2. 裾野の広がりと今後の展望

「かぐや姫の里」として当郷土史会が全力を挙げて数年前から取り組んでいるが、この活動は、徐々に市民に浸透しつつある。その動きで活発なのは、平成15年10月18日に地元三山木の京田辺市商工会青年部で作っているファイトクラブ三山木が開催した「かぐや姫と竹フェスタ」で、かぐや姫コンテストとフリーマーケットを行った。このフェスタには、同志社大学関係者、京田辺市関係者、同志社大学生・同志社女子大学生、京田辺在住市民の方々などの参加メンバーと同志社大学で組織する「きゅうたなべ倶楽部」を始め、当会の「かぐや姫の里を考える会」が協力して開催された。
このほかのかぐや姫に関する取組みの団体としては、人形劇団「ぷくぷく」と朗読の会「萌え」による「竹取物語」のペープサート、さらにミュージカル「エチュード」の「ミュージカル竹取物語」、「三山木駅前の街ぐるみ生活公園都市の会」の「かぐや姫資料館構想運動」など地味ではあるが皆様方のご協力により継続した活動を展開しているのではないでしょうか。
またこの平成16年の8月には、南九州の隼人町と鹿児島放送の協力によって「隼人サミット」が開催された。この「隼人サミット」では、里帰りした隼人と題した「シンポジウム」に京田辺市から京都産業大学教授の井上満郎氏と私が参加し、さらに大住の隼人舞と南九州の隼人舞との競演も行われ、さらに同志社大学名誉教授の森浩一氏による特別講演もあった。このサミットでは、「隼人のルーツ」や「隼人と月読み神社」それに「かぐや姫と竹取物語」についての発表をさせて頂きました。
一方、平成16年9月7日地元の京田辺市商工会工業部会の異業種交流会「キララ会」は、新規の研究課題を模索すべき「京田辺のかぐや姫伝説」に注目され、何か地域の活性化と商品開発に向けた取り組みができないかと依頼があり「かぐや姫の里と京田辺」と題したお話をさせて頂いた。 

当会は、会則で記されているように「郷土の歴史の研究と文化財の保護に努め、文化の向上に尽くすことを目的とする」とあるように、歴史の調査・研究をして資料の発掘や文化財の保護をし、それらの成果を機関紙や書物を編纂して発行するのが目的としているので、今後も「かぐや姫の里」としての研究調査を押し進めることが本筋であります。
その上で京田辺市の全体のイメージは、北部にある「一休さん」と「大住の隼人舞」が有名ですが、南部の三山木駅周辺に「かぐや姫の里」としての町づくりを展開すれば、「一休さんの里」と「かぐや姫の里」の両輪で町のイメージアップを図ることとなり郷土史会の意義が深まるというものです。

  

『竹取物語』”かぐや姫の里”を京都信用金庫で展示!

 京都信用金庫三山木支店さんの依頼により『竹取物語』”かぐや姫の里”京田辺展を三山木支店のロビーで開催しています。
 これは、京田辺市郷土史会が、昨年に京田辺市民文化祭で『竹取物語』”かぐや姫の里”京田辺を開催したのをうけて、地元の京都信用金庫三山木支店でも展示して頂けないかとの要望にもとずいて開催されたものです。
展示には、京鹿ノ子絞『竹取物語』絵巻物の写真や竹取物語ゆかりの地図それに
古文書・かぐや姫の系図などがあります。          日時 平成14年4月11日(木)~
             9時~15時
  場所  京都信用金庫三山木支店 ロビー 0774-63-2122
      京都府京田辺市三山木 近鉄京都線 三山木駅の東 
         

展示物の内容
 『竹取物語』”かぐや姫の里”京田辺の研究成果発表 その他資料展示
 .『竹取物語』絵巻物。
 天皇家の図面(大筒木真若王の入った開化天皇家系図)拡大して
 『旧記 普賢寺之遺跡』の「大筒木垂根王」の古文書
 など 


「かぐや姫文庫」館長が来訪し見学 2003.5.24

竹原市の「かぐや姫文庫」館長が京田辺市へ訪れ、竹取物語ゆかりの地を見学されました。

山口真一氏さんの紹介
    ヒューマン・クリエイト・コンサルティング 所長

         プロフィール
昭和32年 広島県尾道市生まれ
昭和56年 慶應義塾大学商学部卒 マーケティング専攻
       ホンダ系自動車販社入社
昭和62年 米国IBM系日本法人入社
平成元年 住友ビジコン(現日本総合研究所)入社
平成 6年  ヒューマン・クリエイト・コンサルティング
       を設立し、経営指導活動に従事
       多くの若手営業マンを全国No.1に育成

 11月2日、尾道ゆかりの作家の文献を集めた「尾道文庫」をオープンした。千光寺山の中腹に住居を構える島居勝さんの協力を得て、同家の離れ家を改装。山口さんが収集した志賀直哉に関する文献・資料220冊などを収め一般公開をはじめた。
 経営コンサルタントの事業を営む傍ら、出身地尾道の歴史、文化に関心を寄せる山口さんは以前から林芙美子らゆかりの作家に関心を深め、関連の文献も多数集めて来た。「志賀直哉についても同様で、今年は同氏の30回忌にも当たることから、これを期しての文庫開設となりました」。
 機会があれば古本屋などに飛び込み、地道に収集活動を続けて来た。尾道文庫はその集大成で、北高時代の同級生で地元の寺の僧りょを務める加藤慈念さんとの共同企画で実現した。
 志賀直哉は明治45年から2年近くを尾道で過ごし、当時の生活模様なども織り交ぜた小説「暗夜行路」(新潮社)は代表作品。以後「早春」(小山書店)や「雪の日」(新潮社)など120の著述を残し大正期の青年たちに影響を与えた。こうした初版、復刻版120冊に加え、関連の研究書籍120冊を収集。図書館など公的な機関が予算を付けて、ともすれば在り来たりの収集に終わるのに対し、山口さんは直哉の知人らの遺族と会い、貴重な資料を譲ってもらうなど文字通り「地を這う」努力で集めたものが多い。
「個人の収集ですから、予算は限られています。でも、情熱でもって、幾らお金を積んでも譲って頂けない貴重な資料(書簡など)を集めることができました」。 開館は金、土、日曜日と祝日のいずれも午前11時から午後5時。入場料は200円。貴重な本を手に取って読むことができるほか、来年からは貸し出しにも応じる計画。
本業は経営コンサル
 山口さんは数年前、竹原市にオープンした「かぐや姫美術館」(加藤慈念館長)に付設する「かぐや姫文庫」の館長も務めている。「そんな事ばかりしているせいか、どこか書生くさく見られることがあるんです」と苦笑い。現実は多くの上場企業の経営顧問を務めるなどビジネス業界では広く知られた人でもある。慶大商学部を卒業後、入社したIBMや大手経営コンサルタント会社でマーケティング戦略を研究。平成6年、郷里の尾道に戻って経営コンサルタント事務所「ヒューマン・クリエイト・コンサルティング」を開設。1ヵ月のうち25日は東京、大阪などへ出張、講演会なども精力的にこなしている。▽ヒューマン・クリエイト・コンサルティング(尾道市天満町13-9-505、TEL0848・24・2180)。



隼人サミット「古代隼人文化を語る」
                       鹿児島県隼人町
目 的
 
隼人町一帯は古代日向国の大隅、阿多の中央に位置し、曽の国と呼ばれていました。
 この地域は一宮正八幡宮である鹿児島神宮を持ち、海幸・山幸伝説など神武東征に係る伝説が数多く存在します。鹿児島神宮には、山幸が龍宮から持ち帰ったとされる、潮満玉と潮引き玉が保管されてい
ると言われています。また、天皇の即位の礼に舞われるとされる隼人舞も千年もの時代を経た現在でも受け継がれていると言われます。

 この隼人舞が庶民化し、祭事などで舞われ、せばる隼人舞・京田辺市の隼人舞、さらに猿楽・能楽へと進化したものと言われています。これらの事が物語る古代隼人の文化とは、古代日本の形成に大きく影響した事が伺えます。
 今回の隼人サミットでは、隼人に関する講演やシンポジウムのほか京田辺市の隼人舞や鹿児島神宮の隼人舞の競演を予定しています。シンポジウムでは、考古学者や隼人研究者それに民俗学者らとともに、隼人の竹と文化、機内隼人の歴史、海幸・山幸の神話それに隼人と竹取物語との関係などの隼人の文化を掘り起こすことになっています。

 開 催 日 : 平成16年8月1日(日)
  開催時間 : 午前9時45分~午後4時15分
  開催場所 : 隼人町農村環境改善センター(隼人町役場近く)
        鹿児島県姶良郡隼人町内山田1丁目14番10号
       入場無料 定員600名 要申込み 
        問合せ先 隼人町立隼人塚史跡館 0995(43)7110

 サミット出演者
 特別講演  10時15分~
  森 浩一 考古学者・同志社大学名誉教授

シンポジウム13時30分~
 進 行 役  原口 泉 鹿児島大学法文学部教授
 指導助言 井上満郎 京都産業大学教授
 パネラー 下野敏見 民俗学者 元鹿児島大学教授 
      小泉芳孝 京田辺市郷土史会理事
      角田博文 奈良県五條市阿田郷土史探求会幹事長
      藤浪三千尋 隼人町教育委員会

《開催スケジュール》
  ビデオ観賞「南の疾風・隼人」ダイジェスト 
  特別講演 森 浩一「隼人と日本文化」
  隼人舞Ⅰ 鹿児島せばる 休息 隼人舞Ⅱ京田辺市
  シンポジウム 13時30分~15時50分
  テーマⅠ「日本神話の中の隼人」海幸・山幸などの神話、隼人と竹
  テーマⅡ「機内に移住した隼人」京田辺・阿田への移住、竹取物語
  隼人舞Ⅲ 鹿児島神宮 15時50分~ 

《参加者略歴》
  ☆森浩一 同志社大学名誉教授
     1928年大阪市生れ 同志社大学文学部卒業。
     専攻:日本考古学 日本文化史学
     著書:『交錯の日本史』(朝日新聞)『日本神話の考古学』他多数
  ☆原口 鹿児島大学法文学部教授 
     著書:『鹿児島歴史散歩』他 
  ☆井上満郎  京都産業大学教授
     京都大学卒業 大隅隼人の移住先に在住
     専攻:日本史 考古学(日本古代史研究)
     著書:『古代・中世の政治文化』『平安京』他多数
 ☆下野敏見  元鹿児島大学教授
     鹿児島県知覧町出身 鹿児島大学文理学部卒 
   62年、第一回柳田国男賞。90年「東シナ海文化圏の民族」で南日本出版文化賞。
     著書:『隼人の国の民族史Ⅰ・Ⅱ』『南九州の伝統文化Ⅰ・Ⅱ』他多数
 ☆小泉芳孝 京田辺市郷土史会理事
   47年京都府生れ 近畿大学法学部卒業・佛教大学文学部卒業
   職歴:京都放送勤務
   専攻:日本民俗学・郷土史・京都民俗学談話会会員 京都地名研究会常任理事
   著書:『稲作民族の源流 日本・インドネシア』
   投稿:『竹取物語』かぐや姫の里京田辺市
 ☆角田博文 奈良県五條市阿田郷土史探求会幹事長
 ☆藤浪三千尋 鹿児島県隼人町教育委員会


■中西進・文学博士。成城大学教授を経てアメリカ・プリンストン大学客員教授、筑波大学教授、
国際日本文化研究センター教授。トロント大学客員教授。大阪大学学長に就任。帝塚山学院学院長。

『万葉集』は、史書ではない。したがって為政者の思惑や、編纂者の政治的立場はダイレクトに現れていない。
『古事記』は、史書である。編纂者の政治的立場が、いたるところに見え隠れしている。研究する者の"立場"が異なれば、その解釈は大きな違いとなって現れる。"史書"を研究する際には、特別な注意が必要である。
『古事記』上巻は、神話ではない。徐福集団の日本渡来(紀元前二一〇年)と、その子孫の"歴史"を描いた史書である。この仮説が、私の『古事記』観の基本をなしている。私にとって文学的研究は、"歴史"の真相を探る手段に過ぎない。
『古事記』や『万葉集』は、研究の素材である。その中で、『真福寺本古事記』の研究は、研究活動の中核をなしている。『真福寺本古事記』こそ、『古事記』本来の姿を伝える唯一の写本と判断するからである。この立場からすれば、本居宣長の『訂正古訓古事記』は贋作と考えられる。『古事記』を曲解、改竄した偽物である。
研究においては、〈仮説の提示〉を重視したい。自らの視点から"歴史"を読み、その真相を明らかにすべく仮説を提示する。
本来"歴史"とは、"書かれた過去"である。あらゆる"歴史"は、常に書き替えられる宿命を持っている。それが、"歴史"の本質である。だからこそ、"歴史"は興味が尽きない。※『思索過程』2002年7月24日より

「京都地名研究会」設立の主旨                                   
                                   京都地名研究会  代表理事 吉田金彦

 地名は固有名詞であり、普通名詞という二重性を持っている。
地名は、土地に関わりを持つ人たちの、様子を知ることが出来る。つまり、土地に付けられた名前であり、土地との関わりをもつ人達の固有の名前です。また、土地の関係を物語る媒介物である。
 地名の研究については、今まで歴史学、地理学、民俗学、国文学など、色々な分野から研究がなされています。この地名が新しい住宅開発などによって現在消滅の危機に瀕しています。全国の大字および小字の地名が、消え去っています。
 明治維新のときの廃仏棄釈にも匹敵すると言う学者の先生もいます。これら地名消滅の危機からすくうためにも、地名への強い関心を喚び起こす必要があります。最近、市町村合併の動きが出ていて、市町村の地名が焼失してしまいそうです。
 色々な知恵を出し合って祖先から伝わっている地名を残すように工夫して頂きたいものです。そうでないと一度なくなった地名は、二度と復活することがなく忘れ去られる運命になるからです。
 合併により市町村名や地域の個性や地域性が薄れて、愛着がなくなるという懸念があります。合併により名前が一部なくなるので、この機会に地域の歴史や伝統文化などを貴重な資源としての活用を図り、住民自らが主体となって魅力あるまちづくりを進めねばなりません。      平成14年3月1日

「京都地名研究会」発足にあたって                 

                                            「京都地名研究会」設立総会挨拶から   代表理事 吉田金彦 

                                                                        

新緑の良い季節を迎え、皆様、益々ご健勝の程、お喜び申し上げます。
本日はここに、京都地名研究会発足に当たり、御用も多々御ありの中を、態々ご来会賜りまして、誠に有難うございます。各地の先輩各位や、府下内外の多くの有志のご声援によりまして、漸く、会の出発できます事は、この上ない喜びであり、幸せな事として、同慶の念で一杯であります。
京都地名研究会なるものは、実は、今から十五年前の昭和六十二年に一度、設立された事がありました。その提唱者は京都市の郷土史家松本利治翁で、研究会もその六月に発足したのでしたが、氏は大作「京都市町名変遷史」の研究に取り組んでおられ、暫くの研究会も、氏の逝去と共に続かなくなりました。私共の非力から、氏の後を継続できなかった事は、とても残念な事でしたが、しかし十五年後の今日、振り返ってみて、その間が失われた空しい時間だったとも、思われません。開設五年の語源研究会で忙しくしていた私の研究内容は、その当時結構、地名がテーマになってもおりました。
昨年十月に川崎市で全国地名研究者大会、同じく十一月に京都で日本語語源研究会、共に創立二十周年を迎えて、それぞれに記念の大会が開催されました。同時スタート兄弟学会のような関係でもありましたから、全国地名を主宰なさる民俗学の谷川健一所長を迎えての語源大会は、大いに盛り上がりました。その折に谷川氏の強い要請がありまして、矢張り、京都にも地名の学会を、と言う声が燃え上がったしだいです。京都地名研究会の名が、ここに再び復活することになったわけで、思えば、谷川氏の激励の賜物だったと、厚く感謝しております。

語源研究者の中にも沢山の地名研究者が居られる。京都には大学人も多いし、歴史や地理の話題には事欠かない。京都府下一円を中心に、及ぶところ遍く広く、府市町村民挙って集まり、地名のことを勉強しようと言う事になりました。
 地名は、其処に人が住んでいます。人が住み、暮らし、生産したり、遊んだり、そして死んでゆく所です。そんな大地に名付けして、地名を日常茶飯事に使っています。ですから、地名の主人公は住民です。私共は、すっかり慣れっこになって、ややもすると無限の恩恵を受けている大地を忘れがちな様に、此れ無しに暮らせない必需の地名の大切さを、忘れていませんか。主人公が呼んだ今までの名前を、いい加減にしていませんか、など反省しますと、地名の研究はとても深く、根本的に重要な事だ、そして同時に厄介な事だ、と考えられてきます。

地名は大地に刻まれた歴史だ、とよく言われます。それ程重要なのに、スローガンほど地名学が、現代日本の科学の中で、確固たる地歩を占めてはいません。重要性は認知していても、学問体系に沿わない為か、これを正面から取り上げる人が、きわめて少ないのです。地名研究は従来、地理学や歴史学、その他諸学の関連的研究として、また熱心な郷土史家達の努力によって、行われてきました。その成果は、今日、大きな地名辞典として幾つか出来ていますが、今の日本の大学に、地名大学や、地名学部・地名学科など聞いた事がありません。国際交流とか、学際研究とか、総合研究とか、色々に叫ばれてはいますものの、地名に着眼し、そこを基点に発信する着想は、まだ無いようです。
ただ嬉しい事は、近年、その閉塞状態を打開しようとして、環境学とか、地域学とか、そういう名で呼ばれる提唱が、あちこちで起こってきた事です。もう従来の学問の方法論では駄目だ、と言う事に気づいたのでありましょう。そして、私の立場から、口幅ったい事を言わせていただけるなら、更にもう一歩踏み込んで、それら環境学なり、地域学なりに、地名という言葉の視点を重視して、それを是非加えて欲しいと言う事です。言葉の視点から、歴史を見る、地理を見る、と言う事で、歴史や地理の真相に迫れる事が、案外に多いのではないでしょうか。専門の歴史や地理学者が、地名については誠に幼稚な意見であったり、誤解をしている例が少なくないのを見るに付け、遺憾に思うことがしばしばです。此れの責任は、現時点であえて言えば、国語学や言語学に於ける地名分野の研究の欠落にありと言えましょう。
以上のような反省に立って、諸学手を繋いで、同じ目線で等距離に、地名を対象として調査・研究し、その過程と成果を公表・普及させ、学習・教育にも応用してゆきたいと、考えます。

地名研究は、まず自分の足元から。そして、歩いていく先々の地名まで。懐かしい故郷の地名、旅先で見つけた珍しい地名、変わった名前や読めない漢字の地名など、ぐるりにある地名の謎に、挑戦してみましょう。そこから、きっと新しい知識が開け、ゆとりのある心が育まれていくと、思います。
地名は、寺社が文化財であるのと同じに、貴重な文化財です。日本の地名は、日本人の心のこもった<心的文化財>であります。大小に関わらず、有名無名に関わらず、どこの地名もみな文化遺産です。ですから、これの取り扱いには良く勉強して、取り掛かりましょう。その為にも、データを保存し活用する施設、地名資料館と言うようなものが、京都府には当然、必要になりましょう。
京都における地名研究は、ソフト面でもハード面でも、あらゆる分野にわたる重要な意義がありますが、全てこれからです。意義有る本日の発会に、ご来駕賜りました来賓、メッセージを頂きました各位、ご多用中をお集まりいただいた会場の皆様に、篤く感謝申し上げ、今後とも宜しくお願い申し上げます。 

<シンポジウム> メインテーマ「秘められた南山城の地名を探る」 

地名を探る」を開催しました。このシンポジウムにより南山城の古代地名を明らかにされ先進的な地域であったことがわかりました。

日本語と日本文化の起源を知るには、地名への関心が一つの
大きな意味を持っています。文献の記録をもとに、土地の伝承に耳を傾け、南山城の古代地名を明らかにされました。

開催日: 平成15年10月19日(日)

時 間: 午前10時~16時30分 

場 所: 京田辺市立中部住民センター  メインホール(収容人員200人以上)

      〒610-0311京都府京田辺市草内美泥22-2 0774-64-8810

<交通アクセス> JR片町線 新田辺駅・近鉄京都線 新田辺駅下車

1.近鉄バスターミナルより 京阪宇治又は奈良交通バス(約8分)「草内口」下車すぐ

             草内行き8:30 9:00 9:30

2.JR新田辺駅より東へ徒歩約18分・近鉄新田辺駅より東へ徒歩約15分 

3.自家用車の方は、国道307号線 山城大橋の東側(駐車場30台)

   ■来聴歓迎(事前申し込み不用)、小冊子資料代:会員無料、非会員500円(当日徴収)

  10:00~ 10:10 総合司会:地名研究会 糸井道浩 (入口でシンポの質問用紙配布)

開会あいさつ:主催 京都地名研究会常任理事

                     共催 京田辺市郷土史会会長

【基調講演】 10時10分~12時30分 

10:10~11:20「神功皇后伝説のふる里を探る―南山城の“息長(おきなが)”の地名を手がかりとして―」

           塚口義信 堺女子短期大学 学長 (日本古代史・文化人類学)

11:20~11:25  休 憩

11:25~12:05「竹取物語ゆかりの筒木について」

小泉芳孝 京田辺市郷土史会理事 (日本民俗学 郷土史家)

12:05~12:30 「南山城の神社と伝承について」

石田天祐 日本語語源研究会 ㈱ギルガメシュ(幻想創作家 相撲史研究家)  

休憩12時30分から13時20分(昼食・シンポの質問用紙回収)

周辺食事出来る所少なく弁当持参して下さい。

【シンポジウム】 13時30分~16時30分

 テーマ「秘められた南山城の地名を探る」      

冒頭コメント:

「つぎねふ山代と河内との関係」-地名から仁徳・継体の筒城行幸の跡を考える-

吉田金彦 日本語語源研究会代表 姫路独協大学名誉教授

予定パネリスト:塚口義信 吉田金彦 小泉芳孝 石田天佑 斎藤幸雄

シンポジウムの司会  古川 章

シンポジウムの予定項目    途中の休憩でシンポの質問用紙回収

1.神功皇后伝説と“息長”一族それに継体天皇「筒城宮」

2.南山城の古墳(椿井大塚山古墳・佐紀古墳群・飯岡古墳群)

山代の古墳出土鏡と被葬者は? 三角縁神獣鏡 神人車馬画像鏡

3.『古事記』に記す山代の地名・人名・祭神      
かぐや姫(かぐやひめ)大筒(おおつつ)木垂根王(きたりねおう)」「山代(やましろ)()大筒木(おおつつき)真若王(まわかおう)
山代(やましろ)()()名津比(なつひ)()
山代(やましろの)内臣(うちのおみ)」「山代(やましろの)大国(おおくに)之淵(のふち)」「山代(やましろの)内臣(うち)之祖(のおや)

4.『竹取物語』にちなむ地名「山本」「筒城」「山崎」「甘南備山」「三室戸」など
5.山代の渡来人に関する地名について(酒・絹織物・鉄・発酵食品)
6.仁徳天皇「奴理能美の家と皇后磐之媛(いわのひめ)

7.山代・山背・山城、筒木・筒城・綴喜、山代川・和訶羅(わから)河・輪韓(わから)河・泉川(河)・木津川など
  質疑・応答 16時15分から16時30分

京都地名研究会事務局 綱本逸雄から連絡事項の報告 

閉会あいさつ:京都地名研究会から

懇親会:17時30分~ 事前申込者のみ

主催:京都地名研究会   

共催:京田辺市郷土史会 京田辺市社会教育課内 0774-62-9550 

後援:京田辺市教育委員会、㈱京都新聞社、京田辺市観光協会、かぐや姫の里を考える会、

協賛:関西元気文化圏参加事業 (「関西から文化力 POWER OF CULTURE」ロゴマーク使用)

問合せ先

○日本語語源研究所        600-8429 京都府京都市下京区御供石町360
          当会代表理事 吉田金彦(方)Tell&Fax 075-361-8812
 

○京都地名研究会HP      HP担当 広報係 


【基調講演の内容】

テーマ「神功皇后伝説のふる里を探る―南山城の“息長(おきなが)”の地名を手がかりとして―」塚口義信

古事記や日本書紀それに風土記などに記されている神功皇后伝説や息長氏、あるいは応神天皇や継体天皇などの古代天皇を研究している塚口義信氏から「古代山城南部の歴史」、特に「南山城の“息長”一族」についてお話ししていただく。塚口氏によると、神功皇后の系譜や伝承は、滋賀県坂田郡の息長氏が有力になる6世紀以前から山城南部の“息長”一族によって伝承されてきたものであり、この一族は息長帯比売の陵墓伝承のある、大和三大古墳群の一つとして有名な佐紀古墳群と深い関わりを有しているという。京田辺市にある普賢寺の山号は息長山であり、朱智神社の祭神「山代之大筒木真若王」(「山代」「筒木」に由来する名前)をはじめ神功皇后の系譜に山城南部の地名に由来する名が多く登場する。これは、山城南部の“息長”一族がこの伝承を語り伝えてきたからであり、6世紀初頭に継体天皇が筒城宮に来たのも、この一族と近江坂田郡の息長氏が継体を支援していたからである。

“息長”“綴喜”“高木”“綺田(かばた)”などをはじめとする南山城の地名を手がかりに、神功・応神伝承の謎を解き明かすとともに、4~6世紀における山城南部の政治集団とヤマト政権(畿内政権)との関わりについて考察していただく。
塚口氏紹介-堺女子短期大学 学長、文学博士。1946年大阪府生まれ。専攻:日本古代史・文化人類学。
関西大学第一高等学校・第一中学校教諭、関西大学講師など歴任。主な著書『神功皇后伝説の研究』(創元社)『ヤマト王権の謎をとく』(学生社)『古代王朝をめぐる謎』(学生社)『三輪山の古代史』(学生社)『三輪山の神々』(学生社)『古代天皇のすべて』(新人物往来社)など。

テーマ 「竹取物語ゆかりの筒木について」 小泉芳孝

京田辺市に伝わる伝承や社寺の本源記、それに個人が持っている古文書を見ていると。実に古く神代の時代のことが多く書かれている。

これらの内容が何時の時代に、どのように、どういう意図を持って書かれたのか今まで解からなかった。
ところが最近、堺女子短期大学の塚原義信学長の著書『やまと王権の謎をとく』などを読んだ時、今まで何となく目にして来た地元に伝わっている伝承や、古文書などに書かれていることが私の頭の中で繋がり、『古事記』
に記す山代(やましろ)()大筒木(おおつつき)真若王(まわかのみこ)」「大筒木(おおつつき)垂根王(たりねのみこ)」や、『日本書紀』に記す「筒木の韓人、名は奴理(ぬり)能美(のみ)」「仁徳天皇の歌と磐之媛の答歌」それに、その後の出来事などが私の頭の中で具体的なイメージとして浮かび上がってきたのである。

それとともに最近、京田辺市郷土史会で取り組んでいる『竹取物語』かぐや姫の里“京田辺”の『古事記』垂仁記に記す「大筒木(おおつつき)垂根(たりねの)王之女(みこのむすめ)迦具夜(かぐや)比売(ひめの)(みこと)」も架空の人物でなく「筒木」(筒城・綴喜)に居住していた人で、大筒木垂根王は筒木を舞台に活躍した実在の人物であったことがわかった。
また、延喜式内朱智(すち)神社の祭神や息長山普賢寺それに甘南備山、継体天皇の「筒城宮」などから、『竹取物語』ゆかりの筒木が山代地域において重要な位置を占めていることに気付いた。
小泉氏紹介-京田辺市郷土史会理事、㈱京都放送勤務。1947年京都府生まれ。近畿大学法学部法律学科卒業、佛教大学文学部史学科卒業、専攻:日本民俗学・郷土史。京都民俗学談話会会員、京都府立山城郷土資料館友の会。主な著書『稲作民俗の源流-日本インドネシア』(文理閣)。主な投稿『竹取物語“かぐや姫の里”京田辺』京田辺市郷土史会編・『京都民俗』京都民俗学談話会会誌・『筒城』京田辺市郷土史会報など。

テーマ 「南山城の神社と伝承について」 石田天祐

私は、南山城に関する記紀神話や万葉集それに祭神など言語学の分野から迫ってみる。現代の山城における地名は、古代日本語・やまとことば・中国語・古代朝鮮語・満州語などあらゆる分野の言語から分析しないと解明できない。各地の地名や人名それに祭神などについては、派生語や母音交替形・同音同義などから言語や語根を解読していかなければならない。

それらの中から南山城における各種神社の伝承について地名や祭神がどのようにかかわっていたのかお話しする。特に継体天皇や仁徳天皇と渡来人との関係や、歴史上は神話とされている神社の祭神など言語学から見た南山城の歴史を述べる。この地域は、歴史上かなり古くから栄えていたところであり一般の歴史書には記されていない。しかしここには古くから南方や中国大陸それに朝鮮半島から渡来人が住み着き神功皇后や息長足姫に関係する地名や伝承が残っている。
石田氏紹介-㈱ギルガメシュ代表。1943年静岡県生まれ。京都大学文学部言語学科卒業、同大学院修士課程終了。相撲史研究家・幻想創作家。日本語源研究会・総合文芸誌「まほろば」編集長。著書『イグドラシルの言語学 -やまとことばの源流を尋ねて』『義留我(ぎるが)明主(めしゅ)の言語学 -続やまとことばの源流を尋ねて』(ギルガメシュ出版)・『忽然の人』(ギルガメシュ出版)・『マルドゥクの怒り』(ギルガメシュ出版)・小説集『風と馬と』(現代企画室)など。

【シンポジウム冒頭コメント】

テーマ「つぎねふ山代と河内との関係」-地名から仁徳・継体の筒城行幸の跡を考える- 吉田金彦

 京田辺市域の地名を調べて山代と山背の国名の由来を知り、奈良のほかに河内との関係が深いことを考えた。

そして枕詞ツギネフの意味も地名山代・山背の意味に即して決定することができる。伝承時代である仁徳天皇は、淀川・木津川を経て筒城入りした。また継体天皇は、河内の国から山越えで山背にやってこられた。それらは地名で推理することができるのである。

 吉田氏紹介-日本語語源研究会代表、京都地名研究会代表理事。1923年香川県生まれ。京都大学文学部卒業。専攻:国語国文学。京都府立女子短大教授、大阪外国語大学教授、姫路独協大学名誉教授。著書:『日本
語語源学の方法』(大修館)、『古代日本語をさぐる』(角川書店)、『古代日本語を歩く』(弘文堂)、『京都滋賀 代地名を歩く』Ⅰ・Ⅱ(京都新聞社)、「ことばのカルテ」(創拓社)、「埋もれた万葉の地名」(東京堂)など。

パネリスト 「流域をめぐる史跡・伝承」 斎藤幸雄

木津川をめぐる歴史や文学(古代~近代)にこだわり、ロマンを求めてその伝承や史跡を探訪してきた。そういう中で多くの「南山城逃避行」現象を見いだした(古代より近世の徳川家康・熊沢蕃山にいたる)。磐之媛などもその一人である。市辺押磐皇子の遺児顕宗・仁賢天皇もそうだが、継体天皇もその視点で見ると面白いのではとったりしている。

また古伝承を、「水」を視点にしてとらえてみるのもその謎を探るうえで面白い。田辺の神功皇后不違池伝説、精華町の船長(ふなおき)伝説、山代大国之淵の娘(かに)戸辺(はたとべ)にまつわる亀石伝説、武埴安彦・忍熊王・莵道稚郎子等々。その背後に水系氏族の息長氏・和珥氏が介在、葛城氏や丹波の氏族もかかわる。 専門研究家ではないので、南山城の歴史ロマンを楽しむ立場からシンポシウムに参加できたらと思っている。

斎藤氏紹介-緑と教育と文化財を守る会(城陽市)副会長、枚方文学の会会員、1937年旧満州国生まれ。京都教育大学第二社会学科卒業、大阪府公立中学・高校に在職した。専攻:日本中世史(平家物語)、著書:『木津川歴史散歩』(かもがわ選書)、『続・木津川歴史散歩』(かもがわ選書)、『やましろ歴史探訪』(かもがわ出版)。枚方文学の会会誌『法螺』に「木津川歴史散歩」を連載(今は宇治川に視点を移している)。また古典文学を読む三つのサークルに所属し、平家物語や太平記を読み続けている。

シンポジウムの司会  古川 章

洛南艸舎文庫『洛南艸舎手づくり消息』を主宰し、第43号を数える。京田辺市役所で37年勤務し、今まで『京都府田辺町史』『田辺町郷土史社寺編』『田辺町近代誌』『田辺町近世近代資料集』の刊行。京田辺市郷土史会の『筒城』などの編纂や事務局を担当した。
今回シンポジウムの司会を担当することになり郷土史の素晴らしい歴史を各分野の専門の先生方や郷土史家の方たちと共に研究できることを嬉しく思っている。

  「新しい視点と展開に期待」

南山城地方は、近畿の中心地であり、加えて関西学術研究都市として20世紀は脚光を浴びた。そのため開発も著しく進み、考古学の分野や市町村史誌の刊行による古文書類の発掘なども進んだ。しかし、21世紀は、大陸からの渡来人の足跡など、黒潮文化の解明を深めなければならないと思われる。こうしたとき「秘められた南山城の地名を探る」は、自宣を得たテーマといえる。
 バネラーの諸先生方の新しい視点として南山城のこれまでの南北軸文化に加えて、東西軸文化の幕開けにふさわしいシンポジウムであろう。

    当日配布する冊子の内容です。

140ページにも登る貴重な資料です。
    シンポジウム 「秘められた南山城の地名を探る」
            編集・発行:京都地名研究会 Kyoto Circle Toponymy 
            編集協力:京田辺市郷土史会

 

別冊1号(京都地名研究会)

シンポジウム 

「秘められた南山城の地名を探る」

       平成15年10月 1日印刷

          平成15年10月10日発行

   発行 京都地名研究会

   編集  京都地名研究会常任理事 

  編集協力 京田辺市郷土史会 

           【京都地名研究会代表理事】

600-8429 京都市下京区御供石町360
                          日本語語源研究所 吉田金彦

【京都地名研究会HP】HP担当  広報係 小泉芳孝 

     

 ここに掲載の写真および記事の無断転載を禁じます。

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別冊1号(京都地名研究会)シンポジウム 
「秘められた南山城の地名を探る」
 平成15年10月 1日印刷
   平成15年10月10日発行
   発行 京都地名研究会
   編集 京都地名研究会常任理事 小泉芳孝
  編集協力 京田辺市郷土史会 


 ■冊子の販売について

 この冊子は、メインテーマ「秘められた南山城の地名を探る」における基調講演とシンポジウムのレジュメ及び資料(A4サイズ 134ページ)として作成いたしました。編集担当者としては、当初レジュメのつもりで取りかかったのですが、先生方の熱意により沢山の貴重な資料をご提供いただきましたので別冊1号として仕上げることにしました。各先生方のご協力により貴重な研究資料を提供して頂きましたことを、この場を借りてお礼申し上げます。 この冊子が南山城地域における歴史解明の為の資料として役立てることが出来れば幸いです。

 なお、この冊子の作成にあたっては、編集者個人の費用で作成しました。
 このため書店では販売されていません。このたびこの冊子をほしいという方が多数ありましたので、郵便振された方にのみ残部を郵送で特別にお送りすることにしました。
 この冊子は、関係者の間で3000円の価値があると言われています。また、この分野を研究されている方にとっては、9000円の価値があるとも言われています。
 申し訳ありませんが、先着順とさせて頂きますので下記をお読みになってお手続き下さい。






タイトル 別冊<シンポジウム>「秘められた南山城の地名を探る」
                 発行 平成15年10月19日
■上記のシンポジウム資料(レジュメ兼資料)を、
一冊2000円(本代+郵送料+封筒込み)にて残部をお送りすることにしました。ただし
メールで事前に希望された方のみ1500円(本代+郵送料+封筒込み)にて残部をお送り
することに致します。  
下記の郵便振込 講座番号にお送りくださった方には、特別割引の1500円でお送りさせて頂きます。

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先着順です、売り切れの時はお許し下さい。  
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一冊2000円のところを特別割引1500円(本代+郵送料+封筒込み)でお送りいたします。


下記の郵便振込 講座番号へお送りください。
  『郵便振込』 講座番号 00920-7-40389
         加入社名 小泉芳孝
         通信欄  別冊 シンポ資料冊子 希望

     なお発送は、上記が当方に到着しだい発送させて頂きます。 
 
お問い合わせは、ここへメールをお送り下さい。


  『竹取物語』”かぐや姫の里”京田辺” (その1)  「竹取翁博物館」 メインへ

 「かぐや姫の里・京田辺」の歌       「かぐや姫の里」ビデオ動画講座


発行者:京田辺市郷土史会 文化部会「かぐや姫の里を考える会」は、
「国際かぐや姫学会」となりました。
 
   発行責任者:理事 小泉芳孝(日本民俗学・郷土史研究家) kyoto japan
   「竹取物語研究」竹取の翁・かぐや姫 から発信しています。
 
竹取翁博物館大筒木出版 「国際かぐや姫学会」movie
   場所:〒610-0313京都府京田辺市三山木直田1       代表者小泉芳孝
  JR片町線「JR三山木駅」東へ徒歩3分  近鉄京都線「三山木駅」東へ徒歩2分
  
TEL・FAX 0774-62-2522 携帯 090-6961-9391
  HP http://taketori.koiyk.com/
Mail koiy@leto.eonet.ne.jp
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