「かぐや姫の里を考える会」ホームページ開始:平成15年7月開設
 
 『竹取物語』”かぐや姫の里”京田辺(京田辺市郷土史会)  

超古代文明 86.日本は世界文明発祥地「竹内文書と民俗探訪」(出版記念シンポ) 竹取物語「第4回かぐや姫サミット」Kaguya-hime Summit Vol.4 竹取翁博物館2016.1.15
   【YouTube】 https://youtu.be/DfHE9CJUeVA
    http://taketori.koiyk.com/haku-4shinpo.html
超古代文明 87.日本は世界文明発祥地「日本のルーツ“ムー大陸と里帰り”」 (出版記念シンポ)竹取物語「第4回かぐや姫サミット」Kaguya-hime Summit Vol.4 竹取翁博物館2016.1.15
  【YouTube】 https://youtu.be/bOFM7a6E0EM
   http://taketori.koiyk.com/haku-4shinpo.html 
  



 
『竹取物語』”かぐや姫の里 京田辺 (その2)
  

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『竹取物語』発祥の地は、どこか?

 「今は昔、竹取の翁という者ありけり」という出だしで始まる竹取物語は、作者未詳で平安初期にできた最古の物語として有名です。物語のふるさとは、今まで奈良県広陵町であったと今まで言われてきました。それは、物語に竹取翁の名前を「さかきののみやつこ」なのに「さるきののみやつこ」と書いた物も見つかり、「さるき」では解らないので「さぬき」と勝手に書き換えて「讃岐の造」と大手出版社もされてきました。つまり竹取の翁の名が「さぬき」と書き換え讃岐神社が広陵町にあったからです。
 しかし20年ほど前、京田辺市郷土史会の会員や同志社大学名誉教授の森浩一氏、京都府立大学名誉教授の門脇禎二氏、地名研究会海中で名誉教授の吉田金彦氏らが、古事記には、開化天皇の孫「大筒木垂根王(おおつつきたりねのみこ)」とその娘「迦具夜比売命(かぐやひめのみこと)」の名が記されていて京田辺が発祥地であり舞台とされたところだとわかり、「迦具夜比売命」が実在した人物であることもわかりました。
 さらに竹取翁の家は「山もと」とあり、また竹取の翁は最初「さかきの造(みやつこ)」と呼ばれ神事に関係していた名前だとされ、京都府京田辺市三山木の通称名「山本村」周辺が発祥の地であると断定されました。
 参考までに竹取物語が出来た平安時代時代からある竹は、破竹・真竹でなければなりません。京田辺は、隼人が奈良時代に真竹・破竹を持ってきて植えられました。向日市などに多くある孟宗竹は、江戸時代からのもので竹取物語の舞台とされた所ではありません。
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 かぐや姫サミット

 日本最古の物語である「竹取物語」は、ロマンと夢あふれる物語だけに全国7市町の長が一堂に会して、地域産業の活性化と浪漫に満ちた輝くまちづくりを推進するためのシンポjジュームを3年に一度開催されています。
この『かぐや姫サミット』は、かぐや姫の発祥地とは関係なしに、文化と産業が融合した文化の香り高いまちづくりをめざし、参加7市町の地域間交流の場をめざしている。
 これまで単独で行なわれてきた町づくりの枠を超え、参加市町が互いに情報交換を行い、人的・物的(物産等)交流を通じての全国規模のネットワークを構築し、互いに連携して活性化を図られています。
 全国の自治体が、それぞれの文化・歴史・自然・風土などを生かした個性豊かな独自のまちづくりに取り組んでいる中で、町を含んだ11の市町村が「かぐや姫」という共通のテーマでまちづくりを行っています。
これら11自治体のうち7つの市町が参加して「第1回かぐや姫サミット」を奈良県広陵町で開催され、作年で8回目を迎えられました。

かぐや姫サミット会議            
日本人に広く親しまれ、日本最古の物語である「竹取物語」が、ロマンと夢あふれる物語「かぐや姫」という共通のテーマにあやかって町づくりを行っている3市4町の長が一堂に会して、地場産業の活性化のためサミット会議を開催されている。
この会議は、かぐや姫の里とは関係なしに
、産業振興の為に開催されているものです。
開催テーマ 「まちが輝くとき、ひとが輝くとき」

主な参加市町の自治体名、
参加市町村名
  (1)鹿児島県宮之城町 (2)広島県竹原市 (3)岡山県真備町(4)香川県長尾町
 (5)京都府向日市
  (6)奈良県広陵町 (7)静岡県富士市

静岡県富士市富士山

 駿河湾を始めとする豊かな自然環境があり、静岡県の中核都市として発展し艇ます。富士山の湧水は
富士五湖とともに生活と産業の生命線となっている。

 富士市の伝説は、鎌倉時代に出来たもので不思議な石碑があり「竹取塚」と言う文字が刻まれています。
かぐや姫の竹藪や、翁のお墓や「赫夜姫」(かぐやひめ)、「籠畑」(かごはた)、「見返し坂」(みかえしさか)などの地名が残っている。この他、かぐや姫が富士山に登ったという小道が残っているようです。
 かぐや姫に関係する神社としては、富士山の六神社の一つ「富知六所浅間神社」があり、翁の神社として「滝川神社」が、かぐや姫の母の神社として「今宮浅間神社」もある。 
これら富士市のこれら伝説は、平安時代でなく鎌倉時代に作られた物とされています。

吉田敏保 さんから以下の情報を頂きました。(2003年4月29日 8:49)

静岡県富士市にもかぐや姫の話しがあります。
富士市にはかぐや姫の話がいくつかあるのですが、土地柄富士山も出てきます。とてもユニークな話です。
そのひとつを紹介しますと、「昔竹取の翁が竹を取りに竹やぶへ。そこで竹の中にとても美しいお姫様がおりました。
家につれて帰り大切に育てるととても美しく素晴らしいお姫様になりました。その美しさの評判を聞いた国司と姫は結婚するのですが、しばらくして姫は縁が尽きたと富士山へ去っていきます。
姫が去ったことに嘆きかな死んだ国司は姫を追って富士山へ登ります。すると頂上に大きな池がありその中に美しい宮殿がありました。その宮殿のなかから姫が顔をのぞかせると、とても人類とは思えない容貌になっておりました。
このことにショックを受けた国司は池に身を投げて死んでしまう」と言うお話です。
このほかのお話もなかなかユニークです。詳しくは「吉原市史」に紹介されています。

京都府向日市

 向日市は、京都の西南部に位置し、西山には、江戸時代かにの孟宗竹が続く丘陵があり、筍の名産
地として知られている。今から、約1200年前の784年に桓武天皇が、奈良の平城京からこの
向日市に遷都され794年に平安京へ移るまでの10年間「長岡京」の都があった所です。
 この孟宗竹の筍の産地として売り出す為に、西山の竹林にある「トリムコース」としては、
竹のトンネルを作りジョギングや散策コースとして市民に親しまれている。
 向日市商工会は「竹林の里」と題して、向日市特産の竹を売り込こもうと竹産業振興協議会の協力
でミレニアムイルミネーションに取り組んでいる。この催しには、市内の竹林で伐採した孟宗竹三
本に各二千球の黄色系の電球6000個を取り付けた「竹ツリー」をJR向日町駅前で毎日日没か
ら午前零時まで点灯している。

 平成4年からは、「竹取物語」の登場人物の衣装を着飾った「かぐや姫行列」が市内を練り歩き、
平成6年には「竹」を取り入れた和太鼓「向日かぐや太鼓」が創設された。
 毎年、向日市まつりと同時に実施される「かぐや姫行列」は、かぐや姫や竹取の翁など「竹取物
語」の登場人物に扮した市民が大極殿跡公園から競輪場まで歩く王朝絵巻を繰り広げている。
 平成6年に伝統芸能として創設された「向日かぐや太鼓」は、太鼓の胴に孟宗竹を使った和太鼓
を、「向日香夜衆」により演奏され、郷土芸能の一つとなっている。
 平成13年には、観光客の増加を図るため竹産業振興協議会の協力で竹林公園に抜ける竹林道に
竹穂垣を巡らせた散歩道「竹の道」を約500メートルもうけた。

奈良県広陵町
 
広陵町は古い歴史と文化にめぐまれ、120余りからなる馬見古墳群や、数々の寺院があります。
平安時代初期にできた延喜式神明帳に記載されている神社として讃岐神社を見つけることができます。また、大阪まで直線30kmの距離で、最近はベットタウンとしても急速に開発が進み、古い町の良さと新しい町が共存する町として発展している。

 
岡山県真備町

 古代吉備文化の発祥の地で、「吉備真備」のゆかりの地として知られています。豊かな自然と温暖
な気候は、名産品を生み出しています。 県下最大のたけのこの産地である真備町は、吉備真備の生
誕地として知られている。まちづくり事業としてまきび公園・記念館、竹工房など新しいシンボル
ゾーンの設置を行っている。

香川県長尾町

 長尾町は瀬戸内気候に属していて、雨が少なく温暖な気候です。地形は、細長い帯状で南北に長
く、南部には讃岐山脈が東西に走っている。ここは「竹の町」として親しまれ、四国霊場八十八ケ
所結願大窪寺、八十七番札所の長尾寺があります。
 毎年10月には「かぐや姫カーニバル長尾」が開催されている。

広島県竹原市

 瀬戸内海の温暖な気候に恵まれ、江戸時代に開かれた塩田によって財をなした豪商たちの家並みが
残されていて当時の繁栄を今に伝えている。広島空港・山陽自動車道も近くて、四国への玄関口
「竹原港」とあわせて交通の要衝の地でもある。

1963年に選定市章は竹を題材とし、竹の輪は市民の和を表し、三方に広がる笹は平和で豊かな、繁栄を象徴している。   
 竹の館は、外観に竹をイメージしたホールで270本の竹を束ねたパルプオルガン風で、竹に関する民族行事を紹介するコーナーや、竹の資料、それに工芸品を収集展示する竹工房などが設置されている。
 竹原市歴史民俗資料館の北側には、竹、笹などの植栽のある休憩スペースがあり、竹原の地名ゆかりの竹類、建仁寺垣などでイメージした広場などが設置されている。
 まちなみ竹工房では、毎日竹かごなどの竹工芸品の製作現場を見学できるほか製品展示や販売もしている。また会員の指導を受けながらの竹かご等が作れる体験コーナーもある。
 毎年5月3日・4日に町並み保存地区の小梨町小吹で「
たけはら竹まつり」が行われ、和服の「竹原娘」や「たけはらかぐや姫」が「ガン封じ笹酒の振る舞い」の接待や、竹細工教室、たけのこ料理、たけのこ狩り、酒蔵結婚式などが行われている。
 たけはら美術館は、市及び芸南地域の芸術・文化振興の拠点として、市出身の元内閣総理大臣、故池田勇人氏が愛蔵され遺族から寄贈された美術品(池田コレクション)約150余点を収蔵し展覧している。
館内の中庭には、「竹の街たけはら」にふさわしく竹の庭園を設けられている。

鹿児島県宮之城町

 宮之城町は、鹿児島県西北部の大河川の流域に位置する町である。
この宮之城町の村おこしグループ「みやんじょチクリン村」は、孟宗竹の「竹」をテーマとした活動を展開している。
 観光客の受け入れとして「宮之城伝統工芸センター」、「かぐや姫の里」等を整備し、若者を主体とした「竹のふるさと宮之城夏まつり」や「竹のふるさとみやんじょフェスタ」等のイベントを開催している。
 町の竹林面積が633haを占め、孟宗竹林の面積は524haと日本一の面積を誇っている。
  また、早堀り筍をはじめ青果用筍は、町の特産品となっている。竹工芸の竹製花器の生産も日本一で、 「竹」をテーマとした町おこし活動を展開している。
 町の「まちづくりマスタープラン」や、町総合計画において「竹による町づくり」、「竹を活かした町づくり」が掲げられ、全町民と行政、団体が一体となった町ぐるみ活動を発展している。
 毎年「竹のふるさと宮之城夏まつり」、「竹のふるさとみゃんじょフェスタ」など入洛客1万人を超えるイベントを実施している他、中国の竹郷安吉県と友好交流盟約を締結し、文化、教育、スポーツなどの交流を開始する等、多彩な取組を展開している。


第三十八回京田辺市民文化祭  
『竹取物語』かぐや姫の里「京田辺」

『竹取物語』の『写本・復刻版・銅版・研究書籍』展示 

小泉芳孝
 京田辺市郷土史会では、昨年に引き続いて2004年11月6日〜7日の「第三十八回京田辺市民文化祭」で『竹取物語』かぐや姫の里京田辺と題した展示を行いました。
 今年は、日本で出版されている『竹取物語』の和本・写本・木版画や主な研究文献それに参考書籍などを展示するとともに「かぐや姫サミット」の全国七市町も紹介しました。
展示には、広島県
竹原市の「かぐや姫美術館」山口館長所蔵の写本や写真を提供して頂きました。また当郷土史会会員所蔵の本も展示しました。 

山口館長所蔵の『写本・復刻版・銅版』展示品

『蓬左文庫蔵竹取物語』【1600年頃書写の復刻版】[日本古典文学會慶長年刊]

『通行本挿絵入竹取物語 二巻』【1710年 茨城多左衛門板】[宝永七年刊]

『竹取物語抄 二巻』【1784年 柳原喜兵衛版】[天明四年刊]

『松梅竹取物語 拾二巻』【1789年〜 山東京山作 浮世絵歌川國貞画】[寛政年刊]

『竹取翁之図 一枚』【1830年頃 中島来章画 古梅俳句 木版俳諧摺物】[天保年刊]

『竹取翁物語解 六巻』【1831年 田中大秀著 本居太平・坪内雄蔵序】[天保二年刊]

『竹取物語俚言解 二巻』【1857年 佐々木弘綱著】[文會堂記、安政四年刊 注釈本]

『竹取物語考 一冊』【加納諸平(文化3年〜安政4年)著 和本】[大正十五年]

かぐや姫サミット

 『かぐや姫サミット』は、文化と産業が融合した文化の香り高いまちをめざし、参加七市町の
地域間交流の場となっている。
「竹取物語」ゆかりの全国七市町の長が一堂に会して、地域産業の活性化と浪漫に満ちた輝くま
ちづくりを推進するためのシンポジュームは、三年に一度開催されている。
 サミット参加都市は、東から静岡県富士市、奈良県広陵町、京都府向日市、香川県長尾町、 岡山県真備町、広島県竹原市、鹿児島県宮之城町の七市町です。
「かぐや姫の里」としての目的
当会は、会則で記されている「郷土の歴史の研究と文化財の保護に努め、文化の向上に尽くす
ことを目的とする」とあるように、歴史の調査・研究をして資料の発掘や文化財の保護をし、
それらの成果を機関紙や書物を編纂して発行するのを目的としています。今後も京田辺市に残る
かぐや姫伝説を更に掘り起こし「かぐや姫の里」としての研究調査取り組みたく考えています。

※『竹取物語』に関する主要な伝本・写本・注釈・和本・研究書籍を紹介した。

『竹取物語 金銀泥彩色 二十五図 三巻』(江戸中期写)

『昔話と文学』柳田国男、創元社、1938(S13)

『竹取物語の研究 本文篇』新井信之著 国書出版、1944(S19)

『竹取物語全釈』市古貞次、紫乃故郷舎、1949(S24)

『竹取翁物語』吉田幸一篇、1949(S24)

『竹取物語』山岸徳平 田口康一著、法文社、1956(S29)

『竹取物語新解』武田祐吉編、明治書院、1950(S25)

『竹取物語評解改訂版』三谷栄一、有精堂出版、1956(S31)

『竹取物語』阪倉篤義校注 日本古典文學大系 岩波書店、1957(S32)

『詳解竹取物語』岸上慎二・伊奈恒一、東宝書房、1957(S32)

『竹取物語評解』岡一男、1958(S33)

『竹取物語總索引』山田忠雄篇 武蔵野書院、1958(S33)

『竹取物語(日本文学全書)』南波浩、1960(S35)

『竹取物語全釈』尾崎暢殃著 中道館、1966(S41)

『校註 竹取物語 訂正増補版』松尾聡著 笠間書院刊、1968(S43)

『詳解 竹取物語』岸上慎二 伊奈恒一著 桜楓社、1969(S44)

『竹取物語』片桐洋一校注 日本古典文学全集 小学館、1972(S47)

『竹取物語』久曾~昇篇 古典研究會叢書 汲古書院、1974(S49)

『天理図書館善本叢書 竹取物語』天理大學出版部、1976(S51)

『竹取物語』三谷栄一編 桜楓社、1977(S52)

『竹取物語』野口元広校注 新潮日本古典集成 新潮社、1979(S54)

『奈良絵本絵巻集 竹取物語』中野幸一解説 早稲田大学出版部、1987(S62)

『竹取物語全評釈 古註釈篇』上坂信男校注 右文書院、1990(H2)

『研究講座 竹取物語の視界』王朝文学研究会 新典社、1998(H10)

『タケノコ』はイネ科の植物
 竹の主な品種は「もうそうちく」「はちく」「まだけ」などがあります。
 タケノコは空気に触れると皮が黒ずみ、硬くなってしまいます。
「もうそうちくは竹の中でも最初に出荷され、柔らかくて品質が良い。中国の華南や台湾では乾燥させたものを「しなちく」として食べます。
時間とともにえぐみが出てくるようで、朝採りしたあと早く調理するのが美味しい調理方法だそうです。
栄養素としては、ビタミンB1、B2のほか、便秘やダイエットに効果のある食物繊維を豊富に含んでいますので成人病や肥満防止によいようです。

『 たけのこ 』の料理方法

 ”竹の子”は「朝掘ったらその日のうち食べた方がよい」と言われています。
 竹の子を長時間置いておくと、エグみが増すようで、このエグみの原因は土から掘って24時間程たつと2〜3倍に増えるようです。普通米ぬかと米とぎ汁をいれて一緒にゆがいてから調理するとエグみがぬかのカルシウムと結合して消えるようです。
 ”竹の子”の主成分は、蛋白質と炭水化物で不溶性の食物繊維が豊富のため便秘予防に役立ちます。また低カロリーのため美容やダイエット食として喜ばれています。
竹の子をゆでたときに出る白い粒は、デンプンとチロシンというアミノ酸の結晶なので、無害です。
 調理方法は、皮付きのままゆでられます。穂先は「姫皮」と呼ばれ、白くてやわらかいため、おすましなどに使われ、真ん中は煮物や竹の子御飯され下部は、硬いので、繊維質も豊富な部分でなので、薄く切って炒め物や煮物に利用されます。
 私は、竹の子を昆布やワカメで甘辛く長時間煮てワカメがトロトロになったのが好きです。皆さんは、どのような料理方法が好きですか?上記のカキコに書き込んでお送りください。この欄でご紹介いたします。


NHKニュース「かぐや姫」 竹取物語シンポシウム (平成13年9月22日放送)
「かぐや姫を主人公とした『竹取物語』の舞台は、一般的に言われている奈良県広陵町ではなく、京都府南部の京田辺市ではないか」という説を考えるシンポジウムが、京田辺市で開かれました。


「かぐや姫文庫」館長が来訪し見学 2003.5.24
竹原市の「かぐや姫文庫」の館長が京田辺市へ訪れ、竹取物語ゆかりの地を見学されました。

  山口真一氏さんは、「竹原市は特に竹取物語として関係した名所はないが、この京田辺市は、凄い所でここに来て物語に関係のある史跡などが多くビックリした。後日に中間をつれてビデオ撮影に寄せて頂きます。」と話され、大阪での経営コンサルタントの仕事に戻っていかれました。

 そして「この地域の竹取物語に関する歴史をバーチャルな映像にして公開すれば良くわかる」と話されていました。

山口真一氏さんの紹介
    ヒューマン・クリエイト・コンサルティング 所長

         プロフィール
昭和32年 広島県尾道市生まれ
昭和56年 慶應義塾大学商学部卒 マーケティング専攻
       ホンダ系自動車販社入社
昭和62年 米国IBM系日本法人入社
平成元年 住友ビジコン(現日本総合研究所)入社
平成 6年  ヒューマン・クリエイト・コンサルティング
       を設立し、経営指導活動に従事
       多くの若手営業マンを全国No.1に育成

 山口さんは数年前、竹原市にオープンした「かぐや姫美術館」(加藤慈念館長)に付設する「かぐや姫文庫」の館長も務めている。「そんな事ばかりしているせいか、どこか書生くさく見られることがあるんです」と苦笑い。現実は多くの上場企業の経営顧問を務めるなどビジネス業界では広く知られた人でもある。慶大商学部を卒業後、入社したIBMや大手経営コンサルタント会社でマーケティング戦略を研究。平成6年、郷里の尾道に戻って経営コンサルタント事務所「ヒューマン・クリエイト・コンサルティング」を開設。1ヵ月のうち25日は東京、大阪などへ出張、講演会なども精力的にこなしている。

 11月2日、尾道ゆかりの作家の文献を集めた「尾道文庫」をオープンした。千光寺山の中腹に住居を構える島居勝さんの協力を得て、同家の離れ家を改装。山口さんが収集した志賀直哉に関する文献・資料220冊などを収め一般公開をはじめた。
 経営コンサルタントの事業を営む傍ら、出身地尾道の歴史、文化に関心を寄せる山口さんは以前から林芙美子らゆかりの作家に関心を深め、関連の文献も多数集めて来た。「志賀直哉についても同様で、今年は同氏の30回忌にも当たることから、これを期しての文庫開設となりました」。
 機会があれば古本屋などに飛び込み、地道に収集活動を続けて来た。尾道文庫はその集大成で、北高時代の同級生で地元の寺の僧りょを務める加藤慈念さんとの共同企画で実現した。
 志賀直哉は明治45年から2年近くを尾道で過ごし、当時の生活模様なども織り交ぜた小説「暗夜行路」(新潮社)は代表作品。以後「早春」(小山書店)や「雪の日」(新潮社)など120の著述を残し大正期の青年たちに影響を与えた。こうした初版、復刻版120冊に加え、関連の研究書籍120冊を収集。図書館など公的な機関が予算を付けて、ともすれば在り来たりの収集に終わるのに対し、山口さんは直哉の知人らの遺族と会い、貴重な資料を譲ってもらうなど文字通り「地を這う」努力で集めたものが多い。
「個人の収集ですから、予算は限られています。でも、情熱でもって、幾らお金を積んでも譲って頂けない貴重な資料(書簡など)を集めることができました」。 開館は金、土、日曜日と祝日のいずれも午前11時から午後5時。入場料は200円。貴重な本を手に取って読むことができるほか、来年からは貸し出しにも応じる計画。本業は経営コンサル▽ヒューマン・クリエイト・コンサルティング(尾道市天満町13-9-505、TEL0848・24・2180)。


「竹取物語」発祥の地、「かぐや姫」伝承のとちとして、「おそらく、この主張は正しい・・!」

先日、八代新一さんから自著の『古事記に笠沙が載ったわけ』高城書房と「天羽衣と八幡の神」抜き刷りをお送りいただきました。
よく九州と大和などの各地を結びつけて論調されていて、自分流に良くまとめておられる著書だと思います。 
 また矢代さんは、「天羽衣と八幡の神」では、文中で「隼人舞」の発祥地だけでなく、自らの土地が「竹取物語」発祥の地、「かぐや姫」伝承のとちとして声高に主張しているのがインターネットでも知られる。見てきたところから、おそらく、この主張は正しいであろう。
 と帰されています。
 私のこのホームページをお読み頂いて、「おそらく、この主張は正しいであろう」といって頂き大変光栄です。すでに色々な学者の先生方から一応の賛同を頂いていますが、記紀の神話部分と地域を研究されている方からの「おそらく、この主張は正しいであろう」と言って頂けたのは本当にうれしいことです。今から、ホームページにこの部分を貼り付けたいと思います。
 矢代さんは、古事記・日本書紀を中心に色んな先生の本をお読みになっておられます。また自著の本の中でも「はじめに」で小さいころに習った歴史を紐解き、戦後の教育改革と変化した歴史観の中から南九州に残る伝承をたどり『古事記』などとつき合わせ他地域とも比較検討しておられます。そして『古事記』に書かれている内容が、地元の地名などと関連しているとされています。さらに、荒木博之氏の著書巻末解説に触れ、「民間伝承は、記紀という国家の介入した史書に止められる前の古形を示しているものか、あるいは逆に書承から口承と、述べられている」と記しておられます。まさに私と同じような疑問や関心をお持ちのようです。
 私達が述べている「竹取物語」発祥の地・京田辺市にしても行き着くところは、矢代さんらと同じです。地域を歩いて調べずに今までに習ってきた文献だけに頼っていては、私たちの言う説が分かって頂けないのです。歴史はその当時の征服者または権力者から見て書いた部分が多く残されています。とくに神話の部分に関しては、全てを否定する学者が今まで多くおられました。しかし最近では、徐々に認められるようになりました。この為それ以外の立場の人が書いた文献や地元の資料それに伝承や史跡なとからの民俗学や、さらには考古学の分野からも出土した遺物などから比較検討する分野が重要視されてきました。
 
南九州の古代史の通説を疑い新たな扉を開いた作品。
『古事記に笠沙が載ったわけ
 
小学校で古事記、日本書紀について学んだ時から、郷里「笠沙」が日本最古 の書であるこれらの本になぜ出てくるのか疑問に思ってきました。定年退職し て時間に余裕ができたので今そのことを調べています。
  著者: 八代新一
  出版社:高城書房  ISBN:4887770073
  サイズ:単行本 / B6判  343p
  発行年月: 2001年 01月  本体価格:2,000円 (税込:2,100円)

■中西進・・文学博士。成城大学教授を経て、アメリカ・プリンストン大学客員教授、筑波大学教授      、国際日本文化研究センター教授。トロント大学客員教授。大阪大学学長に就任。帝塚      山学院学院長。
『万葉集』は、史書ではない。したがって為政者の思惑や、編纂者の政治的立場はダイレクトに現れていない。
『古事記』は、史書である。編纂者の政治的立場が、いたるところに見え隠れしている。研究する者の"立場"が異なれば、その解釈は大きな違いとなって現れる。"史書"を研究する際には、特別な注意が必要である。
『古事記』上巻は、神話ではない。徐福集団の日本渡来(紀元前二一〇年)と、その子孫の"歴史"を描いた史書である。この仮説が、私の『古事記』観の基本をなしている。私にとって文学的研究は、"歴史"の真相を探る手段に過ぎない。
『古事記』や『万葉集』は、研究の素材である。その中で、『真福寺本古事記』の研究は、研究活動の中核をなしている。『真福寺本古事記』こそ、『古事記』本来の姿を伝える唯一の写本と判断するからである。この立場からすれば、本居宣長の『訂正古訓古事記』は贋作と考えられる。『古事記』を曲解、改竄した偽物である。
研究においては、〈仮説の提示〉を重視したい。自らの視点から"歴史"を読み、その真相を明らかにすべく仮説を提示する。
本来"歴史"とは、"書かれた過去"である。あらゆる"歴史"は、常に書き替えられる宿命を持っている。
それが、"歴史"の本質である。だからこそ、"歴史"は興味が尽きない。※『思索過程』2002年7月24日より


私の竹取物語HPを見られ下記のメールを頂きました。

前略、 HP の一部を拝読。秋山 彩香(あやか) 2002年5月5日 13:24
 
 件名 「翁」の考察
 最後に、ニッポンの昔話に一疑問を提起しておこう。それは、どうして「翁」(老人)なのか、という問題である。先述のように『竹取物語』の後段で翁自身が語るところによると、主人公は何と三十歳前で「翁」なのである。こぶ取り爺さん、桃太郎、花咲か爺さん、一寸法師、舌切りスズメ、等々、すべて老人が人間側の主人公である。これはいったい何なのか。こんなことも機会があれば、考えてみたい。

 日本国の正史・『日本書紀』&『続日本紀』 対 大倭(やまと)国の勅撰史書・『古事記』&『懐風藻』&『万葉集』はいずれも平安時代の大和朝廷(梨壺)に於いて統一性を計るための改竄・捏造・抹殺・隠蔽が行われていると思います。
 『日本書紀』&『続日本紀』はそれ以降の改竄・捏造・抹殺・隠蔽が多数と考えています。
さて、歴史的に見ても総合的な文化の香が最も高かった平安時代は、藤原北家【法華】の祖・房前(中衛高明閤下)の末裔達です。
 その房前の母は持統太上天皇(鵜野讃良皇女)ですが、別名があります。不比等妃の★石川娼子(しょうし)です。
娼婦の「娼」の字が宛てられている理由は、1)天武 2)大津皇子 3)不比等と三人にまみえたからにほかなりません。
1) 南家・武智麻呂は持統と草壁皇子の息子・軽皇子(天武の孫)、
2) 北家・房前は持統と大津皇子【人麻呂】とに生まれています。
   即ち、泣血哀慟歌(巻2・207〜219)は持統挽歌であり、「〜 我妹子
   【持統】が 形見に置ける みどり兒【房前】の 〜 (巻2・213)」と謳われ、更に【持統の和風諡号「大倭根
       子天之広之日女」折り込み歌】になっています。
3) 式家(祖は宇合)のみ、持統と不比等との子です。
  それはさておき、『万葉集』の【寓喩】から察すると、大津皇子【諡号は聖徳太子】=聖武天皇、です。

 聖武天皇 西暦659(±1)〜759年の数え年百一歳=『古今和歌集』序に依る☆生誕地は「住吉の遠里小野(現・大阪市南部の住吉大社付近。 巻16・3813の28句目)」
★終焉地は「隠岐島・島後・西郷町・加茂(鴨山の、かも。 巻2・223)」大津皇子(聖武天皇)の父は弘文天皇(大友皇子)、母は大田皇女【蘇我大王家の大王=額田王】です。
       柿本朝臣人麻呂が歌一首
   近江の海 夕波千鳥【弘文天皇】汝が鳴けば心も死ぬにいにしへ思ほゆ (巻3・268)

「千鳥」=【天智(系)鳥】の寓喩あり。

 この、大津皇子【諡号は聖徳太子】=聖武天皇(行基)、こそが「山柿の門」や「君臣合体」ゆえに、人麻呂の姿が老人(翁)なのです。なにせ、数え年百一歳なのですから。
 そして、貴方のおっしゃるように、「こぶ取り爺さん、桃太郎、花咲か爺さん、一寸法師、舌切りスズメ、等々、すべて老人が人間側の主人公」なのです。『伊勢物語』の「翁」も。
 平安時代の大和朝廷(藤原北家)の始祖【女系は持統、男系は(法華経を信仰した)聖武天皇(翁)】なのですから。

 聖武天皇は即位【天平17年。(16年に成立した『楽毅論』のサインは「藤三娘」)】前の、美努王時代に渡唐【701〜718年】しています。

 青によし奈良の都は咲く花【むろ女王(君臨者)】のにほふが如く今盛りなり (巻3・331)時の統治者は房前です。

「表意」=【寓喩に依る、裏意(真意)】
  「花」=【君臨者・太上天皇】
   「鳥」=【統治者・大臣(三公)】
  「風」=【君臨者・太上天皇】
  「月」=【統治者・大臣(三公)】

 蛇足
 花【中宮・太上天皇】の色はうつりにけりないたづらにわが御代にふるながめせし間に  小野小町勝鬘経(沙弥勝満=聖武天皇)や飛天図や捨身飼虎図が伝わった敦煌経由のインド行きを果たしています。
持統の出自は「阿修羅」のシュラーバースティ国です。孝徳天皇条に記載在り。
 島崎藤村はそれを知っていて「名も知らぬ遠き島より流れ寄る椰子の実一つ」の「椰子」=【持統天皇】、として作詞しています。

 なお、大和三山歌は邪馬人(やまと)三山歌の事であり、「かぐやま皇女」⇒「かぐや(ま)姫」へと。
「かぐや姫(天香具山)」=【弘文妃・大田皇女】、それを知っていた近松門左衛門は「「お山(女形)」と言っています。

 参考)  「天香具山」=【大田皇女】、「雲根火雄男志等(白文)」=【舒明天皇(藤原鎌足)】、「耳梨」=
    【大海人皇子(天武)】。

大田皇女(額田王)の母は、斉明太上天皇(鏡王女)であり、間人(はしひと)皇后でもありました。
間人(はしひと)=土師人=波子人(ペルシャ人)=胡【恵比寿=モデルは聖武天皇】、です。

      日本(やまと)国
「春」=【天智(隼人・突厥=トルコ人)系】=蚊帳(伽耶)の外

      大倭(やまと)国=邪馬人(やまと)
「夏」=【天武(物部)系】=上伽耶(うがや)
「秋」=【蘇我大王家】=下伽耶(あらがや)
「冬」=【藤原系】=朝鮮半島の百済・巨勢氏=「蝦夷(恵美氏)」・強いて訳せば「イラン人」

「夷(人)」+「胡(人)」=夷(い)と胡(こ)⇒従兄弟。

古典文学って、なんと奥深いのでしょうか……。   銀河秋彩
   ☆星のおじさま★      銀河 秋彩(しゅうさい)または彩星
   『万葉集』の語り部     秋山 彩香(あやか)  
 「山柿の門」&「君臣合体」=【聖武天皇(行基)】
人麻呂【聖武天皇】の★終焉地は「隠岐島・島後・西郷町・加茂(鴨山の、かも)」

 荒海にたゆたふ銀河待ちにけり隠岐に入り日の秋の夕暮
 我が国の基(もとい)行ひし塵泥(ちりひぢ)を聖武(すめら)とぞ知る歌聖とぞ知る
 万葉にこころ奪はれ柿八年愚者と雖も賢者を知れり


隼人サミット「古代隼人文化を語る」
鹿児島県隼人町

目 的
 
隼人町一帯は古代日向国の大隅、阿多の中央に位置し、曽の国と呼ばれていました。
 この地域は一宮正八幡宮である鹿児島神宮を持ち、海幸・山幸伝説など神武東征に係る伝説が数多く存在します。
鹿児島神宮には、山幸が龍宮から持ち帰ったとされる、潮満玉と潮引き玉が保管されていると言われています。また、天皇の即位の礼に舞われるとされる隼人舞も千年もの時代を経た現在でも受け継がれていると言われます。

 この隼人舞が庶民化し、祭事などで舞われ、せばる隼人舞・京田辺市の隼人舞、さらに猿楽・能楽へと進化したものと言われています。これらの事が物語る古代隼人の文化とは、古代日本の形成に大きく影響した事が伺えます。
 今回の隼人サミットでは、隼人に関する講演やシンポジウムのほか京田辺市の隼人舞や鹿児島神宮の隼人舞の競演を予定しています。シンポジウムでは、考古学者や隼人研究者それに民俗学者らとともに、隼人の竹と文化、機内隼人の歴史、海幸・山幸の神話それに隼人と竹取物語との関係などの隼人の文化を掘り起こすことになっています。

   開 催 日 : 平成16年8月1日(日)
  開催時間 : 午前9時45分〜午後4時15分
  開催場所 : 隼人町農村環境改善センター(隼人町役場近く)
        鹿児島県姶良郡隼人町内山田1丁目14番10号
       入場無料 定員600名 要申込み 
        問合せ先 隼人町立隼人塚史跡館 0995(43)7110
サミット出演者
 特別講演  10時15分〜
  森 浩一 考古学者・同志社大学名誉教授

シンポジウム13時30分〜
 進 行 役  原口 泉 鹿児島大学法文学部教授
 指導助言 井上満郎 京都産業大学教授
 パネラー 下野敏見 民俗学者 元鹿児島大学教授 
      小泉芳孝 京田辺市郷土史会理事
      角田博文 奈良県五條市阿田郷土史探求会幹事長
      藤浪三千尋 隼人町教育委員会

《開催スケジュール》
  ビデオ観賞「南の疾風・隼人」ダイジェスト 
  特別講演 森 浩一「隼人と日本文化」
  隼人舞T 鹿児島せばる 休息 隼人舞U京田辺市
  シンポジウム 13時30分〜15時50分
  テーマT「日本神話の中の隼人」海幸・山幸などの神話、隼人と竹
  テーマU「機内に移住した隼人」京田辺・阿田への移住、竹取物語
  隼人舞V 鹿児島神宮 15時50分〜 

《参加者略歴》
  ☆ 森 浩一 同志社大学名誉教授
     1928年大阪市生れ 同志社大学文学部卒業。
     専攻:日本考古学 日本文化史学
     著書:『交錯の日本史』(朝日新聞)『日本神話の考古学』他多数
  ☆ 原口 泉 鹿児島大学法文学部教授 
     著書:『鹿児島歴史散歩』他 
  ☆ 井上 満郎  京都産業大学教授
     京都大学卒業 大隅隼人の移住先に在住
     専攻:日本史 考古学(日本古代史研究)
     著書:『古代・中世の政治文化』『平安京』他多数
  ☆ 下野 敏見  元鹿児島大学教授
     鹿児島県知覧町出身 鹿児島大学文理学部卒 
    62年、第一回柳田国男賞。90年「東シナ海文化圏の民族」で南日本出版文化賞。
     著書:『隼人の国の民族史T・U』『南九州の伝統文化T・U』他多数
  ☆ 小泉 芳孝 京田辺市郷土史会理事
    1947年京都府生れ 近畿大学法学部卒業・佛教大学文学部卒業
    職歴:京都放送勤務
    専攻:日本民俗学・郷土史・京都民俗学談話会会員 京都地名研究会常任理事
    著書:『稲作民族の源流 日本・インドネシア』
    投稿:『竹取物語』かぐや姫の里京田辺市
  ☆ 角田 博文 奈良県五條市阿田郷土史探求会幹事長
  ☆ 藤浪 三千尋 鹿児島県隼人町教育委員会


平成15年度「公開例会」 京都地名研究会・第6回例会(南部会場)
<シンポジウム> メインテーマ「秘められた南山城の地名を探る」 


 山城は古くから文化の栄えた所です。京都地名研究会では、南山城における『記紀』や『万葉集』などの古代地名や人名について、研究者をお招きして「秘められた南山城の地名を探る」を開催することとなりま
した。このシンポジウムにより南山城の古代地名を明らかにすることにより先進的な地域であったことがわかるのではないかと考えています。
日本語と日本文化の起源を知るには、地名への関心が一つの大きな意味を持っています。文献の記録をもとに、土地の伝承に耳を傾け、南山城の古代地名を明らかにしたい。

開催日: 平成15年10月19日(日)
時 間: 午前10時〜16時30分 
場 所: 京田辺市立中部住民センター メインホール(収容人員200人以上)
      〒610−0311京都府京田辺市草内美泥22−2 0774−64−8810
<交通アクセス> JR片町線 新田辺駅・近鉄京都線 新田辺駅下車
1.近鉄バスターミナルより 京阪宇治又は奈良交通バス(約8分)「草内口」下車すぐ
             草内行き8:30 9:00 9:30
2.JR新田辺駅より東へ徒歩約18分・近鉄新田辺駅より東へ徒歩約15分 
3.自家用車の方は、国道307号線 山城大橋の東側(駐車場30台)
   ■来聴歓迎(事前申し込み不用)、小冊子資料代:会員無料、非会員500円(当日徴収)
  10:00〜 10:10 総合司会:地名研究会 糸井道浩 (入口でシンポの質問用紙配布)
開会あいさつ:主催 京都地名研究会常任理事
              共催 京田辺市郷土史会会長
【基調講演】 10時10分〜12時30分 
10:10〜11:20「神功皇后伝説のふる里を探る―南山城の“息長(おきなが)”の地名を手がかりとして―」
           塚口義信 堺女子短期大学 学長 (日本古代史・文化人類学)
11:20〜11:25  休 憩
11:25〜12:05「竹取物語ゆかりの筒木について」
小泉芳孝 京田辺市郷土史会理事
12:05〜12:30 「南山城の神社と伝承について」
石田天祐 日本語語源研究会 潟Mルガメシュ(幻想創作家 相撲史研究家)  
休憩12時30分から13時20分(昼食・シンポの質問用紙回収)
周辺食事出来る所少なく弁当持参して下さい。

【シンポジウム】 13時30分〜16時30分 テーマ「秘められた南山城の地名を探る」      

冒頭コメント:
「つぎねふ山代と河内との関係」−地名から仁徳・継体の筒城行幸の跡を考える−
吉田金彦 日本語語源研究会代表 姫路独協大学名誉教授
予定パネリスト:塚口義信 吉田金彦 小泉芳孝 石田天佑 斎藤幸雄
シンポジウムの司会  古川 章
シンポジウムの予定項目    途中の休憩でシンポの質問用紙回収
1.神功皇后伝説と“息長”一族それに継体天皇「筒城宮」
2.南山城の古墳(椿井大塚山古墳・佐紀古墳群・飯岡古墳群)
山代の古墳出土鏡と被葬者は? 三角縁神獣鏡 神人車馬画像鏡
3.『古事記』に記す山代の地名・人名・祭神
「かぐや姫(かぐやひめ)と大筒(おおつつ)木垂根王(きたりねおう)」「山代(やましろ)之(の)大筒木(おおつつき)真若王(まわかおう)」「山代(やましろ)之(の)荏(え)名津比(なつひ)売(め)」「山代(やましろの)内臣(うちのおみ)」「山代(やましろの)大国(おおくに)之淵(のふち)」「山代(やましろの)内臣(うち)之祖(のおや)」
4.『竹取物語』にちなむ地名「山本驛」「筒城」「山崎」「甘南備山」「三室戸」など
5.山代の渡来人に関する地名について(酒・絹織物・鉄・発酵食品)
6.仁徳天皇「奴理能美の家と皇后磐之媛(いわのひめ)」
7.山代・山背・山城、筒木・筒城・綴喜、山代川・和訶羅(わから)河・輪韓(わから)河・泉川(河)・木津川など
  質疑・応答 16時15分から16時30分
京都地名研究会事務局 綱本逸雄から連絡事項の報告 
閉会あいさつ:京都地名研究会から
懇親会:17時30分〜 事前申込者のみ
主催:京都地名研究会   
共催:京田辺市郷土史会 京田辺市社会教育課内 0774-62-9550 
後援:京田辺市教育委員会、葛椏s新聞社、京田辺市観光協会、かぐや姫の里を考える会、
協賛:関西元気文化圏参加事業 (「関西から文化力 POWER OF CULTURE」ロゴマーク使用)

問合せ先
○日本語語源研究所
〒600-8429 京都府京都市下京区御供石町360
    当会代表理事 吉田金彦(方)Tell&Fax 075-361-8812 

【基調講演の内容】
テーマ「神功皇后伝説のふる里を探る―南山城の“息長(おきなが)”の地名を手がかりとして―」塚口義信古事記や日本書紀それに風土記などに記されている神功皇后伝説や息長氏、あるいは応神天皇や継体天皇などの古代天皇を研究している塚口義信氏から「古代山城南部の歴史」、特に「南山城の“息長”一族」についてお話ししていただく。塚口氏によると、神功皇后の系譜や伝承は、滋賀県坂田郡の息長氏が有力になる6世紀以前から山城南部の“息長”一族によって伝承されてきたものであり、この一族は息長帯比売の陵墓伝承のある、大和三大古墳群の一つとして有名な佐紀古墳群と深い関わりを有しているという。
京田辺市にある普賢寺の山号は息長山であり、朱智神社の祭神「山代之大筒木真若王」(「山代」「筒木」に由来する名前)をはじめ神功皇后の系譜に山城南部の地名に由来する名が多く登場する。これは、山城南部の“息長”一族がこの伝承を語り伝えてきたからであり、6世紀初頭に継体天皇が筒城宮に来たのも、この一族と近江坂田郡の息長氏が継体を支援していたからである。
“息長”“綴喜”“高木”“綺田(かばた)”などをはじめとする南山城の地名を手がかりに、神功・応神伝承の謎を解き明かすとともに、4〜6世紀における山城南部の政治集団とヤマト政権(畿内政権)との関わりについて考察していただく。

テーマ 「竹取物語ゆかりの筒木について」 小泉芳孝
京田辺市に伝わる伝承や社寺の本源記、それに個人が持っている古文書を見ていると。実に古く神代の時代のことが多く書かれている。
これらの内容が何時の時代に、どのように、どういう意図を持って書かれたのか今まで解からなかった。
ところが最近、堺女子短期大学の塚原義信学長の著書『やまと王権の謎をとく』などを読んだ時、今まで何となく目にして来た地元に伝わっている伝承や、古文書などに書かれていることが私の頭の中で繋がり、『古事記』に記す「山代(やましろ)之(の)大筒木(おおつつき)真若王(まわかのみこ)」「大筒木(おおつつき)垂根王(たりねのみこ)」や、『日本書紀』に記す「筒木の韓人、名は奴理(ぬり)能美(のみ)」「仁徳天皇の歌と磐之媛の答歌」それに、その後の出来事などが私の頭の中で具体的なイメージとして浮かび上がってきたのである。
それとともに最近、京田辺市郷土史会で取り組んでいる『竹取物語』かぐや姫の里“京田辺”の『古事記』垂仁記に記す「大筒木(おおつつき)垂根(たりねの)王之女(みこのむすめ)、迦具夜(かぐや)比売(ひめの)命(みこと)」も架空の人物でなく「筒木」(筒城・綴喜)に居住していた人で、大筒木垂根王は筒木を舞台に活躍した実在の人物であったことがわかった。
また、延喜式内朱智(すち)神社の祭神や息長山普賢寺それに甘南備山、継体天皇の「筒城宮」などから、『竹取物語』ゆかりの筒木が山代地域において重要な位置を占めていることに気付いた。これらについて私なりの考えを述べてみたいと思います。  

テーマ 「南山城の神社と伝承について」 石田天祐
私は、南山城に関する記紀神話や万葉集それに祭神など言語学の分野から迫ってみる。現代の山城における地名は、古代日本語・やまとことば・中国語・古代朝鮮語・満州語などあらゆる分野の言語から分析しないと解明できない。各地の地名や人名それに祭神などについては、派生語や母音交替形・同音同義などから言語や語根を解読していかなければならない。
それらの中から南山城における各種神社の伝承について地名や祭神がどのようにかかわっていたのかお話しする。特に継体天皇や仁徳天皇と渡来人との関係や、歴史上は神話とされている神社の祭神など言語学から見た南山城の歴史を述べる。この地域は、歴史上かなり古くから栄えていたところであり一般の歴史書には記されていない。しかしここには古くから南方や中国大陸それに朝鮮半島から渡来人が住み着き神功皇后や息長足姫に関係する地名や伝承が残っている。

【シンポジウム冒頭コメント】
テーマ「つぎねふ山代と河内との関係」−地名から仁徳・継体の筒城行幸の跡を考える− 吉田金彦 京田辺市域の地名を調べて山代と山背の国名の由来を知り、奈良のほかに河内との関係が深いことを考えた。
そして枕詞ツギネフの意味も地名山代・山背の意味に即して決定することができる。伝承時代である仁徳天皇は、淀川・木津川を経て筒城入りした。また継体天皇は、河内の国から山越えで山背にやってこられた。
それらは地名で推理することができるのである。

パネリスト 「流域をめぐる史跡・伝承」 斎藤幸雄
木津川をめぐる歴史や文学(古代〜近代)にこだわり、ロマンを求めてその伝承や史跡を探訪してきた。
そういう中で多くの「南山城逃避行」現象を見いだした(古代より近世の徳川家康・熊沢蕃山にいたる)。
磐之媛などもその一人である。市辺押磐皇子の遺児顕宗・仁賢天皇もそうだが、継体天皇もその視点で見ると面白いのではと思ったりしている。
また古伝承を、「水」を視点にしてとらえてみるのもその謎を探るうえで面白い。田辺の神功皇后不違池伝説、精華町の船長(ふなおき)伝説、山代大国之淵の娘綺(かに)戸辺(はたとべ)にまつわる亀石伝説、武埴安彦・忍熊王・莵道稚郎子等々。その背後に水系氏族の息長氏・和珥氏が介在、葛城氏や丹波の氏族もかかわる。
 専門研究家ではないので、南山城の歴史ロマンを楽しむ立場からシンポシウムに参加できたらと思っている。

シンポジウムの司会  古川 章
洛南艸舎文庫『洛南艸舎手づくり消息』を主宰し、第43号を数える。京田辺市役所で37年勤務し、今まで『京都府田辺町史』『田辺町郷土史社寺編』『田辺町近代誌』『田辺町近世近代資料集』の刊行。京田辺市郷土史会の『筒城』などの編纂や事務局を担当した。
今回シンポジウムの司会を担当することになり郷土史の素晴らしい歴史を各分野の専門の先生方や郷土史家の方たちと共に研究できることを嬉しく思っている。

  「新しい視点と展開に期待」
南山城地方は、近畿の中心地であり、加えて関西学術研究都市として20世紀は脚光を浴びた。そのため開発も著しく進み、考古学の分野や市町村史誌の刊行による古文書類の発掘なども進んだ。しかし、21世紀は、大陸からの渡来人の足跡など、黒潮文化の解明を深めなければならないと思われる。こうしたとき「秘められた南山城の地名を探る」は、自宣を得たテーマといえる。
 バネラーの諸先生方の新しい視点として南山城のこれまでの南北軸文化に加えて、東西軸文化の幕開けにふさわしいシンポジウムであろう。

「京都地名研究会」設立の主旨  
                   京都地名研究会  代表理事 吉田金彦

 地名は固有名詞であり、普通名詞という二重性を持っている。
地名は、土地に関わりを持つ人たちの、様子を知ることが出来る。つまり、土地に付けられた名前であり、土地との関わりをもつ人達の固有の名前です。また、土地の関係を物語る媒介物である。
 地名の研究については、今まで歴史学、地理学、民俗学、国文学など、色々な分野から研究がなされています。この地名が新しい住宅開発などによって現在消滅の危機に瀕しています。全国の大字および小字の地名が、消え去っています。
 明治維新のときの廃仏棄釈にも匹敵すると言う学者の先生もいます。これら地名消滅の危機からすくうためにも、地名への強い関心を喚び起こす必要があります。最近、市町村合併の動きが出ていて、市町村の地名が焼失してしまいそうです。
 色々な知恵を出し合って祖先から伝わっている地名を残すように工夫して頂きたいものです。そうでないと一度なくなった地名は、二度と復活することがなく忘れ去られる運命になるからです。
 合併により市町村名や地域の個性や地域性が薄れて、愛着がなくなるという懸念があります。合併により名前が一部なくなるので、この機会に地域の歴史や伝統文化などを貴重な資源としての活用を図り、住民自らが主体となって魅力あるまちづくりを進めねばなりません。  平成14年3月1日

「京都地名研究会」発足にあたって

   「京都地名研究会」設立総会挨拶から 代表理事 吉田金彦  

新緑の良い季節を迎え、皆様、益々ご健勝の程、お喜び申し上げます。
本日はここに、京都地名研究会発足に当たり、御用も多々御ありの中を、態々ご来会賜りまして、誠に有難うございます。各地の先輩各位や、府下内外の多くの有志のご声援によりまして、漸く、会の出発できます事は、この上ない喜びであり、幸せな事として、同慶の念で一杯であります。

京都地名研究会なるものは、実は、今から十五年前の昭和六十二年に一度、設立された事がありました。
その提唱者は京都市の郷土史家松本利治翁で、研究会もその六月に発足したのでしたが、氏は大作「京都市町名変遷史」の研究に取り組んでおられ、暫くの研究会も、氏の逝去と共に続かなくなりました。
私共の非力から、氏の後を継続できなかった事は、とても残念な事でしたが、しかし十五年後の今日、振り返ってみて、その間が失われた空しい時間だったとも、思われません。開設五年の語源研究会で忙しくしていた私の研究内容は、その当時結構、地名がテーマになってもおりました。

昨年十月に川崎市で全国地名研究者大会、同じく十一月に京都で日本語語源研究会、共に創立二十周年を迎えて、それぞれに記念の大会が開催されました。同時スタート兄弟学会のような関係でもありましたから、全国地名を主宰なさる民俗学の谷川健一所長を迎えての語源大会は、大いに盛り上がりました。その折に谷川氏の強い要請がありまして、矢張り、京都にも地名の学会を、と言う声が燃え上がったしだいです。京都地名研究会の名が、ここに再び復活することになったわけで、思えば、谷川氏の激励の賜物だったと、厚く感謝しております。

語源研究者の中にも沢山の地名研究者が居られる。京都には大学人も多いし、歴史や地理の話題には事欠かない。京都府下一円を中心に、及ぶところ遍く広く、府市町村民挙って集まり、地名のことを勉強しようと言う事になりました。

地名は、其処に人が住んでいます。人が住み、暮らし、生産したり、遊んだり、そして死んでゆく所です。
そんな大地に名付けして、地名を日常茶飯事に使っています。ですから、地名の主人公は住民です。
私共は、すっかり慣れっこになって、ややもすると無限の恩恵を受けている大地を忘れがちな様に、此れ無しに暮らせない必需の地名の大切さを、忘れていませんか。主人公が呼んだ今までの名前を、いい加減にしていませんか、など反省しますと、地名の研究はとても深く、根本的に重要な事だ、そして同時に厄介な事だ、と考えられてきます。

地名は大地に刻まれた歴史だ、とよく言われます。それ程重要なのに、スローガンほど地名学が、現代日本の科学の中で、確固たる地歩を占めてはいません。重要性は認知していても、学問体系に沿わない為か、これを正面から取り上げる人が、きわめて少ないのです。地名研究は従来、地理学や歴史学、その他諸学の関連的研究として、また熱心な郷土史家達の努力によって、行われてきました。その成果は、今日、大きな地名辞典として幾つか出来ていますが、今の日本の大学に、地名大学や、地名学部・地名学科など聞いた事がありません。国際交流とか、学際研究とか、総合研究とか、色々に叫ばれてはいますものの、地名に着眼し、そこを基点に発信する着想は、まだ無いようです。

ただ嬉しい事は、近年、その閉塞状態を打開しようとして、環境学とか、地域学とか、そういう名で呼ばれる提唱が、あちこちで起こってきた事です。もう従来の学問の方法論では駄目だ、と言う事に気づいたのでありましょう。そして、私の立場から、口幅ったい事を言わせていただけるなら、更にもう一歩踏み込んで、それら環境学なり、地域学なりに、地名という言葉の視点を重視して、それを是非加えて欲しいと言う事です。
言葉の視点から、歴史を見る、地理を見る、と言う事で、歴史や地理の真相に迫れる事が、案外に多いのではないでしょうか。専門の歴史や地理学者が、地名については誠に幼稚な意見であったり、誤解をしている例が少なくないのを見るに付け、遺憾に思うことがしばしばです。此れの責任は、現時点であえて言えば、国語学や言語学に於ける地名分野の研究の欠落にありと言えましょう。

以上のような反省に立って、諸学手を繋いで、同じ目線で等距離に、地名を対象として調査・研究し、その過程と成果を公表・普及させ、学習・教育にも応用してゆきたいと、考えます。

地名研究は、まず自分の足元から。そして、歩いていく先々の地名まで。懐かしい故郷の地名、旅先で見つけた珍しい地名、変わった名前や読めない漢字の地名など、ぐるりにある地名の謎に、挑戦してみましょう。
そこから、きっと新しい知識が開け、ゆとりのある心が育まれていくと、思います。

地名は、寺社が文化財であるのと同じに、貴重な文化財です。日本の地名は、日本人の心のこもった<心的文化財>であります。大小に関わらず、有名無名に関わらず、どこの地名もみな文化遺産です。ですから、これの取り扱いには良く勉強して、取り掛かりましょう。その為にも、データを保存し活用する施設、地名資料館と言うようなものが、京都府には当然、必要になりましょう。

京都における地名研究は、ソフト面でもハード面でも、あらゆる分野にわたる重要な意義がありますが、全てこれからです。意義有る本日の発会に、ご来駕賜りました来賓、メッセージを頂きました各位、ご多用中をお集まりいただいた会場の皆様に、篤く感謝申し上げ、今後とも宜しくお願い申し上げます。 

平成14年4月28日(日)京都地名研究会役員
【顧 問】池田末則・上田正昭・梅原 猛・沢 潔・谷川健一・中西 進・森 浩一
【代表理事】吉田金彦
【理 事】池田 碩・井上満郎・上谷正男・尾崎聖二朗・片平博文・金坂清則・加畑 昭・
芝野康之・杉本利一・高橋聡子・竹田賢信・谷口隆捷・寺田 敬・西尾寿一・
藤田昌志・古川 章・前田 徹・山口富蔵
【常任理事】池田哲郎・石田天佑・糸井通浩・井上千恵子・梅山秀幸・小泉芳孝・
小林淳夫・角 菊彦・田上 源・綱本逸雄・真下美弥子
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 編集後記
 京都地名研究会の第6回例会は、特別企画による公開シンポジウム「秘められた南山城の地名を探る」を京田辺市で開催されることになりました。今回のシンポジウムは、南山城の歴史の謎に迫るべく南山城スペシャルとして神功皇后や継体天皇などの研究者として最先端を走っておられる堺女子短期大学の塚口義信学長やこの地域を研究しておられる京都地名研究会員をパネリストとしておこし頂きそれぞれ専門の分野から報告して頂くことになりました。

南山城には、かなり古くから渡来人によって先進的な文化が伝わり栄えたといわれています。特に筒木の原や普賢寺谷では、神功皇后や仁徳天皇それに継体天皇などが居住していたといわれ、記紀などに明記されています。また、今まで神話と言われていた大筒木垂根王や大筒木真若王それに迦邇米雷王などの時代においては、平安時代に作られた『竹取物語』に「迦具夜比売命(かぐや姫)」がいて実在の皇后であるなど最近興味ある発表が地元の郷土史会から報告されています。
この冊子は、メインテーマ「秘められた南山城の地名を探る」における基調講演とシンポジウムのレジュメ及び資料として作成いたしました。編集担当者としては、当初レジュメのつもりで取りかかったのですが、先生方の熱意により沢山の貴重な資料をご提供いただき立派な冊子(別冊1号)に仕上げることが出来ました。各先生方のご協力により貴重な研究資料を提供して頂きましたことを、この場を借りてお礼申し上げます。
 この冊子が南山城地域における歴史解明の為の資料として役立てることが出来れば幸いです。

 


『竹取物語語』の出生をめぐる物語(その4)  『竹取物語』”かぐや姫の里”京田辺” (その1)

『竹取物語語』シンポシウム(その5)   竹取物語の舞台が京田辺市」に賛同者紹介 

 「かぐや姫の里・京田辺」の歌  「かぐや姫の里」ビデオ動画講座  メインに戻る  「竹取翁博物館」 メインへ



竹取翁博物館大筒木出版 「国際かぐや姫学会」movie
  場所:〒610-0313京都府京田辺市三山木直田10   代表者小泉芳孝
  JR片町線「JR三山木駅」東へ徒歩3分  近鉄京都線「三山木駅」東へ徒歩2分
  
TEL・FAX 0774-62-2522 携帯 090−6961−9391
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